こんにちは「中川ひろじ」です。

みんなのお困りごとが私のしごと

4.13沖縄連帯キャラバン・集会・デモ

2010-04-14 21:32:40 | 憲法・平和・沖縄
4月13日平和フォーラム北信越ブロックの企画で沖縄県から吾屋悟(ごや・さとる)西原町議が長野県を訪れた。
 
長野県の受け入れ団体である護憲連合 国労車両所支部

 
長野駅前でマイクをもつ中川        チラシ配布をした仲間の皆さんと

 
夕方の集会風景1              集会風景2

 
集会で訴える中山喜重護憲連合代表委員 吾屋町議

 
集会風景3                    デモ行進1

 
デモ行進2                    4月14日の信濃毎日新聞掲載記事


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海兵隊テニヤンは歓迎 照屋寛徳衆議院議員視察報告

2010-04-13 08:48:46 | 憲法・平和・沖縄
社民党照屋寛徳衆議院議員が沖縄県議会議長らと米北マリアナ連邦(サイパン・テニアン・ロタ)を視察し、現地の議員らと懇談した報告がされたので、掲載します。

去る9日、安保委員会を終え、夜に成田空港を出発し、サイパン・テニアン島へ視察・住民との対話集会に出かけた。今回は、正式に社民党沖縄基地問題対策プロジェクトチームの座長として、党政策審議会の野崎君、服部良一議員秘書の森原君、沖縄県議会議長の髙嶺善伸氏が同行した。(髙嶺議長は公務ではなく、議員の政務調査として同行する。)
昨日(11日)夜に、視察を終えて帰任した。視察は大変に有意義であり多くの成果を得た。先ず、私や社民党は、普天間飛行場の移設先として、グァム、テニアンなどの北マリアナ諸島を第1候補地として挙げているが、その正当性が一層明白になった。次に判った事は、沖縄は米軍基地(海兵隊)を拒んでいるが、テニアンは大歓迎だ、という事実である。
私が、サイパン島チャランカノアのススペ米軍捕虜収容所で生まれた事はブログにも書いた。亡くなった両親は、戦争時にはサイパン島に居住していたが、沖縄から出稼ぎで最初に渡ったのはテニアン島である。
去る大戦で、サイパン・テニアンでは多くのウチナーンチュの尊い命が失われた。バンザイクリフの悲劇もある。私としては、第2の故郷ともいうべき彼の地にフテンマを移せと主張するのは複雑な心境ではある。
4月10日、朝にサイパン島のおきなわの塔に眠る霊前に線香を焚き、祈った。昼食時、テノリオ下院議長と昼食をしながら意見交換する。サイパン、テニアン、ロタ島で構成する北マリアナ連邦政府の議会は、上下両院がある。上院は9名で、各島3名ずつの議員で構成され、下院は20名(サイパン18名、テニアン1名、ロタ1名)である。テノリオ下院議長はかつて知事も務めたことのある人で、人望厚く、信頼されている政治家との評判を聞いた。
フィティアル知事にも会いたいと思ったが、病気治療でアメリカ本土に行っているとの理由で会えなかった。フィティアル知事が私との面会を断ったのは、日本政府高官から「この時期、社民党代表団と会うべきでない」との圧力があったとの噂があり、真偽は不明である。
テノリオ下院議長は、「サイパン島内には、米海兵隊を受け入れる土地はない。テニアン島民がこぞって海兵隊移駐を大歓迎している事は事実だ。自分もテニアンへの移駐を支持する。恐らく北マリアナ上下両院議員で総意だろう。」と明言した。
4月11日、テニアン島に渡る。テニアンでは、デラ・クルツ市長、テニアン選出の上下両院の議員、弁護士、市役所職員、女性代表2名、キャンプ・ハンセン勤務経験を持つ元海兵隊員ら約20名と意見交換をした。
デラ・クルツ市長や参加したメンバー全員から、フテンマ飛行場(在沖米海兵隊)の移駐を大歓迎するとの発言があった。テニアンは現在でも島の3分の2を米軍基地として貸している。テニアンの人びとは、海兵隊の訓練移転ではなく、海兵隊の部隊移駐を強く望んでいた。
移駐を希望する海兵隊の人数、規模については、市長から「兵隊4,000人とその家族」との表明があった。しかし、日米両政府が合意すれば、人数・規模の拡大は意に介しないとの事であった。
私が、「海兵隊の移駐に伴う事件・事故その他の不安はないか」と尋ねると、「自分達はアメリカへの忠誠心がある。海兵隊員にはいい人も悪い人もいる。部隊移駐による雇用増やインフラ整備に期待したい」などと答えていた。
デラ・クルツ市長、出席した上下両院議員、同席したテノリオ下院議長は、速やかに海兵隊誘致決議を採択し、日米両政府にアピールしたい、とも語った。その上で、社民党も連立政権の中でテニアン移駐を進言して欲しい、と逆要請された。
 鳩山総理が公言する5月末決着が刻々と迫る中で、相変わらず普天間の「県内移設」ありきが囁かれている。総理、官邸、外務、防衛の関係者は、真剣に社民党が主張するグァム、テニアン移駐の可能性を検討し、アメリカと交渉すべきだ。

照屋寛徳衆議院議員のブログ
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並行在来線懇談会

2010-04-12 20:23:42 | 公共交通
 
4月12日県公共交通対策会議は、並行在来線問題で長野県交通政策課及び長野市新幹線高速道室と懇談会を開催した。<詳細はあとでまた書きます>
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4月13日沖縄連帯集会にご参加を

2010-04-11 16:46:35 | お知らせ
沖縄連帯長野県集会


◆日 時 4月13日(火)18時
◆場 所 長野市・南千歳公園
◆ゲスト 呉屋 悟 ごや・さとる(沖縄県西原町議)
◆主 催 長野県護憲連合
*終了後デモ行進あり。お問い合わせは026-235-2727へ。

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松本地区沖縄連帯集会

2010-04-10 12:06:55 | 憲法・平和・沖縄

4月9日自治労沖縄県本部調査部長平良誠氏から「沖縄に米軍基地を必要としているのは誰なのか」と題して、目下鳩山政権の大きな課題である「普天間基地移設問題」についての講演を聞く。1976年生まれの34歳。自身も親も沖縄戦の経験はしていないが、「沖縄戦による米軍による占領抜きに基地の島沖縄を語ることはできない」と語る。

さらに本土復帰後は、公共事業の高率補助という基地依存型経済が定着してしまったことに対して「基地依存体質からの脱却こそが真の自立であり、復帰の実現である」と述べる。

また、普天間飛行場を空から視察した当時のラムズフェルド国防長官が「世界一危険な基地」と言ったことはよく知られていることだが、そのあとに続けて「こんな危険な場所に住宅や学校を建てさせた宜野湾市長が悪い」と言ったことは余り知られていない。しかし、「普天間基地は、旧日本軍の飛行場や基地を転用したものではなく、米軍によって土地を奪われ勝手につくられたものだ」と話す。

日米地位協定について、特に2004年8月13日沖縄国際大学に大型輸送ヘリが墜落したとき、地元消防署が消火活動を行ったが、消火活動が終わると締め出し、当の宜野湾市長が「市民の生命財産を守る立場にあるから、検分させろ」と言っても現場へ入れさせなかった米軍に対して、「基地内ではないにもかかわらず、治外法権的なやり方に憤る」「時の小泉総理は、この件で一度もアメリカに対して抗議をしないばかりか、『国際法に触れる』と発言した官僚を更迭するなど、とんでもない対応だった」とし、根本にある日米地位協定の抜本的見直しが必要と訴えた。

政府与党が移設問題で揺れているが「思いやり予算2400億円、関連経費6000億円を米軍に対して、国が提供しているというが、これは私たちの税金だ。税金の使い方として、一緒に考えてほしい」とまとめた。


余りにも沖縄県民の生活を無視し犠牲を強いる米軍の状況をを聞き、鳩山総理は対等な日米関係を築くというのなら、「沖縄の基地負担を軽減するため、グアムへ移転させたい。応じて頂けなければ米軍関係費や思いやり予算は今後一切日本政府としては出さない」と言うべきではないかと思う。
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「吉田ただとも」参議院選比例区予定候補者

2010-04-04 20:40:59 | 
 
写真(左)は「吉田ただとも県労組選対役員」の皆さんと
写真(右)は「吉田ただとも」さんと固い握手をして激励する社民党長野県連合代表「竹内久幸」県議。

4月8日社民党参議院選挙比例区へ出馬予定の「吉田ただとも」さんが、長野県内入りした。

「吉田ただとも」さんは、1956年大分県臼杵市に生まれました。父親は、サントリー臼杵工場で働くかたわら大工や農業、退職後は船大工として、母親は農業をし、ニットウ工場へ働きに出て、子どもたちを育てあげた。「一生懸命働く父親や母親の姿を見て育ったことが、後に労働運動へ入ることになった」と振り返る。


自身も小学校4年から6年まで新聞配達、中学生のときは3年間牛乳配達をしてきた。陸上で中・高と活躍をしていましたが、成長期に無理をしすぎて右足中指に軟骨ができ、監督から「マネージャーをやらんか」と言われ、すっぱり競技生活を断念、進学をめざすことに。現役では入れず、福岡の予備校で朝日新聞の奨学生として仕事をしながら勉学し、九州大学の農学部に入学した。「朝刊を配り、予備校へ行き、帰ってきて夕刊を配る。勉強する時間がない。朝、朝刊を配達する前の時間に集中して勉強した。眠くてしょうがなかった。つらくて、やめようかとも思ったこともあるが、自分で決めたことはやり抜かなければと、がんばった」と笑いながら苦労話をする。大学の4年間も新聞配達や家庭教師をしながら学費や生活費を稼ぎながら卒業した苦労人。


その後大分県庁へ、主に農業関係の仕事や地域振興の仕事をしてきた。仕事上モットーとしてきたことは、地域の要望にしっかり耳を傾けること、そして前任者の仕事を一歩でも前に「つっぺり、こっぺり」進めること。「つっぺり、こっぺり」は大分県の方言で、「あらゆる手段を講じてでも何とかする」こと。世話好きを買われて労働組合の役員を引き受ける。県職労の運動だけではなく、地域の運動にも関わってきた。地元の青年団活動にも参加し、本人いわく「車1台分は飲んだ」勢いを買われ青年団長もつとめる。「よそ者で青年団長をしたのはあんたがはじめてだ」といわれるほど入れ込んでいた。

44歳で、当時村山富市衆議院議員(元総理大臣)の後継で県議から重野安正さん(現社民党幹事長)が当選し、重野さんの後継で県議に出馬、3期つとめる。社民党系の56人の自治体議員団の団長や県議会会派の幹事長をつとめるなど、地元でも信頼があつい。


今回旧政権のもとで進められた構造改革で厳しい状況に置かれた労働者の雇用と暮らしを立て直すとともに、平和憲法を政治に実現するため参議院選挙への出馬を決意した。[労働者の政治闘争を否定する動きがあるが言語道断だ。働くものがその賃金労働条件を解決するため闘い、その政治的バッグボーンとなる政治闘争を戦うことは当然ことだ」と語を強める。

阿部政権が国民投票法を強行採決したときは「郵政選挙で成立した内閣が、なぜ憲法改悪をすすめるのか」と悔し涙を流した熱血漢でもある。あらためて、今の子どもたちは憲法をいつ学ぶのか調べてみると、小学校では6年生、中学では3年生、高校では選択科目となっていることを知る。「自民党は憲法を学ばせないようにしてきた」と憤る。「憲法が染み渡るような教育が必要だ」と豊富を述べる。

4月3日は、沖縄へ行き、普天間基地移転問題で、沖縄県民のすさまじい怒りを感じてきた。「全国が沖縄県民の思いをいかに共有できるのかが肝心だ」と述べる。

長野県内で行き会った全ての人が吉田さんを評して「実直な人だ」という。
「吉田ただとも」さんのホームページ

 

(初稿4月8日県労組選対、2稿4月9日長野地区政治学習会、順次このページで校正をしますのであしからず・・・)
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