今日も元気で頑張るニャン

家族になった保護猫たちの日常を綴りながら、ノラ猫たちとの共存を模索するブログです。

PURE HEART<汚れなき心> ~みうの思い出~

2021年06月06日 | (故)みう(おかあさん)
久々にみうのことを書くんだな、そう思っただけで楽しくなった。
「みうロス」と言ってしまえばそれまでだけど、そんな単純なことじゃない気がする。
19年付き合った「テツロス」が癒えるのに4年かかった。
このブログで書き続けた「テツとの対話」は、自身の傷心への方剤でした。
でもみうを失った心の叫びは、何かそういった「ロス」とは違うのです。


2015年10月、ソトチビが連れてきたみうの初見参(外時代の名前は「おかあさん」)

自分もトシだから、これまで数々の永訣を経験してきました。
両親、恩師である会社の上司、友人たち・・・
それに文太、ハナ、くも、テツ、チビ、テン、みう、ルイ・・・
人も犬も猫も、それぞれに思い出があって比較ができない。
ただ、猫たちの思い出には共通した何かがある。

家裏で暮らし始め、2度の冬を通いのソトチビと過ごした(奥にみう)

ハナとくもは保護者の欲目で、入院先で寂しく逝かせてしまった後悔。
事故死のチビを除いて、最後の旅立ちに付き添って見送った。
そのときに共通したあの厳かな気持ち。
その気持ちが、みうの場合は見送った後にもどんどん強くなる。
"添い寝"ではなくまさに自分に抱かれ、膝の上で旅立ったみう。
そんな経験が特別な感情を抱かせるのだろうか。

とっても絵になる2匹でした (結局みうは手術することなく、発情することもなかった)

穏やかで控えめ、奥ゆかしさと気立ての良さ、それでいてひたむきだったみう。
そんなみうこそ幸せになるべきだと、みうのどの記事にも溢れる自分の思い。
愛おしさ? いや、それもあるけどもっと奥深い何か。
そんなみうに象徴される、猫族いや動物たちが持つ何か。
われわれ人間にはないもの。

2017年の春に家の中に居を移したが、一足先に店から家に迎えたニャーの迫害を受ける

実はもうわかってるんです。
このブログの最初の記事「はじめまして」に、それらしきことを書いている。
それは、人類が長い進化の過程で垢や埃に汚れる前に持っていた心。
磨く前の宝石の原石のような、自分の表現能力を超えた心。
動物たちが、今も持ち続けている心。

みうの好きだった場所(ニャーは怖くてもオジンとの信頼関係が救いだった?)

猫と人の心は何が違う?
猫には競争とか妬みとか優劣とか、人のように他者と比較する発想がない。
誰かを恨んだり、誰かのせいにすることを知らない。
悲しくても苦しくてもつらくても、自暴自棄とか厭世的になる感情がない。
ネットに溢れる猫に関する知識。
人と関わる猫が人に合わせる様を、人が人の感覚で評価しているに過ぎないのです。

仲間が増えるとニャーとの関係も改善し、家と仲間に溶け込んでいった

猫たちはいつも真っ直ぐで自分の気持ちに正直だ。
人のように、自分をよく見せようとする作意がない。
化粧もなければ着飾ることもなく、もちろん駆け引きなんて微塵もない。
そして、人のように相手を裏切ることがない。
不幸に見舞われても悲しみに襲われても、自分の境遇をありのままに受け入れる。
そしてひたむきに生きようと努力する。それこそが、彼らの全てだからです。

療養のため家に来た強面のテンちゃんとは、一緒にいることが多かった

彼らを看取ったときに抱いた厳かな気持ち。
傷つきやすい純粋な心を抱き続ける、彼らに対する畏敬の念なのかもしれない。
みうはとりわけそれを感じさせてくれる存在だったのです。
だから、もっと長生きしてほしかった・・・自分の至らなさを悔やむばかりです。

みうに「参りました」のポーズをとる幼子チキン (7月1日、みう発症の1週間前)

みう:2019年8月9日没

コメント
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