パウロの初期の手紙についての著者の検討を受け、特に信仰者と聖霊とのかかわりに焦点を置いて私なりに検討してみたいと思います。パウロの他の手紙においても同様ですが、初期の手紙においても、手紙の読者と聖霊とのかかわりについてのパウロの教えは、大きく二つに分けることができます。一つは、過去の聖霊による恵みを確認するものであり、もう一つは、それに基づいて正しい聖霊との関わりの中で歩むよう励ますものです。
過去の聖霊による恵みを確認するものとしては、以下のようなものがあります。
テサロニケ第一1:6「あなたがたも(中略)聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ」
テサロニケ第二2:13「神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになった」
ガラテヤ3:2、3「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。(中略)御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」
ガラテヤ3:5「あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれたかたは、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。」
ガラテヤ4:6「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」
文法上明らかではありませんが、文脈上から、以下のような箇所もこれに含まめてよいと思われます。
テサロニケ第一4:8「ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。」
ガレテヤ3:14「このことは、アブラハムの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」
逆に、過去の聖霊による恵みに基づいて、正しい聖霊との関わりの中で歩むよう励ますものとしては、以下のようなものがあります。
ガラテヤ5:16「御霊によって歩みなさい。」
ガラテヤ5:25「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」
これらの手紙の読者にとって、キリストを信じたことも、義と認められたことも、子とされたことも、御霊を受けたことも、過去のことです。そして、これら相互の間に時間的な順序があったかどうかを知ることは難しいと言わなければならないでしょう。唯一、ガラテヤ4:6は、「子とされたこと」と、「御子の御霊が遣わされたこと」との間に、時間的、または論理的順序があることを表現しているように思えます。しかし、それが論理的順序に過ぎないのか、時間的順序を想定しえるのか、判別は難しいと言えます。
しかし、逆に、これらの諸要素の中に、時間的乖離がありえないと決めつけることもできないのではないか、という指摘はできると思います。たとえば、著者によって、「聖霊を受けることについてのペンテコステ派の考えに対する圧倒的な返答」とみなされている箇所であるガラテヤ3:1-5、14であっても、「キリストを信じること」あるいは「義と認められること」と、「御霊を受けること」との間に、時間的乖離が不可能とまでは言えないのではないでしょうか。以下、この点に焦点を当てて、検討してみます。
パウロは、ガラテヤのクリスチャンに対して、「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」と問いかけています(2節)。ここでは、ガラテヤのクリスチャンたちが皆「聖霊を受けた」ということが前提とされています。それはまた、神が「あなたがたに御霊を与え」た出来事でもあります(5節)。そして、3:1-5で強調されているのは、その出来事(御霊を受けたこと、神が御霊を与えたこと)は、「信仰をもって聞いたから」だということです(2、5節)。
この部分の文脈を確認してみます。2章後半では、「私たちが義とされた(義と認められた)のは律法の行いによったのか、キリストを信じる信仰によったのか」ということが議論されました(2:16)。しかし、3章前半では、「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからか、信仰をもって聞いたからか」ということが議論されています(3:2)。これは、単に同じことの繰り返しではなく、議論が別のステップに進んでいるように見えます。すなわち、義と認められるということと、聖霊を受けるということとは、時間的に乖離が可能であるかどうかは別として、内容的には別の恵みを表わしていると考えられます。
ここで、使徒行伝の検討において提示させて頂いた仮説について考えてみます。その仮説によれば、使徒行伝において、信仰(悔い改め)に対して、聖霊の賜物が与えられることは、本来的には同時のこととして提示されているが、何らかの理由によって、同時でないこともありえることが示されている、ということでした。(以下、仮に「分離可能仮説」と呼ぶことにしましょう。)両者は、本来的に同時であるばかりか、おそらく、使徒行伝で描かれている時期の教会では、実際に同時であることが一般的なことであったと思われます。諸事情によって両者が同時でなく、時間的に乖離する可能性も知られており、また実際にそのような事例があることも知られていたとしても、例外的事例と受け止められていたでしょう。従って、この手紙の読者は皆、「聖霊を受ける」という経験を経ている人々であり、その結果、パウロは、読者が皆信仰によって「聖霊を受ける」という経験をしていることを前提に、議論を進めることができたことになります。2章後半では、信仰によって義と認められるということについて、議論がなされています。これに続くガラテヤ3章前半の議論は、信仰によって聖霊を受けるということについて議論がなされていることになります。このことによって、手紙の読者が既に得ている神の恵み(義と認められることと聖霊を受けること)はいずれも、信仰によることが立証されていることになります。
この節についての著者の検討(2)においては、御霊の賜物と義認は同じコインの両面であるということが強調されます。その根拠として、3:6以降に記されている「アブラハムの祝福」は、8、9節においては後者と等しく、14節においては前者に等しいこと、両方共に信仰によって与えられることが挙げられています。この議論はそれ程強力とは言えないでしょう。同じ信仰によって与えられる異なる二つのもの(異なる時期に与えられる二つのもの)を考えることは容易です。また、アブラハムの祝福が、異なる多様な要素を含んでいるとすれば、その中に、必ずしも同一視できない二つのものが含まれていたとしても不思議ではありません。
3:6-14の文脈を考えてみます。ここでは、信仰者をアブラハムの子孫として位置づける議論が展開されます。6節では、「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました」という指摘がなされます。ですから、7節で、「信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい」と語られます。9節では「信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受ける」と書かれています。これは、かなり広い意味をもった表現です。アブラハムとともに受ける祝福とは何をさすのか。10-13節では、「義と認められる」という恵みについて記されます。しかし、14節では再び、「約束の御霊を受ける」という恵みについて記されます。両者は共に、アブラハムの子孫として信仰者が受ける恵みです。それらは、有機的につながっていながら、別個のものであることは可能ではないでしょうか。
さて、このような文脈の中で、特に著者が強調している「御霊で始まったあなたがた」(3:3)という表現を考える必要があります。ガラテヤの信仰者のほとんどは、キリストへの信仰を持つと同時に御霊を受ける経験をしました。それは信仰者生涯の本来的なあり方であり、時間的に乖離する事例があったとしても、信仰によって罪を赦され、義とされることとの間に有機的な結びつきがあることには変わりません。また、多少の時間的ずれがあった者も、ほとんどの信仰者は、程なく聖霊を受ける経験をしていたことでしょう。そのような状況の中で、ガラテヤの信仰者に対して、「御霊で始まったあなたがた」と表現することは、自然なことと言えないでしょうか。パウロがこの表現を用いたからと言って、信仰によって義とされるということと、信仰によって聖霊を受けることとを、時間的に必ず同時のこととして主張されている、とまでは言えないのではないかと思います。
このように、「聖霊を受けることについてのペンテコステ派の考えに対する圧倒的な返答」とみなされている箇所であるガラテヤ3:1-5、14でさえも、「分離可能仮説」を排除するわけではないように思えます。
かと言って、分離可能仮説に困難がないわけではありません。パウロの初期の手紙だけを見ても、答えることが難しい以下のような問いに直面させられます。
a.信仰に至るための聖霊の働きを示唆するように見える御言葉をどう理解するか
以下のような箇所では、テサロニケの信仰者たちが信仰を持つにいたる際、聖霊の大きな働きかけがあったことが伺えます。
テサロニケ第一1:6「あなたがたも(中略)聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ」
テサロニケ第二2:13「神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになった」
これらの箇所で示唆されている聖霊の働きは、「聖霊を受ける」ということと別個のものでしょうか。それとも同一でしょうか。信仰を持つに至るまでの聖霊の働きでしょうか。それとも、一見そう見えるだけで、信仰により「聖霊を受ける」出来事について語っているのでしょうか。更には、テサロニケ第二2:13では、聖霊の働きが「救い」の前にあるようにも見えますが、実際そうなのでしょうか。そうではないのでしょうか。テサロニケ第二2:13は、翻訳の仕方も多様であるので、なおさら問題は複雑です。
「分離可能仮説」からの回答の一例として、これらの聖霊の働きは、信仰に至る前の聖霊の働きであって、「聖霊を受けること」とは区別されるという説明も可能ですが、それですべてを十分説明しきれているかどうかは、よく吟味する必要がありそうです。
b.パウロが信仰と聖霊を受けることとの間に時間的乖離が起こり得ることを知っていたとすれば、これらの手紙においてその問題に全く触れていないのはなぜか。
ガラテヤ4:6は、その可能性を示唆するものではあるかもしれませんが、「その問題に触れている」とまでは言えないだろうと思います。そのような可能性があったとしても、実際の事例があまりに少ないので、その問題に触れる必要を感じなかったのでしょうか。そのような問題にあえて触れないことによって、本来的には信仰と聖霊を受けることとが同時的であることを強調したかったのでしょうか。どう答えるとしても、多少なりとも歯切れの悪さが残ることは否めません。
しかしながら、「分離可能仮説は全く成立不可能とまでは言えない」ということを当面の結論とさせて頂き、続くパウロの手紙の検討に進みたいと思います。