聖書が告げるよい知らせ
第七回 苦難のしもべ
イザヤ五二・一三‐五三・五
見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。
(イザヤ五二・一三)
イザヤはここで神様から「わたしのしもべ」と呼ばれるお方について語っています。ここで語られる神のしもべもまた、不思議な存在です。王であるようでありながら、同時にしもべとして苦しみを受けるお方でもあると言います。ここに、神様が備えられたメシアのもう一つの面を見ることができます。
一、わたしのしもべ
「わたしのしもべ」という表現は、イザヤ書の後半(四〇章以降)に何度も現れます。それぞれの個所を見てみると、この表現をどう理解するか、随分難しい問題だと分かります。たとえば、ある個所では、明らかにイスラエルの民を指しています(イザヤ四一・八)。しかし、他の個所では、預言者イザヤのことをさしているように思われます(イザヤ四九・一‐六)。また、イスラエルの民のようでありながら人間をさしているようにも見える個所もあります(イザヤ四二・一‐四)。おそらくは、イスラエルの民、その民に対する重荷を担う預言者イザヤと重なり合うようにしながら、やがて現れるひとりのメシアを指し示そうとしているのでしょう。たとえば、この神のしもべは、「民の契約として、国々の光」とされるお方です(イザヤ四二・六)。ユダヤ人を越えて、世界中の民がこの方を通して光を受け、救いを受けます(イザヤ四九・六も参照)。このお方こそ、世界のメシアです。
しかし、このメシアは、どのようにしてそのような働きを成し遂げようとするのでしょうか。
二、苦難のしもべ
神のしもべの姿は、大変不思議なものでした。「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、きわめて高くなる」と言われますが(イザヤ五二・一三)、その直後にはこう言われます。「多くの者があなたを見て驚き恐れたように、その顔だちは損なわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。」(イザヤ五二・一四)。また、「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。」(イザヤ五三・二)という表現は、「エッサイ(ダビデ王の父)の根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」(イザヤ一一・一)という預言に似ており、ダビデの子孫として生まれる王なるメシアを示しているように見えます。ところが、直後にイザヤが語るのは、次のような言葉でした。
彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ五三・二、三)
王なるメシアに期待されるような外見の輝きや見栄えがないと言います。人々に歓迎されるのでなく、蔑まれ、のけ者にされると言います。喜びや力に包まれるよりも、悲しみの人で病を知っていると言います。ここには確かに人々を驚かせるものがあります。もしこのお方が本当に世界を救う王なるメシアであるなら、この苦難に包まれた姿を私たちはどう理解したらよいのでしょうか。
三、私たちの咎と罪のために
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。(イザヤ五三・四、五)
ここに、メシアが苦難を負うべき理由が示されています。彼が病を知っているのは、私たちの病を負ったからだと言います。彼が悲しみの人であるのは、私たちの痛み、悲しみを担ったのだと言います。人々は彼の苦しみを誤解します。「神に罰せられ、打たれ、苦しめられた」と。しかし、実のところ、「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれた」のです。
もう一度、預言者イザヤの時代の状況を考えてみましょう。北イスラエルが滅び、また、南ユダも滅びようとするのは、彼らが神様に背き、罪を犯してきたからでした。神様は彼らの回復のためにメシアを備えられました。しかし、このメシアが彼らを救い、彼らに真の回復を与えるためには、彼らが抱えている罪の問題の解決が必要でした。
「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。(略)彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」(イザヤ五三・一一、一二)神のもとでの祝福に満ちた日々が回復されるために、このメシアが「彼らの咎を負う」、「多くの人の罪を負う」ことが必要でした。
私たちは、イスラエルの民のようには罪を犯さなかったと言うことができるでしょうか。彼らが抱えている問題は、私たちが抱えている問題でもあるのではないでしょうか。そうだとすれば、このメシアが負った咎は私たちの咎、メシアが負った罪は私たちの罪でもあるのではないでしょうか。
イエス・キリストが十字架に死なれ、復活し、天に挙げられた後、ピリポというキリストの弟子がひとりのエチオピア人と出会いました。彼はちょうどイザヤ書五三章を読んでいました。彼はピリポが聖書についての知識を持っていると知り、尋ねます。「預言者はだれについてこう言っているのですか。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」(使徒八・三四)この時、ピリポが口を開き、この聖句から説き起こして語ったのは、イエス・キリストのことでした。エチオピア人はピリポの話にじっと耳を傾け、やがてその場で洗礼を受けたと言います。
あなたは、イザヤが預言した苦難のしもべの姿をどう理解し、受け止めるでしょうか。