長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

14章 その3

2014-11-09 20:17:31 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】


これまで、著者の議論はほぼ首尾一貫した明晰なものであったと思いますが、このヨハネの福音書の検討では、多少、議論の流れに揺らぎが感じられます。もしかしたら、この部分は、書きかけた見解を途中で変更したのかと思う位です。そのようなこともあり、ここでの検討を進めるためには、著者の議論をもう少し整理しておくことが必要なように思われます。

著者の揺らぎは、ヨハネの福音書においては20:22以前に昇天があったと示唆されているかどうかという点にあります。もし20:22以前に昇天があったと理解できるとすれば、20:22の出来事をペンテコステの日の出来事と重ね合わせることも可能になります。そうすると、弟子たちが二度にわたる聖霊の経験を得たとするペンテコステ派の主張が倒れることになると指摘します。しかし、そのような理解に魅力を感じつつも、最終的には著者はこの見解を退けます。すなわち、昇天はやはり20:22の後に起こったのであって、20:22における聖霊の付与とペンテコステの日の出来事とは、弟子たちが経験した二回に渡る聖霊のみわざであるということになると、著者は言います。「ヨハネは御霊の授与をただ一つしか記録しなかったのであるが、二つの授与を知っていたであろう」(177頁)、「ヨハネは最初の弟子たちの霊的経験において御霊のバプテスマは御霊の二番目の区別されるみわざであると考えたかもしれない」ということになります(178頁)。

この議論の過程において、「20:22は実際の聖霊の付与を描いているのではない」という考え方についても取り上げられていますが、これに対しては、「これは本文に対してあまりに小さな正当性しか持たないので、支持され得ない思弁である」と退けられています(178頁)。

そうすると、弟子たちが経験した二回の聖霊のみわざは、それぞれどういうものであったのか、ダンの議論は次のように整理することができるように思われます。

まず、上記のような結論に至る過程で、この福音書の中に記されている聖霊についての予告のいくつかは、20:22で成就したとは考えにくく、むしろペンテコステの日に成就したと受け止められるもののあることが指摘されます。すなわち、「14:16、26、15:26、16:7の助け主についての約束」「約束された御霊のバプテスマ(1:33)」は、ペンテコステの日に成就したと受け止めるべきことを述べます(177頁)。

他方、その後のより詳細な議論(その43)では、20:22における聖霊の付与は、「息を吹きかけて」という表現から、弟子たちに新しい命を与えるものであり、弟子たちはこの時新生したと理解されています。その上で、「御霊についての節―3:5-8、4:10-14、6:63、7:37-39は御霊の命を与える働きについて語っているので、後の御霊の到来よりも20:22に関連付けられるべきである」と指摘しています(180頁)。

すなわち、著者の理解によれば、20:22では、命を与える御霊の授与が行なわれ、弟子たちはこの時新しい命を与えられたが、その後、「聖霊のバプテスマ」「もうひとりの助け主」の予告を成就する出来事がペンテコステの日に起こったのだということになります。

従って、ここまでの議論においては、ペンテコステ派の主張が認められる形になるわけですが、それではこのような弟子たちの経験(聖霊の二重の経験)が、私達の経験でありえるのかという段階で、著者はこれを否定します。すなわち、弟子たちの経験は、「ディスペンセーションの移行期」のものとして、特殊な経験であり、ペンテコステの日以後のクリスチャン経験に当てはめることはできないというものです。これは、著者自身、注の形で引用するように、ジョン・ストットが提示した議論で、日本でも知られているものです(182頁注)。

より詳しくは、著者としては、「三つの決定的に重要な出来事を区別しなければならない。」と言います。「すなわち、御言葉を伴う『言』の到来、このお方が十字架に挙げられたこと、そして、彼の昇天後αλλοσ παρακλητοσの派遣(14:25、26、15:26、16:7)」。すなわち、御子の受肉降誕、十字架の死、昇天後の聖霊派遣の三つです。この三つの出来事によって、段階的に新しい時代が始まります。第一に、「きよめの経験は、受肉したロゴスが御父からもたらした『御言葉を通して』のみ可能となった」。第二に、「新生と新創造の経験は、神の小羊の罪を担う死と復活後初めて可能になった」。第三に、「我々が今十全なクリスチャン経験と呼ぶものは、昇天とペンテコステ後初めて可能になったのである。その時、『天からの助け主』は『天におられる助け主』に代わって啓示し始め、働き始めた」と言います(181頁)。

これら全体の議論を振り返りつつ、ヨハネの福音書から問題を再検討してみたいとは思いますが、そのためには、かなり重要な論点が残されています。3:5をどう解釈するかというもので、これについては、著者が次の15章で、(今度は主に礼典主義者を意識しながら)取り上げています。まずは、そちらを先に紹介させて頂き、二つの章を合わせて検討してみたいと思います。

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