昨日の朝、ワカメの卵とじうどんで朝食して、作業着に着替えるために二階へ行くと、キキは、また『足だけぼっこ』してました。『足浴』と同じで、全身の血行が良くなるのかな…
<そんなことよかさ、「今日は働くぞ!」って言ってたでしょ、ちゃんとやるのよ>
最初の仕事は、リンゴジャムづくりです。前の日、八百駒で早生の紅玉を手に入れました。12個あったのですが、1個青井食堂のおばさんにあげちゃったから11個です。
剥いた皮も一緒に煮ると独特の色のリンゴジャムができます。作り方は、こちらを見てください。
今回の紅玉は酸味が少なかったので、レモン果汁で酸味を応援してあげました。
<リンゴジャム作ってから、おヒゲは早お昼、それから俄か菜園の片づけを始めたんです。いっぱい働いてくれたナスやキュウリやトマトの枝や葉の残りをたい肥にするんですって。夕方まで、ずっとやってました。
だから、お話は昨日の続きでさ、風呂川を国道17号の南へたどって行きましょうね…>
風呂川は、第四保育園の西側から国道17号をまっすぐに潜り抜けて、向かいの道の下を流れます。この道は、2年ほど前に拡幅されました。拡幅前は風呂川が見えていて、水路沿いの狭い道だったんです。50mも行かないうちにT字路に出ます。
風呂川は右に曲がって道の北側に姿を見せます。でも10mも行かないうちに南へ道をくぐり、民家の間の水路になります。三面をコンクリートで固められた水路です。
国道の南はもう紅雲町です。昔は、国道の南も一街区だけ南曲輪町に入っていたと思うのですが。
前橋城があったころの古い話ですが、南曲輪町と石川町までが前橋城の城下、城下といっても門外は、家屋敷が建て込んでいたわけでなく、士族の家が桑畑の中に点在していたそうです。石川町の名は、前橋城の石川門外の武家集落、石川小路に由来してるんだそうです。
そして、紅雲町あたりは紅雲分村(こううんぶんそん)という名の村だったんですって。
その先、風呂川は龍海院と住宅地の境を南へ流れます。川沿いに道はなく、駐車場に入らせてもらうと、川を覗くことができます。この写真は、酒井家累代の墓所の西側に新しく造られた龍海院の墓地です。彼岸参りの姿が見えます。
私が子供の頃は、酒井家の墓所の周りは鬱蒼とした手入れのされていない薮でした。近所の子どもたちと肝試しに出かけたのを憶えています。
龍海院の西を流れた風呂川は、松本印刷の東側に姿を現します。松本印刷の硝子戸に『等身大パネルつくります』って等身大パネルが貼られてますが、これって、松本印刷の社長さんです。面白いからぜひ見に行ってくださいね、ついでに作っちゃうのもいいと思いますよ。
風呂川は、松本印刷のとこからまた道の下、前橋女子高校の方へちょっと行って、すぐ南に曲がって、屋ごみの中を流れてゆきます。気をつけないと、川筋を見失います。
屋ごみを抜けた風呂川は、厳島神社の東方に姿を現します。このあたりには、風呂川から分水した小さな流れも残っています。風呂川は、旧紅雲分村の大事な農業用水だったんです。このあたりの田畑を潤す唯一の水だったんです。
厳島神社の社殿です。旧紅雲分村の村社です。
厳島神社は言わずと知れた水の神様です。旧紅雲分村の南の旧宗甫分村の村社は水神社、利根川左岸の台地上の村は、利根川による土地の浸食を受けていましたから、水にまつわる神を祭ったのかもしれません。
(間違えて、『淡島神社』としてしまいました。すみません。)
東隣の旧代田(しろた)村の村社が淡島神社です。現在、前橋駅南にある代田神社です。
淡島神社の本社は和歌山市にあります。安産・子授かりなど女性の願いを叶えてくれるとか、本社の人形供養は有名です。前橋の周辺には青梨町、元総社町なんかにもあって、農民の崇敬を集めていた神社なんですね。
淡島神社から南、前橋駅前通りを渡ってさらに南へ、このあたりは筋が真っ直ぐに改修され川沿いに小路があるので見失うことはありません。向こうに、両毛線の鉄道高架が見えてきました。鉄道高架の手前で、風呂川は地下に潜ってしまいます。
風呂川は、暗渠となって鉄道高架を潜り抜け、前橋刑務所の北東の角に出ます。
この交差点の東側の道路下を抜け、南側の歩道の下を流れ、第一中学校の西側の道に出ます。
第一中学校の西側の道、歩道になっている下を風呂川は流れています。このあたりは、昔、鯉池がいくつもありました。学校の西側、南側にもありました。みんな風呂川の水を使っていたんです。それと、ここは南町です、昔の宗甫分(そうほぶん)村です。桑畑が広がる、養蚕の盛んな村だったと伝えられています。
一中脇から、矢島食料品店前、そこから細井酒店までは真っ直ぐな道の歩道の下が風呂川です。
細井酒店は、焼きまんじゅうや酒饅頭もやってますから、一服つけられますよ。喫茶店なんかでなく、こういうとこでお休みするのがおしゃれなんです、最近は。
細井酒店の角から先は、流路を探すのが難しいです。東へ曲がっているのは確かですが、その先は分かりません。南部大橋の通りを南へ渡ると、また見つけることができます。
美容室『アベック』が目印の角、ここから南へ向かう道の下に風呂川は隠れています。
その道を南へ向かうと、突然、道の東側に姿を現します。淡島神社あたりの水路に比べると、とても深く、川幅も広くなってます。たくさんの水を流せるようになっています。
道なりに南へ。ここの風呂川は、南町一帯の住宅地の雨水排水という大事な仕事をしているんです。急な大雨の時、雨水を速やかに利根川に排水して、洪水を防いでいるんです。それで、深い川になっています。
鵜川工業の木庭が見えて、鳳食の工場の脇を抜けて行きます。これが、風呂川の最下流です。
突き当たると、その先はコスモスの咲く水路敷、この下に風呂川はあります。この先は、風呂川の姿はもう見られません。
前橋城下の用水として、それから、旧紅雲分村と旧宗甫分村の田畑を潤した風呂川は、この先、利根川に流れ込むんです。
広いグランドがあります。群馬銀行の施設地です。昔は野球場になっていました。群銀にも野球部があったんですね、今もあるのかな…。
このグランドの下を風呂川は流れ下っています。向こうに自動車が止まっていますよね、あの向こうはもう利根川です。車の左側あたりから、風呂川は利根川に合流しています。
生姜の花ですね。
昔は、豊かな田園地帯を流れてた風呂川です。今は、住宅地の雨水を排水して、洪水を防ぐ役割を担っている排水路です。時代が変わると、役割も変わります。姿の変わった川筋に、記憶を蘇させてくれる何かがあります。見えないことが多いですね…
南部大橋の東詰め、コーヒー屋さんの裏手に水神社があります。旧宗甫分村の村社です。古代、東道が通っていた古い村です。江戸時代の初期には『実正の関所』が設けられていたと聞きます。境内に、そんな村の来歴を刻んだ碑があります。
風呂川を辿ったら、お参りしてください。
<ふ~ん、そうなんだ、『風呂川は、前橋城で井戸水が足らなくなったり、籠城するときの用意のために作られた」って聞いてたけど、それだけじゃないんだね>
「うん、そうみたいだいね。辿ってみると、城外の村々の大切な水でもあったみたい。農業と生活のためのね。それに、いまではね、局地的な大雨の時の雨水排水という大事な役割を負っているんだいね…」
<おヒゲはさ、庭の片づけで結構くたぶれたみたい。シャワー浴びて着替えると、出かけないで、家で晩酌して、早くに寝ちゃった。
それで、今朝は早起き、疲れもとれたみたいですよ…>
前橋で日本舞踊の師範をしております、直派若柳流の若柳糸駒です。
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若柳糸駒
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