猫のキキとヒゲおじさんのあんじゃあない毎日

『あんじゃあない』って、心配ない、大丈夫っていう群馬の言葉、いい歳こいたキキとおヒゲのどうってことない前橋の暮らしです

<おヒゲは咽頭部の検査で入院して留守なの、ごめんなさい。代わりに2017年4月におヒゲが前橋のまちのこと書いた文を載せます>キキ 

2020-11-30 07:50:40 | あんじゃあない毎日

 <キキです。おヒゲは前橋赤十字病院に入院中です。今日10時から、咽頭がんの疑いが強い咽頭部の腫瘍について、全身麻酔をしたうえで、患部の精密な検査を受ける予定になっています。退院は明日の予定です。
ということで、おヒゲは記事の更新ができないので、キキの独断で、以前、おヒゲが前橋工科大学総合デザイン工学科の学生の皆さんに前橋のまちのことをお話しした時の資料を公開します。ちっとんばいは参考になるかもしれないので…>

 <2017年4月27日、「ヒゲおじさん編『前橋の禍福』」というタイトルのお話です>

□ 利根川の流変がもたらした幸い

前橋の中心市街地は、かつて利根川の川底だった。

このあたりの利根川は、浅間火山の噴出物が堆積した『前橋台地(前橋泥流層)』を削り、渓谷をなして流下している。このため、巨大台風の襲来等により何度か流変を起こしている。『流変』とは川の流路が大きく変わることで、最も新しい流変は、15世紀初めとか16世紀中ごろとか諸説あるが、利根川の流路が大きく西へ変わり、ほぼ現在の川筋となった。それまでは、前橋台地の北辺を東行し、前橋台地の東を削り取って、伊勢崎市方面へ流下していた。現在の広瀬川・桃ノ木川の流路が利根川の川筋であった。
この利根川の流変はこのまちに大きな幸いをもたらした。

  •  旧流路が利用可能な広大な荒れ地としてもたらされた。この荒れ地の開拓の用水として造られたのが広瀬川(旧名:比刀根川)で、流変直後の16世紀後半には旧流路に残された利根川分流を利用してその原型ができたという。1601年、酒井重忠が厩橋藩主となってからは、厩橋藩(後に前橋藩)が直接管理する疎水として維持管理されてきた。利根川の流変は、前橋に多くの優良農地をもたらした。現在でも広瀬桃木用水は約2200haの農地に水を供給している。
  •  流変で戦国時代の城は消失し、前橋台地西端の利根川河岸に新たに厩橋城が築かれ、江戸時代に前橋藩として独立することができた。そして、酒井家の支配下で前橋城下が整備され、旧流路に城下町がつくられた。利根川の流変によって、現在の前橋の地域原型ができた。酒井家による養蚕の奨励により繭と絹糸の生産の基礎がつくられ、経済基盤の一つとなった。

 

□ でも、利根川の氾濫に手を焼いた松平家は逃げた

前橋藩になっても、利根川の治水は困難を極め、大型台風の襲来のたびに前橋台地を侵食し、氾濫を繰り返した。1699年の氾濫では前橋城と城下が大被害をこうむり、1706年には前橋城本丸の櫓が倒壊、1767年には前橋城本丸部分が完全に浸食され、消失した。
当時の藩主松平家は財政難、城の修築を断念し前橋城を放棄、武蔵野国川越に引っ越した。これにより前橋藩は廃藩、川越藩の領地となり、前橋城は取り壊され、のちの浅間山の天明の大噴火による泥流に埋まった堀では水田が開かれた。城主の不在により、前橋城下は藩士のほとんどがいなくなり、城下は衰退した。

□ 消えた7万7千8百両(幕末だから、今の金に換算すると3億円ぐらいかな…)

城主の逃亡で前橋には城がなくなってほぼ100年、城下は衰退したけど、周辺の繭生産と生糸生産は右肩上がり、前橋のまちは生糸取引で生き延びていた。その取引でしこたま儲けた絹商人たちは、前橋藩の復活を夢見て8万両近くの資金を用意、前橋城の再築を松平家に求めた。ときは、幕末、江戸幕府崩壊のカウントダウンが始まってたんだいね。
それでも、1864年前橋城の再築工事に着工、3年後の1867年に再築前橋城は竣工した。本丸には天守閣はなく、御殿がつくられた。前橋城が再築された1867年11月、徳川慶喜は大政奉還し徳川幕府は崩壊した。松平家はただちに徳川慶喜に同調し版籍奉還を申し出た。城は、数か月で無用の長物となり、1871年に取り壊された。

絹商人の7万7千8百両はムダ金だったのかなぁ、それが…

 

 □ 再築前橋城の御殿は群馬県庁の庁舎に、7万7千8百両は無駄にならなかった

明治維新後、1869年(明治2年)の廃藩置県で『岩鼻県』、1871年(明治4年)10月24日には『高崎県』、それがさ、3日後の27日には『群馬県』に名称変更された。なんで? それは高崎と前橋の間でどっちが新たに設置される『県』の中心として支配権を持つのか壮絶な争奪戦が始まったことによる。全国でも珍しい県庁盗り騒動…
1871年11月には、高崎城址に県庁建設計画が立てられたけどダメになり、1872年5月に県庁予定地が前橋に変更された。ところが、1873年6月に突然『群馬県』は廃止され『熊谷県』となって、県庁所在地は再び高崎に変更された。そして、1876年8月に再び『群馬県』という県名が復活したが、県庁予定地は『高崎』のまま。それが9月になると…
「花燃ゆ」に登場した楫取元彦が県令で着任、「高崎は嫌だ、前橋がいい」と宣言し政府も許可した。これが紛争に火を付けた。高崎の人々は「県庁を戻せ」と嘆願書を出すが、県令はただちに却下、高崎の抗議運動は過熱、勢いを恐れた県令は「前橋は地租改正がすむまで、いずれは高崎に戻す」と口約束、紛争を鎮静化させた。でも、1881年2月、県令は、「正式に前橋を県庁所在地とする」と宣言、政府の承認をとった。裏切られた高崎の人々は大抗議運動をしたが、県令は突っぱね、法廷闘争へ、裁判では県令が勝訴し、県庁所在市は前橋となった。
で、前橋の絹商人が7万7千8百両を拠出して作られた再築前橋城の本丸御殿は楫取県令の執務室、県庁となった。捨て金に見えた7万7千8百両は、前橋に県庁をもたらす一助となった。

 

□ 前橋の中心商業地は二つあったけど、一つは製糸工場とともに消えた

前橋町が前橋市になったころの市域は、北はだいたい広瀬川までだった。広瀬川の北は一毛村や才川村などで、前橋でなかった。1889年(明治22年)、前橋市は周辺の村を吸収合併し市域は広がった。特に、広瀬川の北側は前橋の新しい産業地として急速に開発された。
大正時代には、才川町を中心とする北部だけで40を超える製糸工場が立ち並び、2万人を超える労働者が新潟や東北から出稼ぎにきた。特に工場労働者の主力となった女工という若年女性労働者は数年間の『年季奉公』が基本、工場の宿舎で生活し、年季が終えると故郷へ帰っていくのがほとんどだったという。
この新しい工場地域で暮らす人々の生活を支える商業・飲食・娯楽・医療・サービス等の機能が集積した新しい市街地が形成された。それが才川通り、南北1㎞余の通りに商店等が軒を連ねていた。『厩橋劇場』という名の芝居小屋も存在していた。大正時代には、一日の通行人が2万人を超えた日もあったと記録されている。
今は、往時の面影はほとんど残していない。杉本肥料店の木造大型店舗、国の登録文化財に登録されている煉瓦造りの旧安田銀行担保倉庫などに、僅かに繁栄の跡を見ることができる。

□ 帝国陸軍に潰された製糸工場の一部は大型商業施設へ

太平洋戦争が始まって、敗色が濃厚になってきた1943年頃から、帝国陸軍は前橋の製糸工場を次々と接収し軍需工場化を進め、学徒を勤労奉仕名目で動員し無償で労働を強いた。前橋が誇る製糸工場『交水社』をはじめ、地元資本の製糸工場はそのほとんどが生糸生産をやめさせられ、軍服、パラシュート等の縫製作業を強制された。
終戦と同時に接収は解かれたが、製糸業は往時を回復することはなかった。
使われなくなった製糸工場の中でも規模の大きなものは、その後、1960年代に大型店をテナントとする商業施設に変化していった。

□ 前橋空襲は市街地の8割を破壊した

1945年8月5日の夜10時から、前橋のまちは米軍の空襲を受け、市街地の8割を消失、535名の命を失った。

襲撃したアメリカ軍のB29爆撃機 92機
投下された爆弾 723.8トン(焼夷弾 691.0トン 破裂爆弾 17.6トン
              通常爆弾 15.2トン)

焼失面積 市街地の8割  焼け落ちた家 11,518戸  死者 535名
             負傷者600名人以上

このまちはほぼすべてを失った。

 □ 戦災復興以降は、皆さんの目で見ることができる。

前橋空襲の直後から、前橋のまちは戦災復興が始まった。私は戦災復興の中で育った。
前橋市の戦災復興については、『戦災と復興』(1964年刊 前橋市戦災復興誌編集委員会編)に』詳しくまとめられている。
それに、皆さんの目で直接確かめることができる。
今の前橋のまちは戦災復興の結果として成立している。その後は、たいした『禍福』はもたらされていない。
戦災で灰燼となったこのまちは、わずか15年間ほどの間に再興されたまちが今の前橋だ。
みなさんの目でよく見て、考えてほしい。

 

□ 新しい歴史は若者がつくる

(おまけその1)ヒゲおじさんがこのまちについて書いたコラム数編。気が向いたら読んでください

2005年 タウン誌 Matto連載 『のんべえのほおづえ』より。
06は戦争の記憶を私をかわいがってくれた下駄屋のおじさんと新前橋の理研鍛造で敗戦を迎えた高柳重信の俳句で、07はこのまちの未来をゴッホの画集を抱える子供に託して、なのだ。
この街の新しい歴史は若者に託されいる。

 

そして 朝日新聞群馬県版に連載していたコラムの1篇(2008年4月から、前工大理事長を引き受けるまで連載)。これは呑竜仲店とそこに出店したヤギカフェのことを書いたものだ。

 

(おまけその2)は、大正の学生・田島丑太郎と明治の学生と大正の学生・高津仲二郎について簡単に紹介する。
若者は未来を創る。明治の群馬にも、大正の群馬にも、その先頭を走ろうとした学生がいた。
こういう若者が群馬にいたことを知ってほしい。

□ 上毛電鉄の計画つくった田島丑太郎
旧粕川村の地主の息子。大正時代、早稲田大学入学、渋川の江利川、桐生の関口ってダチと共同で「勢多郡下の交通に於ける軽便鉄道の敷設に関する専門的考察」って論文書いて、先輩で、後に、上毛新聞の社長になる篠原秀吉のとこへ持ち込んだ。桐生から赤城南麓を抜け前橋を通り利根川を渡って群馬総社に至る鉄道計画、総延長22.4キロというものだ。
篠原は、前橋市長の木村二郎や、糸繭商の勝山益太郎、群馬電力の小倉鎮之助なんかにこの計画を伝えた。小倉は、県知事の大芝惣吉や、藤岡の有力者で、群馬電力の創業者、高津仲二郎と相談し、丑之助の計画を拡充して、総延長約120kmの路線敷設の計画を作成、群馬県議会や、埼玉県、鉄道省と交渉を始めた。結局、前橋-大胡-大間々-桐生間、大胡-伊勢崎-本庄間、新町-藤岡-鬼石間の3路線で鉄道省の認可を受け、1924年(大正13年)上毛電気鉄道を設立、1928年(昭和3年)に桐生前橋間が営業を始めた。

田島丑太郎は、大学で勉強して得た知恵を、実際の世の中に当てはめて、世の中良くしたいって考えたんだいね。思い切りいいやね、田島が論文まとめて提案をしたのが、1920年頃らしいから、10数年で学生の提案が具体化し、実現した。
この話、詳しくは、高崎経済大学の『上毛電気鉄道の設立と創業期の鉄道計画に関する研究』(大島登志彦・石関正典)にまとめられている。大正時代の元気の良い大学生の姿だ。

□ 藤岡の高津仲二郎(1857年~1928年)この人もすごい。

田舎の養蚕農家の息子だけど、板垣退助の愛国社に加わり、自由民権運動に参加、早稲田大学の前身の東京専門学校へ入学、在学中の1884年(明治17年)に群馬県議会議員選挙に立候補して当選。それで、1890年(明治23年)、最初の国会議員選挙に出馬、33歳で衆議院議員になる。でも、本当にすごいのはここから、国会議員を3期やった後、北海道の開拓に新天地を求め、室蘭の近くに1500haの開拓地を作り上げて群馬に戻ってくる、そして、今度は電源開発に取り組み、群馬電力株式会社を創立したんだ。教育にも手を出した。1897年(明治30年)群馬尋常中学校(現前橋高校)の分校を高崎に開設することを提案し、実現させている。現在の高崎高校の前身となった学校だ。苦労して早稲田に学んだ高津は、地元に中学が必要なことを痛切に感じていたんだな。敬虔なクリスチャンで、群馬の廃娼運動の先頭にも立った。いろんな分野に手を出すから、何度も失敗を重ね、挫折を味わいながら、挫けずに頑張った明治の学生だ。

 

 <おヒゲは、前橋のまちが失うことから生まれてきた歴史を知ってもらいたかったみたいです。そして、その歴史を担った人々の中に、元気の良い、素敵な若者たちがいたことを伝えたかったみたいなんです。
今前橋のまちでは、前橋ビジョン「芽吹く。」で新しい胎動が始まっている一方で、知事が県民会館廃止を叫んだり、戦災復興の記念碑的ゾーンの呑竜仲店でもおかしな動きが始まっているみたいです。そんなときなので、おヒゲがそもそもどんなこと考えているのかを知ってもらいたかったのです。
読んでいただいた皆さんに患者申し上げます。

おヒゲは明日帰ってくるはずです…>

 

 若柳吉駒でございます。4月12日に開催を予定しておりました第77回美登利会につきましては、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて延期してまいりましたが、秋になりましても、お客様に足をお運びいただくうえでいろいろな心配が解消できませんことから、来年の春まで延期させていただくことといたしました。誠に申し訳なく存じますが、どうぞお許しの上、来春の開催までのお待ちをお願い申し上げます。

第76回美登利会と三代目吉駒襲名リサイタルの舞台はこちらでご覧いただけます
お稽古場は前橋市城東町、詳しくはこちらをご覧ください