「聖書が告げるよい知らせ」
第十回 神の国の福音
マルコ一・一四、一五
「聖書が告げるよい知らせ」というテーマで学んできました。このテーマを考える上で、マルコによる福音書の冒頭には、注目すべき言葉が記されています。「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とあります(マルコ一・一)。この福音書に記されるのは、イエス・キリストの生涯ですが、キリストの生涯自体が私たちにとっての「福音」、よい知らせだということでしょう。福音の中心におられるのは、イエス・キリストだからです。
さらに、今日の箇所を見ますと、次のように記されます。
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。(マルコ一・一四)
ここに、イエス様ご自身が福音を語られたことが記されています。その内容は、続く一節に簡潔明瞭に記されています。それは、どんな内容だったのでしょうか。
一、時が満ちた
時が満ち、神の国が近づいた。(マルコ一・一五)
イエス様が語られた福音の中心にあったのは、「時が満ち、神の国が近づいた」という宣言でした。
「時」とは、「約束の時」です。満を持して、その時が来たということです。何の約束でしょうか。メシアによる神の国到来の約束です。これまでにも見てきましたように、旧約聖書にはメシア到来の約束が様々な形で記されています。ここでもう一度旧約聖書全体の流れを振り返ってみましょう。
人間は神のかたちに造られ、神と共に生き、互いに愛し合いながら神の祝福の中で生きるはずでした。ところが、人は自らの罪のために神の祝福から遠ざけられる者となりました。そのような人間が神の祝福へと回復されるために、神様はアブラハムとその子孫イスラエルをお選びになりました。
ところが、そのイスラエルもまた神に背き、やがては自ら滅びへと進んでいきます。神様は彼らの度重なる罪のゆえに、預言者たちを通してその裁きが避けられないことを告げられます。しかし、同時に、なお回復の道を備えておられることをも示されます。それは、メシアによる回復であり、その統治は正義と平和に満ち、永遠に続くものであることが告げられました(イザヤ九・七)。
メシアによる神の国の到来…それは神様が長い歴史を通して様々な形で予告し、約束してこられたものでした。イエス・キリストは、時が満ち、約束されたその時が遂に来たことを告げられました。
二、神の国が近づいた
しかし、「神の国は近づいた」とはどういうことでしょうか。簡単には説明することのできないほど、深く、大きな意味を持っています。
まず、「神の国」とは何でしょうか。一言でいえば、「神のご支配」、「神の統治」と言い換えることができるでしょう。しかし、それは具体的にはどのような形で現れるのでしょうか。
当時、多くのユダヤ人はメシアによる神の国到来を待ち望んでいました。その多くは、どちらかと言えば政治的な国の復興をもたらす地上的なメシアをイメージするものでした。しかし、旧約聖書に約束されたメシアは、天的なお方であり(イザヤ九・六)、その統治は一時的、政治的なものを越えて、永遠的なものでした(イザヤ九・七)。それはまた、一民族にとどまらず、すべての民族を含むものとなるであろうことも告げられていました(ダニエル七・一四)。
そのような「神の国」が近づいたと言います。それはすなわち、メシアの到来により、すべての者が神の国の祝福の中に生きることができる、その時が来ているということです。
たとえば、イエス様は神の国をからし種にたとえられました(マルコ四・三〇‐三二参照)。からし種は、ごま粒よりも小さいものです。しかし、からし種が植えられ、芽が出て、段々大きくなると、大きな木のようになり、鳥も宿るほどになります。そのように、神の国は目に見えない領域、すなわち人々の心の中に始まり、徐々に大きくなって、やがて地を覆うようになることを教えられました。
キリストの教えと、続く使徒たちの教えを通して明らかになっていくことですが、最終的な神の国の完成までには今しばらくの待ち望みが必要です。神の国は、キリストの十字架の死、復活、昇天の後、このお方のご再臨によって完成されます。その時には神の国の祝福が全世界を覆います。「死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」新しい世界が現われます(黙示録二一・四)。
その時まで、地上にはなお、死があり、悲しみ、叫び声、苦しみがあるでしょう。しかし、その中にあっても、ある人々の心には神の国の祝福が宿ります。彼らの中に、恵みに満ちた神のご支配が現われます。そのような時がもたらされようとしている…イエス様はそのように宣言されました。
三、悔い改めて福音を信じなさい
悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ一・一五)
「時が満ち、神の国が近づいた」と言われたイエス・キリストは、結論として言われました、「悔い改めて福音を信じなさい」と。約束のメシア、イエス様が現れ、神の国に至る道が備えられたとすれば、その道に進むためにどうしたらよいのでしょうか。イエス様は二つのことを言われました。
第一は、悔い改めです。これは、心の転換を意味する言葉です。これまで神様に背を向け、自分勝手に生きてきたとすれば、向きを変え、神様のほうに顔を向け直し、神様に向かって歩み始めることです。具体的には、自分の罪を率直に認め、一つひとつ、神様の御前に言い表すことも含まれるでしょう(第一ヨハネ一・九)。そのようにして、過去の罪一切を赦して頂き、神様の顔を仰ぎつつ歩み始めることです。
第二は、信仰です。すなわち福音を信じることです。「神の国が近づいた」と言われる、神様からのよい知らせ、イエス・キリストを通してもたらされたこのよい知らせを、そのままそっくり「信じます」と受け取ることです。
それは、単に知的な信仰に留まりません。良い知らせの中心におられるのはイエス・キリストです。福音を信じるということは、今も生きて、私たちを神の国に導き入れてくださるこのお方に、全幅の信頼を置き、自分自身をお任せすることを意味します。
戦前、英国から日本に来られた宣教師、パジェット・ウィルクスという方は、人が福音を信じることを妨げる四つのものがあると言われました。第一は、偏見です。「キリスト教?外国の宗教でしょう?」といったものです。第二は、肉欲です。いろいろな欲が信仰に進むことを妨げます。第三に、高慢です。神様なしに自分の力で生きていけると考えます。第四に、恐れです。周囲の人がどう言うだろうかと、人の目を気にして決断できない場合があります。(パジェット・ウィルクス著『救霊の動力』関西聖書神学校発行、一〇〇‐一二一頁参照)
神様は聖書を通して、福音を告げておられます。このよい知らせを信じるようにと招いてくださいます。もし、私たちの心に、「信じたい」という願いがあるなら、信じることができるように、その力をも与えてくださいます。様々な妨げを感じるとしても、それらの妨げを取り除き、乗り越えさせてくださいます。
「悔い改めて、福音を信じなさい。」神様の招き、イエス・キリストの招きに、悔い改めと信仰をもってお応えになりませんか。