那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

どっちもどっち?

2013年01月31日 | 

最近懺悔の問題について書いた。
それで前から気になっていた逸話を一つ。

私が見性体験を繰返していた頃、カンが鋭くなりすぎて時々元妻を叱ったことがある。
 妻にはADDという障害があり、子育て以外は注意力散漫で何を頼んでも二度手間になるタイプ。逆にこちらは過剰に神経が鋭くなっているので、どちらが悪いのか分からないことも多い。

その頃私は慢性睡眠不足で早朝から深夜まで動き回っていた。
 毎朝、隣室から現れる妻にコーヒーを買って貰っていた。これは毎日続いていた。

ある日、いつものように妻が現れたので120円を渡してパソコンのキーボードを打ちながら「コーヒー」と言ったら、妻が「買ってくるの?」と聞き返した。

私は妻が何を言ってるか分からなくなり「え、お前は120円持ってコーヒーを売って来るのか? いつからうちはコーヒー屋になったんだ?」と聞き返した。

意地悪婆さんのように敢えて嫌味を言ったのではない。びっくりして、咄嗟にごく普通の質問をしただけである。

この会話は、妻にも悪い点がある。毎朝の注文なのだから
「いつもの?」と聞くなら分かる。ところが「買ってくるの?」と答えたので、私は訳が分からなくなった。この点では妻があまりにもボンヤリしすぎていた、と言える。

が、私にも悪い面もある。その同じ言葉を、笑いながら語れば「愛語」になったのに、常にピリピリしている状態だったために、自分の弟子に対するような感覚で質問してしまった。「そんな心がけでどうする?こっちは寝る時間を削り、命を削って朝からパソコンで仕事しているんだから、もっとしっかりしろ」という自分の緊張感との比較が確かにあった。だから批判になってしまった。

同じ言葉でも、温かい雰囲気が生まれるように配慮しなかった点は私が悪い。ボンヤリして、またやや面倒臭そうに「買ってくるの?」と聞いた妻も悪い。
 今の私なら同じ言葉でも優しく答えただろう。この点は後悔している。

これは単なる倦怠期を迎えた夫婦の典型的な会話のようだが、やや違う気がしている。
 怒るのは「期待している」という意味では深い愛情表現の一つである。期待していなければ、この女性はここまでの器だと最初から諦めてしまっているので、丁度ヘルパーさんが被介護者に向かってものを言うように愛語に変わっていただろう。この辺り、どっちの言い方に本当の愛情があるのか見分けが難しい。

表層の下にはややこしい構造があり、厄介な解釈が伴う。
 愛語が正しいのか、怒るのがいいのか、未だに分からないことが多い。今私は母の介護をしている。実の親だからヘルパーさんのように上手に扱えない。怒ることの方が多い。これが諦めになって、何でもおだてて褒め出したときのほうが悲しい。