那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

高橋新吉を紹介します

2012年11月29日 | 愛媛自慢
以下、wikiから引用
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高橋 新吉(たかはし しんきち、1901年(明治34年)1月28日 - 1987年(昭和62年)6月5日)は、日本のダダイスト詩人。
愛媛県伊方町出身。八幡浜商業学校(現・愛媛県立八幡浜高等学校)を中退し、以後、放浪がちの生涯を送った。1920年(大正9年)「萬朝報」の懸賞短編小説に『焔をかゝぐ』で入選、小説家としてデビュー。その後詩作に転ずる。
1923年(大正12年)、詩集「ダダイスト新吉の詩」は「DADAは一切を断言し否定する」で始まり、「皿」は、食堂の皿洗いをしていた時の心境を「皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿/倦怠」と表現した(本来縦書きで、皿が積み重なるさまを示している)。
1928年(昭和3年)、郷里で禅僧の話を聞いてから禅に傾倒し、禅-超越-形而上学の詩という特異な世界を作る。
若い頃の性急なダダから、次第に、仏教・禅に興味を向け、独自の詩的境地を開いて「ダダの新吉」と呼ばれた。
新吉の詩の中で知られているものは、『るす』などがある。詩の中で、5億年とは、弥勒菩薩が地上に現れるまでの期間をさす。仏教に心酔した新吉が、ダダの形式にこだわらない方法を使って表現した名詩であろう。
戦後、1951年(昭和26年)には結婚して子供もでき、生活も安定し、「超越の詩人」となる。禅の研究も進め、1971年(昭和46年)に禅に関する詩が英訳され、「禅ポエムの詩人」として欧米でも高い評価を受けた。
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以下、余りに有名だが「皿」と「るす」を紹介する。皿の部分は上記の通り本来縦書きで、まさに皿が重なっているイメージをそのまま表現している。

皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
  倦怠
  額に蚯蚓(ミミズ)這ふ情熱
 白米色のエプロンで
 皿を拭くな
鼻の巣の黒い女
 其処にも諧謔が燻すぶつてゐる
  人生を水に溶かせ
  冷めたシチューの鍋に
 退屈が浮く
  皿を割れ
  皿を割れば
倦怠の響が出る。


「るす」

留守と言へ
ここには誰も居らぬと言へ
五億年経つたら帰つて来る


続いて以下のブログから引用する。どうも禅者のブログのようですね。

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-siika2/takahashi2.htm

《死》
 私は死ぬことは絶対に無い
 一度死んだからである
 
 二度も三度も死ぬことは
 頭の悪い証拠だ
    (一九五二年、『高橋新吉詩集』)


 この詩集には、「観念的傾向の異常に強いものが現われはじめる」(平居謙氏、E186)と、いわれるが、新吉の精神状況から見れば、この詩は大変力強いものである。「一度死んだ」とは、悟ったことを言う。悟りの体験は、「自己を忘れる」、つまり、自我の死を体験したのである。禅の悟りを「大死一番、大活現成」という。自我の自分がない(無我)ことを体験し、死ぬことのない仏性と一如の自己(本来の面目)が、真の自分だと悟る。そうなると、新吉の生涯の後半の「雀」は、永遠の仏性、または、永遠の仏性にめざめた自由自在の自分、になるであろう。新吉の後半生の詩集では、そんな「雀」が、ピチピチを飛びはねる。
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以前書いたように私の郷里も愛媛なので高橋新吉には感慨深いものがある。
 新吉は若い頃統合失調症に罹り、父親が自殺した、と上記のブログには書いてある。こういう苦悩を乗り越えるために座禅の修行をして悟りを開き、86歳の長寿を全うして世界的に評価された。
 私もたまたま鬱病を禅で治したので新吉の生き方に共鳴する部分が多く、禅を学ぶ過程で彼の本も何冊か持っている。

ちなみに江戸時代は「伊予八藩」と言われて愛媛は多くの藩に別れていた。いま検索したら見当たらなかったが、愛媛はその影響で「三予文化」と言われ、大阪文化圏に属する新浜や今治あたりを東予といい、松山周辺を中予といい、新吉の生まれた伊方、八幡浜や宇和島辺りを南予という。私も南予出身である。
 それで面白い例え話がある。高校生の頃に聞いたのでうろ覚えだが「もし宝くじで100万当たったらどうする?」という質問に、東予人は「事業に投資する」、中予人は「貯金する」、南予人は「もう100万足して仲間を集め一晩で飲む」、というものだ。

だから、南予人は縄文人の気風を残し、酒、狩猟、釣りなどを好む傾向が非常に強く、私も酒と釣りは徹底的にやった。一方、詩人、俳人、法学者の有名どころも多数排出してる。穂積陳重や大津事件で司法を政治から独立させ「司法の神様」と言われた児島惟謙も共に宇和島出身である。
 穂積は「死後、出身地の宇和島市で銅像の建立の話が持ち上がったが、「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」との生前の穂積の言葉から遺族はそれを固く辞退した。それでは改築中の本開橋を「穂積橋」と命名することにしてはという市の申し入れに対して遺族も了承し、現在も宇和島市内の辰野川に掛かる橋の名前としてその名が残っている」という感動的な実話があり、私の母は若い頃この穂積橋の近くに住んでいた。

私の直感に過ぎないが、例えば福岡や大阪の人間は「花の都大東京」に対する憧れや対抗心を持つ対他的存在である一方、愛媛人は東京に対して特別な感覚が無く、一気に世界的なことをやってのける傾向があるようだ。この辺りは高知とよく似ているが、話が長くなるので後日に回す。
 高橋新吉の紹介が愛媛や南予の紹介になったが、風土が人を作る、というのは事実だと再認識した。高橋新吉には誰かがまた影響を与えているはずだが、切が無いのでこの辺で失礼します。


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