お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

「手塚プロダクション」のブースに・・・

2007年03月25日 | 本・雑誌・漫画
「手塚治虫全集」が多量にに展示されていた。4月中旬からは、インターネットで「自分の好きな『ブラックジャック』のエピソードを選び、表紙も選べてプリントアウトできるシステムが稼動するとの事。現在「工事中」だが、こちらからそのシステムに入れる様になる。→http://tezukaosamumagazine.jp/
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「国際アニメフェア2007」に行って来た。

2007年03月25日 | テレビ番組
仕事で行ったのだが、スゴイ人。昨年も行ったが今年は外国人の数が増えている。いろんなところに人垣ができ、行列ができ、コスプレしたミニスカートのお姉ちゃんを一眼レフで撮っている「オタク」っぽい男性も多々いる。「アニメーション」は「日本の大事な文化」だと思った。でも、一日いると「人酔い」する。フラフラになり、仕事が終わって飲んだビールが美味かった。
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芝公園スタジオで見つけた「TBSの昔のロゴ」。

2007年03月25日 | テレビ
ちょっと、写真が暗くて分かりにくいが、僕たちの子供の頃、「あのマークはなんやろと思っていたTBSのロゴ」を見つけた。「ロゴ」が描かれた木の板は20年位前のものだ。それが何故、旧・テレビ東京のスタジオにあったのか?謎である。でも、懐かしかった。


株式会社東京放送(とうきょうほうそう、Tokyo Broadcasting System, Inc.)は日本の一般放送事業者である。ただし、現在は事実上のグループ統括会社となっている。略称は商号の英訳の頭文字を採った「TBS(ティービーエス)」。

プロ野球・横浜ベイスターズの親会社。

ネットワーク
JNN(Japan News Network)という名称で、日本で初めてニュース系列を各地方局と結び、民放では早期に全国的なニュース取材体制を確立したことから、かつては「報道のTBS」と呼ばれていた。

なお、一般の番組供給系列のネットワークは「TBSネットワーク」と呼称されている。 加盟社はJNNと同じであるが、TBSネットワークは『JNN協定』の対象とならない番組のネットワークセールス組織で、両者は別組織である。 しかしながら一般には『TBSネットワーク』の名称は浸透しておらず、『TBS系』、やニュース系列と混同され『JNN系』と呼称される場合が多い。 原則的にJNN協定が適用されるニュース番組に関して加盟社共同制作という形をとる(そのため「製作著作」のクレジットが出ない)のに対して、適用外のネットワーク番組は、製作した各社それぞれで著作権を持ち、製作局のロゴがクレジットされるのが両者の違いである。なお、TBSネットワーク扱いで放送している番組には、TBS以外の局の製作番組でもネットワーク・シンボルである『ジ~ン』が製作局ロゴの隣に付加される(例: 製作著作 毎日放送 人(ジ~ン)但し一部例外あり)。

※TBSは『ジ~ン』をステーション・シンボルとしても使用しているのでローカル番組でも表示される。


新聞社との関係
TBSは元々競願4社を統合して設立された会社で、内3社が新聞社をバックに設立された会社-毎日新聞系の「ラジオ日本」、読売新聞系の「読売放送」、朝日新聞系の「朝日放送」であった(注:この「ラジオ日本」は現在のラジオ日本とは全くの別会社である。なお「朝日放送」と大阪・朝日放送(ABC)も別会社であるが、元々は同じ企画で生まれた会社である)。

開局当時、ラジオ東京のスタジオは東京・有楽町の毎日新聞と同じビルに置かれ、人事面でも毎日色が強かったがこれは上記各社の内「ラジオ日本」だけが開局準備を進めていたことによるものである。

しかしながら、ラジオ東京=TBSはこれら新聞各社とは一線を画し、徐々に新聞支配からの脱却を図っていった。ラジオニュースは開局当初より読売・朝日・毎日の順番で一日交替制による『三社ニュース』として放送しており、編集権は一切新聞社が掌握していた。このため、出稿社が異なる度、同じ題材を扱うニュースの内容に齟齬が生じる結果となり、ニュース編集方針に一貫性を欠くきらいがあった。1955年9月の砂川闘争の取材よりラジオ東京独自の取材による内容をニュースとして放送することが認められ、以降臨時ニュースを中心に独自取材のニュースも放送されるようになった。

テレビニュースは自社製作ながら、月~土曜日の夜に『三社ニュース』の枠が設けられ、読売・朝日・毎日各社の記者が出演して放送された。後にテレビ版『三社ニュース』は各社製作のニュース映画に替わり放送時間も夕方に変更された。

1959年JNNが結成される際は、地方局の殆どが地元新聞社と深い繋がりがあったため、ラジオ東京は特定の新聞色を出さない条件でニュースネットワークへの参加を地方局に呼びかけた。このため同じ新聞3社が出資していながら読売色の強かった日本テレビに対して、ラジオ東京は全国ネットワークの形成で優位に立った。

1961年、創立以来均衡を保った新聞各社出身の常勤役員は毎日出身者のみとなったが、却ってこれら毎日出身役員を中心に自主性が強まり、寧ろ新聞色の薄い局と呼ばれるようになる。

1963年、TBSは新聞3社とラジオニュースに関する覚書を交わし、同年4月より海外ニュースを共同通信社経由に切り替え、一部TBS自主取材のニュースを新聞社提供ニュースに挿入できる事になり、編成権の自主権を一部確保した。

1973年12月20日、読売・朝日・毎日の各首脳が覚書を交わし、読売と朝日が持つTBS株式は毎日へ譲渡されることとなり、翌1974年2月に実施される。このため4月からテレビ『三社ニュース』枠は『毎日新聞ニュース』だけになるが、ラジオの定時ニュースタイトルは「TBSニュース」に変更。完全に編成権はTBS側に移った。5月30日毎日新聞社とTBSは両社社長連名で相互の協力関係と独自性の尊重をうたった覚書を締結。

1975年10月、テレビ開局以来の『毎日新聞ニュース』が打ち切られ、代わりに毎日新聞協力の『テレポートTBS6』がスタート。1977年、毎日新聞は経営危機の克服のためTBS株式の大部分を放出。また逆に毎日新聞新社設立時にはTBSが出資する事となり、完全に両社の立場は対等となった。

1978年、ラジオのプロ野球中継で、讀賣ジャイアンツ主催試合を中継するため放送権を持つ読売新聞社と交渉に入り、10月読売新聞協力の報道・情報番組を放送する事で1979年以降のジャイアンツ主催試合の放送権を確保。4年振りにラジオでの『読売新聞ニュース』が復活したが、1992年テレビでの佐川急便事件報道で読売新聞社と係争関係になり、ラジオナイターの独占中継権も覆ったため、1993年『読売新聞ニュース』の放送を中止し現在に至っている。

このような歴史から、TBSは在京キー局で唯一新聞社との関係が薄く、安定株主が存在せず買収されやすいと言われていて、2005年2月のライブドアによるニッポン放送株取得を受け日興プリンシパル・インベストメンツに新株予約権を割り当てるポイズンピルや第三者割当増資を行うなどの防衛策を実施したが、同年10月の楽天による株式の大量取得を防ぐことはできなかった。
た。

沿革
1951年(昭和26年)5月、東京都千代田区霞ヶ関に資本金1億5千万円で株式会社ラジオ東京設立(設立登記5月17日)。 初代社長は足立正。
1951年(昭和26年)12月25日、東京都千代田区有楽町のスタジオより全国6番目に民間中波放送の本放送開始。(コールサインJOKR、周波数1130kHz、出力50kW)
1953年(昭和28年)8月、周波数を950kHzに変更。
1953年(昭和28年)12月、"KRT"を略称とする。(KabusikigaishaRadioTokyoから由来するが、テレビ放送開始をにらんだJOKR-TVにも因むといわれる。実際その通りになったのだが、世間一般には余り浸透していなかった。)
1955年(昭和30年)4月1日、東京都港区赤坂一ツ木町で地上アナログテレビジョン放送の本放送開始。(呼出符号JOKR-TV、チャンネル6、映像出力10kW、音声出力5kW。世間一般では新聞のテレビ欄表記から「KRテレビ」と呼ばれた。)
1958年(昭和33年)10月31日、同局初のVTRを使ったテレビドラマ『私は貝になりたい』(橋本忍脚本、岡本愛彦演出。VTRは前半で使用し、後半は生放送)を放送。大反響を呼び、この年の芸術祭大賞を受賞した(尚、番組は全編ビデオテープにて保存されている)。
1959年(昭和34年)8月1日、皇太子ご成婚パレード中継での取材協力を機に、NHKに対抗する日本初のニュースネットワークとして「JNN(Japan News Network)」を結成。
1960年(昭和35年)1月17日、テレビ送信所を赤坂から東京タワーに移転。映像出力50kW、音声出力12.5kWに増力。
1960年(昭和35年)9月10日、カラーテレビ本放送を開始(カラー放送は開始当初1日平均5分のフィルムによる番組しか行っておらず、カラーVTRを同社はまだ使っていなかった。ちなみにNHK、日本テレビと共に東京地区では初だった)。
1960年(昭和35年)10月、東京証券取引所第一部に株式を上場。
1960年(昭和35年)11月29日、株式会社東京放送と商号変更し、略称を"TBS"とする。
この頃、「東京テレビ」という呼称を採用したものの、定着には至らなかった。
1961年(昭和36年)8月、電波を象徴した新社名ロゴタイプ(筆写体)制定。(デザイン:今道潤三、製作:市川景)
1961年(昭和36年)9月、コーポレートカラー「光の3原色(青・赤・緑=能力・熱意・責任)」制定。車両の塗装等に使用開始。
1961年(昭和36年)10月、「光の3原色」による社旗、社章(バッジ)制定。
1961年(昭和36年)10月12日、赤坂のテレビスタジオ隣に本社社屋完成。ラジオスタジオおよび本社機構を移転。
1961年(昭和36年)12月1日、社名呼称をTBSに統一(公用文等を除き、原則「東京放送」を使用しない)。
1962年(昭和37年)日本初のラジオ1波によるAMステレオ放送の実験放送を行う(1964年まで。AM/FM方式)。
1962年10月1日史上初の“キャスターニュース”且つネットワーク制作参加ニュース『JNNニュースコープ』スタート(初代キャスターは現・参議院議員の田英夫と元読売新聞記者の戸川猪佐武)。
1964年(昭和39年)10月10日、東京オリンピック開始に伴い、テレビ放送で、同社初の放送でのカラーVTRの稼動を始める(この開会式が、TBSが録画したもので残っている最古のカラービデオである)。
1965年(昭和40年)5月2日、ラジオネットワーク「JRN(Japan Radio Network)」を結成。
1967年(昭和42年)、『東芝日曜劇場・女と味噌汁』(1965年から始まった連続シリーズ)が局初のカラーテレビドラマ(カラーVTR録画・再生)として制作、放送。
1968年(昭和43年)9月30日、この日の夕方のテレビ『JNNニュースコープ』からテレビニュース報道のカラー放送を開始。これに伴い、カラーフィルムによるニュース取材を開始。
1969年(昭和44年)12月31日、『輝く!日本レコード大賞』をテレビ生中継(カラー)で放送。以後、毎年同局の大晦日の看板番組となる。
1971年(昭和46年)11月、ラジオの出力を100kWに増力。
1973年(昭和48年)12月20日、読売新聞社・朝日新聞社・毎日新聞社の3社首脳間で日本テレビとTBSの新聞資本を統一する合意が成立。翌1974年(昭和49年)2月、創立時からの新聞資本が毎日新聞社だけになる。
1974年(昭和49年)11月19日、近畿地方の準キー局が、これまでの朝日放送(ABC)から毎日放送(MBS)に変更することで基本合意。ABCはこれまでMBSとネットを組んでいた日本教育テレビ(NET。現・テレビ朝日)とネットを組むことになる。翌1975年(昭和50年)3月31日からTBS-MBSの新ネットワークがスタート。テレビネットワークのいわゆる“腸捻転”が解消される。
1977年8月29日、史上初の3時間ドラマ『海は甦る』(江藤淳・作、仲代達矢主演)を放送。なお番組中、スポンサーの日立製作所も史上初の3分CMを4本放送。
1978年(昭和53年)11月20日、テレビ音声多重放送を開始(実用化試験放送。初めの放送は「JNNニュースコープ」の2ヶ国語放送)。
1978年(昭和53年)11月23日、ITU(国際電気通信連合)の取り決めでラジオの周波数が9kHzステップへ移行。それに伴い、午前5時をもって、周波数を954kHzに変更。
1981年(昭和56年)3月、横浜市緑区(現:青葉区)に緑山スタジオ・シティ完成。
1981年(昭和56年)春頃、テレビ音声多重ステレオ放送で、音声媒体としてPCMデジタルプロセス(録音から編集、再生まで全て)を採用した当時としては画期的な番組を放送する(多分、世界初。内容は小沢征爾指揮によるストラビンスキー『春の祭典』。同じ演奏を映像と音声は別々にタイム・コード同期されて記録、編集し、再生され送出された。勿論放送自体はアナログである)。
1983年(昭和58年)11月、テレビ音声多重本放送開始。
1986年(昭和61年)4月、テレビ文字多重本放送開始。
1987年(昭和62年)10月、テレビ24時間放送開始。
1989年(平成元年)8月24日、テレビ・クリアビジョンの本放送を開始。
1990年(平成2年)頃、日本の放送業界で初めてテレビ放送の送出媒体として、D-2方式によるソニー製デジタルVTRを稼動開始(初めはCM送り出しに使用された)。
1990年(平成2年)12月2日、創立40周年事業として秋山豊寛特派員を乗せた宇宙船(ソユーズ)をソ連・カザフのバイコヌール宇宙基地から打ち上げる(「TBS宇宙プロジェクト」)。
1991年(平成3年)9月30日、コーポレート・アイデンティティ(ミクロコスモス=製作:下河内護)導入。これに伴い、長年親しまれてきた"筆写体"マーク廃止。
1992年(平成4年)3月15日午前9時、ラジオのAMステレオ放送の本放送を開始。
1992年(平成4年)12月30日、『元旦まで感動生放送!史上最大39時間テレビ』を放送。
1994年(平成6年)1月、「ミクロコスモス」によるシンボルマーク、簡略形マーク、社名ロゴタイプを廃止。新ロゴタイプ(製作:小河原義一)に統一し、同17日から使用開始。(現在も使用されている。)
1994年(平成6年)10月3日、現社屋「TBS放送センター」(愛称 : ビッグハット)に移転。旧社屋は「赤坂メディアビル」に改称。正面ゲート守衛詰所・車両検問所の建屋は、円盤形の屋根がついていることからビッグハットにちなみ、“スモールハット”と称されている。この日は21時から約2時間、新社屋移転の特別番組が生放送された(運用開始したA・Bスタジオからの生放送や社屋移転で運用を終了した旧社屋Gスタジオ内部の様子も放送された)。
1998年(平成10年)4月1日、CS「JNNニュースバード」放送開始。(06年4月「TBSニュースバード」に名称変更)
2000年(平成12年)2月、TBSグループ、JNN、TBSネットワークの共通新シンボルマークとして、漢字の“人”をモチーフにした「ジ~ン」(一般公募)を制定。『ニュースの森』(当時)や『ニュース23』など全てのJNNニュース番組のサブタイトルや、MBSやCBCなど系列局制作も含めた全国ネット番組のクレジットタイトルなどで表示されている(現在はJNNニュース番組での表示は一部を除き無し)。また一部系列局でも、ローカルニュース番組のセットに使用されたことがある(現在は廃止されている)。
2000年(平成12年)3月21日、完全連結子会社としてラジオ現業部門を行う 株式会社TBSラジオ&コミュニケーションズ、テレビの娯楽番組制作を行う 株式会社TBSエンタテインメント、テレビのスポーツ番組制作を行う 株式会社TBSスポーツを設立・分社化。
2000年(平成12年)12月1日午前11時、系列のBSデジタル放送「BS-i」(デジタルBS6Ch)放送開始。
2001年(平成13年)3月1日、完全連結子会社として情報番組・情報生番組の制作を行う 株式会社TBSライブを設立・分社化。
2001年(平成13年)10月1日、中波放送局の免許(コールサイン:JOKR)を株式会社TBSラジオ&コミュニケーションズに承継。これに伴いテレビ局のコールサインを変更(JOKR-TV→JORX-TV、呼出名称も「東京放送」から「TBSテレビジョン」に変更)。
2002年(平成14年)7月1日、CS放送局「TBSチャンネル」放送開始。
2003年(平成15年)7月1日、系列会社の株式会社木下プロダクションを商号変更・連結子会社化、事実上の第二エンタテインメント制作分社となる株式会社ドリマックス・テレビジョンを設立。
2003年(平成15年)12月1日午前11時、地上デジタルテレビジョン放送の本放送開始。(簡易マスターで対応)
2004年(平成16年)キャッチフレーズに“チャンネル・ロック”を採用。デジタルTVもアナTV同様6chであるのを受け、固定(lock)や音楽(rock)の意味を込めた。
2004年(平成16年)10月、TBSエンタテインメント、TBSスポーツ、TBSライブの子会社3社が再合併し株式会社TBSテレビ発足。
2005年(平成17年)2月7日 地上デジタルテレビジョン放送の送出を簡易マスターから本格統合型マスターに移行して運用開始。
2005年(平成17年)4月 TBS平日ワイド大改編『TBSの変』実施。
2005年(平成17年)7月20日 TBSとカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC/TSUTAYA)は、DVDソフトの市場拡大に対応する映像ソフト事業の強化と、モバイルやインターネットを利用したコンテンツ事業の拡大を目的とした企画会社「TCエンタテインメント株式会社」を共同で設立する事を発表した。
2005年(平成17年)8月30日 TBSと日興プリンシバル・インベストメンツは、韓国最大のドラマ制作会社「キム・ジョンハク プロダクション」に共同投資することを発表した。
2005年(平成17年)8月31日 TBSは、ADSL事業を行うイー・アクセスの子会社で携帯電話などのモバイルブロードバンド通信事業を行うイー・モバイルに100億円の出資を行うと発表。
2005年(平成17年)9月2日 TBSと三井物産は、2006年春スタート予定の携帯電話向け地上デジタル放送(1セグ放送)のデータ放送領域を活用した新サービスを検討する企画会社を「TMモバイル企画」(仮称)を9月下旬に都内に設立することで合意した。
2005年(平成17年)11月1日 PCおよびSTB利用によるブロードバンドテレビ向けの動画オンデマンド配信サービス『TBS BooBo Box』を開始。
2006年(平成18年)3月1日 生番組のほとんど全部がハイビジョン化される。
2006年(平成18年)4月1日 地上デジタルテレビジョンワンセグの本放送を開始。また、テレビのサービスエリアである関東区域内の報道取材が原則として全部ハイビジョン化される(民放初)。


キャッチフレーズ
もうひとつの家族6チャンネル(1980年4月~1981年3月)
TBS For The Best!(1981年4月~1987年3月)
もっと素敵に、TBS(1987年4月~1991年3月)
やるテレビ。ぼくはリアルだ。TBS(1991年4月~1992年3月)
テレビが好きです。TBS(1992年4月~1992年9月)
人間の味がする。TBS(1992年4月~1993年3月)
テレビ道。TBS(1993年4月~1994年3月)
YES,TBS.(1994年4月~1996年3月)
TBS6(1996年10月~1999年4月)
夢をつなぐ橋。TBS(1999年4月~2000年3月)
未来箱(みらいっぱこ)。TBS(2000年4月~2001年3月)
TBooS(2001年10月~2004年3月)
チャンネル・ロック!!TBS(2004年4月~)
本局のアナログテレビジョン放送のチャンネルは「6」であり、デジタルテレビジョン放送のリモコンIDも「6」である。 現在のキャッチフレーズ“チャンネル・ロック!”は「6チャンネル」と「チャンネルはそのまま」をかけており、番組の最後に流れる「クロスプログラム」(次の番組の告知)でも左上に「チャンネル・ロック」と表示される。(関東のみ)


コーポレート・スローガン
この窓は、キミのもの。TBS(2003年4月~2006年3月)
「おもしろくって、ためになる」テレビ局 TBS (2006年4月~)


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綺麗でしょ・・・「東京タワー」。

2007年03月25日 | エッセイ・日記・意見
夜空に聳え立つ「東京タワー」。新しいテレビ塔ができるらしいが、いつまでも「東京のシンボル」として残って欲しい。「ALLWAYS 三丁目の夕日」で見た「東京タワー」は「昭和という時代の活力」を象徴していた。

ALWAYS 三丁目の夕日 豪華版

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昭和33年。東京の下町の自動車修理工場に、集団就職で青森からひとりの少女が就職してきた。六子は大きな会社を期待していたが、小さな工場でガッカリ。それに怒った社長の則文だが、やがて六子は則文の妻トモエや息子の一平らと仲良くなり、一家になじんでいく。一方、売れない作家の茶川は、飲み屋のおかみのヒロミから、親に捨てられた少年・淳之介を押しつけられ、一緒に生活することに。最初はけむたがっていたが、淳之介が自分が原作を書いている漫画のファンだと知り、次第に距離が縮まっていく。そんなとき、淳之介の本当の父親が現れ…。
東京タワーが完成し、白黒テレビが出始めた昭和30年代を舞台に、人情味溢れる下町の人々の心温まるエピソード満載の感動作。堤真一(工場の社長)薬師丸ひろ子(社長の妻)吉岡秀隆(作家)小雪(飲み屋のおかみ)など人気と実力を兼ね備えた役者陣も好演だが、一平演じる小清水一輝のヤンチャさ、淳之介演じる須賀健太のけなげさが、この映画のチャームポイント。また下町の人情がホノボノと胸を打つゆえに、後半のさまざまな別れには泣かされっぱなしだ。昭和の景色を再現したCGも見事だが、やはり映画は映像だけでは語れない。人々のやさしさに、心の清らかさに触れることのできる原作(西岸良平の同名漫画)のハートを山崎貴監督がきちんと映し出したからこそ、感動できる映画に仕上がったといっても過言ではないだろう。(斎藤 香)

ALWAYS 続・三丁目の夕日 (出演 吉岡秀隆)



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365days OPEN、という記載がいい。

2007年03月25日 | エッセイ・日記・意見
実は、上の方の展望台に上った事が無い僕。いつか、上ってみたい。
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一昨日夜、このスタジオでPR番組を収録した。

2007年03月25日 | テレビ番組
収録は取材が18時から。本編の収録が20時~24時。放送時間は30分だが、テレビ番組を丁寧に作るにはこれだけの時間がかかる。東京タワーの下のスタジオ。元・テレビ東京の本社だったところだ。大小4つのスタジオがある。この貼り紙にある様に、未だに「テレビ東京」と間違う人がいるらしい。

てな訳で、ここのところ、毎日仕事が深夜におよび、このブログも更新できずにいた。今日から「頑張るでー!!!」。
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