長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

「聖書が告げるよい知らせ」第9回 イエス・キリストの誕生

2022-03-13 13:37:51 | 聖書が告げるよい知らせ

聖書が告げるよい知らせ

第九回 イエス・キリストの誕生

マタイ一・一八‐二五

 

 旧約聖書はやがて起こることについての良い知らせでした。新約聖書は遂に起こった良い出来事についての知らせです。

新約聖書の冒頭に置かれるマタイの福音書は、イエス・キリストの誕生の様子を紹介して始まります。キリストの誕生は、まさによい知らせです。イエス・キリストの誕生の様子を見るとき、それがなぜ私たちにとってのよい知らせであるのかを知ることができます。

 

一、約束のメシア

 

イエス・キリストの誕生は次のようであった。(マタイ一・一八)

 

 「イエス・キリスト」と言われます。ここによい知らせが含まれています。というのは、「イエス」は実際のお名前ですが、「キリスト」は本来お名前ではなく職名です。「油注がれた者」を意味するヘブル語メシアをギリシヤ語で表現した言葉です。ですから、イエス・キリストという言葉は、本来、「イエスはキリスト、メシアである」という信仰を言い表したものです。(その後、次第に半ば固有名詞のように使われるようになりました。)

 新約聖書の冒頭、マタイの福音書を読み始めた多くの人が驚きます。カタカナが沢山出てくるからです。しかし、旧約聖書から通して読んできた人にとって、この箇所はよく分かります。

旧約聖書はメシアの出現を予告します。メシアはアブラハム、ダビデの子孫の中から現れると考えられました。マタイの福音書の最初に出てくるのは、イエス・キリストの系図です。この系図を見ると、キリストが確かにアブラハムの子孫であり、ダビデの子孫であることが、よく分かります(マタイ一・一‐一七)。

 長い時間をかけて準備されたプレゼントをもらうと、どんな人でもうれしいものです。メシア出現のためのご計画は、神様が長い歴史の経過の中で次第に明らかにし、備えてこられたものでした。そのご計画がこの時、実現しました。

 

二、聖霊による誕生

 

母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。(マタイ一・一八)

 

 さて、「イエス・キリストの誕生は次のようであった」として、マタイが書き記した最初のことは、それが普通の子どもの誕生とは違っていたということでした。「聖霊によって身ごもっていることが分かった」と言います。それは、母マリアがヨセフと婚約中であり、まだ一緒になる前であったにも関わらず、身重になったという形で現れました。

このことは、通常の判断からすれば、マリアがよからぬ行為をしたことを意味したでしょう。実際、ヨセフもそのように考えました。信じられないことでしたが、大きくなってくるマリアのお腹を見れば、そうとしか考えられないことでした。

ヨセフは大きな痛みと悩みの中に置かれましたが、悩みの中で決断したことは「ひそかに離縁しよう」ということでした(マタイ一・一九)。「正しい人」として事をうやむやにすることはできません。しかし、マリアを愛する心には変わりありません。事を公にすることを好まず、「ひそかに離縁」するという結論に達したようでした。しかし、それでも思い悩み、あれこれと思いめぐらしていたヨセフに対して、夢の中に天使が現れます。天使の言葉は次のようなものでした。

 

ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。(マタイ一・二〇)

 

 「恐れずに」と言うのは、真相はヨセフが考えているようなことではないからでした。マリアが子を宿しているのは、通常の男女の関係から生まれたことではない、聖霊による特別な出来事なのだということでした。

ここに、イエス・キリストは単なる地上的なメシアを越えて、天から来られたメシアであり、神の御子が人となられたお方であることが示唆されています。

 

三、罪からの救い主

 

 天使が続いて語ったのは、次のようなことでした。

 

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ一・二一)

 

 天使は名前を「イエス」とするようにと告げました。「イエス」は、ユダヤ人にはよくある名前でしたが、「神は救い」を意味する名前でした。世界の救い主メシアにふさわしいお名前と言えるでしょう。

しかし、ここで天使は、イエス様によってもたらされる救いがどのようなものかを告げています。すなわち、「この方がご自分の民をその罪からお救いになる」と言いました。

これまで何度も見てきたように、神の民とされたイスラエル民族は、その歴史的経過の中で一つの大きな課題を抱えていることが明らかにされてきました。それは、彼らが神に背き、罪を犯してしまっていることでした。それによって彼らは神と共に歩む祝福から何度も遠ざけられました。しかし、この男の子は「ご自分の民をその罪からお救いになる」と言うのでした。

イスラエルの民の問題は彼らだけの問題ではありません。私たちもまた、自分勝手な罪の故に、神様と共に生きる幸いを見失っていたことでしょう。そのことを考えるとき、このお方の誕生が私たちのためでもあることを覚えることができます。

 

四、神が私たちとともにおられる

 

さて、このようなイエス・キリスト誕生の次第を紹介しながら、マタイはこの出来事が預言者イザヤによって言われたことの成就だと指摘します。

 

このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(マタイ一・二二、二三)

 

イザヤはひとりの男の子の誕生がインマヌエル、すなわち「神が私たちとともにおられる」という恵みをもたらすであろうと預言しました(イザヤ七・一四)。キリストの誕生はまさにそのためのものでした。

罪は私たちが神と共にあることを不可能にします。アダムとエバが造られたとき、彼らは楽園でこの恵みを味わっていましたが、罪を犯したとき、この恵みを失いました。しかし、イエス・キリストの誕生は、私たちを罪から救い、「神が私たちと共におられる」という恵みを私たちに回復させるための出来事でした。

一八世紀、ジョン・ウェスレーという英国の伝道者が年老いて臨終の時を迎えたとき、彼は力を振り絞って何度も同じことを語りました。「最もよいことは、神がわれらと共にいますことである」。この世にはよい事も沢山がありますが、最も幸いなことは神様が私たちと共にいてくださることです。イエス・キリストは私たちにこの恵みを豊かに与えてくださいます。

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ユダヤ黙示思想と新約聖書

2022-03-07 08:20:25 | 神学

近年、聖書学の世界で、ユダヤ黙示文学、黙示思想と新約聖書の関わりを考える動きがかなり大きな潮流となっているように思われます。私自身は、後に述べるような観点から、この研究分野に関心を持っていますが、多種多様な聖書外の資料を扱う分野でもあり、その取り組み方には慎重さも必要だとも感じています。まだ取り組み始めであって、入り口に立ったばかりのところですので、論考としてまとめる時期ではないと思いますが、自分自身の研究の指針として現時点の考えをまとめておくことも意義あることと思い、ここにまとめてみました。

1.きっかけ

関心を持ったきっかけは、山口希生著『「神の王国」を求めて 近代以降の研究史』に第14章「『神の王国』と黙示文学」として、大貫隆氏の研究内容が紹介されていたことでした(注1)。

「神の国」は、聖書神学において最重要と言ってもよいテーマであり、福音理解の検討のためにも中心的な課題となります。山口氏によれば「大貫は黙示文学と『神の王国』に共通する、以下の七つのイメージに着目します。」(注2)すなわち、「サタンの墜落」、「天上の祝宴と地上の祝宴」、「復活すると人は天使のような存在となる」、「霊魂の昇天とからだの復活」、「神の王国における位階」、「『人の子』の到来」、「手で造らない神殿」の七つのイメージです。これらのイメージは、ユダヤ黙示文学に特徴的に見られるものであるが、イエスの言動の中にもそれらのイメージがあると指摘する大貫氏の研究を紹介しながら、山口氏は「イエスの宣べ伝えた『神の王国』が、一般的に考えられている以上にユダヤ黙示思想と深い関わりがあること」を示唆しています(注3)。

大貫氏の研究内容は、にわかには頷くことができない部分もありますが、成程と頷かされる部分もあります。少なくとも、今後の福音書研究において、検討に値するものであると感じました。

2.ネットによる調査

そこで、ネットによりこの分野の研究について調べてみました。すると、日本の研究者の間でも相当幅広く研究され、論議がなされている様子でした。福音書以外に、パウロ研究も黙示思想との関連が研究されている様子が伺えます。

〇大貫隆関係

河野克也による論評「大貫隆『終末論の系譜』」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsnts/48/0/48_73/_pdf
青木保憲による論評「大貫隆著『終末論の系譜―初期ユダヤ教からグノーシスまで』
https://www.christiantoday.co.jp/articles/26674/20190322/theological-books-44.htm
大貫隆「フィロンと終末論」抄録
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jiyu/5/1/5_1/_article/-char/ja/
大貫隆「ユダヤ主義キリスト教の終末論―原始エルサレム教会から後二世紀まで-」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jiyu/6/1/6_24/_pdf/-char/ja

〇その他

原口尚彰「新約聖書と黙示文学・黙示思想」
https://tohoku-gakuin.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=24434&item_no=1&page_id=34&block_id=86
渡邊宏紀「十字架・割礼問題・新しい創造(ガラ6:14-15)―パウロの黙示思想のメカニズム」
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=19804&item_no=1&page_id=13&block_id=49
阿部包「終わりの世を生きる:パウロと黙示的終末論」
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/48019

〇英文
DAVID E. AUNE, 'Understanding Jewish and Christian Apocalyptic'
https://wordandworld.luthersem.edu/content/pdfs/25-3_Apocalypse/25-3_Aune.pdf

3.ユダヤ黙示思想とは

「ユダヤ黙示思想」を最も簡潔に定義しようとすれば、「ユダヤ黙示文学によって表現された思想」ということになるだろうと思います。そうすると、「黙示文学とは何か」ということが問題となります。ここからが少々ややこしい話になります。

N.T.ライトは、黙示文学が「ユダヤ教に留まらず、キリスト教を含む他の地中海・中近東の宗教にも見られる」と指摘しながら、コリンズの以下のような定義を紹介しています。「物語的枠組みを持つ啓示文学の1類型で、啓示は天界の存在の媒介によって人間へと渡される。明かされるのは超現実的現実であり、それが終末的救済に関するものである場合には時間的なものであり、超自然的な別世界に係わるものである場合には空間的なものである。」(注4)

「十全な定義」は、抜けや偏りといった落度がない代わりにしばしば抽象的で、初心者にはイメージがつかみにくいものとなります。もう少し具体例を含めた「黙示文学」及び「黙示思想」についての分かりやすい説明としては、(その分少し長くなりますが、)以下のようなものがあります。

「黙示文学(Apocalypse)とは一つの特異な文学形式であり、旧約後期文書の一部(ゼカリヤ書、ダニエル書他)、中間時代のユダヤ教文書の一部(エチオピア語のエノク書、シリア語のバルク黙示録、第4エズラ書、レビの遺訓、モーセの遺訓他)に展開されている。黙示文学は世の終わりに起こる不思議な出来事についての特別な黙示(啓示)を受けた著者が、それを物語の形で書き記すというスタイルを採る。世の終わりという究極的未来におこる出来事は誰も見たことがないことなので、黙示文学は宗教的想像力を巡らして、天上の世界や終末時に地上で起きる出来事を視覚的に描くこととなる。黙示文学の文学形式は新約文書の一部にも継承されている。文書全体が黙示文学の形式で書かれている新約文書は黙示録だけであるが、文書の一部に黙示的要素を含んだ例は、福音書文学(マルコ13章;マタイ24章;ルカ21章)にも、書簡文学(Ⅰコリ15:20-58;Ⅱコリ12:1-5;Ⅰテサ4:13-5:11;Ⅱテサ1:3-12;2:1-11;Ⅱペト3:8-13他)にも広く見られる。

黙示思想(Apocalypticism)は黙示文学に属する諸文書に典型的に見られる思想であり、現在の世界が終わり、全く新しい世界が到来することを最も中心的な内容とする(二元論)。古い世界と新しい世界の間には質的相違があり、現在の世界は悪と死の力に支配されて希望がないのに対して、新しい世界は正義といのちが支配する理想の世界であり、すくいの希望の対象である。世の終わりをもたらすのはメシアであり、その時には死者が復活し、審判を受け、生前に悪を行った者は滅びへ、善を行った者は永遠の祝福へと定められる。こうした黙示思想は新約文書の随所に見られ、初期キリスト教の基本思想の一つとなっている。」(注5)

大変分かりやすい説明になっており、私自身は(現時点では)穏当な説明でもあるのだろうと受け止めていますが、疑義を挟む余地はありそうです。たとえば、黙示文学がユダヤ教、キリスト教以外の諸宗教にも見出されるものであることへの言及がありません。また、「黙示思想」の説明は、黙示文学をほぼ文字通りに受け止めた場合の説明となっています。おそらくこの点について、ライトは賛成しないだろうと思います。

たとえば、ユダヤ黙示文学をどう理解すべきかについてのライトの以下のような記述を見ると、そのように予想できます。「1世紀のユダヤ人の世界観、特に原始キリスト教徒の世界観を理解するために、これから述べることは極めて重要である。来るべき新しい世について描写するために彼らがいわゆる宇宙的なイメージを用いる時、そうした言語を愚かにも文字通りに解釈してしまえば、それは台無しになってしまう。将来もたらされる回復は鮮やかで非常に比喩的な色彩を帯びたイメージで語られる。」(注6)

ですから、おそらく「ユダヤ黙示文学」については研究者の間である程度の共通理解があると思われますが、「ユダヤ黙示思想」については、ある程度理解に幅があると考えたほうがよさそうです。すなわち、「ユダヤ黙示思想=ユダヤ黙示文学によって表現された思想」という共通理解はあっても、その思想内容について、黙示文学の内容をある程度文字通り受け取って理解するかそうでないかの幅があるということのようです。

4.現代の動向

ところが、現代の聖書学の取り組みの中では、大貫氏の研究のように、ユダヤ黙示思想については黙示文学の内容をある程度文字通りに受け取って理解した上で、イエスの福音宣教やパウロの福音理解の中にその影響、あるいは共通点を見出そうとする方向性がかなり強い流れとして存在しているように思われます。

もちろん、ユダヤ黙示文学が表現する思想内容については、個々の研究者の間で議論が続いている様子もうかがわれますが、同時にある程度の共通理解も生まれつつあるようです。そして、ユダヤ黙示思想として理解されるいくつかのポイントが、イエスの宣教内容の中に、あるいはパウロ他の使徒たちの思想内容の中に影響を与えていると見る研究が次々に発表されている様子です。

5.聖書正典の啓示性を重視する立場から

さて、ユダヤ黙示思想の研究自体は、当然のことながら、ユダヤ教徒の学者を含む幅広い学者たちによって担われています。それに比べると、ユダヤ黙示思想と新約聖書との関わりを研究する者たちの中では、キリスト教の立場からの研究者が相当多くなると思われますが、それでもかなり幅広い立場からの研究がなされているようです。その中で、私自身は聖書正典の啓示の優先性を重んじる立場から、この問題を考えていくことができればと思っています。

(1)福音宣教の対象としてのユダヤ人思想への接近のために

まず、聖書正典の啓示性を重視するということは、正典外資料を調べることに何の意味があるのかという問いに直面することにもなります。私としては、以下のような点で、この領域での学びを進めることに意義を見出しています。

当初、主イエスや使徒たちが福音を語った対象は、概ねユダヤ人たちでした。「神の国」「永遠のいのち」「復活」などと語られたとき、彼らがそれらの言葉をどのように受け止めたであろうかということは、主イエスや使徒たちの語った福音の中身を考える上で大切な考慮点となります。まずは聖書自体にその点についての手がかりがあればよいのですが、実際にはその点での手がかりとなるものは、ごく限られたものとなっています。従って、当時のユダヤ人たちが上記のような言葉をどう理解したかを考える上で、聖書外資料の調査が助けになります。

聖書外資料には、ユダヤ黙示文学に分類されるものばかりではなく、ヨセフスの歴史書や死海文書など、多様な関連文書を考えることができます。それらのものに基づいて当時のユダヤ人思想を検討する場合、いわゆる黙示思想と呼ばれるものばかりが浮かび上がるわけではないでしょう。おそらくは、より一般的な思想として、ユダヤ人国家の民族的独立、解放を与える政治的メシアへの期待を見出すこともできることでしょう。しかし、少なくとも部分的にはいわゆる黙示思想と呼ばれうるようなものを共有する人々の存在もまた、示唆されてくるだろうと思います。多種多様な思想が当時のユダヤ人たちの間でどのような広がりを持っていたのか、これらの聖書外資料を通して少しずつでも接近することができるのではないかと思います。

もちろん、聖書外資料をどう解釈し、理解していくか、その中から当時のユダヤ人たちの思想をどういうものだと考えていくか、研究者の間で意見の相違、多様性が見られることは当然予想されます。しかし、聖書正典の啓示性を重視する立場からすれば、それらのユダヤ人像と聖書が示しているユダヤ人たちの言動とを照らし合わせて見ることが重要となります。もしそこで「合致しているのではないか」ということになれば、聖書正典を重視する立場からは、一つの有力な見方として受け止めることが可能となります。

たとえば、聖書外資料から、当時のユダヤ人の思想の中に、ユダヤ人の民族的独立、政治的解放への希望があったとする見方が浮かび上がってきたとします。(注7)このような見方を新約聖書に照らして考えてみると、確かに符合する部分があります。彼らの多くはメシアを「ダビデの子」と呼びます(マタイ20:31、21:9等)。その場合、多くはメシアを地上的メシアと考えていたであろうことは、主イエスがその点について疑問を投げかけておられることからも推測されます(マタイ22:41-45)。

他方、聖書外資料から、当時のユダヤ人思想の間に、いわゆる黙示思想と呼ばれるようなものがあったとする見方が浮かび上がってきたとします。このような見方を新約聖書に照らして考えてみると、これもまた確かに符合する部分が見出されます。「サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ人はいずれも認めているからである。」との証言(使徒23:8)は、サドカイ人が黙示的思想を拒絶し、パリサイ人はこれを受け入れていたことを示唆しているように思われます。

おそらくは、ユダヤ人思想の中に上記二つの流れは、混在していたのでしょう。あるいは両者が融合したような理解もあったかもしれません。もちろん、他の流れも様々あるであろう中で、主イエスの宣教内容や使徒たちの言葉の吟味をより厳密に考えていくことができます。(注8)

(2)ユダヤ黙示思想と新約聖書の共通性について

他方、現在のユダヤ黙示思想の研究動向は、ユダヤ黙示思想とイエスやパウロ他使徒たちの思想との共通点に焦点を当てようとしているようです。これについては、聖書正典を重視する立場からは慎重さが求められるだろうと思います。

共通点があるということになった場合、一般の研究者においては、「ユダヤ黙示思想がイエスや使徒の思想に影響を与えた」という結論に結びつきやすいだろうと思います。しかし、異なる見方も可能です。

たとえば、当然のことながら旧約聖書正典による啓示がユダヤ黙示思想に影響を与えた可能性を十分考慮する必要があります。旧約聖書正典の中で、全体として黙示文学に分類されるのはダニエル書くらいだと思いますが、ゼカリヤ書など、部分的に黙示的な要素を含む書もあります。それらの個所がその後の黙示文学・思想の展開に影響を与えた点を見逃すことはできないと思います。(注9)この場合、旧約聖書の中にあった黙示的要素を後の黙示文学諸書は大きく膨らまていったけれども、逆に新約聖書においては黙示的要素を抑制的に提示しているという見方も可能になってきます。(注10)

しかし、ユダヤ教黙示文学と新約聖書の中に見出される共通思想の中で、旧約聖書の中に起源を見出すのが困難なものがあったらどうでしょうか。たとえば、大貫氏がユダヤ黙示思想とイエスの宣教との間に共通するイメージとして指摘するポイントの内、終末における肉体の復活及び人の子の到来については、ダニエル書の中に、手で造らない神殿についてはエゼキエル書の中に起源を求めることが可能でしょう。しかし、サタンの天上からの放逐、天上の祝宴、霊魂の昇天、神の王国における位階についてはどうでしょうか。(注11)旧新約聖書の正典性を重視しつつ、その共通性をどう理解すべきか、色々な見方が可能と思います。しかし、私自身はまだどのような方向で考えていくべきか、測り兼ねています。関連する文献資料を正確に読み解きながら考えを深めていく中で、見えてくるものもあるのではないかと考えています。

6.結語

この分野に対する私自身の取り組みは始まったばかりです。今後の取り組みがどのようなものとなるのか、現時点では不透明極まりありません。この小文をまとめただけで満足してしまって、今後ほとんど取り組みが進まないかもしれません。しかし、まとめた以上は、少なくとも今後関心をもってこの分野の研究動向を見守っていきたいと思います。

このまとめを作成するに当たっては、あるfacebookグループでの情報提供、意見交換が大変参考になりました。今後も、この分野についての関連情報を提供いただける方がありましたら感謝です。


注1 山口希生著『「神の王国」を求めて 近代以降の研究史』(ヨベル、2020年)159-174頁

注2 前掲書159頁

注3 前掲書174頁

注4 N.T.ライト著『新約聖書と神の民 上巻』(新教出版社、2015年)498頁、John J. Collins "Apocalyptic Imagination" Crossroad,1987からの引用

注5 原口尚彰「新約聖書と黙示文学・黙示思想」『東北学院大学キリスト教文化研究所紀要 25号』(2007年)61-62頁
https://tohoku-gakuin.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=24434&item_no=1&page_id=34&block_id=86

注6 N.T.ライト前掲書、504頁

注7 たとえば、N.T.ライトは、当時、実際にローマに対する反乱の動きがあったし、パリサイ派の中でも、儀式的清さへの関心と共に、政治や革命運動への関心があったと言います。その上で、多様なユダヤ人たちの間での共通のストーリーとして、イスラエルの民族的回復への希望を指摘します。前掲書301-393頁

注8 当時のユダヤ人の思想状況についての文献として、あるfacebookグループで以下のような書籍を紹介いただきました。まだ私自身は確認できていませんが、その機会が与えられたらと願っています。
J・ジュリアス・スコット著『中間時代のユダや世界―新約聖書の背景を探る』(いのちのことば社発行、2007年)
E.P.Sanders "The Historical Figure of Jesus" Penguin Books; Reprint版,1996
George Foot Moore "Judaism in the First Centuries of the Christian Era" Vol1-3, Harvard University Press,2014

注9 AUNEは、ユダヤ黙示思想の起源について議論があるものの、「多くは預言と黙示の間の連続性に向けて議論してきた」と指摘します。
DAVID E. AUNE, 'Understanding Jewish and Christian Apocalyptic' p238
https://wordandworld.luthersem.edu/content/pdfs/25-3_Apocalypse/25-3_Aune.pdf

注10 原口氏は新約聖書の黙示的個所の分析を行った上で、新約聖書の黙示文学・黙示思想の特色としていくつかのポイントを挙げる中で、以下のような指摘をしています。
「キリスト教黙示文学は,ユダヤ教黙示文学を継承し, キリスト教化したものである。」
原口尚彰「新約聖書と黙示文学・黙示思想」74頁
「新約聖書の黙示的言説は,黙示録を別にすれば,ユダヤ教黙示文学と比べると天上の出来事や,世の終わりの出来事について視覚的に語ることや,終末の時が何時来るのかと詮索することについては抑制的である。これは,世の終わりという究極的未来を見た者はない以上,終末の様について想像力を行使して思いめぐらすことが思弁に陥る危険があったためであろう。新約聖書の言説は総体として思弁的と言うよりは勧告的であり,熱狂的にならず,醒めており,終末が何時来ても良いように備えていることを強調している(マコ13: 28-37i lテサ5: 1-11)。」
原口尚彰「新約聖書と黙示文学・黙示思想」75頁
https://tohoku-gakuin.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=24434&item_no=1&page_id=34&block_id=86

注11 山口希生著前掲書 159-174頁

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「聖書が告げるよい知らせ」第8回 新しい契約

2022-03-04 11:19:01 | 聖書が告げるよい知らせ

「聖書が告げるよい知らせ」

第八回 新しい契約

エレミヤ三一・三一‐三四

 

 紀元前六世紀のはじめ、大国バビロンの攻撃を受けたエルサレムは滅び、多くの人々がバビロンに連れていかれます。その前後、南ユダ王国が滅びゆく様を見ながら、涙をもって預言した人物がエレミヤでした。

エレミヤは、このようなことが起こったのは彼らの罪の故だと指摘しました。そして、離散した民が再びもとの土地に戻るまでには、長い年月を経なければならないと率直に預言します。同時に、エレミヤは将来神様が彼らのために備えておられる回復の道についても語り始めます。その中で、エレミヤが語ったのが「新しい契約」についてでした。

 

見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。(エレミヤ三一・三一)

 

「新しい契約」…それはどのようなものなのでしょうか。

 

一、破られた契約

 

わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。(エレミヤ三一・三二)

 

 「彼らはわたしの契約を破った」…「新しい契約」が必要とされたのは、かつて神様が彼らとの間に結ばれた契約を彼らが破ってしまったからでした。

エジプト脱出後、シナイ山で神様はイスラエルの民と契約を結ばれました。彼らにはアブラハムの子孫として約束の地が与えられます。しかし、そこでの生活が神の祝福に満ちたものとなるためには、神様が与えた律法に従わなければならない、神を愛し、人を愛し、人として生きるべき正しい道に歩まなければならないという契約でした。

しかし、はっきりと神様の御心を示され、彼らもそれを守ると約束したにもかかわらず、彼らは神様との約束を破りました。しかも、そのようなことが何度も繰り返されました。その結果、彼らは遂に都を滅ぼされ、異国の地に離散することになります。この悲しい出来事を目にしながら、エレミヤは、かつての契約とは別の「新しい契約」について語り出します。

 

二、内的変革

 

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。(略)これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ三一・三二、三三)

 

 古い契約の問題は、正しい道が分かってもそれを行う力が与えられないことでした。律法をいただいた彼らは、それによって神の御心を知ることができました。しかし、律法は彼らの外側にありました。「そう生きることがよい」と知ることはできましたが、彼らの心の中には神の御心に背き、違った道を行こうとする力が働きました。その結果、彼らは神様との契約を守ることができませんでした。

 神様が与えようとしておられる新しい契約は、それとは違っていました。それは彼らの内側を変えるものでした。「律法を彼らのただ中に置き、彼らの心に書き記す」とは、彼らの内側が変えられて、「神様の御心を行いたい」と願い、そのように生きていこうとする力が与えられることを意味します。それによって、まるで律法が内に置かれたようになる、そして、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。神の民としての生き方を実現していくことができると言います。

 新約聖書を読むと、神様は確かにそのような道を備えてくださったと知ることができます。(へブル九・一四、一五、一〇・一四‐一七、ローマ八・四)

 

三、罪の赦し

 

わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。(エレミヤ三一・三四)

 

 「新しい契約」は、人の心を変革するものでした。しかし、実際に犯してしまった罪はどうなるのでしょうか。「不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさない」…「新しい契約」においては、過去の不義をも赦していただくことができます。神様はその罪をもはや思い起こさないと言われます。これもまた、キリストを信じる者に約束された神様の恵みです(マタイ九・二、コロサイ一・一四)。

 

四、これらの日の後に

 

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。(エレミヤ三一・三三)

 

 エレミヤは「新しい契約」が与えられる時期について、「これらの日の後に」と言いました。

六百年以上の月日が経ちました。キリストが十字架につけられ、死のうとする前日のことでした。弟子たちとの最後の晩餐の席上、ぶどう酒の入った杯を手に、主イエスはこう言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ二二・二〇)十字架上で流されるキリストの血によって、新しい契約が立てられようとしていることが告げられました。

 正しい道に気づいていながら、違う道に進んでしまう。悪いことと思いながら、そこから離れることができない。そうであれば、イスラエルの民が抱えていた問題は、私たちの問題でもあります。そして、私たちもまた、イエス・キリストによる「新しい契約」の恵みを必要としているのではないでしょうか。

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