那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

私と実験映画

2017年11月02日 | 芸術・表現

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。 http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

 また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今後は二回目から講演者に5千円は差し上げます。医療だけでなく歴史や芸術についても講義できるようになりました。私は八王子五行歌会の代表です。賛同される方は私まで電話を下さい。042-634-9230。

私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)

今後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会費と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。 http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html             入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

なお、微笑禅の会の口座番号に変更があります。入会手続き入会金なし。会費は年に5千円とし、ゆうちょの以下の振替口座 00130-7-447671 名称「微笑禅の会」に振り込んでください。その際は住所氏名他連絡先、男女の区別を明記して下さい。以上、会員になりたい方はこの口座に会費を振り込りこんで下さい。

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私が早稲田大学第一文学部を卒業した後、サラリーマンになるつもりは全く無かったので就職活動は一度もせず、田舎の親からの仕送りで生きる方法を考えた。そこで大学院に進もうと思ったのだが、私が学びたかった最新の詩学は早稲田大学文学部には無かった。今は知らないが当時は明治以前の文学しか教えていなかったからである。そこで、映像詩ならあるだろうと思って、当時の早稲田大学演劇映像専修を調べて見ると、毎年のように30人ほどが受験して合格者はせいぜい3人、合格者ゼロの時もあった。そこで、日大の事務所に行き、事情を話して過去の日大大学院の問題を見せて欲しいと話したところ、事務員が「せっかく早稲田大学を出たのに、日大の大学院に入るのは持ったないので、やはり早稲田の大学院を受験してはどうですか?」と助言を受けた。正論と言えば正論だが、日大の職員がそんなことを言っていいのだろうかと不思議な気分になった。

元々私は映画青年では無かったので、都内にある名画座を見て歩き、いわゆる古典的名画は全て見てメモを取った。そして大学院に合格したわけだが、この時も30人ほどが受験して3人しか合格者がいなかった。そこで私は映像詩を見て回ることになった。当時実験映画と言われる映画を上映するのは中野にあったプランBという地下室か、新宿3丁目にあったイメージフォーラムしかなかった。

そこで、私は両方の映画館を片っ端から見て回りメモを取ることにした。二つの映画館とも私一人かせいぜい2人の観客しかおらず、よく風邪を引いたものである。私が実験映画の本質を理解したのは、名前は忘れたが、プランBでアメリカのアンダーグラウンド映画を特集した時である。その中の一作品は、全く登場人物が出て来ず、家の周りの壁や、土や、蜘蛛や、埃などを露出もデタラメ、以上に速いパンニング(スラッシュパン)、画面のサイズも次から次に変わるという作品だった。おそらくスタン・ブラッケイジの作品だと思うが確信はない。この映画を見て、彼らがやろうとしているのは、通常の美的概念を破壊することだと分かった。私は卒論に「中古天台本覚思想と前衛芸術」というテーマで提出していたので、あらゆる人間が仏になれる凡夫即仏の思想と実験映画の美学が共通していることに気づいた。

大学院二年生になった時、常連になってイメージフォーラムに通っていた時、早稲田の先輩の池田さん(月刊イメージフォーラム誌の編集長)が、IFF(イメージフォーラムフィルムフェスティバル)を見た感想を原稿にしてみないかと声をかけてくれた。その原稿が私の文章が雑誌に載った最初である。それが認められて、自分の好きなタイトルで原稿が書けるようになり、私は「居田伊三雄の聖体示現ー影踏み論ー」という評論文を書かせてもらった。その作品は居田さんが構造映画から脱皮して本格的なシュルレアリスム作品に足を踏み入れた記念碑的作品で、私はイメージフォーラムで何度もこの作品をみて、鳥肌が立った。それほど感動した作品を分析するのは容易なことではない。感動は情動或いは左脳でするものだから、それを分析して右脳に移し翻訳する必要があるからである。

大雑把にその作品を解説すると、作者はカメラだけを持って近くの山の中に入り風景を撮影するのだが、砂が蟻と太陽と比較され、つまり極小のものと極大なものとがアナロジーで並んでいき、また構造映画を潜り抜けた人だけあり、影の構造主値的な分析が行われる。例えば崖に移った作者の影は、実写でも、壁の映像を自宅のスクリーンに映しそこに人影を二重に移して再撮影したものとでは一見同じに見える。

さらに騙し絵(トロンプ・ルイユ)が現れる。突然カエルが雲の上に載り、飛び跳ねるのである。これは土の中に鏡を置いてその上にカエルを探して来て置いて撮影したものである。お金のかかる道具は一切使わず、身近なものを使ってこのようなトリックが出来るとは何という才能だろうと思った。

さらにこの作品には有名な実験映画の場面が10カット以上現れるので、記号論でいうコノテーションの嵐に見舞われる。つまり他の作品の引用により、映像が多義性を獲得するのである。

ざっくりと言えばそのような内容の原稿を書いてイメージフォーラム誌に載せてもらった。これを読んだ藤井晴美氏が「日本の実験映画にやっと本格的な批評家が出てきた」と褒めてもらった。またその原稿をコピーして居田氏本人に送ったところ、13枚もの手紙が帰って来て、「私が左脳で作ったものを那田さんが右脳で分析してくれました」と書いてあった。但し、私が引用として指摘した場面については、3分の1は意識的な引用、3分の1は無意識の引用、3分の1は偶然と書いてあった。これは昔から言われるもので一流の芸術家は万物照応というか、時代と文化を隔てて同じ対象に感動する現象だと分かった。

また、アンダーグラウンド映画の巨匠と言われる金井勝氏の批評も何度も書いて、金井氏から「俺の批評が出来るのは那田ちゃんしかいない」とか「お前は俺のメインマン(レインマンのモジリ)」と言われた。当然居田氏もmixiに私を絶賛する推薦文を書いてくれた。

このようにして私の実験映画批評家としてのスタートは順風満帆に始まったのだが、現在ではイメージフォーラム誌も休刊になり、何よりも、実験映画そのものが成立しない時代になった。これは私が何かの雑誌か研究機関誌に書いたと記憶するが、前衛芸術が成立するには次の3つの構造的要素が必要となる。

1.好景気。2.革命思想。3.安価な機材。

ところが現代はこの3つともがかけている。平成の大不況は終わりそうも無いし、革命思想など地を払ってない、またビデオをパソコン編集するためにはかなりのお金がかかり、以前のように8ミリ映画のような大衆文化ではなくなってしまったからである。

また私は金井氏のHPに寄稿した「愛媛からの手紙」という評論文がある。そこに書いたことは、かなり重要な私の思想をパラダイムシフトしたものだ。まず、当時は軽蔑されていた小型映画から我々も学ぶべきところがある、と小型映画の意義を強調した点である。私は1990年の初頭から戦前の小型映画の研究を行っているが、20年以上遅れて2000年の初頭あたりから映画研究者がこの分野に論文を書き始めた。「映画学」という早稲田大学の雑誌に私は松谷容作氏の論文を徹底的に批判したことがあるように、近年の研究者は実証主義的な研究を徹底せず、自己主張のために事実をゆがめてしまっている。

その話はさておき、私が「愛媛からの手紙」に書いたことは前衛芸術研究、芸術研究のアポリアとして永遠に解けない問題である。というのは、日本で前衛映画が盛んになったのは、戦前の1920年代後半から30年一杯(40年初頭)までと、戦後の60年代から、70年初頭までだが、この当時は前衛映画が若者にとっての流行、メインストリームだった。メインストリームに乗った作品が果たして前衛精神を持っていると言えるだろうか、という難問である。また、もう一つは、一流の芸術家と田舎で釣りをしている老人と、どちらが精神性が高いかは全く分からないという難問である。

「愛媛からの手紙」のテーマは、結論に置いて芸術は過剰なもの(無くても人間は全く困らないもの)であり、趣味と娯楽は構造的に必要なもの、と言うものであった。私を批判するのが大好きな人は、それは当然ではないか、と言うが、これを発見し実証的に証明するのは、リンゴの実が落ちるのを見たニュートンが万有引力の存在を発見したのと同じような大変な発想の転換が必要なのである。

また話が飛ぶが、これらの私の批評と論文をまとめた「早すぎた研究ー戦前の小型映画から戦後の実験映画までー」という本は本来は2~3年前に出版されていた筈である。京都大学大学院の名誉教授が出版社を見つけているにも関わらず、未だに出版されていない。それはこの編集を引き受けた早稲田大学大学院の佐藤洋という人物が1~2年前から何度メールしても電話をしても姿を消してしまったからである。この出版には高価な資料とインタビューが必用なので、私が一人で編集し終わることは出来ない。私は本当に頭に来ながら毎日メールを出しているが全く反応がない。元々気の弱い人間なので、何に忖度しているのだろうと思うが、この人間一人のせいで私の長年の研究成果が未だに世に出ないでいる。本当にダメな人間に編集を頼んだものだと思う。私の研究成果だけでなく、戦前の小型映画作家、戦後の実験映画作家にも、彼のネグレクトは多いな損失であり、到底許すことは出来ない。



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