所謂「幸福」というものを分析すると、
①衣食住(命に危険性のないレベル)
②愛情(自分を理解してくれる相手がいる)
③社会的地位(なりたい職業に就く)
④自己実現(なりたいと夢見ていた通りの人間になる)
となる。私などは①の段階で悩んでいるレベルだから幸福には程遠いが、ともかくこの自己実現に関して少々思うところがある。
私は2年間座禅会で基本を学び、こんないいものがあったのかと、自分の体を実験台にして様々な工夫の末に見性体験を繰返した。そのアドバイザーの一人が玄侑宗久師で、メールで様々な質問に答えてもらった。その中で 玄侑師は「自己実現というと、そこで完成したという感じがして自分は好まない」というような意味のことを言われた。
確かに一理ある。禅の影響を受けたユングは「個性化の過程」という言葉を使っているが、スミレにはスミレの、ヨモギにはヨモギの個性があり、その理想形に近づく努力のことだ。
ややこしいのは、ユングの言う「自己」とは普遍的無意識のことなので、禅でいう「悟り」に極めて近い概念だ。既に我執はない。いずれにしても、その過程、近づく努力が大切なので、ハイここで行き止まり、というものではない。
普通にいう自己=私、という意味から見ても、自分が一体何者なのか分からなくなる。私は短気な喧嘩屋らしいが、お人よしだとも言われる。文科系の典型のようだが、数学にも熱中した時期もある。芸術は当然好きだが、分析哲学や論理学も好きで、例えば一本の映画をグラフや記号で表現できないかと真剣に考える一方、印象批評は捨てがたい。
無位の真人に目覚めたと言っても、年から年中、朝から晩まで悟った生き方が出来るわけではなく、自分が何者かさえ把握できず、雨にも負け風にも負けて、ただ悩みを放下する心のポジションに戻る術を多少知っているに過ぎない。
中年を過ぎて、未だに「一体自分は何のために生まれてきたか」すら回答がでない。自己実現の標的が見つからないのだ。ただ天地の命じるまま、出来る範囲のことは努力して「一隅を照らす」人生を送りたいと思う。