那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

法律学者・穂積兄弟

2013年03月12日 | 愛媛自慢
愛媛自慢シリーズ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%AE%B6%E6%96%B0%E4%B8%80より引用する。まずは兄の穂積陳重、弟の穂積八束の順に紹介する。
__________________
「学者の眼中、学理あって利害なし。区々たる地位、片々たる財産、学理の前には何するものぞ」学理のほか、名前、肩書き、地位、財産等には無頓着であれとの陳重の言葉

穂積陳重は、1855(安政2)年宇和島藩士・国学者の穗積重樹の次男として生まれた。長兄の重顎(しげあぎ)は後に字和島藩主であった伊達侯爵家の家令となる。陳重は、藩校であった明倫館に学んだ後、16歳で藩の具進生として上京、大学南校(東京大学の前身)に入学、1876(明治9)年には文部省留学生としてイギリス、ドイツに渡り、法律学を学んだ。1881(明治14)年に帰国、27歳のとき年東京大学法学部講師、1882年から1912(大正1)年まで東京大学ならびにそれが改組あるいは改称された東京帝国大学(1886~)の教授・法学部長に就任。さらに33歳で、日本ではじめての法学博士となった。

フランス法が盛んであった当時において、イギリス法・ドイツ法を移入し、1893(明治26)年法典調査会委員として民法などの起草に参加する等、創世期にあった日本の法学界に大きな影響を与えた。旧民法典を施行すべきか否かの法典論争においては、延期論を主張、同法典の延期後は、富井政章(とみいまさあき)、梅謙次郎(うめけんじろう)とともに法典調査会の主査委員を務め、新たな民法典(現行民法典)の起草にあたった。大学教授として30年、日本の“民法の祖”といわれたが、また、法理学(法を対象とし、その本質や理念、また根拠や価値などを哲学的な方法等により原理的・根本的に研究する学問である「法哲学」の別名)講座も開設者した。

さらには、大日本帝国憲法施行直後の1891(明治24)年、来日中のロシア皇太子を一巡査が襲撃したいわゆる大津事件が勃発した時、郷里宇和島の大先輩で当時大審院長であった児島惟謙から意見を求められたのに対し、「外国でも敗戦国でない限り、自国の法律を曲げた例はない」「政府と対決して自分の主張が勝つ」と言って激励、惟謙から謝電が送られた話は、有名である(参照「法窓夜話」)。

陳重は学究一途にとどまることなく、貴族院議員、帝国学士院第1部長、文政審議会委員などの要職に就き、晩年には枢密院議長をも務めたが、1926(大正15)年4月7日、71歳で死去。(以下、写真など省略)

穂積橋の由来

この穂積橋は、郷土の発展に終生貢献された穂積陳重男爵の御功績を讃えて昭和4年に命名されたものです。
穂積陳重先生は、安政2年(1855)市内中ノ町(今の京町)に生まれ、幼少より俊童の誉れ高く、若くして英独に留学し法学を研鑽、帰国後は、東京大学で教鞭をとり、法学部長を勤め、法典調査会主査委員として明治民法戸籍法を編纂するなど、民法生みの親といわれました。
 明治24年(1891)の大津事件では「政府の圧力に屈せず、法に照らして裁判なされるよう」と進言して大審院長児島惟謙を支え、後年には枢密院議長となり、男爵を授けられました。
 また先生は、故郷、宇和島町と八幡村の合併や、市制施行に尽力され、出京の郷土の青年に勉学を奨励、幾多の人材を撫育されました。
この功績を記念すべく、市が穂積家にひたすら銅像の建立を申し出ましたが、「老生は銅像にて仰がるるより、萬人の渡らるる橋になりたし」との、生前のご意志から固く辞退されました。
それ故、改築中の本開橋を穂積橋として御尊名を刻みたいと願い出たところ、それならば故人も本懐であろうと受諾されて、穂積橋が誕生したものであります。
近年、記念碑の風化が甚しいので市民有志が新しく碑を刻み、眩しい遺徳を後世に伝えるものであります。

著書に『法律進化論』(1924~27)、『隠居論』(1891)、『五人組制度論』『五人組法規集』(ともに1921)などがある。
______________________
1860(万延元)年~1912(明治45)

わが国で近代を代表する法学者に一人穂積八束は、1860(万延元)年宇和島藩士・国学者の穗積重樹の三男として生まれた。藩校明倫館に学び、上京して1883(明治16)年東京大学法学部政治学科卒業の翌年からドイツに留学してシュルツェ、ラーバント教授らから君主絶対主義の立場にたつ憲法論を学んだ。

1889(明治22)年2月、大日本帝国憲法公布に合わせるように帰国した八束は、ただちに、東京帝国大学教授(一時期次兄陳重と兄弟で東大教授となった)となり、憲法学や国法学、行政学の講座を担当、そこで、当時台頭しつつあった自由民権学派の憲法理論に激しく反対、天皇絶対主義憲法論を強硬に主張した。

後、枢密院書記官、法典調査会査定委員、貴族院議員、宮中顧問官などを歴任。

八束は、特に大日本帝国憲法の解釈普及に力を注ぎ、同時に、伊藤博文を助けて憲法附属法典立案や各種法典編集に尽力した。また、民法典編纂過程で巻き起こったいわゆる「民法典論争」では、行延期派の旗手となり、「民法出でて忠孝亡ぶ」との名言をもって、ボアソナード編纂の民法典の施行延期を主張(この事実は、あまりにも有名)、延期された民法に家長権(かちょうけん=家長が家族員に対して有していた支配・統制の権利で、日本の旧家族制度における戸主権がその代表的なもの。「家父長権」ともいう)の尊重を盛り込ませることに大きな役割を果たした。

1910(明治43)年に病気のため半年の間大学を休んだ際に、学生に申し訳ないと講義にかえて書いたのが『憲法提要上下』である。辞表を受理しない大学に「働かぬ者に給料を出すのは官規を乱す」とか「大学は学者の養老院ではない」といったり、一本筋の通った、いい意味で頑固一徹な学者であった。

明治天皇崩御(ほうぎょ­=天皇・皇后・皇太后・太皇太后を敬ってその死をいう語。古くは、上皇・法皇といった)による大葬の日には肋膜炎(ろくまくえん)を押して青山葬儀所に参列したが、その直後より高熱を発し、3週間のち、明治天皇のあとを追うように、1912(明治45)年10月5日に心臓発作を併発して死去。享年52歳。

なお、八束のもとからは「天皇機関説」の美濃部達吉の外、天皇主権説に立って憲法を講じて国家主義的社会運動を指導し、美濃部を激しく攻撃した上杉慎吉(1878~1929)らが育った。

=========================

参考文献
日本立法資料全集 (別巻 1) <穂積陳重立法関係文書の研究>
信山社出版 (1989.12)
民法起草者穂積陳重論 [日本比較法研究所研究叢書]
白羽祐三/著
中央大学出版部 (1995.10)
明治民法の制定と穂積文書-「法典調査會穂積陳重博士関係文書」の解説・目録および資料
福島正夫/編
民法成立課程研究會 (1956.7)
穂積八束博士論文集
穂積重威/編纂
有斐閣 (1943.9)
_____________________

宇和島出身の法律家としては大津事件の大審院長児島惟謙の名前が余りに有名だが、穂積兄弟がいたことを知らせたいと思う。
 (腱鞘炎治療のために引用のみで終わらせます)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。