「聖書が告げるよい知らせ」
第八回 新しい契約
エレミヤ三一・三一‐三四
紀元前六世紀のはじめ、大国バビロンの攻撃を受けたエルサレムは滅び、多くの人々がバビロンに連れていかれます。その前後、南ユダ王国が滅びゆく様を見ながら、涙をもって預言した人物がエレミヤでした。
エレミヤは、このようなことが起こったのは彼らの罪の故だと指摘しました。そして、離散した民が再びもとの土地に戻るまでには、長い年月を経なければならないと率直に預言します。同時に、エレミヤは将来神様が彼らのために備えておられる回復の道についても語り始めます。その中で、エレミヤが語ったのが「新しい契約」についてでした。
見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。(エレミヤ三一・三一)
「新しい契約」…それはどのようなものなのでしょうか。
一、破られた契約
わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。(エレミヤ三一・三二)
「彼らはわたしの契約を破った」…「新しい契約」が必要とされたのは、かつて神様が彼らとの間に結ばれた契約を彼らが破ってしまったからでした。
エジプト脱出後、シナイ山で神様はイスラエルの民と契約を結ばれました。彼らにはアブラハムの子孫として約束の地が与えられます。しかし、そこでの生活が神の祝福に満ちたものとなるためには、神様が与えた律法に従わなければならない、神を愛し、人を愛し、人として生きるべき正しい道に歩まなければならないという契約でした。
しかし、はっきりと神様の御心を示され、彼らもそれを守ると約束したにもかかわらず、彼らは神様との約束を破りました。しかも、そのようなことが何度も繰り返されました。その結果、彼らは遂に都を滅ぼされ、異国の地に離散することになります。この悲しい出来事を目にしながら、エレミヤは、かつての契約とは別の「新しい契約」について語り出します。
二、内的変革
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。(略)これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ三一・三二、三三)
古い契約の問題は、正しい道が分かってもそれを行う力が与えられないことでした。律法をいただいた彼らは、それによって神の御心を知ることができました。しかし、律法は彼らの外側にありました。「そう生きることがよい」と知ることはできましたが、彼らの心の中には神の御心に背き、違った道を行こうとする力が働きました。その結果、彼らは神様との契約を守ることができませんでした。
神様が与えようとしておられる新しい契約は、それとは違っていました。それは彼らの内側を変えるものでした。「律法を彼らのただ中に置き、彼らの心に書き記す」とは、彼らの内側が変えられて、「神様の御心を行いたい」と願い、そのように生きていこうとする力が与えられることを意味します。それによって、まるで律法が内に置かれたようになる、そして、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。神の民としての生き方を実現していくことができると言います。
新約聖書を読むと、神様は確かにそのような道を備えてくださったと知ることができます。(へブル九・一四、一五、一〇・一四‐一七、ローマ八・四)
三、罪の赦し
わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。(エレミヤ三一・三四)
「新しい契約」は、人の心を変革するものでした。しかし、実際に犯してしまった罪はどうなるのでしょうか。「不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさない」…「新しい契約」においては、過去の不義をも赦していただくことができます。神様はその罪をもはや思い起こさないと言われます。これもまた、キリストを信じる者に約束された神様の恵みです(マタイ九・二、コロサイ一・一四)。
四、これらの日の後に
これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。(エレミヤ三一・三三)
エレミヤは「新しい契約」が与えられる時期について、「これらの日の後に」と言いました。
六百年以上の月日が経ちました。キリストが十字架につけられ、死のうとする前日のことでした。弟子たちとの最後の晩餐の席上、ぶどう酒の入った杯を手に、主イエスはこう言われました。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ二二・二〇)十字架上で流されるキリストの血によって、新しい契約が立てられようとしていることが告げられました。
正しい道に気づいていながら、違う道に進んでしまう。悪いことと思いながら、そこから離れることができない。そうであれば、イスラエルの民が抱えていた問題は、私たちの問題でもあります。そして、私たちもまた、イエス・キリストによる「新しい契約」の恵みを必要としているのではないでしょうか。