「サマリヤの謎」に対する5つの見解を退けたのち、著者は独自の主張を展開します。しかし、強い説得力を持つように見える著者の主張も、落ち着いて使徒行伝を読み返してみると、必ずしもすべての疑問を解決しているわけではないようです。このような状況で更に別の見方を追求することは勇気のいることでもありますし、私自身、確たる見通しを持った上で論を展開するわけでもないのでなおさらですが、「こう考えてみたら?」という思いは今のところ消えていませんので、一応、「サマリヤの謎」を解くもう一つの線を提案してみたいと思います。
(1)『サマリヤの謎』を生じさせているのは間違った方向から考えているからではないか
そもそも、『サマリヤの謎』についての著者の説明はこうでした。「サマリヤの人々は信じ、バプテスマも受けたが、彼らはしばらく後になるまで聖霊を受けなかった」ように見えることに対して、次のような問題が生じるということでした。「新約聖書の他の個所からすれば、これらの事実は互いに相反するものであり、全く調和しない。もし彼らが信じ、主イエスのみ名によって洗礼を受けたのであれば(12、16節)、彼らはクリスチャンのはずではないか。しかし、もし彼らが聖霊を受けていなかったのであれば、その時まで彼らはクリスチャンと呼ばれ得ないはずではないか(最も明瞭にはローマ8:9)。」(55頁)
すなわち、ここで謎を生み出しているのは、「もし彼らが聖霊を受けていなかったのであれば、その時まで彼らはクリスチャンと呼ばれ得ないはずではないか」という前提です。これは、ローマ8:9などの、主にパウロの手紙から生まれた前提です。しかし、第4章で、ぺンテコステの出来事について、ペンテコステ派などがヨハネの福音書から引証して議論することに対して、著者は反対しています。「ヨハネの福音書に訴えることは基本的な方法論上の問題をもたらす」というわけです(39頁)。すなわち、聖書各巻は、その著者独自の強調点や思想上の文脈を持っているので、それを無視して一定の神学的枠組みに合うように聖書個所を選び、何らかの結論を導き出すのは妥当でないと言うのが、著者の論点でした。この点からすると、ローマ8:9等のパウロの手紙からの議論を、使徒行伝の記事の理解の検討の中に、不用意に持ち込んで良いのか、という疑問が生まれます。
もちろん、「聖霊をうけていない者は、クリスチャンとは呼ばれ得ない」ということは、福音的な神学者たちによって大方受け入れられている前提ではあります。しかし、それ自体がこの本が扱うべき大きな課題であるとすれば、パウロの手紙を扱う前に、その前提を持ってきて、使徒行伝の検討の中に持ち込むことは、「基本的な方法論上の問題をもたらす」ことにはならないのでしょうか。このような点から、パウロの手紙からのこのような前提なしに使徒行伝を読むとどうなるのか、というのが私の発想の第一です。
(2)ここまでの検討では、オルド・サルティスの詳細について、未だ明確にされていなかったのではないか
更に、本書に対するここまでの検討を通して私なりに示唆してきましたのは、「聖霊を受けること」についてのオルド・サルティスの詳細は、未だ明らかになっていないということでした。ヨハネのバプテスマ、イエス様のバプテスマについての検討、更に、使徒行伝の記述についての検討を通して、聖霊の新しい時代の到来ということについては、明確に受け入れることができるものの、悔い改めと信仰、バプテスマ、聖霊を受けることなど、その関係や順序についての詳細は、未だ明確になっていないのではないか、という点を指摘してきました。
(その13)で指摘しましたように、オルド・サルティスに関するこのような点の詳細について、最もカギとなるのは、使徒2:38です。ところが、著者はこの点の検討を、使徒行伝の検討の最後(第9章)に置いています。ですから、この点についての検討は、第9章まで持ち越されるわけですが、そうすると、本書において、「サマリヤの謎」を扱うこの時点では、「聖霊を受ける」ということについてのオルド・サルティス的な前提はまだ示されいない(少なくとも議論の余地のない形では)ということになります。
(3)「聖霊を受ける」ということに関して、使徒行伝8章に至るまでの使徒行伝の記述だけから考えると、どうなるのか
そこで、「聖霊を受ける」ということに関して、パウロの手紙などからの神学的前提なしに、使徒行伝だけを読んでいくと、最も自然な解釈はどのようなものになるのでしょう。
まず、使徒2:38については、第9章の検討において再度議論するわけですが、ここで関係する限りにおいて、少し検討してみます。文の構造として、文の前半には、「悔い改めなさい」と「バプテスマを受けなさい」という二つの命令形があります。文の後半には、「賜物として聖霊を受けるであろう」という未来形の約束があります。この両者がκαι(and、そうすれば)で結ばれているわけです。このような形において、「賜物として聖霊を受ける」ということが「悔い改め」や「バプテスマを受ける」ことと時間的に同じであることは必ずしも明らかではないように思います。(ギリシヤ語に詳しいわけではありませんが、恐らくそうだと思います。)
そうすると、使徒行伝において、聖霊を受けることに関して、オルド・サルティスの詳細を定めていくのは、その後の聖霊を受けた人々についての諸々の記事に委ねられることにならないでしょうか。ルカが、悔い改め、バプテスマを受けることにより、即聖霊を受けるということを立証したかったとすれば、ペンテコステの日の出来事は特別だとして除くとしても、その後、悔い改め、バプテスマを受けた人々については、即聖霊が与えられたことを記録していくだろうと予想されます。ところが、ペンテコステの日にペテロたちの説教によって信仰を持った人々について聖霊を受けたかどうか、どういうわけか明らかにされません。使徒4:31で「一同は聖霊に満たされ」とあるのは、ペテロやヨハネを含めた弟子達であるので、「聖霊を受けた」後に再び「聖霊に満たされ」たのであると理解できます(本章末尾につけられた付加的ノート2参照)。そう考えてくると、サマリヤ人たちが聖霊を受けた記録は、使徒行伝において明確にされている記事としては、ペンテコステの日の出来事に次ぐ、二番目の記録ということになります。この記事を、パウロの手紙などからの神学的先入観なしに読むと、「悔い改め」や「バプテスマ」の条件が満たされたならば、ただちに「聖霊を受ける」ということよりもむしろ、何らかの理由により、両者の間に時間的かい離が起こることもあるという例として受け止めることが可能であり、また自然でさえあるように思われます。
(4)今後の検討の方向性
使徒2:38を覚えつつ、もう少し何度か使徒8章を読み返してみると、「聖霊がくだる」、「聖霊を受ける」ということについて、更にいくつかの仮説を立てることも自然なのではないかと私には思われます。
(仮説1)悔い改め、バプテスマを受けたのであれば、聖霊が下ることが期待される。(聖霊がくだっていないのを見たペテロやヨハネが即座に行動を起こしたことから。)
(仮説2)しかし、悔い改め、バプテスマを受けても、何らかの理由により聖霊がまだ下らないということが起こり得る。(ここで想定される理由は、たとえば、サマリヤ人の置かれていた特別な状況、特にエルサレムとの関係、神による主権的配慮などであるが、明らかにはされていないので、その理由を断定的に特定することはできない。)
(仮説3)悔い改め、バプテスマを受けていても聖霊が下っていない場合、基本的な条件はすでに満たされているので、そこで改めて聖霊がくだるように祈ったり、按手したりということを契機として、その人々は当然のこととして聖霊を受けることができる。(ペテロやヨハネはそこで改めて詳しく福音を解きなおしたり、聖霊について語り教えたりもせず、ただ祈り、按手しただけであるので。)
その後の、パウロの回心の記事(本書6章で扱われる)、コルネリオの記事(本書7章で扱われる)、エペソの弟子たちの記事(本書8章で扱われる)を検討しながら、総合的に考えていく必要がありますが、少なくとも、使徒8章までの記録から自然に導き出されるのは、上記のような受け止め方ではないかと思います。そして、そのような理解で使徒8章を読み直してみると、「サマリヤの謎」は解消されてしまうわけです。他の聖書個所からのオルド・サルティス的先入観なしに、使徒8章をもとにしてオルド・サルティス的な判断をしたわけですから、ある面、それは当然のことです。
このような線で、聖霊を受けることについてのオルド・サルティス的判断を使徒行伝全体で進めていくならば、パウロの手紙などをもとに考えるのとはまた違った定式で表現することが可能になるのではないか、という期待も生まれます。それは、使徒行伝に記された「聖霊を受ける」ことについての色々な記述に適合したものになるはずです。これは、追求してみる価値のある線ではないでしょうか。
(5)この線で考えることの結果、起こると想定される問題
もちろん、この線上では、使徒行伝の記述を自然に理解できるようになる代わりに、より大きな問題が生まれる可能性があります。つまり、「聖霊を受ける」ということのオルド・サルティスにおける位置づけについて、使徒行伝から自然に導き出される結果と、パウロの手紙などから自然に導き出される結果とが矛盾するという、新約聖書内のより大きな謎、「聖霊に関する新約聖書の謎」が生まれる可能性があるわけです。「小さな謎を解消しようとして、より大きな謎を産み出すのでないか」ということも言えそうです。けれども、聖書各巻の持つそれぞれの神学的主張の独自性を尊重するという原則からは、むしろそういう線で考えることも、一つの可能性としてはありえるのではないか、という気がします。
(6)この線での理解は、従来の見解とどこが異なっているのか
上で示した方向性は、使徒8:4-13をそのまま受け取ろうとするところから生まれています。その点では、著者が退けた5つの見解と同じです。ですから、(1)~(5)の中には、多少なりとも近い考え方のものがあります。特に、(3)の後半の考え方と(5)の考え方です。
まず、(3)の後半の考え方は、「救い」と「聖霊を受ける」ということとを明確に区別する考え方でした。これに対して、著者は、救いの条件と聖霊を受けることの条件とが一致していることで反論しています。これについては、私も、使徒行伝から見る限りその通りであるように思えます。ただ、同じ条件のもとで与えられるのであるが、何らかの理由により両者の間に時間的かい離が起こることがありえることをルカが示しているのではないか、ということです。
また、私が提案する考え方は、(5)の見解(ランプらの見解)に似ている部分もあります。サマリヤ人の場合、神の主権により聖霊を与えられることが控えられたとするものです。原理的には信じてバプテスマを受けたのですから、聖霊を与えられてもよいはずですが、何らかの理由により神が主権をもってそうされたと考えます。この点、私が提案する考え方も同様です。ただ、ランプらの見解は、サマリヤ人たちの経験が特別なものであったことを強調します。例外的なものと考えるわけです。私としてはむしろ、使徒行伝において、サマリヤ人たちの経験が、標準的とは言えないとしても、しばしば起こりえることとして提示されている可能性があるように思えます。
ですから、私が考えてみたい線というのは、(3)の後半と(5)の中間であると言えるかもしれません。
以下の章では、使徒行伝の各箇所に対する著者の見解を調べるとともに、ここで提案させていただいた線で考えるとどうなるか、確認していってみたいと思います。