花田春兆さんが逝きました
ーー花田春兆(はなだ・しゅんちょう、本名花田政国〈はなだ・まさくに〉)さんが13日、肺炎のため東京都内の病院で死去したーー
しゅんちょうさんはワタクシメの大先輩。
脳性麻痺で、物書きで、ヘンな人(笑)でした。
人間は誰でも一度は死にますが、しゅんちょうさんは永遠に生き続ける気がしていました。
でも・・・91才で天寿を全うされました。
告別式には車いすの仲間が大勢参列しましたが、その中にしゅんちょうさんも混ざっていて、
「やー、岡田さん。げんきー」と声を掛けてくるんじゃないかと思うほど・・・
ワタクシメには「しゅんちょうさんが亡くなった」実感がありません。
ワタクシメがしゅんちょうさんを知ったのは小学生の頃です。
当時「養護学校の大先輩に花田春兆というスゴイ俳人がいる」と聞きました。
その方から自伝(ウワちゃんとおはるさん―ひとすじに道を求めて (1966年)」を
半強制的に買わされた覚えがあります。
※ この作品は現在「古書」で3万円以上します!
買っておいて、よかったー。
オヤジ様がダンシャリで捨ててないことを祈ります(o|o)
しゅんちょうさんのことを思いながら書くと、ついつい冗談が出てしまいます。
とにかく「稀有なおもしろさ」に満ち溢れた方だったので、不謹慎でゴメンナサイ<(_ _)>
身体が不自由でも「書く」という手段があり、それを職業にもできると、
ワタクシメに選択肢を示して下さったのは、しゅんちょうさんだったのかも知れません。
いくつになったら歩けるの (人間の記録)
↓ 写真は本の表紙です。
このタイトルはしゅんちょうさんの子どもさんが物心ついた頃に発した言葉です。
歩けない父親に対して、シンプルでピュアで、悲しく残酷な<?>ですね。
脳性マヒは、「障害」の中で最も理解されにくいと思います。
本著に描かれているのは昭和初期から40年代。福祉も肢体不自由児教育も「夜明けの時代」と言えましょう。
戦争をはさんで暗い印象もありますが、しゅんちょうさんにとってはその才能の開花のきっかけを作った時期です。
「俳句」は五・七・五の一七文字で表現する文芸ですから、筆記に不自由な者には「モッテコイ!」なジャンルとされていました。
タイプライター・ワープロ・パソコン・・・様々な機器に囲まれていてもちゃんとした物が描けないワタクシメもいますから(恥)、
「俳句」でなくても、しゅんちょうさんなら自己表現・自己実現なさったことでしょう。
現に随筆や評論など何冊もご本を執筆されました。
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年9月号 文学にみる障害者像より一部転載
花田春兆著 『日本の障害者―その文化史的側面』 岡本明
花田春兆さん。ご存知の方も多いと思うが、俳人、作家、歴史家、障害者運動家、障害者団体のリーダーなど、多くの顔がある。
どの顔も一流の輝きがあり、86歳の今もその輝きが衰えることがない。
春兆さんは日本の障害者史をまとめ上げることをライフワークの一つとしておられ、本書はその結実のひとつである。
本書以前には『鬼気の人―俳人富田木歩の生涯』、『心耳の譜―俳人村上鬼城の作品と生涯』、
『殿上の杖―明石検校の生涯』、『幽鬼の精―上田秋成の作品と生涯』など、
障害がありながら一家を成した先人の業績をまとめた傑作がある。
また『日本の障害者・今は昔』では、埋もれてきた障害のある人たちの歴史を追って堀り起こし、本書の原型ともなっている。
春兆さんは本名政国。1925年、官吏だったお父上の任地である大阪に生まれた。出生時にはとくに障害も見当たらず、元気な子だった。
しかし、いつまで経っても首がすわらず這いもしないのでいろいろ調べてもらった結果、脳性小児まひという診断を受けた。
後に家族で東京に移り、以後、東京港区在住である。
言語障害、歩行不能で、就学猶予の名のもとに小学校入学を拒否されるが、
9歳のとき、わが国初の肢体不自由児学校である東京市立光明学校(現都立光明特別支援学校)に入学した。
小学課程を卒業後、研究科に進み、このとき文学、俳句を学び、今日の基礎が築かれる。
ーー中略ーー
俳句では俳誌「萬緑」に参加し中村草田男に師事、第1回萬緑新人賞受賞、角川俳句賞推薦、俳人協会全国大会賞受賞、萬緑賞受賞など輝かしいものがある。
春兆さんは、国際障害者年日本推進協議会(現・日本障害者協議会)副代表、総理府障害者対策推進本部参与、港区障害児・者の豊かな生活をすすめる会会長、
NPO法人「風の子会」(通所生活実習所)会長等を歴任し、国際障害者年記念総理大臣表彰、朝日社会福祉賞受賞ほかの受賞歴がある。
また天皇陛下の「園遊会」に招待されるなど、その業績、活躍は広く認められている。
この続きはここから、どうぞ(^.^)
さようなら、しゅんちょうさん (T_T)/~~~
春兆先生。
あなたの周りの人は皆、共に過ごせたことに感謝しています。
長い間ありがとうございました。
ゆっくりとお休み下さい。
あちらに行ったら、奥様と仲よくね(*´з`)
ご冥福をお祈りいたします。
ーー花田春兆(はなだ・しゅんちょう、本名花田政国〈はなだ・まさくに〉)さんが13日、肺炎のため東京都内の病院で死去したーー
しゅんちょうさんはワタクシメの大先輩。
脳性麻痺で、物書きで、ヘンな人(笑)でした。
人間は誰でも一度は死にますが、しゅんちょうさんは永遠に生き続ける気がしていました。
でも・・・91才で天寿を全うされました。
告別式には車いすの仲間が大勢参列しましたが、その中にしゅんちょうさんも混ざっていて、
「やー、岡田さん。げんきー」と声を掛けてくるんじゃないかと思うほど・・・
ワタクシメには「しゅんちょうさんが亡くなった」実感がありません。
ワタクシメがしゅんちょうさんを知ったのは小学生の頃です。
当時「養護学校の大先輩に花田春兆というスゴイ俳人がいる」と聞きました。
その方から自伝(ウワちゃんとおはるさん―ひとすじに道を求めて (1966年)」を
半強制的に買わされた覚えがあります。
※ この作品は現在「古書」で3万円以上します!
買っておいて、よかったー。
オヤジ様がダンシャリで捨ててないことを祈ります(o|o)
しゅんちょうさんのことを思いながら書くと、ついつい冗談が出てしまいます。
とにかく「稀有なおもしろさ」に満ち溢れた方だったので、不謹慎でゴメンナサイ<(_ _)>
身体が不自由でも「書く」という手段があり、それを職業にもできると、
ワタクシメに選択肢を示して下さったのは、しゅんちょうさんだったのかも知れません。
いくつになったら歩けるの (人間の記録)
↓ 写真は本の表紙です。
このタイトルはしゅんちょうさんの子どもさんが物心ついた頃に発した言葉です。
歩けない父親に対して、シンプルでピュアで、悲しく残酷な<?>ですね。
脳性マヒは、「障害」の中で最も理解されにくいと思います。
本著に描かれているのは昭和初期から40年代。福祉も肢体不自由児教育も「夜明けの時代」と言えましょう。
戦争をはさんで暗い印象もありますが、しゅんちょうさんにとってはその才能の開花のきっかけを作った時期です。
「俳句」は五・七・五の一七文字で表現する文芸ですから、筆記に不自由な者には「モッテコイ!」なジャンルとされていました。
タイプライター・ワープロ・パソコン・・・様々な機器に囲まれていてもちゃんとした物が描けないワタクシメもいますから(恥)、
「俳句」でなくても、しゅんちょうさんなら自己表現・自己実現なさったことでしょう。
現に随筆や評論など何冊もご本を執筆されました。
「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2011年9月号 文学にみる障害者像より一部転載
花田春兆著 『日本の障害者―その文化史的側面』 岡本明
花田春兆さん。ご存知の方も多いと思うが、俳人、作家、歴史家、障害者運動家、障害者団体のリーダーなど、多くの顔がある。
どの顔も一流の輝きがあり、86歳の今もその輝きが衰えることがない。
春兆さんは日本の障害者史をまとめ上げることをライフワークの一つとしておられ、本書はその結実のひとつである。
本書以前には『鬼気の人―俳人富田木歩の生涯』、『心耳の譜―俳人村上鬼城の作品と生涯』、
『殿上の杖―明石検校の生涯』、『幽鬼の精―上田秋成の作品と生涯』など、
障害がありながら一家を成した先人の業績をまとめた傑作がある。
また『日本の障害者・今は昔』では、埋もれてきた障害のある人たちの歴史を追って堀り起こし、本書の原型ともなっている。
春兆さんは本名政国。1925年、官吏だったお父上の任地である大阪に生まれた。出生時にはとくに障害も見当たらず、元気な子だった。
しかし、いつまで経っても首がすわらず這いもしないのでいろいろ調べてもらった結果、脳性小児まひという診断を受けた。
後に家族で東京に移り、以後、東京港区在住である。
言語障害、歩行不能で、就学猶予の名のもとに小学校入学を拒否されるが、
9歳のとき、わが国初の肢体不自由児学校である東京市立光明学校(現都立光明特別支援学校)に入学した。
小学課程を卒業後、研究科に進み、このとき文学、俳句を学び、今日の基礎が築かれる。
ーー中略ーー
俳句では俳誌「萬緑」に参加し中村草田男に師事、第1回萬緑新人賞受賞、角川俳句賞推薦、俳人協会全国大会賞受賞、萬緑賞受賞など輝かしいものがある。
春兆さんは、国際障害者年日本推進協議会(現・日本障害者協議会)副代表、総理府障害者対策推進本部参与、港区障害児・者の豊かな生活をすすめる会会長、
NPO法人「風の子会」(通所生活実習所)会長等を歴任し、国際障害者年記念総理大臣表彰、朝日社会福祉賞受賞ほかの受賞歴がある。
また天皇陛下の「園遊会」に招待されるなど、その業績、活躍は広く認められている。
この続きはここから、どうぞ(^.^)
さようなら、しゅんちょうさん (T_T)/~~~
春兆先生。
あなたの周りの人は皆、共に過ごせたことに感謝しています。
長い間ありがとうございました。
ゆっくりとお休み下さい。
あちらに行ったら、奥様と仲よくね(*´з`)
ご冥福をお祈りいたします。