那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

実験映像作家・Kの話

2016年02月19日 | 思い出の記

 ブログを読む前に集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

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 また「春名先生を囲む会」への提案に共鳴される方は私のメルアド wasaburo@hb.tp1.jp までメールを送ってください。特にアイム南の元職員の峯尾さん、殿塚さん(チャーミングな看護婦さんです)(この二人は囲む会に賛同されていました)畑さんはもしこのブログを読んでいたらメールを下さい。ぜひ八王子五行歌会の掲示板に投稿してください。

また上記3名をご存じのかたもメールをお願いします。いよいよ最初の「春名先生を囲む会」の当日になりました。今日は午後7時から平岡町にある夢庵(西八王子店)で一回目の囲む会が開催されます。当日は名刺を交換して自己紹介などを行いましょう。また領収書を用意しますので諸会費として使ってください。

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今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私が小野洋子ほどの資産家であれば5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。微笑禅の会に興味のある人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。

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今は「月刊イメージフォーラム」が廃刊になっているため私の批評の場はこのHPに入っている「レアフィルム批評アーカイブ」のみだが、私は大学院二年生の時から「月刊イメージフォーラム」を中心にキネ旬などで実験映像の批評を書き続きて来た。

私が実験映像批評に貢献してきたことを以下箇条書きにする。

①アカデミズムのテクニカルタームを使って実験映像を批評したこと。

②ピーター・アダムズ・シトニーや飯村隆彦らがバラバラに主張していた構造映画の定義を明確にしたこと。

③日記映画とも身辺映画とも言われてきたジャンルを「セルフドキュメンタリー」という用語にして統一したこと。以下のurlを参照のこと。http://www.yidff.jp/docbox/26/box26-2.html

④ジャンル分けできない作品群に造語を作ってジャンル分けしたこと。ex.ポスト構造映画、関西光線主義、ネオ・ダイレクトシネマ、等々である。

ところで現在はKが日本の実験映像作家のオルガナイザー兼代表的な作家になっているようだが、私には彼に対して嫌な思い出がある。

まずKの作品について触れることにする。「B」(2009年)は(右翼)会長を主人公にして、最終的に彼を茶化すとともに、Kの恋人が自殺するまでを撮影したドキュメンタリーである。私は上のurl「セルフドキュメンタリーの起源と現在」の中で、セルフドキュメンタリーは「不幸自慢の映画」でもあると指摘したが、この映画はむしろ「人を不幸にする映画」になり果ててしまった。また、この作品は社会派のセルフドキュメンタリーといってもよく、前例として「新しい神様」(1999年、土屋豊)や、「神様の愛い奴」(2001年=決定版、大宮イチ)などがあり、共に相いれない思想を持つ主人公を茶化すという内容で、戦前の小型映画で言えば「当て込み映画」とも言われ、要するに面白ければいい、受ければいい、というモラルの欠如した作品である。

一時期Kは私に接近し、私を主人公に映画を撮りたいと言ってきた。ちょうど「B」を撮り終えた時期に当たる。その頃私は、創価学会と法廷闘争をしながら一方で「ロータス文化学院」の構想を実現するために働きまくっていた。Kは私の苦境を知り、一種の正義感に駆られたような演技をして自ら微笑禅の会の会員になるといい、私を撮影していたが、相手が創価学会だと知ったとたんに撮影を止め、また実験映像作家を対象にした出版物を刊行しているにも係わらず微笑禅の会の会費を払うことを拒んだために、当時は唯一の除名処分にした人物である。

要するに実験映像には松本俊夫という理論的支柱はあったが、倫理的な支柱が無かったためにこのような男が幅を利かすようになったのだろう。

K、帯谷、金井勝、居田伊佐雄、大木宏之、河瀬直美らも、倫理観という面では非常に問題のある作家たちである。

金井勝と居田伊佐雄は私の批評が無ければ世に出ることが出来なかったはずである。金井はその難解な作風のために誰も批評するものがいなかったし、居田はただテクニシャンとだけ思われ、彼が構造映画からシュルレアリスムに変化していく行程を解読しかつ緻密に分析したのは私だけだった。

にも拘わらず金井は「那田先生は授業中にキャバクラの話しかしない」などという中傷を真に受けたり、芸者遊びをしていることをまるで犯罪でもあるかのように罵ったり、「お前さんは右翼だから私のためにならないので当分距離を取る」と言ったが、私が右翼なら今の日本人の大半は全て極右であろう。

居田は「私は那田さんの批評しか読まない」と言って「月刊イメージフォーラム」を立ち読みしたり、mixiに私を絶賛する紹介分を書いていたが、ある日突然その紹介分を削除してしまった。

居田の「影踏み」を私が「居田伊佐雄の聖体示現―影踏み論」として「月刊イメージフォーラム」に掲載した時、藤井晴美氏が「やっと実験映画の世界にも本格的な批評家が出てきた」と言ってくれたことをよく覚えている。

最後に居田が消してしまったmixiの文章をここに再現する(利益が発生していないので著作権侵害にはなりません)。

 

「日本の個人映画のシーンにこの人が登場したときには、論証的であると同時に感受性に裏打ちされた豊かな文章で実験映画を批評することができるのを知って驚きました。これは画期的で、思いがけないことでした。よほどの才能がなければできません。映像作家数人分の価値が優秀な批評家にはあると思ったものでした。 

 

芸術家の心を持った無頼派の批評家であり、好き嫌いが激しいのですが、それゆえ好きになったものに対する執着の仕方は普通ではありません」 

 

なお、明日はさらに強烈な暴露のブログを書く予定である。これで今日のブログを終える。

 



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