那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

山路越えて(主権回復を目指す会の紹介を兼ねて)

2014年01月21日 | 芸術・表現

西村修平さんの「主権回復を目指す会」のブログを紹介します。最新記事に感動的な動画がありました。


       韓国MBCに逆取材
MBCは朝鮮人婦女子20万人拉致・連行の根拠を示せ!

 youtube
 https://www.youtube.com/watch?v=PS6faJv-IpE
 ニコニコ動画
 http://www.nicovideo.jp/watch/sm22686777


ぜひご覧下さい。私は強く共感しました。

この頃の風潮として創価学会の裏組織への批判者の言説が韓国人や在日への非難と一体化しており、私は強い危惧を覚えていました。「博士の独り言Ⅱ」でさえそうです。が、この二つのテーマは、当然のこととして峻別すべきです。何度も繰返してきたので飽きていますが、政府見解と個人の思想は別、個人も十人十色です。悪い日本人もいれば善良な韓国人もいます。創価の裏組織であくどいことをやっている人々は国籍や生まれに全く関係なく、サイコパス的な「歪んだ心をもった人間」です。本当に批判すべき対象は創価の「批判者は地獄に落とせ。子孫まで祟れ」という宗教とは真逆の「教義」です。

西村さんは日本軍が20万人もの朝鮮人婦女子を強制的に拉致し従軍慰安婦にしたという捏造(すでに証明済み)を韓国のテレビに対して抗議する中で「朝鮮人は誇り高い民族だろ。私は朝鮮人を尊敬している」と明言し、「なのに同胞が目の前で拉致されたとしたら、なぜ男たちは黙っていたのか?」と詰め寄ります。また、日本人が韓国で「日本人を皆殺しにしろ」と言われたら怒るのが当たり前だ、と在特会を批判しつつ在日の心情に共感を示されています。

この咄嗟の言葉(心の力)により韓国のテレビ局と在日の青年は反論できず頭を下げて去りました。見事です。批判の仕方によってここまで相手の態度が変化するのかと感じ入りました。

西村さんは短歌、歌舞伎などの伝統文化にも造詣が深く、優れた歌を詠まれます。過去何度か紹介しました。


脈絡もなく、私の郷里と隣町の境界にある法華津峠の石碑を思い出しました。以下引用します。

 

  1. 山路こえて、ひとりゆけど、主の手にすがれる身はやすけし。
  2. 松のあらし、谷のながれ、みつかいの歌もかくやありなん。
  3. 峯の雪とこころきよく、雲なきみ空とむねは澄みぬ。
  4. みちけわしくゆくてとおし、こころざすかたにいつか着くらん。
  5. されども主よ、われいのらじ、旅路のおわりのちかかれとは。
  6. 日もくれなば、石のまくらかりねの夢にもみ国しのばん。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%B7%AF%E3%81%93%E3%81%88%E3%81%A6 には以下のような紹介があります。
____________________

西村清雄が作詞した、もっとも有名な日本人の創作讃美歌の古典。

1903年(明治36年)2月上旬、宇和島教会で伝道を続けていたアメリカン・ボードの宣教師コーネリア・ジャドソンの応援の帰り、鉄道が開通していなかったので、法華津峠鳥坂峠で夜を迎えた。大洲まで五里もあると思うと心細かった西村は、三輪源造が新作讃美歌を見せてくれたことを思い出して、『ゴールデン・ヒル』(Golden Hill、作曲は一説にAmzi Chapinとも)の歌調にあわせて、一句一句作った。一節できるごとに歌ってみたら、寂しさがなくなり、山路を楽しむことができた。これが、「山路こえて」という讃美歌である。これが1903年の明治版讃美歌に採用されもっともポピュラーな讃美歌になり、今日も讃美歌の404番として有名になった。1952年(昭和27年)に、この曲を作った法華津峠に歌碑が立てられた。松山バンドの信徒たちは、自己の心情に福音の響きを反響させ、その信仰体験を詩歌として表明して、日本の文化的感受性をもて福音に応答するように勤めていた。この讃美歌はその信仰の姿勢の代表的な例である。

______________

曲と一緒に聞きたい方は http://www.youtube.com/watch?v=CByREWaFFrI をクリックして下さい。

この歌には次のような意外なエピソードがあります。

__________________

信仰の明澄さを日本の原風景によって、詩情豊かに歌い上げたこの賛美歌は多くの人々に愛唱された。1つ例をあげる。作家三浦綾子に「母」という長編がある。戦争の時代に築地警察署で、特高警察の手によって拷問の果てに殺された作家小林多喜二の母の一生を描いている。
 多喜二の母は晩年キリスト教に近づき、自分の葬式はキリスト教でしてもらおうと思うようになった。その多喜二の母がその死の日まで、愛唱していたのがこの「山路越えて」であったという。
 「うたってみれってか。……ちょっとご詠歌に似てるどもね。6番まであるけど、3番までうたっているうちに神様の所さ着くべさ。……わだしね、この歌大好きなの。それはね、わだしの生まれた所秋田県だべし。ほら、大館って、忠犬ハチコーで有名な所ね。あそこの奧の田舎がわだしの生まれた故郷だども、この歌うたうと、あの辺りが何とも目に浮かぶのね……あの辺りの山ば、イエスさまの手にすがって歩いて行く自分の姿が、はっきり見えるみたいで、この歌うたうと、何とも言えず安らかな気分になるんだ」
(『母』三浦綾子 角川書店)
 
http://www.trancewave.tv/~iyosaiken/saiken/2001_09.php

_______________________

私は4番と5番の歌詞に激しい感動を覚えました。勝ち負けに関係なく、終わりの無い抵抗、終わりのない模索は、そのその行為そのものが尊いと知りました。4番から5番への逆説的な飛躍の意味を静かに味わいたいと思います。

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。