那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

秋山好古

2013年01月12日 | 愛媛自慢
午後11時過ぎ、今日はまだ夕ご飯も食べてないのでブログを休もうと思ったが、究極の手抜きでwikiから秋山兄弟の兄のほうを抜粋引用し、一言感想を書きます。
___________________

風貌は特徴的な鼻から「鼻信」とあだ名され、長身で色白、大きな目であり、陸軍大学校時代には教官のメッケルからヨーロッパ人と間違えられたというエピソードがある。
青年期の頃から眉目秀麗と称賛され、故郷の松山や留学先のフランスでは女性にかなり人気があったという。しかし彼自身は「男子に美醜は無用」という価値観を持っていたため、自分の容姿を決して鼻にかけることはなかったという。

酒を非常に好み、戦場でも水筒の中に入れ持ち歩いていた。それだけでは足りず、従兵が気を利かせて、従兵の水筒にも酒をつめていた。騎乗で身を乗り出し従兵の水筒の酒を飲み干すなどの曲芸まがいの事が出来部下たちを感嘆させた。しかし酔って自分を見失ったり判断を誤ったりすることはなかった。過度の酒好きにより晩年は重度の糖尿病を患っていた。

極度の風呂嫌いで、日露戦争中に入浴したのはたったの2回だけだったと云う。軍服も全く洗濯せずに着用し続けていた為シラミが湧き、近くにいるだけでも異様な悪臭が漂う程だった。部下や同僚が入浴し身体を清潔にする様に何度となく勧めたが「軍人たるもの戦場においてはいつ何時でも敵に対処出来る様にしなければならない(入浴している間に異変があった時対処出来ない)」「風呂に入る為にこれ程遠い戦場まで来たのではない」と言って断っていた。

晩年は自らの功績を努めて隠していた。校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢する事は無かった。

弟・真之が生まれた際、生活苦から寺へ出そうかと話がでたが、「将来あし(自分)が豆腐(の固まり)ほど厚い金を稼ぐからに、弟を寺へやらないでくれぞなもし」と両親へ懇願した。

非常に質素な生活を送り、贅沢を嫌った。例えば、食事の際のおかずは沢庵漬のみ。真之が居候をしたときも食器は1つで使いまわす。足袋を履かせない。他の兄から貰った縮緬の帯を使わせない。下駄の鼻緒を直している暇があるなら裸足で行け、など。

欲の無い人物として知られている。凱旋した際、給料や品の多くは部下に与えていたため、目録や明細書ばかりカバンに入っていた。

第2回万国平和会議に参加。各国委員会による演説が行われても鼾をかいて居眠りをしていた。一緒に参加していた都筑馨六から注意されると「演説の要領は分かりましたよ」と応えたという。

フランスに騎兵留学中、当時の陸軍の最高位にあった山縣有朋にフランス軍内の高級軍人へのお使いを頼まれたことがあったが、使いの途中の電車内において酒を飲みすぎ、居眠りした揚句、置き引きにあっている。

陸軍大学校で、学生たちに騎兵の特徴(高い攻撃力と皆無に等しい防御力)を説明する際、素手で窓ガラスを粉砕。血まみれの拳を見せ、「騎兵とはこれだ」と示した。
_____________________

いやあ、豪快ですね。酒を飲んで糖尿病で心筋梗塞で死亡、私は今年の目標は健康回復ですが、酒飲みなら本望でしょう。
 秋山兄弟の行動を見ていると典型的な天才型で、国難の時にはこういう人物が現れて日本を救うんですね。
 愛媛、特に松山はこういう軍人や俳人などを輩出している面白い土地柄で、以前書いたように賊軍になった側の武士の末裔には素晴らしい人が一杯います。松山は松平藩で、私の故郷は宇和島藩にあたります。宇和島周辺にも面白い人が一杯いますので、今度紹介します。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。