長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

10章 その1

2014-05-02 21:30:59 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

本書第三部は、パウロの手紙を扱います。まず著者が指摘するのは、ペンテコステ主義が使徒行伝を根拠としており、パウロの手紙には彼らを支持するものがほとんど見当たらないことです。二つの例外として、Ⅰコリント12:13とエペソ1:13が挙げられますが、それらにしても、かなり表面的な解釈によって、使徒行伝から引き出された教理を確証するために持ってこられるだけであると言います。したがって、回心―入信式における聖霊の役割と聖霊の賜物を調べることが主要な仕事であるけれども、ここでの実際の議論のほとんどはペンテコステ派に対するものではなく、礼典主義者に対するものである。礼典主義者は一般的に言って、ルカによって描き出される絵よりも、パウロにおいて、より一貫した、また満足すべき絵を見出すと。

ここで、著者は、方法論的問題を取り上げます。この主題についてのパウロの見解をどのように発見していけばよいのかという問題です。その答えとして、最も適切なアプローチは、どのような角度からであれ回心―入信式を扱っている節を時間的順序で調べてみることだと言います。それ以外の方法では、恣意的な結論を導き出すことが十分可能になるというわけです。(著者はこの点を具体的例を挙げて説明しています。)パウロの手紙の時間的順序としては、キュンメルの"Introduction to the New Testament"に従い、テサロニケ、ガラテヤ、第一・第二コリント、ローマ、コロサイ、エペソ、牧会書簡を想定しています。このような順で、これらの手紙の中の回心―入信式に関する各節を検討していこうというわけです。この章は「初期パウロ書簡」ということで、テサロニケ、ガラテヤからの8箇所が検討されています。

私としては、特に聖霊との関わりで、救いの順序の細部について、パウロがどう語っているかに関心があるわけですが、著者が言うように、最初から細部にのみ関心を持ちすぎると、木を見て森を見ずの状態になる可能性があります。パウロが回心―入信式についてどのように語っているか、かかわりのあるすべての箇所を全体的に見ることも大切だと思います。少し冗長になるかもしれませんが、できるだけ著者の取り上げているすべての箇所を追ってみたいと思います。

テサロニケ第一1:5ー9、2:13

ここでパウロが語っている回心―入信式の要素は、伝えられた福音、信仰の応答、そして聖霊である。聖霊は宣教者と信じた者たちの両方において働いていることに注目するのが大切である。福音を効果あるものとしたのは聖霊の力における宣言(とパウロの確信)であり、テサロニケ人たちの福音の受容は聖霊における喜びによって特徴づけられている。聖霊を受けることは御言葉の受容と密接に結び付けられているように見えるが、パウロは彼らがどのように、いつ聖霊を受けたかについては語っていない。しかし、それは確かに大変生き生きとした、恐らくは感情的でさえある「経験」(原文イタリック体)であった。(6節)

テサロニケ第一4:7、8

ここで神は聖霊をお与えになる方として描かれている。εισ υμασはパウロが聖霊をある意味でテサロニケの各クリスチャンを所有し、クリスチャンに所有されているものとしてみなしていることを意味する。聖霊が来ることは人をεν αγιασμω(聖に)定めるので、汚れた生き方をする人は聖霊を無視することによって神を無視するのである。(以下、エゼキエル37章特に37:14との関わり、神の召しが聖霊と密接に関わっていること等が指摘されています。)

テサロニケ第二2:13、14

ここには神が永遠の選びを有効にするために取られた方法についてのたまたまの言及がある。それは二つの方法で表現されている。福音を通しての神の有効的召しとして。そして、御霊のきよめと真理に対する彼らの信仰として。後者において、救われることについての二つの主要な手段と要素に光が当てられているのを見る。聖別する御霊の働きと、福音において宣言されている真理を信じる個人の働きである。ここには、救いの順序でなく、重要性の順序がある。

水のバプテスマはテサロニケ人への手紙には全く見られない。パウロの初期の手紙においては、召しと御言葉、聖霊と信仰が、回心―入信式における重要な要素である。

ガラテヤ2:16-21

著者は、この節が回心―入信式に関わる節であることを指摘すると共に、それが水のバプテスマについての解説でないことを指摘します。パウロは、むしろ回心、すなわち霊的変革について考えている。パウロはクリスチャンになることが彼自身の場合、何を印したのかを振り返っている。それは、(律法に対する)霊的な死であり、結果としての新しい命(内住のキリストを中心とし、それによって決定づけられた命)であった。

著者は、水のバプテスマについての言及がないと共に、御霊についての言及もないことを認めます。しかし、御霊の働きはバプテスマの儀式よりもより強く示唆されていると言います。一方では、2:19、20はわざによらず信仰による義認のテーマの発展であり、それはパウロが直ちに御霊との関連で取り上げるテーマである(3:2、5)。他方では、「私の内なるキリスト」としての命は、私の内なる御霊の命と同様である。更に、十字架に付けるという比喩は、5:24で「御霊によって歩みなさい。そうすれば決して肉の欲を満たすことはない」という勧めに対する結論として5:24で再び取り上げられる(5:16-24)。

ペンテコステ派との関連で言えば、キリストが「私のうちに生き」始めた瞬間は、「私の内なるキリスト」の命である御霊を受けた時と区別されえないということが強調されなければならない。

義認が基調テーマとなっているところから期待されるように、個人が義認を受け、「私の内なるキリスト」の命に生きる手段としては信仰が第一のものとなっている。

ガラテヤ3:1-5、14

これらの節は、聖霊を受けることについてのペンテコステ派の考えに対する圧倒的な返答であると著者は言います。

(1)聖霊を受けることはクリスチャン生涯の始まりである(2-5節)。「始まった」ということは、クリスチャンになる瞬間に言及する以外でありえない。信仰により御霊を受けることは、同じ御霊によって完成に至る神の良きわざの始めである(ピリピ1:6)。
(2)御霊の賜物と義認は同じコインの両面である。アブラハムの祝福は、8、9節においては後者と等しく、14節においては前者に等しい。両方共に、信仰によって与えられる。
(3)約束の御霊は命を与えるものである。律法は命を与える力を持たない(21節)。命と義認は約束と信仰によって来る。そして、御霊は信仰によって受けるとき、人によって経験される約束の内容である(14-22節)。
(4)従って、御霊の賜物は、我々をアブラハムの子孫とし、神の子とし、キリストにあるものとするものである。というのは、アブラハムに対する約束は二重の成就を持っている。すなわち、それは約束の子孫であるキリストにおいて成就され(16節)、個々人が御霊を受けることにおいて成就される(14節)。この二つは相補的である。約束が個人において成就するのは、彼がキリストにある者となる時であり、信仰によって御霊を受ける時である。約束の契約にあずからせ、個人を約束の子ども(4:28、29)、約束の子すなわち相続人(3:18、29.4:7)とするのは、御霊による誕生である。

ここで水のバプテスマについて最も重要なことは、そのことが語られていないことである。ここで説教、信仰、御霊の周りを回っている回心の過程において、人間側の重要な要素は信仰だけである。

ガラテヤ3:26、27

ここで初めて重要な単語「βαπτιζειν」が登場します。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのである」(27節)この節について著者は、パウロがガラテヤ人たちのことをイエス・キリストにある者として語ることができる理由を説明していると言います。その理由は、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはキリストを着た」からだと言います。

問題は、ここでの「バプテスマ」が何を意味するかです。著者はこの点について、次のような見解をまず明らかにします。βαπτζεσθαο εισ Χριστονは、信仰者がクリスチャン経験に入ることを表現するために、あるいは、より正確に言えば、回心―入信式に起こるクリスチャンとキリストとの霊的関係に信仰者を入ることを表現するためにバプテスマの儀式から引き出された比喩に過ぎない。

この見解について説明するための著者の議論は、大筋、以下のようなものです。

(1)「キリストを着た」は明らかに比喩である。
・着物を変えることを比喩的に用いる旧約の例。
・新約の並行的用法[ローマ13:14、コロサイ3:10、エペソ4:24]。

(2)ここでパウロが考えている霊的現実は、おそらく聖霊の賜物であり、パウロはキリストを着ることとキリストの御霊を受けることとを同一視したのであろう。
・御霊の到来を服を着るという言葉で表現することは旧約及び新約等に見られる。
・聖霊を受けることはそれ以前の文脈で主要なものであり、3:26、27がその一部であるパラグラフの結論(4:6,7)において子となることと嗣業に結びついている。
・3:29の「あなたがたがキリストのもの」は、ローマ8:9によく似ている。
・パウロにとってキリストは霊によって、あるいは霊として経験される。)

(3)キリストを着ることが比喩であれば、キリストにつくバプテスマを受けることも同様に比喩でである。
・27節aと27節bとの関係はとても密接であるので、これらの節を相互交換可能な表現として受け取らなければならない。
・文脈は、外的、身体的儀式によって入れられる古い契約と、信仰の行為によって入る新しい契約との対照であり、事実上、肉による子と御霊による子との対照である。
・パウロは、割礼と信仰との間を対照としており、割礼とバプテスマとの間を対照としてはいない。
・第一コリント12:13や第二コリント1:21との比較が示すように、εβαπτισθητεの主語は神である。
・βαπτιζειν εισの他の用例(ローマ6:3、第一コリント12:13)から、βαπτιζειν εισ Χριστονは、人を「キリストにある」者とする神の行為を表わす比喩的方法である。

ガラテヤ4:6、7

ガラテヤ4:6は、パウロにおいてペンテコステ派神学をサポートする唯一の節だそうです。但し、最近になってネオ・ペンテコステ派によって用いられるようになったもののようです。また、堅信礼を高く評価する人々もこの節を用いてきたそうです。

「あなたがたは子であるゆえに、神は…御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました」とは何を意味するのか。4:6は神が回心においてでなく回心の後で保証の意味に言及しているという示唆や、入信式に第二段階、すなわち堅信礼について語っているという示唆は、ガラテヤ3章でパウロが語っていることやローマ8:14-16の並行記事に照らして、拒絶されなければならないと著者は言います。

ガラテヤ3章は、既に検討されました。そこでは、聖霊の賜物は信仰による義認と同じであり、個人を約束の契約に入れるものであり、クリスチャン生涯を始めるものである(3:3、14)。このように聖霊を受けることは意識的「経験」(本文イタリック)であることが明らかである(3:2、4)。そして、パウロは4:6で3章で言及されているのとは違う聖霊の到来について彼が考えているのだという示唆を与えていない。

また、ローマ8:15、16は回心後聖霊が来ることとしては決して理解され得ない。もしそう理解すれば、8:14が理解不能になるからである。

(子である)「ゆえに」と訳されるοτιは、thatとかto prove thatのように説明的意味に訳すことも可能であるが、たとえοτι=「ゆえに」と訳したとしても、よりもっともらしい解釈は次のようなものである。すなわち、4:6は回心―入信式における聖霊の賜物について語っているのであって、それによって、御子が来られた(εξαπεστειλεν)ことによってもたらされた子であるという客観的事実が彼の主観的経験において個人の人格的所有となるのである。

このような著者の見解をサポートする釈義的議論として、大筋次のような議論を展開しています。

(1)4:6において、思想の連続性は時間的順序によるものではなく、論理的なものである。

4:7で「子ならば…相続人です」というのは論理的順序である。相続人であることが子であることの論理的結論であるように、御霊を持つことは子であることの論理的結論である。

(2)時間的順序として解釈するとパウロの比喩の混合をとらえそこなう。

4:1-7において、パウロは実際には調和しない二つの比喩を組み合わせている。未成年の相続人と、奴隷の比喩である。回心以前の状態は、奴隷と変わらない未成年の相続人であり、この世の初歩的な霊の奴隷であった。クリスチャンになることは、未成年の相続人が成年相続人になることであり、奴隷が養子縁組された子となることである。十分な(相続人としての)権利と子としての経験は御子の御霊が送られることによって有効なものとなる。

(3)二つの比喩を結びつけるのは救済の歴史の適用である。

相続の比喩及び個人の回心において映し出されているものは、律法とわざの契約と約束と信仰の契約との単一の断絶である。しかし、二つの契約の間の実際の断絶は二つの段階を持つ―受肉における御子の派遣(4節)とペンテコステにおける御子の御霊の派遣(6節)である。そして、このことは個人の回心においては、子とされることと、その時受ける御霊との二つの側面に映し出される。

ガラテヤ5:24、25

この節は、2:20とは二つの点で違っていることを著者は指摘します。肉を十字架につけることは自己が課すること、そして命が御霊に属するものとされていることである(「もし御霊が私たちの命の源であるなら」―NEB)。クリスチャンになることは、御霊によって決定づけられた命に入ることであり、その最初の瞬間からそう決定づけられている。


このような諸節の検討の結果を受け、著者は次のようにまとめます。

パウロの初期の手紙において確信をもって言うことができるのは、御霊と信仰との相互関係が、回心―入信式についての彼の考えの主要テーマであることである。二次的聖霊の到来については何も語られておらず、βαπτιζεινはキリストとの結合、言い変えれば回心と呼ばれるものの比喩として一度だけ用いられている。

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