長田家の明石便り

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「聖書が告げるよい知らせ」第五回 いのちを選びなさい

2022-02-04 17:22:17 | 聖書が告げるよい知らせ

聖書が告げるよい知らせ

第五回 いのちを選びなさい

申命記三〇・一五‐二〇

 

 前回は、悪を行なった人間に対する祝福回復のご計画のために、キーパーソン、鍵となる人物として、神様はアブラハムを選ばれたことを見ました。アブラハムの子孫を大きな国民とするという約束は、息子イサク、孫のヤコブにも更新されました。ヤコブは後にイスラエルと呼ばれます。その子孫が増え広がったとき、「イスラエル」はその民族の呼び名ともなりました。

彼らは神の不思議なご計画の中、エジプトの地で増え広がります。やがて彼らは、モーセを指導者としてエジプトを旅立ち、神様が備えられた約束の地へと向かいます。こうして、「神の民」と呼ばれるイスラエル民族がかたちづくられていきます。

この民に対して、神様はモーセを通して律法と呼ばれる数々の戒めを与えられます。律法は、エジプト脱出直後、シナイ山で与えられ、ひと世代後、約束の地に入る直前、モアブの地で再度確認されます。今日の聖書の個所は、その最後の部分です。

 神様は数々の戒めによって彼らに何を教えようとされたのでしょうか。また、それは私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。

 

一、律法の内容

 

 律法の内容は、シナイ山で与えられたものについては出エジプト記、レビ記、民数記に、モアブの地で再び与えられたものについては申命記に記されています。その内容は、神様を礼拝する幕屋の作り方から、伝染性皮膚病に対する処置対応に至るまで多岐にわたっています。しかし、その本質的な部分は、十戒として知られる十の戒めの中に分かりやすく表されています。

 前半、第一戒~第四戒は、神様に関する戒めです。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。(略)主の名をみだりに口にしてはならない。(略)安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。(略)」(出エジプト二〇・三‐一一。申命記五・八‐一六も参照。)

 万物の創造者なる神様は唯一のまことの神様ですから、それ以外のものを神としてはならないこと、神様は目に見えない霊なるお方ですから、刻んだ像に造ってはならないし、それらを拝んではならないこと、神様は尊いお方ですから、冗談半分に神様のことを語ってはならないこと、週に一度は仕事も休んで神様を礼拝する日として聖別すること…これらは、まことの神様を敬い、大切に考え、このお方を心から愛することを教えるものです。

 申命記の初めの方では、十戒が再び教えられると共に、有名な次の言葉が記されています。

 

聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記六・四、五)

 

 これは、十戒の前半を要約したような教えであると言えるでしょう。今日の個所でも、「もしあなたが、私が今日あなたに命じる命令に聞き、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令と掟と定めを守るなら」(申命記三〇・一六)と語られます。神様の戒めに従うということと、神様を愛することとは一体であると教えられます。

 十戒の前半が神様に関する教えであるのに対して、十戒の後半、第五戒~第十戒は、人に関する戒めです。「あなたの父と母を敬え。(略)殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。あなたの隣人の家を欲してはならない。(略)」(出エジプト二〇・一二‐一七。申命記五・一六‐二一も参照。)

 神様が与えてくださった父母を大切にすること、人の命を大切にすること、配偶者、すなわち生涯の伴侶を大切にし、裏切らないこと、人の所有物を大切にし、盗まないこと、横取りしようと欲しさえしてはならないこと、人を偽りによって傷つけてはならないことが教えられています。これは、一言で言えば、周囲の人々を愛し、大切にするべきことを教えていると言えるでしょう。別のところに記された次のような教えは、これらの戒めを要約するものと言えます。

 

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(レビ一九・一八)

 

 神様を愛すること、人を愛すること…これらは、「神のかたち」に造られた人間にとって、造られた本来の生き方をすることだと言えるでしょう。律法を与えられたイスラエル民族だけでなく、私たちもまた、これらの戒めを通して人としての生き方の根幹を知ることができます。

 

二、いのちを選びなさい

 

 さて、神様からの戒めをイスラエルの民に教えてきたモーセは、最後に彼らに決断を迫ります。

 

見よ、私は確かに今日あなたの前に、いのちと幸い、死とわざわいを置く。(略)私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申命記三〇・一五、一九)

 

 ここには二つの道が示されています。神様を愛し、その戒めを行う道か、神様とその戒めに背く道か、いずれかを選ぶように迫ります。神を愛してその戒めに従えば、いのちと幸い、祝福が与えられます。神様とその戒めに背を向けるなら、死とわざわい、のろいがもたらされます。

イスラエルの民はここで示された二つの道のうち、いずれの道を選んだでしょうか。いのちの道を選んだかに見えた時期もありました。しかし、明確に死の道を選んだ時期も多くありました。その度に、彼らは神様の祝福から遠ざけられ、地をのろいが覆うようになりました。やがて、彼らは約束の地とされていたはずの場所からも追いやられて、遠く離れた場所に住むことにさえなります。

 しかし、実はそのことは、律法が与えられた時点で既に予告されていたことでもありました。今日の個所のすぐ後にはこのように記されています。「主はモーセに言われた。『見よ、あなたは間もなく先祖とともに眠りにつこうとしている。この民は入って行こうとしている地の異国の神々を慕い、自分たちのうちで淫行を行い、わたしを捨てて、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破る。(略)多くのわざわいと苦難が降りかかるとき、…』」(申命記三一・一六、二一)しかし、更に驚くべきことは、律法が与えられたその時点で、そのようなわざわいに陥った場合の回復の道も示されていることです(申命記三〇・一‐一〇)。

 これらのことは、イスラエルの歴史が進むにしたがって、少しずつ明らかにされていくことです。しかし、ここで分かることは、人間がいかに愚かで、間違った選択をしやすい存在であるかということ。もう一つは、にもかかわらず、神様が彼らを見捨てず、回復に導こうと心を砕かれるお方であることです。このような神様の憐れみのみわざの究極として、アブラハムの子孫の中からイエス・キリストが現れます。

 神の願いは、私たちがいのちの道、幸いと祝福の道を選ぶことです。私たちは罪深く、愚かで、間違った道を選びやすい者です。しかし、そのような私たちであっても、イエス・キリストを通していのちの道に進むことができます。「あなたはいのちを選びなさい!」神様の招きに信仰をもってお応えしましょう。

 

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