長内那由多のMovie Note

映画や海外ドラマのレビューを中心としたブログ

『The Last Of Us PartⅡ』

2020-09-26 | おしらせ
※このレビューは物語の結末に触れています※
 当ブログは『Movie Note』と題しているように映画レビューを目的に開設したが、今はTVシリーズも同等の熱量で追っていなければ映画は語れない時代であり、海外ドラマのレビューも積極的に投稿している。

 今回、PS4のTVゲーム『The Last Of Us PartⅡ』について取り上げたのはもともと“映画的”と評された前作から7年の時を経て、PeakTVと呼ばれる現在のTVシリーズの影響下にある事が顕著だからだ。これを所謂“ゲームの人”達だけに評させるのは本作の本質的な魅力を証明できないのでは、と感じたため筆を執ってみる事にした。ネタバレを回避して語れる器用さがないため、その辺は悪しからず。


【ポップカルチャーが到達した新たな物語〈ナラティブ〉】
 各メディアの批評から果てはAmazonのユーザーレビューまで目を通して感じたのは、本作がアメリカのゲーム会社ノーティドッグの製作による“アメリカ作品”である事を見逃しているのでは?という疑問だ。映画で言えば“アメリカ映画”であり、ここには分断と対立の時代に対する作家のリアルな肌感覚が反映されている。
 
 第1作の発売は2013年。そこから7年の間にアメリカではイラク戦争に対する内省があり、経済格差の深刻化と旧来的な共和党政治の瓦解、そしてトランプの登場があった。憎しみを煽る事で自身の支持者を増やしていったトランプによってアメリカの分断は深まった。LGBTQに対する憎悪犯罪や今年、再び激化したBlack Lives Matter運動はその最もたる象徴だろう。
 そんな時代に対し、女性や黒人、LGBTQらあらゆるマイノリティの声が新しいポップカルチャーを形成し、#Me tooはじめとしたムーブメントに発展していったのが2010年代後半である(この一連の流れに関しては田中宗一郎、宇野維正両氏による『2010s』に詳しい)。既存のジャンルがこれまで描かれる事のなかったマイノリティの視線を得る事で新たな文脈を獲得し、より豊かに、より複雑になっていったのだ。

本作では主人公エリーがレズビアンである事が描かれているが、実は前作の追加コンテンツ『Left Behind/残された者』で既に言及されている。シリーズの先進性を証明する1つと言えるだろう。

 『The Last Of Us PartⅡ』が直接的な影響を受けているであろうTVシリーズは映画よりもさらに早いレスポンスで時代に応えてきた。リーマンショック以後、リスクを忌避するハリウッド大手各社はスーパーヒーロー映画やフランチャイズ映画の製作に邁進し、人間ドラマを描いた中規模作品を疎かにしてきた。それを機にデヴィッド・フィンチャーら大物映画作家が次々とTV業界に流入。今やより演じがいのある上質な役柄を求めて大物スターが主演するのは当たり前である。

 Netflixはじめスポンサーに依らない配信各社は現実社会を反映した複雑なストーリーテリングのオリジナル作品を連発し、多くのファンを獲得していった。このムーブメントにあって『The Last Of Us』製作陣が前作の轍を踏まず、よりリスクを選んだのは当然のアプローチと言えるし、“ポリコレにおもねた”という批判は見当外れだろう。既にナラティブは10年近い積み重ねを経て進化、変容しているのである。近年最大のヒット作『ゲーム・オブ・スローンズ』が特定の主人公を設定しない群像劇であること、過激な暴力描写、複雑なファンタジー世界設定、そして環境問題から女性のエンパワメントまであらゆるイシューを含んでいた事を踏まえれば、その進化を理解できるハズだ。

 『The Last Of Us PartⅡ』の特徴の1つがジェンダーの多様性だ。エリーにはメキシコ系の同性の恋人ディーナがおり、旅の同伴者となる。本編中盤から登場するレブは性同一性障害である事が示唆されており、コミュニティから嫁ぐ事を強要されたというバックストーリーは未だ世界各地に残る因習を思わせる。屈強な肉体を持ったアビーは一昔前までハリウッド女優がアクションスターとなるために強いられた男性化にも見えるが、彼女らになかった女性性が強調されている。崩壊した世界でサバイブする彼女らが過渡期を生きる現代女性に重ねられているのは言うまでもないだろう(だからこそゲーム終盤で回想されるジョエルの姿が性的アイデンティティを侮蔑されたエリーを庇う姿である事は重要だ)。


【This is America~血と暴力の国】
 ゲーム冒頭、前作の主人公ジョエルは武装した若者達によって惨殺される。手を下したアビーはジョエルが前作のラストで殺した医師の娘だ。遺されたエリーは復讐を誓い、アビーの後を追う。
 本作では立ち塞がるモブ敵それぞれに名前があり、顔がある。僕はZバージョンでプレイしたが、敵の喉を掻き切り、鈍器で頭部を潰すとくぐもったうめき声が聞こえた。ゲームを進めれば進めるほどエリーの残虐性が際立ち、その陰惨さは極まっていく。ゲームに気晴らしや爽快さを求める人に本作はオススメできない。だが僕は“娯楽性”を捨ててまで語ろうとする作り手の気迫に引き込まれた。

 中盤になってゲームの主人公はなんとアビーに交代し、彼女が復讐を遂げてシアトルの基地へ帰還した所から物語が始まる。彼女はワシントン解放戦線(WLF)という軍閥組織に所属しており、スタジアムを改築した大規模コミュニティで生活しているのだ。近い将来、アメリカにおける白人の割合は50パーセントを切ると予想されているが、劇中世界では白人至上主義が(おそらく)終わりを迎えており、代わって彼らはアジア系を中心とした宗教組織セラファイト(通称スカー)と敵対状態にある。

 エリーと同等、それ以上の時間をかけてアビーが描かれる事で次第に彼女を敵視できなくなってしまう。殺人鬼に見えた彼女もまた父を持つ娘であり、友との関係に悩む若者であり、既成概念に疑問を抱くひとりの人間である事が見えてくるのだ。
 アビー編はゲームプレイのバリエーションにも富んでおり、エリー編より魅力がある。特に子供を救うため火炎放射器片手に感染者の巣窟へ降りていく場面は『エイリアン2』を彷彿させる激アツな展開だ。本シリーズには珍しく大型ボスキャラも登場し、前作に唯一欠けていたホラーアクションとしての面白さがある。アビーは復讐のために鋼の肉体を手に入れたパワーファイターで、まるでジェームズ・キャメロン映画のヒロインのようだ。TVドラマ版製作時にはハリウッド中の女優で争奪戦が起きるだろう。

 エリーが殺したWLFのメンバーはアビーの友人達である事が明らかになり、憎しみの連鎖はWLFによるセラファイト殲滅作戦で頂点を極める。小島の集落が焼き払われる地獄絵図は民族浄化そのものであり、ゲームの域を超えたシネマティックな絵作りが僕達を圧倒する。それは奇しくも本作のリリースと時を同じくした大規模暴動によって都市が燃え盛った様を彷彿とさせる。『The Last Of Us PartⅡ』はコロナウィルスが蔓延し、怒りと恐怖、憎しみによって分断された現代アメリカ社会そのものを映し出すのだ(そういった意味でも廃墟となった都市を探索する本作のメランコリックな魅力は現在のメンタリティにマッチしていると言えるだろう)。これは傑作だけが持ち得る時代精神だ。

 現実社会がフィクションを超えた憎しみにある現在、創作物はその向こう側を描く事ができるのか?エリーとアビーの死闘に僕は何度も「もうやめてくれ」と声を上げ、泣きながらコントローラーを握った。復讐を成し遂げながらも暴力の代償に苦しむアビーはセラファイトの子供を助ける事で贖罪し、方やエリーは復讐をやめる事で物語に幕を下ろそうとする。

 だが暴力の代償は大きかった。エリーは世界で唯一ウィルス抗体を持った“選ばれし子”である。プレイアブルキャラクターとしてもジョエルとのスペック差は全くなく、むしろナイフの使用制限がない分、勝っている。車も運転できれば、乗馬もできる。そんな完璧な子供にジョエルが唯一、継承できたのがギターだった。彼女は行く先々で見つけたギターを弾き、過ぎ去りしジョエルとの日々を想う。だが、復讐の果てに指を失った彼女はもうギターを満足に弾くこともできない。そして愛するディーナもエリーのもとを去っていった。

 前作はコーマック・マッカーシーの小説『ザ・ロード』の影響が強く見られたが、今回は同じくマッカーシーの『越境』を彷彿した。家族を殺された少年がショットガンを手に故郷を旅立ち、そして全てを失う。マッカーシーはアメリカとメキシコの辺境を舞台に神の存在を問い質した。小説の終わりはこう結ばれている。

“…そしてビリーはこの不可解な闇の中で立ち尽くした。
聞こえてくるのは風の音だけだった。 
ひとしきりたってから彼は道路に坐りこんだ。
帽子を脱いで目の前のアスファルトの路面に置き頭を垂れ両手で顔を覆って泣いた。 
彼は長いあいだそうやって坐っていたがやがて東の空が本当に白み始め、しばらくすると神の創った本物の太陽がもう一度、分け隔てなく全てのもののために昇ってきた。”





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