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猫のキキとヒゲおじさんのあんじゃあない毎日

『あんじゃあない』って、心配ない、大丈夫っていう群馬の言葉、いい歳こいたキキとおヒゲのどうってことない前橋の暮らしです

前橋の路地はキキの番外編、Hさんちではインコが子育て、立川町にツバメが戻ってきて、ゑびす坂では松井淳さんが脚組んでた、雨上がりでした…

2018-04-19 06:00:54 | 前橋の路地

<この写真は広瀬川の十六本堰の写真なんです。昭和5年に改修されたときの記念写真らしいんですよね。堰の上に人が大勢いるでしょう…>

 <キキです。お久しぶりです。
あんね、昨日の「前橋の路地 第38回」なんだけどさ、おヒゲは取材不足だと思うのよね。
そいで、キキが補うことにしてさ、広瀬桃木両用水土地改良区の『美土里ネット広桃用水』に掲載されている十六本堰の写真をお借りしてきたんです。

そいでね、「前橋の路地番外編 第38回に関するキキによる補遺」ってのを書いちゃいましたんで読んでください>

 

   
       前橋の路地番外編 第38回に関するキキによる補遺

 <左がさ、昭和5年の十六本堰の写真です。それまではね、松の木の杭を打ち込んで板で水をせき止める恐ろしく昔風の堰だったんだそうです。広瀬川から端気川へ水を分けるために最初に堰が造られたとき、打ち込まれた松杭が16本だったんで、それで『十六本堰』と呼ばれるようになったっていうことです。江戸時代のことですよね。
それが、コンクリート製の堰に改修されたのが昭和5年のこと、この写真なんです>

 <これは今の十六本堰、昭和5年完成の堰が古くなったんで、平成8年から改修工事が始められ、平成12年3月に完成した新しい堰なんです。だから、前の堰は60年以上ずっと使われていたんですね>

 <そいでね、キキはさ、60年以上前にこの堰の近くで生まれてずっと暮らしてきたおばさんからお話しを聞くことができたんです。そしたらさ、おヒゲが書いた「消えかけている路地」のお話しはね、この堰から始まらなくちゃいけないって気づいたんです。>

「そうなのよ、写真で分かる通り前の堰はさ、堰の上を渡るいことができたのね。もちろん、家の人からは渡っちゃいけないってきつく言われてましたよ。でもさ、怖いことってしてみたいじゃない。それとさ、橋を渡るよか近道だったのね。もちろん堰の管理をする人がいると、こらっ! って叱られるから近づけなかったけどね、いないのを見計らって堰の上を渡っていたんです」
<怖くなかったの?>
「そりゃ怖かったですよ。足の下を水が大きな音を立てていっぱい流れ落ちてくんだもんね、怖いったってたいがいじゃなかったわよね。でも、学校へ通う時なんか、家の人に内緒で渡ってたんです」

  「それでね、堰を渡って橋の袂のとこからこの路地を通り抜けたのよね」
<お家はどのくらいあったの?>
「いっぱいあったわ、電柱のとこまでで10軒以上あったかしら。路地に面した家だけでなくて、その後ろの線路との間にも家があった気がするわね。家がびっしりあって、いつも人声がしてにぎやかだったのよね」
<ふ~ん、賑やかだったんだ…>
「橋の通りにはさ、酒屋さん、お惣菜屋さん、洗濯屋さん、タバコ屋さん、床屋さん…、お店も並んでたのよ。路地の対岸、芳町側にはね、うどん屋さんや旅館もあったのね>
<へぇ~>

 「路地はね電柱のおしまいあたりのとこで川岸から右に曲がって、線路と川の真ん中ぐらいを通っていたのね。そこはさ、路地の両側に家が並んでいたの。おヒゲさんンが『菜園』だって言ってるところですよね、ここにもいっぱい家が建っていたのね」
<そうなんだ、最初から菜園じゃなくて、その前には家があったんだね…>
「そうよ、それで、家に挟まれた路地を抜けるとさ…」

 「線路端の川岸の『道』へで出るの。通ろうとして見つかるとね、子どもは通ちゃだめだよって注意されたけど、あかんべぇ~して通っていたのね」
<悪い子だったんだね…>
「そう、あたしの頃の子どもはたいがい少し悪かったのよね」

 「それでね、桃井橋の袂にある踏切に出るじゃない、ここの踏切には、昔は踏切番のおじさんがいてね、電車が通るときには手動で遮断機を降ろして、旗で安全を運転手さんに知らせていたのよね」
<踏切番のおじさんってのがいたんだ…、すごい…>
「そうなのよ、その踏切番のおじさんに見っかるとね大変だったの、きつく叱られてね。だから、見っからないように屈んで走り抜けてたのよね…」
<すごいお話しだね…>
「怖いことって、楽しかったのよね、だから…」

 <ということなんです。昭和20年代にこのあたりで生まれて育ったおばさんのお話しなんですお
おヒゲが紹介した「広瀬川沿いに消えかけている路地」にはさ、こんな思い出も沁みこんでいるみたいなんです。面白いよね…、それなんで出てきちゃったんです。いかがでしたか…>

  
         前橋の路地番外編 おしまい

(注)キキの写真は、2011年4月19日撮影のものです

 

  昨日の前橋は朝からずっと雨でした。雨があがったのはお昼ごろ、あがるのを待って用足しに出かけたんです。それなんで、番外編をキキに作ってもらってたんです。

   伴内酒店に寄ってお酒を注文して、太陽の鐘に挨拶して、雨上りの広瀬川を眺めながら、住吉町1丁目のHさんのところへ行ったんです。
インコがいるんです、Hさんちには。そいで、子育ての真っ最中でした。右の写真分かりますか、良く肥えてまん丸なヒナが巣箱の中で折り重なっているんです。三羽いるのですが、写真では2羽が見えてます。左下が頭です。
それから、岩神町の養田鮮魚店へ行って…

  立川町へ戻って来たら、顔の前をなんかが通り過ぎてったんです。すごいスピード!
ツバメです。ツバメなんです。今年も戻ってきたんです、南の島から。「お帰りなさい」なのです。

そいでね、店休日の中央通商店街を抜けてゑびす坂にきたら、おじさんが一人椅子に座っているではないですか、おかしいの…

 知ってる人だったんです。建築デザイナーの松井淳さんです。格好いいですね、脚なんか組んじゃってさ。
「何してんの?」
「前橋まちなかエージェンシーの前橋デザインスクールが今日から始まるんです」
「始まると、通りで脚組んでポーズするんだ…」
「違いますよ、初日なので取材が入って、その写真撮りしてるとこです…」
松井淳さんは、前橋デザインスクールのスクール長をつとめているんです。ありがとうございます。

開校のようすは、まちなかエージェンシーのFBを見てください。

  夕日がきれいでした。
十六本堰も輝いてました。いいですね、雨上りの夕日…

 

 夕食には、Hさんにいただいたベトナム産のワインをいただきました。おいしかったです。

   料理もワインにあわせて、タコと新タマネギのサラダ、ラディッシュと木の芽をトッピングしてとさ、アジの刺身レモン添え、それとマグロの漬けの山かけにしました。みんな養田鮮魚店の魚です。アジはさ、愛媛県は宇和島産、マナティーさんの故郷のアジ、一尾600gを超える大きな釣りアジでした。さすがおいしいですね。

 で、〆は、アジ茶漬けです。おいしかったです。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
8日に催しました美登利会にお運びいただきました皆さま、開催に当たりましてご支援いただきました皆さま、ほんとうにありがとうございました。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の吉啓、二代目吉駒と続けてまいりましたこの会をなんとか途絶えさせることなく続けさせていただくことができましたのも、皆さまのお力添えのおかげでございます。心から御礼申し上げます。
これからも、二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、よろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。ありがとうございました。

4月8日の第75回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす
お稽古場は前橋市城東町四丁目です。詳しくはコチラをご覧ください

 

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アカバナトチノキが咲き始めた日の前橋の路地は「広瀬川沿いに消えかけている路地」

2018-04-18 06:32:18 | 前橋の路地

昨日の昼過ぎの太陽の鐘です。
<これから昼飯かい?>
「そうなんです。病院へ行って、用足ししてて、ちょいと遅くなりました…」
<今日もあおい食堂かい?>
「そうなんです、あおい食堂なんです…」
えらく日常的なあいさつになってきちゃいました。

 太陽の鐘の周りに植えられた木々やその下のシダや苔なんかの植物も新芽を吹いています。太陽の鐘が緑に包まれ始めているんです。

 

  あおい食堂で昼飯を食べた帰りなんです。どんより曇り空、いつ降り出すかなって感じだったんです。
博英堂さんちの窓猫に会ったんです。挨拶したらさ…
<十六本橋の下のアカバナトチノキの花が咲き始めたってさ、さっきお客さんが言ってた>
「もう咲いたの…」
<写真撮って見せて…>

ということだったんです。見に行くことにしました。
ついでなんでさ、十六本橋近くで、間もなくすっかり姿を消してしまう路地があるのでお目にかけておくことにします。

 

   
     前橋の路地 第38回 広瀬川沿いに消えかけている路地

 場所は十六本橋の袂、大正10年竣工時の橋柱が残されている。路地は「十六ほんはし」と刻まれた橋柱のとこから始まる。

川岸にアスファルト舗装された道が見える。上流に向かって続いている。
その右の空き地の先には上毛電鉄の線路、道の端には電柱が立ち並んでいるが、もう架線は取り外されてトマソン状態で突っ立っている。

見通して三本目の柱のとこまでは家があった。この道に沿って人が暮らしている家が立ち並んでいた。上電の踏切のとこには理容店もあって、線路と川の間にはヒトの暮らしが確かに存在していた、つい最近まで。

 私が城東町に移り住んできたころには6〜7軒の住家があった。
「二中地区区画整理事業」が進むと、ここで暮らしていた皆さんは次々と他のところへ引っ越して行った。新しい家を作って…
そして、昨年、すっかり空き地となってしまった。

  空き地になってしまったところの前の道、川岸には、ヤマブキだの、ツルニチソウなんかが川に枝垂れて咲いる。ここに暮らしていた皆さんが育てていた花だと思う。

 

 

電柱がおしまいになった先は、家庭菜園に使われていた。
聞いた話だが、ここは市有地で、市が地元民に菜園として使うことをオーケーしていたのだそうである。それで、さっきの道沿いに暮らしていた人たちや線路の向こう側の人たちが利用していた。それなりによく手入れされた、きれいな家庭菜園だった。

 しかし、家屋移転が始まると菜園をやる人が次々と減っていって、そして荒地のようになってしまった。今でも、線路の向こう側で暮らしている人が2区画ぐらい菜園を続けているが…
路地の続きは、この荒地のようになった菜園の中を抜けている。

使われなくなった菜園にはモミジバキイチゴがのしてきている。威張って荒地を占拠しはじめている。

 白い花はきれいだ。それにオレンジ色したイチゴの実がなる。鳥たちがよろこんで食べに集まる。人が食べてもおいしい。

 

菜園を抜けると、線路と川の間のとても狭い、路地ともいえない踏み分け道になる。
でも、人々の暮らしがあった時には、この狭い線路端を通る人の姿があった。自転車を押して行く人の姿もあった。学校に通う子どもたちも使っていた。

 踏み分け道と線路の砂利の間はスズメノエンドウが茂っていた。
かつて人が歩いていたころには、草は茂っていなかった。

 道は桃井橋の袂で終わる。
路地のおしまいのところには大きな柳の木が暮らしていた。5〜6年前に倒れる恐れが出て伐採された。
この柳は、『前橋新風土記』(1953年 酒井松男編 挿絵:清水刀根・川隅路之助 前橋風俗研究会発行)にも、桃井橋の袂の柳の風情が何ともよろしいと紹介されていた。
今はなき上電横丁の飲み屋街で遊び暮らした御仁たちを見つめ続けた柳であった。

 

桃井橋の上から、通ってきた道を振り返る。もうじき、この道はなくなる。

  
            前橋の路地 おしまい

 

  博英堂さんちの窓猫が言っていた通り、十六本橋の下流、三河町川の川岸のアカバナトチノキが花を咲かせ始めていました。
この樹も、区画整理事業が進むと見られなくなるんだろうな。

   「寒い、温かなのがいい…」、ユキ子さんの注文で作った温かい夕食、冷凍保存していたトウモロコシのコーンスープ、サラダはベーコン入りの熱々のマッシュポテトに春キャベツの千切り、ラディッシュ、エリンギのオリーブオイル煮です。
そして、牛肉のソテーにアブラナとウドを添えて、ポン酢でいただきました。温かくできました。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
8日に催しました美登利会にお運びいただきました皆さま、開催に当たりましてご支援いただきました皆さま、ほんとうにありがとうございました。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の吉啓、二代目吉駒と続けてまいりましたこの会をなんとか途絶えさせることなく続けさせていただくことができましたのも、皆さまのお力添えのおかげでございます。心から御礼申し上げます。
これからも、二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、よろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。ありがとうございました。

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総社町の春景色見ながら、前橋の路地第36回は『カシグネのある山王の道』

2018-03-26 06:42:17 | 前橋の路地

これは『グネ』と呼ぶ家屋を冬の季節風から守る大きな生け垣です。使われている樹種がシラカシ(白樫)なので『カシグネ』とも呼ばれます。
大きな養蚕農家、二階建ての建物の北側と西側をカギの手に囲うようにつくられているものと、北側だけに衝立のように立てられているものとがあります。その高さは10mほどあります。
火山灰土の関東内陸部の農村地帯に特有のグネです。こんな大きなものがつくられるようになったのは、江戸時代にこの地で養蚕が盛んになり、農家の造りが総二階の大きなものとなってからだとと聞いています。

 昨日、ちょっと用事があって利根川の西へ行ったんです。ついでなんで、総社町から吉岡町の大久保までのんびりと走ってきたんです。良い春見っけようって…

  一面のホトケノザに足を止めたり、みごとなコブシの花に見とれたりしながら、総社町山王地区まで来たら、大きなカシグネが目に飛び込んできました。

 私が子どもの頃はまち外れに出るとどこでも見られたカシグネなのですが、最近はめっきり少なくなってきています。メンテナンスが大変だということもあるでしょうし、道路の拡幅や住家の改築などに伴って失われてきたんです。
でも、総社町山王地区には、まだ立派なカシグネがいくつも残されています。
ついでですから、カシグネのある集落の路地を歩いてみます。

 

   
       前橋の路地 第36回 カシグネのある山王の集落道

 この立派なカシグネのある角を東へ、山王の集落道へ入る。自動車がすれ違うのがやっとの幅員の道だ。

  立派なカシグネの次には、そろそろ刈り込みをしないといけないほど枝が伸びてしまっているカシグネがあった。手入れされたぐねは幅は50㎝ほど、子のグネは1mを超えてしまっている。このように枝が伸びて膨らんだグネは、植木職人が大胆に刈りこみをすることになる。
グネの脇にアンズの花、もう満開になっている。

次のグネは手入れしてまだ間もない。みごとに刈りこまれ、カシの枝が見えている。
カシグネは1間ほどの間隔でシラカシを植え、杉丸太と竹で作った格子状の枠に枝を結わえて平たく誘引し、シラカシが壁状に成長するようにして作って行く。20年ほど前、しろがね学園の営繕をしたときに、カシグネづくりを試みた。今どうなっているだろう、そのうち見に行こう。

   枝が伸びてしまっているグネと比べると、厚さも半分ほどに刈りこまれている。透けて見えるシラカシの幹は結構太い、写真のもので30㎝近い幅がある。
カシグネの向こうに、山王地区の村社、日枝神社が見えている。国指定史跡『山王廃寺跡』、ここは古代東国の中心地の一つだったのだ。

 日枝神社前まで来た。関東地方でもっとも初期に造られた寺院跡と言われている史跡だ。概要を知りたい方はこちらを。もっと詳しく知りたい方は、第6次発掘調査報告書がこちらでダウンロードできる
日枝神社の先から集落の路地に入りこんでみよう。車では入れないので、車は山王廃寺跡見学者用駐車場へ置いておくと良い。

 

左右は生け垣、ヒヨドリやスズメが目の前を横切って行く。突き当りには白壁の立派な塀が見えている。ゆっくりと歩いて行こう。

  突き当りの立派な塀のところを曲がると、その先にカシグネが見えている。路地はクランク状に曲っている。

  この総社町山王地区の農村集落について、高崎経済大学の戸所隆教授は『文化的景観としての養蚕農家とその保存活用政策 -前橋市総社町山王地区を中心に-』という論文を発表している。読んでみたい方は、こちらから
前橋でも、カシグネがこれほど見られるのは山王地区をおいてないと思う。

 

 路地を抜けた農家の庭先の墓地に、ハナモモと菜の花が供せられていた。
カシグネの残る集落道で見つけた春だ。

  
        前橋の路地第 36回 おしまい

 

  山王町から大久保へ、春景色に見とれながら走っていました。
広場の脇に紫色のコブシの花、そして満開の緋寒桜。

   吉岡の大久保では牛王頭川の春景色を眺めて…、まちもいいけど、田舎の春もいいななのです。

 上毛大橋から眺める利根川と赤城山、どちらも春霞の中でした。

 敷島公園のソメイヨシノもしっかり咲き始めて…

夜は、ユキ子さんの誕生日祝い、ご両親が『三翠楼松し満』に祝いの席を用意してくれました。ありがとうございます。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

今春の第74回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす
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前橋赤十字病院で眼の検査…、前橋の路地第35回は総社町のトンネルのある路地です

2018-02-27 06:17:08 | 前橋の路地

前橋赤十字病院へ眼の検査に行きました。これで三度目、月一回ですから足かけ三ヶ月になりました。
病院前のおおきな樹です。シイの木だと思います。
前橋赤十字病院は、100年ほど前、この地の住民たちが無償で土地を提供し、みんなして日赤の社員になってつくられた病院なんですけど…、今はね、そんな昔の話はみんなして忘れてしまっているみたいです。
この樹は、開院当時に植えられたものかどうかは知りません。でも、毎日のように病院前を通って暮らしていた5〜6歳のころの私の記憶に残っている気がします。あったと思うんです。
6月になると病院は引っ越していくのですけれど、この樹はどうなるのかな…

 三度目の検査でしたが、まだ結論が出ませんでした。病歴のある眼ですから、安易な結論を出されることを望んでいません。慎重に検討してくれている医師に感謝しています。
それでも、「とりあえず、眼鏡を新しくしましょう」って、処方箋を作ってくれました。

 で、病院から中央前橋駅前の『ハルナメガネ』に直行、新しいメガネを注文してきました。先代のご主人の隣りに坐って酒を飲んでいたのが機縁でお世話になっているメガネ屋さんなんです。
今のご主人は『だんべえ踊り』の有名インストラクターです。

 

  昨日の朝の最低気温が0℃、今朝が0.5℃、ようやく氷点下でない朝が続くようになりました。空にも霞がかかって、赤城山の姿がよく見えなくなりました。
水止めが続く広瀬川では、川岸で暮らしている樹木の手入れが続いています。昨日は、諏訪橋周辺でオオシダレ柳の枝払いを高所作業車を使ってやってました。チェンソーの音が賑やかです。

  空き地のフェンスにはスズメの群れが行列しています。空き地の地面ではツグミが餌探し、温かくなると見られなくなってしまう風景です。
スズメたちは間もなく繁殖期、ペアで暮らすようになって、群れをつくらなくなります。ツグミは海を渡って遠くの大陸へ帰って行きます。もうしばらくの風景なんです。

で、今日は川向こうの路地を見ていただきます。

 

   
前橋の路地 第35回 トンネルのある路地

 利根川に架かる大渡橋を渡って県道を西へ、上越線の跨線橋の手前にある『総社町総社』交差点のところを南へちょっとに入ると、狭い路地がある。周りは住宅地だ。
きれいに刈りこまれた生け垣…

 すぐ隣は、全く手入れのされていないぼうぼうの藪、人の暮らしの気配がないけど、ヒヨドリたちの賑やかな声が響いている。こんなどこにでもある住宅地の路地だ。

  藪椿が咲いている。ブロック塀越しに、庭に植えられた満開の紅梅が見える。手前はまだつぼみのミツマタだ。

こんな道を行くと、JR上越線の線路をくぐるトンネルへ下る坂にでる。自動車は通れない、歩行者、自転車、それとバイクが通行可能だ。
別に珍しいものでもないのだけれど、前橋のまちで鉄道線路をくぐることのできる歩行者通路はとても少ない。なぜかここにはあるなのだ。それで、初めて通ったときには、電車が通過する轟音と振動を体験したくて、トンネルの中でずっと待っていた。でも、思ったほどではなかった。

  高さ2.3mの注意表示、少し背の高い人であれば、天井に手が届く高さである。蛍光灯が2基、薄暗いけど、向こう口がすぐなんであんまし気にならない。

  くぐり抜けると坂道、坂道の両側に鉄道線路の西側に沿っている道へ上がる階段がある。そう、これだけのことである。

  坂をのぼるとブルーシートの上に拡げられて干されているものがある。何かと思ったら、大根葉、干し葉を作っているのだろうか。その先に左の方へ下って行く坂道がある。天狗岩用水の管理用道路だ。下って行くと八幡川に合流する用水が見られる。
利根川を渡り、上越線の西へ向かう時、この路地をよく利用するのだけれど、ほとんど人に出会ったことはない。

 時々、学校へ通う子どもたちの姿を見る。

  そして、運がよければ、こんなんだのあんなんだの、猫たちにも出会うことができる。

上越線をくぐって西へ向かう路地だ。

  
前橋の路地 第35回 おしまい

 

 朝、赤十字病院へ行く前にJAファーマーズへ直売の野菜を見に行きました。

  直売の野菜がだいぶ安くなってきています。それに、いままでほとんど姿を見なかった小カブやアブラナが並んでいます。嬉しいですね。
とりわけ、つぼみのついたアブラナ、良い香りなんです。値段もお手頃、いいですね。

  で、夕食の椀は、豆腐とアブラナになりました。それとアブラナの唐辛子炒め、味付けは減塩醤油だけです。

  それと、珍しくトンカツを揚げました。私はあおい食堂でカツ煮を作ってもらって食べてますが、ユキ子さんはカツを食べる機会がないみたいなんです。で、ヒレを揚げてみたんです。おまけは鶏のハツの串揚げ、ゴマダレかけです。酒のつまみです。
「あれ、このヒレ肉ぱさぱさしてなくておいしい」。切ったヒレ肉に菜種油を塗りつけて下ごしらえしてから揚げたんです。ひと手間です。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

今春の第74回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす
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前橋の路地第34回は、前橋駅南の「代田神社の参道」です。

2018-02-21 08:10:01 | 前橋の路地

昨日、南町へ出かけたので帰り道に市ノ坪公園に寄ってみたのですが、咲き始めた河津桜の花はあんまし増えていませんでした。

  芝生広場の北側の二本は、花数がほとんど増えていなくて寂しいです。開花後に押し寄せてきた寒気のせいなのだと思います。
それでも、丘の上の四阿の脇のが花数を増やしていました。もう少し暖かくなるのを待つしかないです。

 

 そいで、前橋駅南口まで戻ってきて思ったんです。ここは子どもの頃には前代田(まえしろた)と呼んでました。私が写真を撮っている場所あたりには城南小学校があったんです。
子どもの頃の記憶が少しだけよみがえってきたんです。

 駅の西側の南北の通りです。向こうに見えているのは市民文化会館です。
子どもの頃には、駅の南へ行くにはこの道で両毛線の踏切を渡って、駅の南に出て、城南小学校の西側の道を行くと前橋の南に拡がる田舎に出られたんです。国道17号を南に来た踏切を渡って南へ行くと、盲学校の先で道は行き止まりだった気がします。遠い記憶です。
前橋駅の南の地域は、「前橋駅南区画整理事業」ですっかり昔の面影を消えています。そんなところに少しだけ昔の記憶を呼び戻してくれるとこがあります。

 

   
前橋の路地 第34回 代田神社の参道

  市民文化会館前の信号のちょっと手前に、覗きこむと鳥居の見える路地がある。人家の数にして3軒ほどの奥行しかない短い道である。
道の奥の鳥居は代田神社(しろたじんじゃ)、昔の前代田村の村社である。

  社殿も狛犬もまだ新しさを感じさせる。
狛犬の台座の裏に、この社殿が新造された由来が刻まれている。「前橋駅南区画整理事業施行に依り代田神社移転工事竣工記念 昭和六十年十二月吉日」、現在のお社が造られてからまだ30年ほどなのだ。

この地図は、1908年(明治41年)の前橋全図の一部、前代田あたりである。前橋駅の南は田んぼのマークばかり、もちろん南口はない。斜線が引かれているところが前代田の集落、その南に県の農事試験場(その後江木町に移転)、隣には「群馬県原蚕種製造所」の文字が見える。その上に、鳥居、これが代田神社だ。
破線でまだできていない計画道路が記入されている。前橋駅の南は田園地帯だったのだ。

「群馬県原蚕種製造所」は、その後「蚕業試験場・本場」となり、1959年(昭和34年)に総社町に移転するまでこの地で群馬の蚕業技術の担い続けていた。

ついでなんで、地図をもう1枚、城南小学校が開校したのちの1934年(昭和9年)の地図だ。前の地図の計画道路が出来上がっていて、代田神社は産業試験場の道を挟んだ北側になっている。
私が子どもの頃もこの南側の道路から北に向かって参道が開かれていたと思う。東からの参道は記憶にない。

駅の周辺には池がいくつも描かれている。風呂川の水を利用し、糸繰工場から出る繭のサナギを餌にして鯉の養殖をしていた養魚場だ。

「代田」という地名は各地にある。「だいた」とか「しろた」とか呼称されている。もともと、苗植え前に水を張ってきれいに均した状態の田んぼを意味している。それで、田植え直前の作業を「代かき」という。
この地は、前橋泥流層の上でもともと水利の良くなかった土地のはずで、それで田が作れず、桑畑で養蚕が盛んであったのだ。前橋城を酒井家が治めるようになってから、風呂川の水利が開かれ、この地にも水が届き水田が拓かれたのだと思う。
私が子どもの頃はこの地図のように集落のはずれは水田ばかりであった。

「前代田」という村の名は、酒井の殿さまの力で風呂川の水が届くようになってから、城の前の田んぼというようなイメージで名付けられたのではないだろうか。これは、想像だ。

 

 代田神社の境内にはもう一つ社がある。淡島神社である。
由来を刻んだ石碑があって「前橋藩主酒井忠清の内室(正妻)が和歌山の加多の浦にある本社から勧進した」と記されている。農事・裁縫の神さまだ。縁結びや子宝にもご利益があると言われ、製糸工場で働く女性たちが多く参拝したと言われている。前代田村は酒井家と縁が深いようだ。

  そして、境内にはこんな石造物もある。『蚕影山大日天子』と刻まれている。蚕影山(こえいさん)の脇には、少し小さな字で、右側に「身延山」、左に「七十世」とある。脇に回り込むと、「慶應三年」と刻まれている。
蚕影神社はつくば市に本社がある養蚕の神さまだ。碑はその「蚕影」を祀っているんと思われるのだけど、身延山と刻まれ、大日天子というのは奇妙だ。大日天子とは、仏教で太陽を神格化した「日天子」のことだと思う。ついでなんで調べて見たら、日蓮上人から数えて、70代目の身延山の上人さん「日祥上人」は幕末から明治の初めまで勤められている。この碑に刻まれた年号は明治維新直前の慶應三年(1867年)で符合する。
きっと、この地の農民が組織していた講が身延山に参詣し、日祥上人から「蚕影山大日天子」の許しをいただいてきたのかもしれない。

陽産業の盛んであった前橋の社の中で「蚕影」さんをお祀りしているところは、私の知るところではここだけだ。

  代田神社には西側にも入り口がある。その脇には白いサザンカが植えられている。外に出ると、『ベリーベリー』という名の店がある。四川風の中華料理が食べられる、おしゃれなカウンターバーもあるカフェダイニング、結構いける。
もともとの参道は、こちら側にあったんだと、かすかな記憶がある。父に連れられて産業試験場を訪ねた時の記憶だ。

  
        前橋の路地 第34回 おしまい

 

   岩神町の養田鮮魚店へ行くと、マダラ、ヤリイカ、甘エビなんかが入荷していたんです。甘エビは能登産、まだ活きていました。
マダラを半身、開いたアナゴを1尾、それとアカガレイを1尾買いました。

 東京からユキ子さんが帰るのを待っていた夕食のメインは、卵いっぱいのアカガレイの煮つけでした。おいしかったです。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

今春の第74回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす
お稽古場は前橋市城東町四丁目です。詳しくはコチラをご覧ください

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大渡橋の上で子持山を眺めながら古在先生にお別れをしました。おまけは前橋の路地第33回です。

2018-02-13 06:43:46 | 前橋の路地

利根川に架かる大渡橋の上から上流を眺めていました。冬の利根川です。
遠くに見えている山は、右が子持山、左が小野子山、その鞍部に三国山脈の雪山があるのですが、昨日は雲の中でした。子持山は、

  児毛知山(こもちやま) 若かへるでの もみつまで
     寝もと我(わ)は思(も)ふ 汝(な)はあどか思(も)ふ 

万葉集巻14 作者のわからない恋歌に、子持山が詠われています。熱烈な恋歌です。

 昨日、午前中に家を出ました。北の方に尋ねる人もあったので利根川越しの子持山を眺めに行ったんです。風が痛かったです。昭和町の路地を抜けていくと、榛名山が冷たく迫ってきていました。

 <何処へ行くの?>、昭和町の猫です。
「ちょいとね、大渡橋、子持山を眺めに行くの…」
<寒いから気をつけてね…>
いわゆる『外猫』として飼われている猫みたいです。猫の方が寒いだろうに。

 <子持山なんか見て何するの…>、相方らしき猫はダンボールの中です。
「11日の晩にさ、訃報が届いたんだよ」
<誰の?>
「25年ほど前からかな、一緒させてもらってきた古在由秀先生なんだ」
<なんの先生なんだい?>
「星の先生…」
<幾つだったの?>
「90歳だったんですって…」
そうなんです、突然の訃報だったんです。

  しばらく行くと、小さな公園の茂みの向こうにも猫がいました。
<でも、なんで子持山見に行くの?>
「古在由秀先生と一緒した山だからさ、先生を連れてっちまった山なんだ…」
そうなんです、古在先生を子持山へ連れてったのは私だと思っています…

というわけで、風の吹き抜ける橋の上で子持山を眺めていろんなことを想っていました。
いろいろあったんです。最後にお会いしたのは2009年だったかな、2012年だったかな…

風の中で古在先生にお別れをしました。

 

 大渡橋へ行く前に、観民稲荷にお参りしました。別にどうともなくなんです。
前橋藩主酒井重忠が風呂川を開削した時にその守護として祀った社だと伝えられています。拝殿の手前に水が枯れた池があって、その脇に風呂川を渡る小さな橋があるんです。
久しぶりの前橋の路地は、ここから始まります。煙突掃除のおじさんが暮していた路地なんです。

 

   
        前橋の路地 第33回 煙突掃除のおじさんの路地

  小さな橋を渡ると路地の入口がある。車が通ることは難しい狭い路地だ。道と風呂川の間には、一並びの家並があって、川と並行しているのだけれど川を見ることはできない。

  狭い路地を進むと、間もなく突き当りに出る。正面には民家の入り口だ。ここで路地はおしまいかなと思うとそうでない。路地は民家の入り口の左手の生け垣沿いに続いている。

  「ねえ、煙突屋さんのおじさんとこへ行って来て、煙突が詰まってしまったから…」、母から使いの命が下る。逆らえない。
この路地のどこかなのだ、場所を思い出せないのだけれど長屋があった。その長屋の中に煙突掃除のおじさんは暮らしていた。訪ねて、家人に母からの託けを伝える。
「明日か明後日、行けたら行くように言っとくからさ…」

 煙突掃除のおじさんは自転車に乗ってやってくる。後ろの荷台に付けた大きな道具入れの木製の箱の横手に、先端に金属製のブラシを取り付けた薄くそがれた竹が大きな輪となって巻き付けられていた。
小学生のころの記憶だ。家の風呂釜では、高崎丘陵で採掘されていた亜炭が燃やされていた。たくさんの煙と煤とが煙突を伝っていた。薪をくべていたころに比べると、風呂焚きの仕事は楽しくなかった。

 途中にこんな広場がある。糸繰工場かなんかの跡なのかもしれない。少し前までテント張りの卓球場が設えられていたのだが、いつの間にかなくなっている。静かな路地だ。子どもの声もしない。

路地を抜けると駐車場になっている空き地がある。かつては友だちの住まいがあった。裕福な家であった。庭には風呂川の水を引き込んだ池があり、鯉が飼われていた。今は、庭木が1本残されているだけだ。
友人から最後に電話をもらったのは20年ほど前になるだろうか、ここで暮らしていた母親が逝き、その後片付けの相談であった。その友人も早逝し、今はもういない。

岩神町の煙突掃除のおじさんが暮らしていた路地だ…

  
前橋の路地 第33回 おしまい

 

大渡橋から敷島公園を抜けて帰ってきました。梅の木の向こうに、風の中で遊んでいる家族がいました。

  ボート池では、カモたちに菓子を投げ与えている子どもの姿がありました。

 家に戻ると、寒い赤城山が見えていました。
そうなんです、古在由秀先生にお別れをしたんです。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

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大雪の翌日は、雪かきして、雪の残る路地をのぞき歩きました…

2018-01-24 07:42:38 | 前橋の路地

雪がいっぱい積もった日、学校の登校時間も遅くなったみたい、陽が高くなってから子どもたちが学校へ向かって行きました。その先で、町内の皆さんが道の雪かきをしています。
少し遅いけど、挨拶は「おはようございま〜す」、「気をつけていってらっしゃい」でした。

 朝日町の方からみずき中学へ向かう中学生、いつもなら自転車なのですが、昨日は歩いていました。10時過ぎなのですが、道にはたくさんの雪が残ってました。

   「午後からお稽古なの、車停められるようにしなくちゃ…」、糸駒が駐車場の除雪を始めたんで、お手伝いすることにしました。今回の雪はとても軽くて、ずい分と楽チンでした。ついでなんで、駐車場だけでなく家周りの道の雪かきもして…

   しばらくがんばったら、あとはお天道さんにお任せできる状態になりました。除雪した雪は駐車場の隅に積み上げました。
2時間ほどなのですが、それでも汗かいちゃいました。着替えて昼食休憩。

 

一休みして表に出て見たら、雪が溶け始めてました。せっかくの雪景色がなくなってしまう前にちょいと散歩することにしました。わが家から、千代田町4丁目のあおい食堂までの行き帰り、雪の残る路地をのぞき歩いていました。眺め歩いた路地を、前橋の路地第32回としてご覧に入れます。

 

   
              前橋の路地 第32回 雪の残る路地

 十六本橋近くの上毛電鉄の線路際の路地。境界に打ち込まれた使い古しの枕木の上の雪も溶けてなくなっていた。
この先、私がのぞいた路地の写真を羅列する。説明することもない。お好きに見て、遊んでほしい。

   

   

   

   

ノンは何年前に閉めたのかな、昔は、この路地には寿司屋もあったはずだ。
中央前橋駅近く、日の射し込まない路地の雪は消えないで残っていた。

  
         前橋の路地 第32回おしまい

 

 路地をのぞいて歩いている途中、広瀬川の諏訪橋のたもとで『太陽の鐘』の説明板を一生懸命読んでいる若者に会いました。いいね。

そしてね、覆いの白いシートの隙間から、鐘のてっぺんの部分がちょっとだけ見えていました。鐘を覆っていた黒い布が取り除かれて、不思議な装飾の一部が見えてたんです。嬉しかった…

 

  家に戻ったら、もう夕焼けになってました。
家の脇の駐車場で学校から戻った近所の子どもたちが遊んでくれていました。犬まで一緒になって。
駐車場に残ったきれいな雪を自分ちの庭へ運ぶというので、スコップを持っていって手伝ってあげたんです。

  夕食は、鶏チャーシューとルッコラ・ニンジン・ブロッコリーのサラダ、それと、ゼンフーズのかかあのぎょうざの餃子鍋でした。冷え込んできた夜のごちそうです。

今朝の前橋は、-6℃の見込みって触れ込みでしたけど、-3.2℃でした。それでも寒いです。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
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伽耶子と過ごした路地でいろんなこと思い出して、立子山の凍みどうふでステーキ作った…

2018-01-08 07:08:41 | 前橋の路地

朝からひどく風が吹いていました。お昼を食べに呑竜仲店のヤギカフェへ」出かけた時も、広瀬河畔の柳の枝が右往左往、ぐしゃぐしゃになって大揺れでした。

 昨日は七日、朝は七草粥を炊きました。七草は自分で摘んだのでなくて、セットのを買ったんです。
40年ほど前かな、上新田町に住んでいたころ、息子たちを連れて七草を摘み歩きました。セリ、ナズナ、ハコベ、ゴギョウ(母子草)までは見つかりましたけど、ホトケノザ(タビラコ)が見つからず、スズナ(蕪)とスズシロ(大根)は近所の農家の菜園のを分けてもらって、「春の六草」だったのを覚えています。来年は摘み歩いてみますかね…

   

それで、強い風の中を糸駒が上京するのを見送ってから、キーマカレーを作って遊ぶことにしたんです。結局、エリンギとトマト、ブロッコリー、豆とトマトの三種、各6食ずつを1時間半ほどで作っちゃいました。

   こういうことする時のタマネギとニンジンは量が多いので包丁で刻まないでミキサーで粉砕しちゃいます。水を入れたミキサーに荒く切ったのを入れて撹拌し、金ザルで漉すとおろし金で下したみたいになります。漉した水は繰り返し使って、更にカレーを煮込むときに入れちゃいます。捨てずに使うんです。これは楽チンなんです。

  で、18食をパックして冷凍庫に入れてから、ヤギカフェに出かけたんです。なんかさ、昨日は数人でかたまってぶらぶらしている人たちによくあいました。銀座通りでは明らかにポケモンGo症候群の皆さん、呑竜に入るところではカメラ小僧症候群の中高年の皆さん、そして昼食して出てきたら若者の蛇行症候群の皆さん、おかしい日でした。季節風のせいかな…
カレー作った後なんで、ヤギカフェでは鳥チャーシューの丼をいただきました。おいしかったです。

で、その帰り道に通り抜けた路地、そこで六草摘んだころのことをいろいろ思い出しちゃったんです。

 

   
前橋の路地 第31回 伽耶子と過ごした路地

 諏訪橋の袂の信号を元気21のある方向へ千代田通りに入って最初の角、引っ越して空家になった旧あかぎ信用組合本店を背に西の通りを見ている。昔は角に石屋があった。
ここから西へ向かうとオリオン座という映画館の脇へ出る。オリオン座は、前橋にあった映画館の中で唯一70㎜映画が上映できる映画館であった。そこで観たのは、「南太平洋」とか「風と共に去りぬ」とかだった気がする。
そのころ、年寄りたちはこの道を「市場通り」と呼んでいた。由来は知らない。

 市場通りに入るとすぐに左に曲がる角、狭い路地に入ると、斜めに今来た千代田通りに戻ることになる。僅かな短い路地、呼び名を聞いたことはない。

  路地の入り口に『逢花』という店がある。1970年代後半、あかぎ国体が開かれたころに、ここに『半日村』という店が開店した。友人のSさんやTさんたちと足しげく通った。『半日村』の二階には『月の兎』という店があった。気さくな夫婦の店だった。毎晩のように酒を飲み歩く暮らしをしていたころのことだ。

 『逢花』の前で振り返ると、市場通りに面した空き地が見える。ここには『あすか』があった。マスターが生地から手づくりしてピザを焼いていた。カウンターだけの小さな店、夕方には女子高生たちがたむろし、夜はよその店からのお使いや土産を求めに来る酔客の姿があった。

路地のおくりにビル、そこの2階に『上州っ子』があった。有名な演歌師の妹の店で、美空ひばりの歌を上手に歌って聞かせてくれた。
その手前、奇妙な色の階段がある。ナガイタクシーの営業所の二階に上がる階段である。当時、この階段を上ると『スバル座』という小さな映画館があった。開館当初は少し古い懐かしの名画みたいのを上映してたが、そのうちピンク系になって、そして閉館した。
1985年のこと、
私は2カ月にわたって、このスバル座に通う日々を続けていた。

 1984年10月に完成した小栗康平2作目の監督作品『伽耶子のために』を、このスバル座を借りて自主上映していたのだ。相棒はY女史、飲み仲間のSさんや、高崎映画祭を立ち上げた茂木正男さんも手伝ってくれた。そして、たくさんの友人たちが応援してくれた。
伽耶子のために』という作品は、どこの映画配給会社も扱ってくれなかった。東京こそ岩波ホールが上映を行ったが、それ以外の都市では、どこも、興行業者でない一般人がホールを借りて自主上映していた。
小栗康平が生まれたこのまちでも自主上映となった。いろいろあって大変だった。でも、なんとか赤字を出さずに、制作会社や映画館にも支払いをすることができた。
その一方で、わが家は火の車になっていた。生活費を自主上映の活動費と毎夜の飲み代に持ち出されたユキ子さんは実家から借金してまで暮らしを守ってくれていた。ずい分と迷惑をかけた。相棒のY女史も同じだったろうと思う。

その後、Sさんは糖尿病を患って死んだ。茂木正男さんもとうに逝ってしまった。Y女史はどうしているのかな、消息を聞かない。すべて終わってしまったことだ。

 路地の建物の壁に初市まつりのポスが貼られている。
あす9日は、『前橋初市まつり』が開かれる。

一時を飲み暮していた路地は、今は静かだ。

  
        前橋の路地 第31回 おしまい

 

  という訳で、こんな路地を抜けて家に帰ってから、常備菜づくりを少しだけしました。福島から送っていただいた『立子山の凍みどうふ』を含め煮にして、五目豆も作りました。

  夕食には、立子山の凍みどうふのステーキと、残り物の鶏の胸肉と野菜のサラダを用意して、ユキ子さんが東京から帰ってくるのを待ちました。
凍みどうふのステーキはね、戻して水を搾った凍みどうふに煮もの加減に味付た出汁を沁みこませて、軽く絞ってから小麦粉をまぶして、多めの油で周りがカリッとなるように焼けばいいんですよ。おいしいですよ、福島の味…

  それと野菜汁、ミニのアナゴ丼でした。
糖質制限に取り組み始めて、少しずつメニューに変化が見られてきている気がしてます。

明日は『初市まつり』、2000年のまつりの夜、キキと出会ったんです。それで、18年、あんじゃあなく暮らしてこられました。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

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今年最後の前橋の路地は『見返り坂』、踏切で電車に会う確率を計算して『いわまる』で鮨をたべました。

2017-12-30 06:21:28 | 前橋の路地

中央前橋駅の夜景です。昨日は、糸駒が年内にすませておかなくてはいけない雑事をなんとかこなせたみたいなんで、まちで夕食することになり、日が暮れてから散歩に出たんです。

 桃井橋のところの踏切で西桐生から来た上りの電車に会いました。上り下りとも30分に1本ですから、1時間の間に4回電車が通る勘定です。一回の電車の通過で警報器が鳴っている時間は約1分30秒ですから、4回で6分、電車に出会えるチャンスの確率は約10╱100ということになります。ということは、結構出会うんですよ。

 で、食事は門松が飾られた鮨屋の『いわまる』でした。おいしかったです。

 帰りにね、中央駅近くの顔見知り猫にあいさつしてきました。この猫の毛模様はサバトラで、『いわまる』のご主人とも仲良しなんです。
<身体気をつけろよ、飲み過ぎんなよ…>って、ガラス越しのあいさつ交換なんです。

 

昨日は午後二時ぐらいまで家で年末の家事をしてました。それから『あおい食堂』でラーメン食べて、まちで用足し、中央通を南へ抜けました。馬場川通りの交差点から通りは坂道になっています。
この坂道にはちゃんとした名前があります。『ゑびす坂』っていうんです。昔からそう呼ばれてました。
「ゑびす坂の萬栄堂へ行って、みやませんべいの500円の詰め合わせ買ってきて、無熨斗でいいからね…」なんてお使いに行かされてたんです。

浅間山の噴出物が堆積してできた「前橋台地」を利根川の流れが削り取ってつくった坂なんです。利根川の流れが変わって、それがまちの中に遺されているんです。

 馬場川通りをくると、ホテル白井屋の改修工事が進められています。設計は藤本壮介さん、出来上がるのがすごく楽しみです。
このビルは利根川がつくり出した傾斜地に建ってるんです。昔はこういう地形のまちは『片町』って呼ばれたんですね。傾斜地は使いにくいので、片側にだけ店が並んでいたんで…

 白井屋の先に坂道があります。坂道の入り口には『ダウンビート』って喫茶店があります。1974年(昭和49年)に創業したJAZZ喫茶です。ライブもやってますよ。
そうだ、今日はダウンビートの脇の坂道を紹介します。今年最後の前橋の路地 第30回は『見返り坂』です。そうなんです、この坂道は『見返り坂』っていうんです。

 

   
前橋の路地 第30回 見返り坂

ダウンビートの脇の馬場川に架かる橋を渡ると狭い坂道に続いている。それなりの急坂で、自転車をこぐ若者も腰を上げている。

この橋に名前はつけられていない。こういう小さな橋でもちゃんと名前を付けてあげた方が良いと思うのだけど、前橋にはそういう習慣はないようである。
坂道もそうだ。昔のとねがわの川岸の崖地だったこのあたりには結構坂道がある。ちゃんと名前が付けられているのは、中央通りの『ゑびす坂』、東和銀行本店脇の『縁切り坂』、そして東福寺前の『天狗坂』の三つだけみたいだ。この坂にも「公式」には名前がない。

  ダウンビートの直ぐ上に空き店舗になった店がある。前はブティックだった。黒猫のマークがおしゃれだった。

  その向かいの白い建物は『LE CON』という輸入家具や輸入雑貨を扱う店があった。その昔は本町にあった『鈴木銃砲店』の住まいであった。
高校生の時、風邪気味で訪ねたら、「これ飲むと治るよ」と母親が湯気の立つコップを渡してくれた。飲んだ、強烈な匂いと辛味、何かと尋ねると、「にんにくのすりおろしの沸し酒」だという。ただ、酔っ払っただけで風邪は良くならなかった。
その後、ここで、今は『焙煎館』をやっているショウキさんが『ラタンハウス』という家具屋を営んでいて、よく遊ばせてもらっていた。その頃彼に選んでもらったテーブルは、今でもわが家の居間にある。

  『LE CON』は、今は本町通りに引っ越しして、『The Nordisk Cirkas』と名を変えて、北欧からの輸入家具を扱っているおしゃれな店になった。

『LE CON』の前あたりから坂下を振り返る。そうだ、ちょうどこのあたりだ。
1970年代の中ごろのことだったと思う。大先輩に連れられてまちでごちそうになった。少し酔った大先輩はタクシーで帰ると言ってこの坂にやってきた。坂を登り切った床屋の前が、客待ちのタクシーの溜まり場になっていたのだ。私はそこまでお供した。
坂を登り始めて中ほどまで来ると大先輩は立ち止まって振り返った。そして、「サトウ君、覚えておくといい、この坂道は『見返り坂』とよばれてたんだ」と言った。
「なぜですか?」
「昔さ、この坂の下、小石神社の裏手の紺屋町一帯は花街だったんだよ。そりゃ賑やかでさ、芸妓も200人ほどいたのさ…」
「そんなにたくさんですか?」
「そうさ、生糸や繭の取引で稼いだ旦那衆は気前が良かったし、県庁や警察のお偉方もよく遊んでたから…」

そんな旦那衆の多くは台地上の現在の本町から表町などに住まいを構えていたという。それで、花街で遊んで家へ帰るとき、この坂の中ほどで花街を振り返り、もうちょい遊ぶか真っ直ぐ帰るか迷ったっていう話なのである。ひいきの芸妓に後ろ髪を引かれる思いだったのだろう。
それで、紺屋町の花街の灯りを見渡せるこの坂が、『見返り坂』と呼ばれていたというのだ。

 坂を登りきると角は理容店だ。昔からあった。
今は、もう花街はない。坂の上に暮らしていた旦那衆もいなくなった。芸妓も数えるほどの人数となってしまった。
私がこの話を聞いた聞いたころ、夜には、坂の上の本町通りにラーメンの屋台が出ていた。タクシーの溜まり場もあった。今は、みんななくなった。
後ろ髪を引かれる思いでこの坂を登る人はもういないとと思う。『見返り坂』の名も忘れられてしまっているようだ。

  
前橋の路地 第30回 おしまい

 

   昨日は朝食後に肉を料理していたんです。豚のの肩ロースで紅茶豚を、牛のモモ肉は湯煎でローストビーフに、なのです。
紅茶豚のつくり方は2007年10月の記事です。まだ若くて元気だったキキの姿が見られます。野村たかあきさんが描いたリバティーの美喜恵さんも載ってます。ご覧ください。

   それから、塩抜きしておいた数の子を漬け込んで、ロシア産の船上凍結のノース・シュリンプを解凍して、マリネにしました。
あと、煮ものを少し作って、今日の夕方お待ちいただいている私の姉やユキ子さんの両親なんかへお渡しします。お正月に食べてもらうんです。

『見返り坂』のこと書きましたけど、今年は、今年あったことを振り返るのを辞めようと思っています。暦の上では今年はおしまいになりますけれど、私の中では今年を終わらせたくないのです。もうしばらく、今年そのものであり続けたいと思っています。わがままなことです。
でも、新しい神符をこれからいただきに行ってきます。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
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日野屋で張り子の戌を買って、前橋の路地は『静かに通り抜けるべし』です

2017-12-25 07:12:46 | 前橋の路地

朝から高曇り、灰色の雲の下に赤城山がぼやけて見えてました。
風が吹いてなかったからまだしもでしたけど、日曜日だというのに子ども公園の駐車場は空いてました。

 朝食を食べていたら、Tさんが三浦大根と葉付き人参を届けてくれました。横須賀の方へ行ってこられたみたいです。おいしそうな大根です。毎年ありがとうございます。

 

  まちに用足しに出ると、街路樹の上に雲を通して太陽がぼやっと見えてました。広瀬川の諏訪橋の袂には松飾りや注連縄を商う露店が開いてました。
わが家は、今年は松飾りは飾りません。

  中央通を家族連れが歩いてました。子どもたちは踊るように跳ねてました。きっと、黒田人形店でクリスマスプレゼントを買ってもらったんじゃないのかな…
私は、日野屋さんで張り子の戌を買いました。お稽古場の玄関に置いてあるキキがモデルの招き猫を奥に引っ込めて、代わりにお迎え用に飾ろうと思ったんです。正月飾りはしませんけど、訪ねてくださる皆さんのために、やっぱ戌でお迎えします。かわいい張子が見つかって良かったです。

 

 そういや、土曜日に前橋刑務所を見た帰り、こんな路地を通り抜けたんです。どこにも寄ることのできない、ただ通り抜けるしかない路地なんです。それも静かに、静粛に…

前橋の路地 第29回は、『静かに通り抜けるべし』です。

 

   
前橋の路地 第29回 静かに通り抜けるべし

 この路地は南からの入り口の右手は生け垣で左手がブロック塀、生け垣を過ぎると左右ともにブロック塀となる。実に殺風景な路地でだ。左の塀にはまったく出入口が見当たらない、ただただ塀が続いている。

  右のブロック塀にはドアらしきものがあるが、使われている形跡はない。開かずの扉のようだ。そして、ブロック塀がおわると、今度は錆びたフェンスが続いている。そのフェンスにも鉄の扉があるのだが使われている気配はなく錆びついている。

振り返ると、左手にずっと続いているブロック塀の上に、塀の高さの数倍の強固な金属製の遮蔽物が取り付けられている。この写真を見て、この構造物が何のためにあるのか分かる人はほとんどいないと思う。分かる人は、この構造物が取り付けられている建物と何らかの関係を持っている人に限られるのではないだろうか。既製品ではない。特注で作らせたものだ。
実は、私は、この構造物がなんであるのかを知っている者の一人だ。

 まあ、そんなことはどうでもよい。フェンスは途中から新しいさびていないものに変わる。その先に家が見える。左側はまだブロック塀が続いている。

  最初の家の塀の一部が開いていて、鎖が架けられている。
覗いてみると庭だ。玄関口ではない。庭からの裏口のようである。

  次の家は塀がない。庭が丸見えである。水道と洗濯機が見える。ここも裏口らしい。脇にはきちんと整理されて積み重ねられた植木鉢の棚があった。几帳面な方が暮していると思われる。そこを過ぎると北側の通りに出て、この路地はおしまいとなる。

結局、左側はずっとずっと出入り口のないブロック塀であった。右側も、生活に利用されていると思われるのはおしまいの2軒の住宅の部分だけであるのだが、玄関口でなく裏口である。
どうしてこういう路地が必要となったのか分からない。ただ、私が高校生のときに来た時からこの路地は存在していた気がする。無機質な、真っ直ぐな路地だ。

もし、この路地を抜けて見たいとお思いの男性は、次のことだけは守らなくてはいけない。
第1 左側に続く塀の中を絶対に覗いてはならない。
第2 この路地で継続的に一定時間立ち止まってはならない。
第3 この路地で放歌高吟してはならない。大声も厳禁である。
静かに、速やかに通り抜けることをお薦めする。

 そうそう、この金属製の構造物であるが、これは、建物の下のピロティーに弓の練習場があり、万が一にも矢が外へ飛び出さないようにするための遮蔽壁である。どうでもよいことを知っているものだ。

  
        前橋の路地 第29回 おしまい

 

 夕方、西の空に太陽がちょっとだけ顔を出しました。クリスマスイブだったんですね。
ちょいと冗談めかして路地を紹介する気分になりました。お許しくださいな。

 

  今年は忘年会も、クリスマスパーティーもしません。でもね、夕食ぐらい少し派手目にしないと世間さんに背を向けてるみたいになっちゃいますので、まずは冷蔵庫総動員のきれいなサラダを作りました。わさび菜、ミズ菜、洋梨、蜜柑、ブロッコリー、カリフラワー、黄色人参、エリンギ、ミニトマト、生ハム、それと、ちょっぴりマスカルポーネなのです。富山みやげにいただいた酒をワイングラスでなんです。

これは『エッグインクラウド』という目玉焼きです。白味を泡立ててメレンゲにし、ちょっぴりパルメザンチーズを加え、まん中に黄身を入れてオーブンで焼くんです。昨夜はホウレンソウとマッシュルームのソテーも添えて焼きました。雲間の卵はおしゃれです。

 そいで、カネロ二です。昨夜のはパルメザンチーズをかけてオーブンで焼いたのにトマトソースを添えました。
なんか、いいとこでお食事している気分になれるかなって、やってみたんです。
今日からは、年末の仕事に本気で取り組無つもりでいたが、その前にやることができてしまった。

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
祖母の初代若柳吉駒、そして伯母の二代目吉駒の下で修業して参りました。
初代吉駒が始めた美登利会は、来春で75回目の節目を迎えます。予定通り、4月8日に開催いたします。
亡くなりました二代目吉駒の遺志と教えをしっかり守って、一生懸命つとめてまいりますので、これからも引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

今春の第74回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす
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