那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

田辺浩三の思い出(補筆)

2017年09月14日 | 思い出の記

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。 http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

 また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。これからは医療だけでなく歴史や芸術についても講義できるようになりました。私は八王子五行歌会の代表です。賛同される方は私まで電話を下さい。042-634-9230。

私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)

今後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会日と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。 http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html             入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

なお、微笑禅の会の口座番号に変更があります。入会手続き入会金なし。会費は年に5千円とし、ゆうちょの以下の振替口座 00130-7-447671 名称「微笑禅の会」に振り込んでください。その際は住所氏名他連絡先、男女の区別を明記して下さい。以上、会員になりたい方はこの口座に会費を振り込りこんで下さい。

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私の友人が面白いブログを教えてくれました。以下引用します。

 

 

浩三の死

 

 

今年中に書いておかねばならぬ事が一つだけある。

我が身のまわりのお祭り騒ぎの事ではない。一人の奇人の最期についてである。

田辺浩三。

高知県の自主上映サークルとジャズファンにとってあまりにも有名な、しかし一般人からは遠い存在であったこの男と、私は一回り以上の年の差をこえて、小学生の頃から腐れ縁を結んだ。

浩三は私の実家のほぼ真裏にあった一心堂時計店の一人息子で、私の父母が浩三も参加していた「窪川JAZZろう会」のサポーターの様な立場であった事から、中央から一流ジャズ奏者を招いてのコンサートの打ち上げは常に美馬旅館であったし、娯楽と言うものの殆ど皆無に近い田舎町で、時計屋と一つ入り口でレコード屋を営んでいた浩三と親しく話すようになるのは必然であった。

浩三は、いわゆる「立て板に水」の如く喋る性質で、常に己の中なる訴えを吐き出し、わめき散らすのを日常とし、地元でも立派な「変人」の烙印を押されていた。

しかし私は、この男と何故かウマがあった。と言うより、中高と進学して行く過程で、この男よりほか、溝口や成瀬、小津や黒澤について話をする相手はいなかったのである。

毎回、観客わずか数人で行われるマイナーな日本映画の上映会。それも、普通なら毎回参加の常連がいて、上演後にディープな議論を重ねながら飲み会、という座があってしかるべきところ、浩三はいつもひとり粛々と機材を片付け、ある時にはその足で一時間半かかる市内へ返却に走った。

世の人々が最も恐れる「孤独」というものが、この男にとってはまるで無縁のもののようであった。

途中から「この男は何でこんな、一円にもならないことに血道を上げるのか?」という疑問が湧いて来たが、当人は決して金に対して全くの無欲な訳ではない。上映費カンパという縛りの中で、カンパ箱に入った金の員数にとやこう言うのを聞いて「それなら金額を決めて取れ!」と怒鳴ったこともある。

しかし、それが五年、十年、二十年と続いてゆくに従い、私の中の浩三観も変わる。

「嫁の来手は到底あるまい」と思われた変人ぶりを裏切って結婚し、一女を授かったが離婚。その後の家庭内紛争、それに続く裁判闘争は聞いているだけで疲労を覚える修羅場だったが、本人は最後まで不倒の精神で自主上映を続けた。

私が子供のころ、一心堂へ行く度「美馬くんも映画が好きかよ?浩三は困ったもんじゃ、一文にもならん映画ばっかりやって」と、息子の活動を全く理解を出来ず、更に原発反対運動家たちと接近するのを終生苦々しく思っていた父親との確執は凄まじいものであった。

葬儀の際に配られた冊子の中にも「父親から散弾銃で狙われたが、警察は見て見ぬふりで一切動かなかった」という一説によってそのあまりに映画的な「父と子」の姿が紹介されていたが、浩三がその父親の亡くなった日に遺体を自分の車に載せ、仏の顔に布も被せずに店の前に長時間放置しているのを、私はこの目で見ているのである。

私は浩三の父親に対する憎しみを思いつつ「あんたナンボ言うたち、早う仏さんを布団へ運んじゃらんかよ!」と怒鳴った。

浩三はその死体を尻目に、レコードを買いに来た客の相手をしていたが、私はそこで、まざまざと復讐の刑を見たのである。

最後はキリスト教に帰依し、葬儀も教会で執り行われたが、私は浩三の様な人間が「宗教で救われる」などという事は金輪際無いと思っている。

現に祭祀を司った牧師が「田辺さんにはさんざん振り回された」「こんな人はもう出入りして欲しくないと何度も思った」と、挨拶で述べた。私は「何と正直な宗教者か」と、いっそホッとした、清々しい気持ちになった。

やがて牧師が「しかし田辺さんの様な存在こそ、神の子である」と言った時、私は本当にその通りだと思ったし、浩三を理解する(赦す)か否かによって、その人間のレベル、種類が推し量られるのだ、と改めて思った。

この教会は反原発運動の人たちの拠点にもなっている様で、おそらくその関係者と教会の信者によって、葬儀の参列者の人数は浩三の生きて来たマイナー人生に引き比べ、驚くほど多かった。

ところで、私は浩三の死を「話の前置き」というものを一切省いて爆弾のごとく投げ込んでくるのが常の、伯母から知らされた。
曰く「あのね、浩三が死んだ」

私は動揺せず「どういて?」と聞く。伯母は続ける。

「溝へ転けて死んじょったと!」

「いかにも浩三らしい」と私は思った。

犯罪を犯した訳でも何でもないが「畳の上で往生する」などと言うのは如何にも浩三らしくないのである。

私は急を聞いて、さぞかし寂しい葬儀になるだろうと勝手に思い込み、どんな事があっても参列しようと勇んで臨んだが、拍子抜けするほど大勢の人が別れに集まり、あまつさえ地元新聞に郷土の文化人として死亡記事が出た。

自分の事がマスコミに取り上げられる度、

「勇ちゃん!俺ってそんなに凄いの?」

と臆面もなく聞いていた浩三が、どんなにか喜んでいるだろうと思うと、嬉しくもあり又、意外でもあった。

その記事を書いた地元紙記者の弔辞で、映画的な、あまりに映画的な浩三のエピソードが紹介され、参列者はみな、哭いた。私は何故か、アンゲロプロスの「シテール島への旅路」を思い出した。

二十代の浩三から六十代の浩三まで、出逢った時によって受けた衝撃も、不快感も、滑稽さも、それぞれ違うだろう。

しかし私は、電燈代の節約だと言って店の電気を営業中に消し、向かいの街頭で本を読む浩三、「月の砂漠」を口角泡を飛ばし全身を痙攣させながら吠え唄う浩三、高知市内から窪川へ帰る道々、わざと国道を通らず県道村道を縫ってカーチェイスをし、終いに窪川小学校の校庭を突っ切る際に車の横っ腹をガリガリガリッ!と擦ってもなおハイテンションで絶頂に達している浩三を十代に見て「これは本当の狂気ではない」と見ていた。

彼は自分の狂気じみた言動を喜んでくれる人間に対して、その期待を裏切らぬ様に「つとめてオカシク見せる」サービス精神に富んでいた。

その死に方さえ、従前の演技過剰を貫いたように思えてならない。

田舎町のレコード店主が、天下の今井正や大島渚を高知へ引っ張って来、岸惠子や吉永小百合に上映会へのコメント葉書をもらう。その畏れを知らなさ、行動力、自己尊大。禍々しき存在と見られながらも、少数の理解者をテコに渦に巻き込む求心力。

私はふと我に返り、己の人生に於いて浩三が自分に与えた影響の大きさに、数十年の時を経て初めて気づき、ただ愕然としているのである。http://www.mima.jp/t255.htm

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これから私の思い出を語ることにします。彼は相当のケチでした。私が招かれて窪川の田辺の家に行った時です。その時は田辺とソリの合わない父親はいませんでしたが、愛想の悪い老母がいて、私は招待客なのに嫌そうな顔をして挨拶もしませんでした。但し、彼が立派なのは、ジャズ、上映会、反原発運動、反創価学会運動を、両親の反対を押し切って一人でやってのけたことです。もっとも、高知県は反体制の気風があり、彼を応援する人々がいたのは幸いです。ところで私は酒を飲むか、ミンザイを飲まないと眠れないので、私が金を出して田辺と外で飲んだとき、田部は酒は飲まずに、領収書だけは自分が取って帰りました。私が飲み足りないと言うと、家に酒も摘みもあるというので期待したところ、料理用のワインと100円の瓶に入ったシメジしか出てきませんでした。

田辺が天下の今井正や大島渚を高知へ引っ張って来、岸惠子や吉永小百合に上映会へのコメント葉書をもらうことができたのは、彼一流の説得力によるものです。幸徳秋水が最期に書いた色紙、

明治末期、恣意的な冤罪事件の元祖と言われる「大逆事件」で処刑された幸徳秋水の最期の言葉は、
「病死と横死と刑死とを問はず、死すべきときのひとたび来らば、充分の案心と満足とをもつてこれに就きたいと思ふ。今やすなはちその時である。これ私の運命である」
で、処刑に臨む秋水は、心乱れず、落ち着いて静かだったそうです。

この色紙を送って、反体制的な映画人を説得したからに他なりません。また値切るだけ値切ってフィルムを借り、本当は1度しか上映してはいけないのに2か所で上映していました。

忘れられない思い出があります。彼の車に乗って「土佐の一本釣り」という漫画で有名な大正市場(年を取った女性が魚を売っている市場)に連れて行ってもらった時、わざわざ駐車禁止と書いてある看板の前に車を停め、「駐車禁止というのは少しは止めて言いという意味じゃ」と言って、直ぐ横に公衆便所があるのに、わざわざ目の前にある神社の杉の木に立小便をして、「私の小便のおかげでこの杉も元気になるだろう」と言っていました。あのような罰当たりが最期は(日本パプテスト教会だと記憶していますが)、クリスチャンになるとは夢にも思わない事でした。

それから、田部が所謂、創価学会の蟻地獄作戦により、子供を創価学会に入れようとした創価の幹部の妻の要求を無視したために、離婚となり、面接交流の時に赤ちゃんだった(のちに我儘娘となって死ぬまで田辺を見舞いに行かなかった)小夏を抱きかかえて家に逃げ帰り、渡さなかったことにより、最高裁から月150万もの弁償金を請求されたのがきっかけて、日本で唯一「反創価学会」を旗印とする、「ヤイロ鳥」という組織が出来上がり、彼がその代表になりました。他の県では決して起こり得なかった現象でしょう。さすがに坂本竜馬を生んだ地域だけのことはあります。

東村山市議暗殺疑惑事件は、田辺が家族づきあいをしていた朝木明代の事件の解明を、私に頼んだことから始まります。高知は面白い土地で、今の行動する保守は文京区民センターを使い、この事件に関係した創価学会批判をしようとしたところ、使用禁止の命令が出て、大喧嘩になったのを思い出しますが、朝木明代さんは「憲政記念館」で反創価学会の講演をする予定でした。その前日までに何度か起案者の田辺に電話があり「講演をしたら朝木が生きて帰ると思うな」などと脅迫の電話が入りました。そしてその講演のレジュメを書きかけたところでマンションから転落死して、私はマスコミが報道する前に、田辺から直接電話でその事件を知りました。

私は田辺の意向に沿って、この事件が解決できるように、瀬戸弘幸さんに頼み、そうして行動する保守の人々がこの事件で一致して抗議活動を行うようになりました。この事件は、東村山を管轄する八王子地裁に創価学会員の検事を二名配置し、東村山警察の副所長は創価学会のシンパで、しかも朝木明代さんが万引きをしたとされる用品店も聖教新聞を取っているという状況の中で起きたのですから、創価学会が計画的に朝木明代さんを殺そうと企んでいたことは間違いありません。また当時噂されていたように、朝木さんの同僚の矢野瑞穂一人の犯行でないことは私の次の街宣で分かるでしょう。https://www.youtube.com/watch?v=jlOVVeOCl5U

この物差しを使った証明を聞いて瀬戸弘幸さんは「鳥肌が立った」と言われました。最高裁、高裁が他殺だと断定しているのに東京地裁は自殺と断定しているのですから、司法の中にも創価とアンチ創価の抗争があったことは明白です。

但し、私は次の3つの理由からこの事件の追求を止めるようになります。

1.田辺自身の情報により(理由は言えません)、この事件から手を引くように言われたこと。

2.私自身が証明したように、朝木明代さんは体格の違う2人によって突き落とされていますが、ベランダの塀の上には転落したくない明代さんの掌の掌紋が残っていました。つまり、明代さんは必死にベランダに手をかけて、ズルズルと転落したわけです。そのために明代さんの衣服にはマンションの壁によって出来た擦った跡が残っています。このことを再考すれば、これはヤクザのようなプロの殺し屋の犯罪ではないと私は考えました。もし私が犯人なら、小柄な老婆を転落させるには、左手で腕ごと上半身を抱え込んで抵抗できないようにロックし、右手で、腰の部分の衣服を握り、頭から投げ飛ばしたでしょう。

3.中田聡本人から、明代さんの娘の直子との関係を聞きました(どういう関係かもここでは述べません)。そこで朝木直子にメールして、聞きたいことがあるので、一人だけで会いに来てほしい、といったところ、拒否されされたからです。

以上の理由で私はこの事件に対して関心を持てなくなり、結局この事件の真相は迷宮入りとなってしまいました。

田辺の思い出に戻ると、両親が反対しているのに、ロクに儲かりもしない、ジャズの演奏会や映画の上映運動、そして反原発運動とアンチ創価学会運動を行ったのは立派だったと思います。私は両親とも私が何をやっても応援してくれたので、彼の孤独な闘いはなおさら立派に見えます。田部が最期に私の母に逢った時、「私と知り合ったために、那田さんも私と同じような苦労をさせて申し訳なかった」と謝ったことは今でも心に焼き付いています。

確かに彼は変人奇人の類であり、私にも「自分はどれほど有名か?」とよく聞いたものですが、これは男なら誰でも考える野望でしょう。もしも神仏というものがあるのなら、必ず彼は天国か霊山浄土で幸せに生きていると信じます。



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