ネコ型note

本当は怖い日本政府・アベノミクス
 ★脱・軍事・権力メディア★
気になる事は、利権なしの【しんぶん赤旗】で検索! 

新旧 二大政党と原発 (上)(下) 『共産党排除』の【原則】 財界と自社両党がタッグ(『経団連十年史)

2011-08-15 | 原発利益共同体 ・ 軍事体制
 日本の原発推進政策は1955年、自民党と日本社会党(現社民党)との協調で立ち上げられました。56年後の2011年、民主党と自民党の二大政党体制化で東京電力福島原子力発電所の重大事故が起き、その政策は破綻しました。
 
 新旧二大政党政治と原発政策とのかかわりを振り返ってみました。


 『共産党排除』で始まった

   財界と自社両党がタッグ



 原子力の研究、開発及び利用の促進について定める原子力基本法は1955年12月の第23回臨時国会で成立しました。衆院2日、参院2日のわずか4日間のスピード審議でした。
 法案は中曽根康弘議員ほか421人による議員提案でした。自民、社会両党の衆院議員全員が法案提出者に名前をそろえました。
 法案提出に先立って自民党、社会党は非公式の『原子力合同委員会』で法案内容を煮詰めていました。法案提出の20日前には経団連と打ち合わせ会議を開き、財界側の了承を取り付けました。

 合同委員会側は経団連側にたいし、原子力基本法に基づく原子力の研究・開発・利用にあたっては「共産党を除いた超党派勢力を結集してこれを民主的に推進することを目的とした」(『経団連十年史(下)』1963年) と説明していました。原発推進勢力は、そのスタートから、二大政党体制と日本共産党排除の【原則】に立っていたのです。


 『55年体制』の゛初子"

 原子力基本法案審議の衆院科学技術振興対策特別委(1955年12月13日)の冒頭、中曽根議員は「(自民、社会)両党の共同作業によって、全議員の名前をもって国民の前に提出した」と述べたうえで、超党派提案の形をとった理由を付け加えました。
 「国民の相当数が、日本の原子力政策の推進を冷ややかな目で見るということは悲しむべきことであり、絶対に避けなければならない」
 広島、長崎、第五福竜丸事件という三たびの放射能被害を体験した日本国民が抱く核エネルギーへの安全性への危惧を考慮せざるを得なかったということでしょう。

 もろ手上げ
 社会党の岡良一議員は「わが党はもろ手をあげて賛成いたします」と手放しで賛意を表明していました。
 原子力基本法に当時、衆議院で院内共同会派を組む日本共産党と労農党は反対しました。
 一連の原子力関連立法の中核となる原子力基本法が成立したのは、保守合同による自由民主党結党(55年11月15日)から32日目、左右統一による日本社会党発足(同10月13日)から64日目のことでした。自民党は、結党時の『党の綱領』で『原子力の平和利用』に対応する推進方針を決めていました。

 社会党はこの後、57年に『原子力平和利用に関する方針』を示し、原子力開発の積極方針を掲げました。80年、公明党との「連合政権についての合意」(社公合意)でも、原発建設を容認する方向を確認しています。
 「原子力政策に関する限り、この(自社)両党の協力がなかったらば、いまよりはるかに遅れていたであろう」(社会党の後藤茂元衆議院議員『EITジャーナル』2008年7月号)との原子力政策にかかわった社会党関係者の述懐があります。

 米国の要請
 自社二大政党体制は、当時の財界、アメリカの強い要請でした。1955年11月の経済同友会全国大会で岸道三代表幹事は「(自社)両陣営が右と左とから歩み寄ることが肝要」と政策面で自社両党のより広い協調を求めました。
 原発推進の【憲法】ともいえる原子力基本法は、自社二大政党政治が産んだ『初産の子』ともいえます。



 推進の“かじ切り役”は民主

   経団連との『語る会』が弾みに


 民主、自民両党の二大政党づくりの過程で、原発積極推進の方向へ原子力政策のかじを切ったのは民主党側でした。

 変更の内幕

 民主党原発政策を転換した主役は、現在、党原子力政策・立地政策プロジェクトチーム会長ポストにある川端達夫元文部科学相です。川端氏自身が政策変更の内幕を明かしています。
 「3年かけて『過渡的エネルギー』という言葉を消しました。原子力を日本の基幹エネルギーとして位置づけ、最終処理まで国の責任で行うということを書き込みました」(『改革者』2011年1月号のインタビュー)

 民主党は、1998年の結党以来、エネルギー政策で原子力について『過渡的エネルギー』と位置づけました。『市民が主役』をキャッチフレーズにした旧民主党結党時(96年10月)の『基本理念と基本政策』を引き継いでいました。原発を「進めるが慎重に」という姿勢でした。

 06年9月に党エネルギー政策調査会長に就任した川端氏は、『過渡的エネルギー』という言葉を抹消し、『基幹エネルギー』の言葉に置き換える一方、使用済み核燃料などの最終処理責任を国に委ねるとするなど電力業界寄りに修正して、09年総選挙の政権公約(マニフェストと付則文書の政策集『INDEX2009』に盛り込みました。
 政策変更の狙いについて川端氏は二大政党づくりの一環と説明します。
 「防衛と食料とエネルギーの安全保障に関しては政権が交代しても微動だにしないという根幹を持っていなければならない」(前出インタビュー)

 政策見直し
 民主党が原発積極推進路線へ向けて政策転換に着手したのは小沢一郎代表時代の06年4月以降のこと。小沢氏の代表就任とほぼ同時に党内にエネルギー戦略委員会(大畠章宏座長)が立ち上げられ、政策の見直し作業を開始しました。
 弾みがついたのは1ヵ月後の同年5月22日に開かれた日本経団連主催の「民主党の政策を語る会」でした。席上、日本経団連から民主党の原発政策に厳しい注文が付きました。「原子力の活用は環境とエネルギーの両面から国策として推進すべきだ」。切り込んだ発言者は勝俣恒久・日本経団連副会長(東京電力社長=現会長)でした。

 直嶋正行政調会長代理は「原子力を活用しなければ、日本のエネルギー供給はおぼつかない」と、日本経団連側の意をくむ答弁で応じました。
 同年9月に民主党エネルギー戦略委員会がまとめた『日本国のエネルギー戦略(案)』(中間とりまとめ)。ここで原子力について、「基幹エネルギーであり」「欠かせない存在である」と位置づけて、「核燃料サイクル政策の完成へ向けた取り組みを進める」などとする原発積極推進の方向が打ち出されました。以後、民主党の政権公約で『過渡的エネルギー』の言葉は用いられなくなりました。

 エネルギー戦略委員会を引き継ぐ形で09年9月に発足したエネルギー政策調査会(川端達夫会長)が『中間とりまとめ』を引き取って議論を継続。原発積極推進政策への転換を仕上げました。
 川端氏は冒頭の雑誌インタビューで「政権交代してマニフェストを含めていろいろ言われていますが、原子力発電に関して何にも言われていません」と述べています。

 同じ土俵に 野党・自民党は民主党の子ども手当て、高速道路無料化など民主党のマニフェストに激しい批判と攻撃を加えながらも、こと原子力政策にかんしては自民党と同じ土俵に乗せたので矛先を向けてこないというわけです。

(おわり)

原発利益共同体 追跡編 財界の野望⑤⑥ 地域独占体制の構築 『神話』刷り込み戦略 株保有の目的

2011-08-15 | 原発利益共同体 ・ 軍事体制
 以前の『原発利益共同体』記事の続編です。ー⑤、⑥


  赤旗日刊紙2011年7月28日・29日


 財界の野望⑤

 地域独占体制の構築

 6月28日に開かれた東京電力の株主総会は、福島原子力発電所事故後の総会として内外から注目を集めました。総会では、原発からの撤退を訴える株主提案が議題になり、事故を受け、株主からは原発の安全性を不安視する意見や経営責任を問う声が相次ぎました。また、東電による原発被害の賠償問題も議論になりました。

 東電の経営首脳は、巨額の賠償金は政府からの支援をあてにしています。政府支援を受ける前提として、東電は、自らの賠償責任を認める考えを表明しています。一方で、東電は、今回の東日本大震災は『天災地変』だとして、賠償責任を免れる法律条項の適用を繰り返し主張することにも熱心です。

 この東電経営陣の相反した態度に、ある株主からは厳しい意見が突きつけられました。
 「都合のいいところは国の支援をもらう、都合の悪いところは『我々は免責だ』と、そういうことにはいかない」


 つけは国民に

 東電経営陣のご都合主義の根底には、”もうかるときは民間大企業に、損失が出そうなときには、国民につけ回し”というのがあります。
 このことを保証するのが電力会社の【地域独占】体制です
戦後、【地域独占】の【利潤追求型民間企業】を考案したのが東京電力の木川田一隆氏でした。
 若いころから「電気事業の企業形態には興味をもって勉強していた」という木川田氏は、『私の履歴書』で次のように述べています。
 「過当競争と国家統制との弊害を身をもって経験したわたくしの結論は、人間の創意工夫を発揮するためには、民有民営の競争的な自由企業とすること」

 さらに、「電源部門と配電部門を分割する現状は、経営責任上面白くないので、これを縦の一貫経営に改めること、そして全国一社は、需要家に対する行き届いたサービスを提供する上から不都合なので、適当に地域的に分割すべきこと」として、電力会社を発送電一体の地域独占企業体にする案を提起しました。

 この案を元に、連合国軍総司令部(GHQ)との交渉が重ねられました。そして、1950年11月、ポツダム政令による『電気事業再編成令』と『公益事業令』が出され、今日の体制が決定したのです。


 政治に影響力

 電力会社の【地域独占体制】は、地方において、政治的、経済的影響力を極めて高いものにしています。北海道経済連合会、東北経済連合会、中部経済連合会、北陸経済連合会、中国経済連合会、九州経済連合会の会長は、それぞれ、地元の電力会社の会長や社長が努めています。

 電力業界に詳しいフリージャーナリストの志村嘉一郎氏は次のように指摘します。
 「各地の電力会社は、地元経済界に対して大きな力を持っているだけでなく、県知事や県議会にも大きな影響力を及ぼします。選挙の際には、献金や票だけでなく関連会社を含め人の応援も出し、地方政界にも影響力を発揮しています」



 財界の野望⑥

 『神話』刷り込み戦略

 菅直人首相が『脱原発依存』会見を行った13日、電気事業連合会(電事連)の八木誠会長(関西電力社長)は、その日のうちにコメントを発表し、次のように強い不快感を示しました。
 「国のエネルギー政策の大幅な見直しは、わが国の将来の根幹にかかわる極めて重要な問題であり、方向を誤れば大きな禍根を残すことになる
 電事連は1952年に全国九つの電力会社によって設立された電力会社の産業団体です。2000年3月に沖縄電力が加盟し、現在は10電力体制で運営されています。


 建設費の一部

 発足当初は、労務対策が主な役割でした。その後、企業献金の窓口となり、今では、原発広報活動の拠点となっています。
 電事連の『原子力広報を開発した』と言われたのが鈴木建(たつる)氏です。ジャーナリストの経験を持つ鈴木氏は、71年に電事連の理事兼広報部長に就任しました。
 この鈴木氏を電事連の広報部長に就かせたのは、東京電力の木川田一隆社長(当時)でした。鈴木氏は、自著で「これからの電気事業の経営、運営に当たって最大の課題は、やはり原子力発電の拡充とその関連、つまり核燃料サイクルを完成させることであろう」(『電力産業の新しい挑戦』)と語っています。

 電事連の原子力広報が広報部に一元化されたのが74年4月。鈴木氏は、精力的に動きます。同年8月6日に、朝日新聞には『放射能は環境にどんな影響を与えるか』と題した10段広告が掲載されました。これを皮切りに、読売新聞、毎日新聞と原子力の広告が掲載されるようになっていきました。
 鈴木氏は当時のことをこう記してします。
 「私は九電力の社長会で、原子力の広報には金がかかりますよ。しかし、単なるPR費ではなく、建設費の一部と思ってお考えいただきたいとお願いした」(前掲書)

 【安全神話】の【語り部】としての役割を一部大手メディアに担わせるのに絶大なる力を発揮した鈴木氏は、「才能や熱意のある男なら、泥棒でも使え」という考えの持ち主でした。
 メディア業界にとって、電力会社はスポンサーとして゛超優良企業〝です。「東電の広告さえ取れば、あとは電事連がついてくるし、ほかの電力会社も、のってくる」。ある雑誌の編集長経験者はそう語ります。
 

 株保有の目的

 東電は、メディアとの関係作りに余念がありません。
 1977年6月、NHKが、長期展望にたった経営のあり方を専門的に調査、検討するため会長の諮問機関として設置したNHK経営問題委員会に11人のメンバーの一人として東電の平岩外四社長(当時)が参加していました。さらに公共放送の事業体としての経営のあり方を検討するために79年5月に設置されたNHK基本問題調査会(第2次)にも平岩氏は委員として参加していました。

 現在、東電は民間放送・映画産業の株式を保有しています。有価証券報告書で判明しただけでも、松竹、東京放送(TBS)ホールディングス、テレビ朝日の株式を保有しています。その目的は、いずれも『当社事業の円滑な遂行』です 。
 【安全神話】を振りまき、国民を欺いてきた歴史は決して消せません。



 財界の野望シリーズ(おわり)