人付き合いで無償の厚意ほど心に沁みるものはないですね。
さりげなくて、下心や見返り期待など一切ない無意識の行為。
後になって気付いたりするとついほろりときちゃう。
実は猫の世界では、すべてがそういった無償の行為なんです。
意志じゃなくて本能に基づいて行動しているから、そもそも結果なんて考えてないし。
今日は利発な猫、ニャーの登場です ( 下はキー)
一方よく言われるのは、猫と暮らしていると保護者が下僕に思えてくる。
わが家も御多分に洩れずです。でもそれって、猫が傲慢なわけじゃない。
自然界で自由に暮らしていた彼らを人間の家に閉じ込めた結果、彼らは保護者に頼まないと何もできないし生きていけないから、ひたすら保護者にすがるのです。
傲慢なのは、人間の方ですよね。
猫は養老先生も言うように、ぶらぶらしているだけで人の役には立ちません。
むしろ手間がかかるだけの存在だ。
にもかかわらず、何故かいるだけで多くの人が癒される。
確かに自分に懐いて、すがってきたり甘えてくればかわいくもあり愛おしくもあり。
でもそれって、前述した人間の傲慢さの裏返しに過ぎません。
我々保護者が癒されるのは、そんな単純なことじゃないと思えるのです。
(上から)ポニー、チキン、シロキ、(テーブル下の)リンを見やるニャー
その答えをニャーが持っているかもしれない。
ニャーは当初から、保護者に甘えたり要求したりのない不思議な猫です。
過去記事「先回りのニャー」や「観察する猫」で書いてきたように、ニャーは保護者を観察し、保護者に合わせて行動することで自分の目的を果たそうとするのです。
だからとても我慢強い。保護者が動くまで待っている。
お腹が空いても、保護者がご飯の支度をするまで我慢する。
例え支度が遅れても何も言わずに我慢する・・・一事が万事、そうなんです。
もうひとつのニャーの特徴。
自分(オジン)が家にいるときはいつも自分の傍にいる。
傍と言ってもベタベタくっつくわけじゃない。
近くにいることもあれば、離れた見えるところにいることもある。
今では、昔みたいに保護者をじっと見て観察しているわけでもない。
毛繕いしたりまどろんだり、思い思いのことをしながらさりげなく過ごしている。
寝込んでいるときに部屋を移動しても、いつの間にか同じ部屋に来て寝ている。
コタツの周囲は猫たちのたまり場(左から:ニャー、シロキ、ちび太)
アッピールも要求も何もない。ただそうしたいから、そうしてるんだと思います。
オジンがいると安心なのかな。最近は落ち着きを取り戻したようにも見える。
そのさりげない信頼が、何とも心に染みるのです。
で、ニャーは自分にとって特別な猫になりました。
要求とか利害関係とか、そういうことから離れた行動というのはとにかく清々しい。
猫に癒されちゃうのはそんなところにあるのかもしれません。
でも、ふと思うのです。
ニャーがもし今も外で暮らす猫だったら、果たしていつも自分の傍にいてくれるだろうかと。
ニャーよ、これからもよろしくな
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます