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卒業式での「国歌斉唱命令違反」処分通達・抗議の手記 定時制高校と石原都政・軍国日本

2012-07-30 | 原発利益共同体 ・ 軍事体制
 最近知り合った、定年退職されたばかりの高校の先生に手記を提供していただきました
  貴重なノンフィクションであり、このブログのネタにもぴったりなので、ちょっと公開しちゃいまちゅ。

  卒業式での「国歌斉唱命令違反」で処分される過程の模様や、
 2年ほど前まで、日本共産党のしんぶん(権力監視役)の教育欄に連載されたエッセイ「今、定時制高校は」。

 
 とてもいい先生で、生徒さんたちとのやり取りを省くともったいにゃいんですが、
 とりあえず、2011年3月の記録から、「処分」までの管理職とのやり取り等に限って経過を繋いでご紹介。
   ※()中はネコ型編、先生の名前はペンネーム。


 3月8日(火)

 組合の会議に出て、夕方出勤すると、管理職から呼び出しがかかった。 内容はわかっていた。この件で過去2回呼ばれ、今日が3回目だったから。
校長が同じ質問を繰り返す。「明日の卒業式ではどうされますか」。つまり、「国歌斉唱」時に起立するかどうかを知りたいのだ。
「国家斉唱」時に起立しない、たったそれだけで東京の学校では重い処分が来るのだ。「お答えすることではない」と答えて席を立った。いやあ、この「業界」の異常さを肌で感じる。

 3月9日(水)

 卒業式当日が来た。集合時間に、3卒生(3年で卒業する制度を終了した生徒・受け持ち)は全部で13人。その13人が4年生と一緒に卒業するのである。

 大きな拍手の中、卒業生の入場。そのあとすぐに「国歌斉唱」と司会が発声した。私は静かに座った。後ろから副校長が、「ご起立ください。服務事故になります」と耳元でささやく。私は座り続けた。40秒が非常に長く感じた。

 その後、まずは4年生の呼名。一人一人が校長から卒業証書を受け取る。そして私が担当の3年卒業生の呼名が始まる。
その日は、いろいろの事情で私が3年卒業生13名の呼名をすべて行う。私にとっての最後の卒業式。最後の呼名。一人一人の顔をしっかり見ながら、心をこめて名前を呼んだ。彼らの晴れ晴れとした笑顔。私にとって最後で、最高の日。

 終了後、管理職2人に呼ばれた。不起立の確認である。「三井先生は、国歌斉唱時の6時27分に起立しませんでしたね」「ええ」「職務命令違反で服務事故扱いになります」「けっこうです」。
2分ぐらいで終わって私は校長室を出た。処分のことより、最高の卒業式ができたことで満足だった。

 3月10日(木)

 次の日、まだ余韻に浸って、Yとメールのやり取りをした。
「いい卒業式だったね」「先生、泣きそうになってんだもん(笑)俺も泣きそうになったわ(笑)」「笑うな!あれはヒミツ」「まあ、わかるけどね」「呼名に立って、まずYの名前を呼んだ時、こみ上げてくるものがあった。次のHでますます。Fの名前を呼んだときさらに・・でもなんとかやりきった。オレにとっては、あの瞬間が素晴らしいものだった。忘れられない」「俺もあの場所から壇上に上がってみんなを見下ろしたときに、言い表せないような気持ちになった」「そうだろうね。またいつか語り合おう」「了解!」
 いろいろありすぎのYとも、別れの日が近づいていた。

 3月11日(金)

 午後2時46分、東日本大震災大震災が起こる!そして日本中が大混乱に!原発の恐ろしさと東電の無責任ぶりが白日の下に!学校は実質休校状態に。

 3月14日(月)

 電車が動かず、本日は臨時休校となる。今日もクラスの生徒たちに、その旨のメールを送る。

 3月15日(火)

 依然として日本中が騒然としている15日の夕方、副校長が、「三井先生、ちょっと校長室へ・・」というので、理由を尋ねたところ、「都教委の方が来ているのでお話をしていただきたい」とのこと。私は、「会う必要はない。会う義務もない」と断った。

 その後今度は校長が職員室の私のところに来て、「都教委の方とお話していただきたい」と繰り返し。「事情聴取ですか」と聞くと、「これは弁明の場でもあります。今回の行動に至った心情などもお話していただきたい」と校長が言う。

 「都教委に呼ばれて事情聴取、というのは聞いているが、学校に押しかけてくる場合もあるのか」と聞くと、「ありえます」とのこと。

 私は、「心情を述べたり弁明をしても処分が変わるわけがない。会う必要はありません」と再度断る。「拒否するということですね」というので、「ご遠慮申し上げます」と繰り返すと、「拒否ということですね」と校長は繰り返して去っていった。
 後から怒りが湧いた。こんな非常事態に、わざわざ学校まできて三井に会わせろ、とは! そんな暇があったら被災者の支援をしろ、と言いたい!


 3月30日(水)

 今日が私の最後の出勤日であった。出勤したら、(同じ年で、一緒に退職する女性の)校長から早速電話である。
「(処分の)辞令伝達で都教委の職員が来ます」とのこと。
 
 私は、「会う必要はない。会いません」と言ったら、校長は「机上に(処分の書類を)置いておきます」とのこと。私は「はい、どうぞ」と答えた。
しかし、その後校長が職員室の私のところに来て、「会っていただけないと、明日私と都教委の職員が先生のお宅に伺うことになる」と言い出した。私は、「あ、そうですか。どうぞ拙宅までいらしてください」と最初は言ったが、さすがに、今年退職の女性校長にあまり手間はかけたくないと、ちょっと仏心を出してしまい、「わかりました。受け取ります」と答えた。

 「校長室に来て下さい」「都教委の職員が職員室に来ればいいじゃないですか」などというやり取りがあったが、まあ、「大人」になって、校長室に出向く。

 校長室に入ると、都教委の職員が2人いる。年長の方が副校長に、「出入りがないようにしてください」と指示。つまり、校長室のドアに鍵をかけろということ。副校長は指示に従った。1人が重々しく、「これから伝達式を行います。礼!」と発声。笑ってしまう。年長の方が「発令通知書」を読み上げる。
 
 「三井良介(仮名)」と呼び捨て。ムカッ!「殿」ぐらいつけろよ!と言いたい。
 私は、それを無造作にもらってから、「こんなことやるより、もっと東京との教育を良くすることをやっていただきたいですね」と発言したが、都教委の職員は2人とも無言。
 その後、1人が、「発令通知書を受け取ったという署名と印をここにいただきたい」と、また書類を出す。
「ハンコは今持ってません。だいたい、今受け取ったんだからそんなもの書かなくてもいいでしょ」と言ったら、すごすごと取り下げた。

 全く!実質的に本日が、38年教員生活の最後の日。その最後の日にこんな「最高の通知書」をいただくとは。苦笑するしかないね。

 職員室に戻り、何人かの同僚に「処分発令通知書」を見せたら、「へー、こういうのくれるんだ」としばし話題に。
私は、職員室の流しにおいてあるマイコーヒーカップをカバンに入れた。これで忘れ物はないはず。職員室にいた数名の同僚に「お世話になりました」と挨拶し、握手をして職員室を出た。外は暖かく、南風がやわらかく吹いていた。我が教員生活、「処分」とともに終わりぬ、という思いであった。

 3月31日(木)

 一日休暇をとって、都心で開かれた「処分発令抗議集会」に参加。そこには、全部で処分された6人が全員参加した。
私は思いの丈を発言。夜は自宅に戻って、行きつけの蕎麦屋に妻と行き、祝杯を挙げた。教員最後の夜であった。

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 10月26日予防訴訟控訴審~ 最終陳述 (原告 三井良介 2010年) から。

  
 (3)定時制での卒業式の様子を述べたいと思います。
  10・23通達以前の卒業式は素晴らしいものでした。一人一人が前に出て、校長から卒業証書を受け取ります。4年間、5年間、または6年間を経て卒業を手にする生徒たちの喜びは全日制の比ではありません。
卒業証書を高々と掲げるもの、ガッツポーズをする者、また在学中に生んだ子どもを抱えて証書をもらう者、様々で、その姿に一人一人の人生が凝縮されるのです。

「卒業生の言葉」は卒業式のハイライトでした。自分が定時制に来て、自分の居場所が見つからず悩んだこと、その中でクラブやクラスでかけがえのない友達ができ、今は胸をはって卒業できることなどを切々と訴えるもので、心打つものばかりでした。

 私たち教員は、自主的に卒業式の役割分担を決め、生徒の動きに合わせて臨機応変に動きました。定時制では仕事の関係などで、卒業式であっても遅刻して参加するものが少なくありません。
門のところで待ち受けて、遅れてきた生徒をすばやく席へ誘導することは大切な仕事でした。また、式場内で、子どもを抱えて卒業証書を取りに行く生徒のときは、一時的に子どもを預かってあやしてあげたり、年配の方や車椅子の生徒のときは近くに行って介助したりしました。

教師も保護者も心を合わせて彼らの卒業を祝うアットホームな雰囲気の式でした。

 当時、「日の丸」が三脚に掲げられ、「君が代」も流されましたが、事前に教頭が、「立つ、立たない、歌う、歌わないは本人の自由であり、立たない、歌わないことによって不利益を生じることはありません」と生徒に説明していました。
ですから、生徒たちは自主的に判断することができたのです。しかし、2003年に10・23通達が出されるとともに、その説明も禁止されました。

 2003年度、私は4年生の担任でした。10・23通達の下での初めての卒業を迎えることになったのです。
職務命令が出され、教師の自由な動きは禁止されました。ちょっとした自主的な動きも職務命令違反になるのではないか、処分が来るのではないかという恐れが、職場に重苦しい雰囲気を生みました。その中でも何とか生徒たちは話し合いを重ね、自分たちの思い出に残る卒業式を実現しようとがんばりました。

卒業式当日、卒業生代表は、沖縄修学旅行で学んだことに触れつつ、高校生活を感動的に語りました。最後は、生徒たちが自主的にアンケートをとって決めた、森山直太朗の「さくら」を合唱し、締めくくりました。

しかし、「日の丸」が初めて正面に掲げられ、「君が代」斉唱時に起立を強制されました。都教委から派遣された職員は、校長よりも前の席に陣取り、挨拶の時は原稿を棒読みするだけでした。心が凍りつくような雰囲気に、違和感、不快感を持った生徒も多かったでしょう。

また、私と同じ学年団で、起立できなかった同僚は、式後生徒たちとゆっくり話をする場も奪われ、校長室に呼び出され事情聴取を受けました。担任の先生と最後の交流をしたくてもできなかった生徒たちは、一体どのような思いだったでしょうか。
 

 (とりあえずここまで。続きは後日)
 


 
  

 


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