使徒行伝における回心―入信式における残された二つのポイントは、いずれも水のバプテスマについてのものです。すなわち、(c)では信仰とバプテスマとの関係、(d)ではバプテスマと聖霊との関係を扱っています。
(c)信仰(悔い改め)とバプテスマとの関係
著者は続いて、「もし信仰の行為と聖霊の賜物とを分けることができないなら、回心―入信式の出来事の中でバプテスマの役割は何だろうか」と、バプテスマについての位置づけを検討します。まず(c)では、信仰―悔い改めとバプテスマとの関係を調べます。
著者は、使徒行伝において信仰とバプテスマが密接に関連していることを指摘します。エペソ人たちの場合、パウロの質問の続き方は、「信じる」と「バプテスマを受ける」とが信仰の行為についての互いに交換可能な表現方法であることを示していると言います。バプテスマは、委任の必要な表現であり、それなしでは真に「信じた」とは言えないものである。このことは儀式の中でキリストの名が使われていることによっても示されている。(「イエス・キリストの名によって(ενまたはεπι )バプテスマを受ける」という表現から)水のバプテスマは入信者が主のあわれみを呼び求める機会、また、入信者に名が冠せられるお方(キリスト)に自分自身を委任する手段と考えられる。適切に行われる水のバプテスマは、信仰のクライマックスの行為であり、悔い改めの表現であり、委任の媒体である。
しかし、これらのことを認めつつも、著者は、バプテスマが罪の赦しをもたらすという考えを次のように否定します。水のバプテスマを言うことなしに信仰を言うことはできないと認めるものの、両者のうち重要な要素は信仰であることを認めなければならない。バプテスマは信仰の表現であるが、信仰なしにはバプテスマは意味がなく、空虚なシンボルだ。水のバプテスマが罪の赦しを運び、与え、もたらすと言うことは偽りである。ルカは、水のバプテスマそのものが罪の赦しを受ける条件であるとか手段であるとかいうことを決して言っていない。ルカはそれを他の態度(悔い改め―ルカ3:3、使徒2:38)あるいは行為(み名を呼び求めること―使徒22:16)との関係でしか語っていない。水のバプテスマは赦しを受けるために前もって必要な唯一もののとして語られてはいない。ルカは沢山の箇所で悔い改めや信仰を前もって必要な唯一のものとして語っている(ルカ5:20、24:47、使徒3:19、5:31、10:43、13:38、26:18、参照4:4、9:35、42、11:21、13:48、14:1、16:31、17:12、34)。他の言葉でいえば、水のバプテスマは赦しを受けるために必要な唯一のものでもなければ、そのものが本質的に必要なものでもない。
このように書いたのち、著者は、使徒2:38と22:16を検討します。(一見、これらの節が、水のバプテスマが聖霊の賜物をもたらすかのように見えるからでしょう。)議論の詳細は省略しますが、使徒2:38では、ペテロの基本的かつ主要な要求は悔い改めであって、バプテスマが悔い改めの行為であり表現である場合に限りバプテスマを受けるものに罪の赦しが約束されうると言います。また、22:16では、罪が洗い流されることは。水によってでなく、主のみ名を呼び求めることによって人間にもたらされると言います。最後に、使徒行伝ではクリスチャンが「主を信じた者たち」とか「主のみ名を読んだ者たち」と呼ばれるが、決して「バプテスマを受けた者」と呼ばれないことを著者は指摘します。
(d)バプテスマと聖霊との関係
最後に、著者はバプテスマと聖霊の関係を検討します。著者は最初に結論を明らかにします。バプテスマは信仰を表現し、聖霊は信仰に対して与えられると言います。従って、礼典と点滴賜物とは決して同一視されてはならない。水のバプテスマが赦しをもたらさないように、それが聖霊をもたらすのではない。聖霊が水のバプテスマによって、あるいは水のバプテスマを通して与えられると言うことにはまったく根拠がない―特にルカにおいては。
このような著者の結論を立証するために、かなりの議論が展開されますが、要約すれば以下のようなポイントを挙げることができるでしょう。
・イエス様の受洗からの議論―イエス様の場合も、聖霊による油注ぎはバプテスマ後、イエスが祈っている間に起こった。
・ヨハネのバプテスマの本質的に予備的な性質はクリスチャンのバプテスマにも継承されており、その成就は聖霊のバプテスマである(使徒1:5、11:16)。
・水のバプテスマは基本的に悔い改めのバプテスマであり、聖霊を受ける条件とされている(使徒2:38)。
・バプテスマは信仰の必要な表現であるかもしれないが、神は聖霊を信仰に対して直接的に与える。それは120人やコルネリオの歴史的事例が明示している。(クリスチャンの水のバプテスマなしに聖霊が与えられているから。)
・水のバプテスマが聖霊を与える手段ではない。それは、使徒8章が明確に示している。(水のバプテスマがなされたにも関わらず、聖霊が与えられていないから。)
これまで純粋に個人的なレベルを扱ってきた著者は、この所で、回心―入信式の出来事における(神と入信者に次ぐ)第三者としてクリスチャン共同体に目を向けます。教会は、その代表者を通して、バプテスマに対して、また聖霊の賜物に対して、一定の役割を持つと言います。一方では、バプテスマはクリスチャン共同体への入会式ともみなされ、また、共同体が入信者を交わりに受け入れる手段であるともみなされる(2:41、10:48)。他方、共同体は聖霊の賜物、聖霊を受けることにおいて重要な役割を果たす。ルカは、聖霊が直接的に神から来ることを強調しているが(使徒2:4、33、10:44、11:17)、ある場合には、聖霊が既に聖霊にバプタイズされている人々の行為(それは彼らの信仰と受容を表現する)「を通して」来ることがある(8:17、19:6、ルカ8:45-48も参照)。ルカが聖霊なしのクリスチャンを認めることができないように(使徒8章、18:24-19:7のポイント)、ルカは地域に集まっているクリスチャン共同体の交流、交わりの中にない地域のクリスチャンを認めることができない。聖霊の賜物によって神は個人を教会に受け入れ、(パウロの用語で言えば)キリストの体に彼をバプタイズされたのである。水のバプテスマ(そして時には按手)によって、クリスチャン共同体は、個人を教会に受け入れる。水のバプテスマにおいて、また水のバプテスマによって、個人は自分自身をキリストとその民両方に委ねる。クリスチャンの水のバプテスマは、それゆえ、ルカが表現するように、クリスチャン共同体に入る手段であり、キリストに委ねる手段であり、その結果聖霊を受けるようになる。その瞬間においては、神、教会、個人のすべてが含まれている。結果として、次のように言うことができる。御霊は神から直接来るばかりではなく、教会を通しても来る。それは、教会の代表者の愛、歓迎、祈りによって(表現のされ方によらず)個人がより十分に自分自身を復活のキリストとその功績に委ねることができるようにし、より速やかに御霊を受けることができるようにするという意味においてである。
このように書きながら、著者は最後に、水のバプテスマと聖霊の賜物との関係について、まとめ直します。ルカによれば、水のバプテスマは回心―入信式において本質的な役割を果たすこと、また水のバプテスマが表現している信仰を通して霊のバプテスマと(通常は密接に)関連していることを認めつつも、霊のバプテスマと水のバプテスマが別個の実体であり、クリスチャンの回心―入信式の焦点、神経中枢は御霊の賜物であることを認めなければならないと。
使徒行伝における回心―入信式についての著者の見解について、要約的に言うならば、焦点を聖霊の賜物に置くと同時に、それを直接的には信仰(悔い改め)に結び付け、水のバプテスマとは間接的に結び付けるものと言えるかと思います。このような著者の理解に対して、次回以降、検討します。