長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

9章 その1

2014-03-09 14:40:00 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

第9章のタイトルを訳せば、「使徒行伝における回心―入信式」となります。使徒行伝を扱ってきた第二部のまとめに当たる章です。著者は冒頭、この問題が新約聖書神学における難問であることを認めつつ、ここまでの研究がこの問題に対する解答を示唆してきたこと、使徒行伝の取り扱いを完成させるために、より拡大した取り扱いをしなければならないと言います。

ここでの議論を、著者は使徒2:38から始めます。この箇所は、ペンテコステ派が許す議論よりもより広い取り扱いが必要な問題を提起するので、著者はあえてこれまでこの箇所を残してきたのだと言います。更に、ルカはクリスチャンの回心―入信式におけるパターンと基準を確立させるものとして使徒2:38を意図しているだろうと言います。すなわち、最初のクリスチャンの説教の終わりで、その指導的使徒(ペテロ)は求道者の指導のための手順を定めていると。

更には、この箇所は、回心―入信式において最も重要な三つの要素、悔い改め、水のバプテスマ、聖霊の賜物(悔い改めと信仰は同じコインの裏表であるので)を互いに直接的に関連付けている使徒行伝で唯一の箇所である。この三つの要素の内、そこに含まれている三者―入信者、教会、神―のうちの一つによってなされるのはそれぞれただ一つの要素である。基準となるクリスチャンの回心―入信式において、三者のそれぞれが決定的役割を果たし、もしそれぞれがその部分を果たさなければ、回心―入信式は不完全である。「悔い改めなさい」(能動命令)は求道者自らなさなければならないことである。「バプテスマを受けなさい」(受動命令)は、求道者に対して共同体によってなされなければならないことである。「受けるであろう」(未来能動直説法)は、求道者が神から受けるものについての制限なき約束(ただ二つの条件だけが挙げられた)である。悔い改め、バプテスマを受けた者は聖霊の賜物を受ける。ここでは遅延の可能性は何も予見されていないことは注目すべきだ。16:31の命令と約束のように、命令に対する従順の行為は約束された結果を受け取る。

著者はこのように記した後、四つのポイントで議論を展開します。(今回は、その前半、2つを紹介します。)

(a)三つの要素の中で最も重要なのは聖霊の賜物である。

2:38において、聖霊の賜物は回心―入信式の出来事全体のクライマックスである。提供されている二つのもの―罪の赦しと聖霊―のうち、ペテロが強調しているのは積極的賜物であり、それが群衆を最初に惹きつけたのであり、新しい時代と契約のエッセンスである(2:39)。御霊は救いの担い手である。というのは、2:38の約束は2:21の約束を含んでいるに違いないから。このことは2:39cが明らかにヨエル2:32の末尾(使徒2:17-21の引用が残した節)をほのめかしているという事実によって確かめられる。「その日、その時」の解放(ヨエル3:1)について、ペテロは2:21で終末論的救いとして解釈し、2:38、39で聖霊の賜物として解釈している。

このように指摘した後、著者は、これまでの議論を振り返り、同様の点をを確認しています。ヨルダン川でのイエスの経験からの議論でも、使徒行伝に記されている4つの事例を調べた結果においても、回心―入信式で最も重要な要素は聖霊の賜物であったことを再度振り返ります。詳細はこれまでの章と重複しますので、省略します。

(b)キリストへの信仰と聖霊の賜物との関係

ここで取り上げられている点は、私が最も関心を覚える部分で、問題全体の核心部分に当たるとも言えます。しかし、この部分の著者の論旨は、残念ながら私には必ずしも分かりやすくはありません。私の英語能力にもよるのでしょうが、それだけ問題が微妙でもあるのでしょう。問題の検討は、後の回に回すとして、ここではとりあえず著者の議論をできるだけそのまま追ってみたいと思います。

著者はまず、これまでの議論がペンテコステ派を納得させなかったかもしれないと言います。なぜなら、彼らのほとんどは、オルド・サルティス(救いの順序)についての古典的な改革派の見解を保持しているように思われるから、と言います。その見解によれば、御霊は回心に先立ち、彼の内に、あるいは彼と共に働き、彼が悔い改め、信じることができるようにし、その時点で彼はイエスを彼の心と生涯に受け入れる。これら二つの別個な恵みのみわざ(というのが何を意味するのか私にはよく分かりません。第一が回心に先立つ御霊の働き、第二がイエスを彼の心と生涯に受け入れる?)にペンテコステ派は聖霊のバプテスマの神学によって第三の恵みを加える。こうして、2:38や19:5、5の事例において、ペンテコステ派は自分の立場が健全であると信じている。なぜなら、バプテスマは既に起こった回心の告白であり、回心は御霊が既に彼の生涯に働いていることを示し、バプテスマにおいて受ける御霊、あるいはその後に受ける御霊は、回心とは区別され、回心に続く恵みのみわざである。

多くの保守的神学者たちは、古典的改革派の立場が次のようなものだとみなします。つまり、オルド・サルティスにおいて、新生は回心に先立ち、人が回心することができるようにする。こうして、たとえばスミートンはウェスレーを肯定的に引用する。「救いに至る信仰を持つために、すべての人は聖霊を受けなければならない。」(ウェスレーWorksⅧ)。(A.Kuyper、E.H.Palmer、J.H.Gerstnerも参照。)この最初に聖霊を受けることは賜物を与えるために後に聖霊が来ることとは区別されなければならない(Lambert、Warfield、Stonehouse、Lenski、Gerstner、J.K.Parratt,The Seal of the Spirit in the New Testament Teaching)。また、使徒10章についての礼典主義者の解釈は「恍惚的御霊」と「バプテスマ的御霊」を区別する(Haenchen、Schlier、Kuss)。Parrattは、三番目に受ける聖霊を区別するように見える(すなわち、信仰の行為の前、中、後)。Lenskyは使徒10章の解釈において同じ不一致に陥っている。バルトの最後の作品は、水のバプテスマが聖霊のバプテスマの神的主導権に対する人間の応答であるのか、聖霊のバプテスマが人間の申し立てとしての水のバプテスマに対する神的応答であるのかについて、いくらか同じような混乱を示している。

キリスト教神学者が回心の前、回心に導く、罪を自覚させる御霊の働きについて全く適切に語っているかもしれないことを、私は否定しない(たとえ、ヨハネ16:8-11、そしておそらくⅠコリント14:24、25が、支持するために引用できる唯一の箇所であるとしても)。しかし、このことについて語る新約聖書の著者たちにとって、個人が回心において、すなわち信じるときに受ける救いの恵みの賜物は聖霊であるということを、最も強調して主張する。人をクリスチャンにし、それなしにはクリスチャンではないという御霊の決定的賜物は、回心の前でも後でもなく、回心の中で来る。新約聖書は、前もっての受領を知らない。パウロに関する限り、ローマ8:9は、御霊を持つノンクリスチャンも、御霊を持たないクリスチャンも、その両方の可能性を排除する。御霊の受領と、その結果としての御霊の所有だけが人をクリスチャンとする。ヨハネにとっては、霊的誕生は既に存在している御霊によって生まれることではなく、上から来る御霊によって生まれることである(3:3-8)。なぜなら、πνυμαは命をもたらし、命である神の息(20:22)であるから(4:10、6:63、7:38、39)。信仰者が回心において受けるすべてのもの―すなわち、救い、赦し、義認、子とされることなど―を彼が受けるのは、彼が御霊を受けるからである。

回心の時にイエスを受けることと、後に御霊を受けることとを分けることによって新約聖書の強調点をのがれようとするペンテコステ派の企ては、事実上新約聖書の教えから離れている。というのは、新約聖書ではどこにも回心を「キリストを受け入れること」として語ってはいない(現代の伝道活動においてこのフレーズはたびたび用いられているけれども)。ヨハネ1:12が主に語っているのは、「ご自分の民」の多くが彼を拒絶したのに対して、「ご自分の民」のうちのわずかなものが彼に与えた歴史的歓迎についてである(1:11、12。5:43、6:21、13:20参照)。コロサイ2:6において用いられている言葉は、παραλαμβανωであって、正確には遺産や伝統を受け取ることを意味する。すなわち、パウロはコロサイの人々に、彼らがイエスは主であるという宣言をどのように受けたかを思い起こさせている(Arnd and Gingrich)―「イエスはあなたがたにキリスト主として伝えられたので」(NEB)―。黙示録3:20は、福音的例証として大変愛されているが、もちろん、クリスチャンたちに対して書かれたものである。パウロとヨハネは、人の内に住まわれるキリストについて、また、「キリストを持つ」クリスチャンについて語るが、より正確に言えば、キリストは御霊において、また御霊によって信仰者に住み、クリスチャンはキリストの御霊を持つ。というのは、上からの御霊は特にイエスの御霊であるから(使徒16:7、ローマ8:9、ガラテヤ4:6、ピリピ1:19)。回心において受けるのは御霊であり、高く挙げられたキリストの命である。

ヨハネが御霊について14:18-24でαλλοσ παρακλητοσと語っていることも参照。ローマ8:9、10でパウロは「神の御霊」、「キリストの御霊」、そして「キリスト」という表現を相互に入れ替え可能なものとして用いている。M.Bouttier"En Christ(1962)"が示しているのは、私/私たちの内のキリストや御霊の内の私/私たちよりもむしろ、キリストの内の私/私たちや私/私たちの内の御霊をパウロが好んでいるということである(モウルPhenomenon24-26)。彼は「信仰者の内のキリスト」と「信仰者の内の御霊」について相互入れ替え可能なものとして語ることができる。なぜならこれら二つの表現は正確に同じことを意味しているから。彼はただキリストと御霊を同一視しているのではない。経験的に同一視しているだけである。言い換えれば、総合的表現として次のようになる。「信仰者のうちのキリストの命は御霊によって有効となる。」

要するにクリスチャンになるとはキリストの御霊、すなわち聖霊を受けることである。ペンテコステ派が二つの神のみわざに分けようとしているものは実際には単一の神のみわざである。ルカにとって信仰と御霊の関係は、ただこのように表現される。回心において、人は信じ、自分自身をキリストに委ね、キリストから御霊を受ける。回心における人のわざは悔い改め、立ち返り、信じることである。神のみわざは、信じる者に御霊を与えることである(使徒2:38、11:17、15:9、19:2。参照ヨハネ7:39、ガラテヤ3:2)。両者共に回心における本質的要素であるが、最後の分析においては、ただ重要なのは神の賜物であった。神が御霊を与えられないのであれば、信仰は義としない。信仰は受けるために伸ばされた空の手に過ぎない。究極的に重要なのは受けるものである。したがって、「御霊についてのペンテコステ派の教理が真実さは、使徒行伝における霊についてのもつれた章節の解釈によって立ちもし、倒れもする」というブルンナーの言葉が正しいなら、我々の結論はこうでしかありえない。その教理は倒れるということだ。

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