ハグハグの日々 Ⅳ  ~ 南日本海人、ライダー変身

ご訪問有難うございます。南日本海人、夏山裕のブログです。家族を愛し、人生に感謝して、日々をハグしながら送っています。

南日本海人、正気について

2008年04月16日 | お気に入りの本・映画・アート
 前に少し紹介した本に無能唱元氏の『得する人』というのがあったと思う。アラヤ識のことで少し触れたのだが、他にもこの本はいろいろとためになることが書いてある。
 その中の一つ、「正気」ということにについて今日は少し考えて、脱線していきたいと思う。
 無能唱元氏が言われるのは、正気と狂気の状態の間に、狂気には至っていないが「正気でない」という状態があるということだ。私は以前これを読んだときに、目からうろこやらタイルやらモルタルやらいろいろなものがこぼれおちて、頭どころか、体が軽くなった覚えがある。
 そうなのだ。人間、狂ってはいないといっても、決して「正気ではない」という状態が往々にしてあるのだ。今の世の中は、大方がこの「正気ではない」状態にあると言っても過言ではない。新聞やテレビを見れば、それがあふれかえっていることがわかるはずである。
 単純な例を挙げておきたい。私が、一ついま思いついたのは、いわゆる「個人情報」というやつ。最近、局所的なコミュニティでよくこの言葉を聞く。何かの話し合いの時に必ずこの言葉を口にする人がいる。閉鎖的な会の中でさえ、この言葉を使って、「それはちょっと」という人がいる。正気そうな人ほど、この言葉を使ったりするので余計に困る。
 この「個人情報の保護」という観念、人々のつながりをばらばらに断ち切る可能性をもっている。ウェブ時代だからこそ、局所的なコミュニティでのコミュニケーションは大事にされ、活発に行われなければならないのに、この概念のために、すぐ隣に座っている人の人となりや本質を知ってはいけないような気にさせられる。それではどうやって相手のことを知るのか、どうやって自分を表現して行くのか。
 まさに本末転倒の概念による弊害だ。このことを直感的に理解できない人々が増えてきたということ、それ自体が、社会が正気ではなくなったということを表している。
 ほかにもある。マスコミで言えば食べ物でもっている番組。そんなことをわざわざ電波を飛ばして見せることか? 誰が見てもわかる「食べる」ということをただ、だらだらと見せ続ける番組がこれほど多いということは、視聴者の精神的平均レベルがそれを受容するほど下がっているということを示している。これは「正気」ではない。「狂気」とはいえないかもしれないが、決して「正気」とは言えない。
 予備軍である「正気ではない」という母体が増えれば、必然的にそこから「狂気」が発生するのが増えてくるということは至極当然の成り行きである。
 現在の「狂気」の事件の頻発を防いだり減らしたりするためには、まずこの狂気予備軍の「正気でない」という状態を減らさなくてはいけないのではないだろうか?

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