那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

川上雪担老師の言葉 

2012年10月13日 | 

いつもそうだが、特にこのところ一人では解決不可能な問題が山積して頭から足の先まで痛いところだらけ。特にパソコンの打ちすぎで腱鞘炎一歩手前まで来ている。オマケに風邪を引いて熱がある。フト、そういえば、同じようにトコトン困ったときに川上雪担老師に電話で点検を受けたことを思い出した。
 難しい問答は省略するとして、「修行をやめて入院して体を治しなさい。どうにかなる」という助言を頂いた。まもなく倒れ、危篤状態から奇跡的に蘇った。
 新潟のお寺の住職さんだからズーズー弁かと思っていたら、横浜生まれの東大卒で、綺麗な標準語だった。点検を受けた直後に亡くなられた。肉声を聞いていて良かったとつくづく思う。


川上雪担老師は平成23年5月20日、遷化されました。以下
http://www17.plala.or.jp/tozanji/bn/tanosiizazen.html より


楽しい座禅


「坐禅が楽しいという人がいる、不思議なことだ。」と、言う人がいる。
「坐禅が楽しいという、不思議だ。」
 これ答えなんです。不思議-思う議にあずからず、思想思念の他にというんです、だから楽しいんです、無上の楽しさがあります。

 坐禅をやってみる、足が痛い、ま-るで死ぬ思いがする。ちょっと慣れると妄想頻出して、わけがわからない。とりとめがない。もうちょっと坐って比較的静かになる、すると自分を眺め暮らしている、目は外向きについているのに、なぜか自分という暗影が見える、あるいは真っ暗がり、あるいは深淵のように思い違え。でもって静に入ったなどいってみても、結局なんにもならない。
「坐禅してみたけど、なんにもならない。」
という感想です。

 二三日前にもそういって来た人がいた、
「参考書、仏教解説読んだけど、いっているようにはならない。」
という、どうも十人百人そんなふうです。
どうしたらいいか。
「歩くとき歩くばっかりでしょう、歩き方を観察したり、歩く研究をしていたら、うまく歩けない、いいですか、坐禅のとき坐禅すりゃいいんです、自分を観察してああでもない、こうでもないしない、吐く息吸う息数息観も、ただもう坐るっきり、それがほんとうに出来たとき終わるんです。」

 わたしとしては、こういうっきりなく、只管打坐とは、ただうちすわる、まるっきり手付かずということです。これがそう簡単にはできない。
 なぜか。

 人間もとこうあるっきりなのに、人間とは何か、人間らしくと思案する、どうもマンガみたいことを、だれかれ大真面目にやって、結果間違いだらけってことあります、(ひゅ-まんの追求に答えが出ないこと、よってかくの如し)=人類の歴史って思いませんか。
 やりゃあやるほど、正確に見えれば見えるほどおかしくなっちまう、迷い込んでへんてこりん。
 どうですこれ、坐禅してるときとそっくりでしょう。

 坐禅は温室ですと、先師老師がいった、他日異日必ず花開くと、禅=単を示すと書くんです、わたしどものもとそっくりのありよう、付け足すものなんにもない、これっきりです。

 これがどうできているかというと、心経にあるとおり、五蘊皆空、度一切苦厄です、どんな厄介ごとも苦しみも、妄想なんもかもとっつかない、不染汚という、染みがつかない、なぜならなんにもないからっていうんです。
 なんにもない=無眼耳鼻舌身意です、目がどこにあるか、知らないんです、目で見るということを知らない、見るものと見られるものの区別がつかない、以下同文ってこってす。
 いいですか、目はここにある、目で見ている、そんなの当たり前じゃないかという、でも体にはこれを知る感覚器官はないんです。後念の知識、教えてもらって習い覚えたんです。
 つねる、痛い、でもどこ痛いかわからないなど、これ実感ですからたしかめてみて下さい。
 無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法と、わたしどものありようを、改めて記載しなければならないほど、後念の知識観念概念生活に、がんじがらめになっている。

 たしかにそりゃ、音は耳で聞くという知識は必要なんだけど、それによって実際を離れてしまう。
 せっかく単を示そうと思っても、おいそれとそうは行かないんです。
 物心つくとからに、がんじがらめ生活を強いられて来た、それをいったん元へ戻す、ぶち破る必要があるんです。
 でないといつまでたっても、坐禅が坐禅にならない、苦痛と我慢大会ばっかりで、ちっとも楽しくならないんです。

 不思議じゃないからです、妄想を追い-とは無意でない、妄想を生み出す自分がその妄想を追う、有意です、ありっこないことをやっている、苦しみの原因です、人はないものに苦しめられる、しばらく確かめてみて下さい。
 自分を眺め暮らすのも、坐禅はこうあるべき、思想理屈をこねまわすのも同じ二人三脚です、いったんこれを止めるんです、無理強い止めるってじゃんしに、自然に止む、これ只管打坐です、でないと弊害があります。

 一つこっきりになる、思想と自分と同じならな-んもない実感です、ついに忘我。自分を観察しないということが始めです。
 ですから「楽しい」の実際は、坐っていながら(なにしていてもです)自分というものがまったくない、外と内の区別がないんです、じきにそれを見ている自分がないんです、不思議です、たとえようもない平らなふう、度一切苦介の現実です。
 こうなって初めて坐禅が坐禅になるんです、元の木阿弥自分というものの実際を知るんです、如来来たる如しです。

 そう長くはかからないんです。こういうことがあると知って、まっしぐらです、たいてい三カ月も坐っていりゃちらとも気がつくものです。
 ですから、坐っていてなにがあっても、手を付けない、なりふりかまわずってことです、坐すとき坐すっきり、歩くとき歩くってこと忘れている、でないとうまく行かない、坐すとき坐を忘れている、手放しのときそっくり終わるんです。
 乃至は人生思想道徳なんのかのうっとうしいこと、そっくり終わるんです。




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