今回、ヴェネツィアでは、ずいぶんと歩き回りました。
もともと、大きな場所ではないので,オットと共にぐるぐると、
履きなれた,歩きやすい、自分にぴったりあった靴を履いて。
そして,それとなく訪れてみたかった
「須賀敦子」さんの見た風景を、自分の目で確かめる事ができました。
「ベネツィアの宿」
に出てくる、彼女が思いがけなく遭遇した、
ラ・フェニーチェ劇場の創立200年記念ガラコンサート。
劇場前。
彼女が見たのは、1996年に火災に遭う前だったでしょうが、
ファザードはきっと変わっていない筈。
「目の前にスポットライトで立体的に照らし出されたフェニーチェ劇場の建物が,
暗い夜の色を背に,ぽっかりと浮かんでいた。」
この劇場の前で、中で演じられているオペラの音を,思い思いに階段に
腰掛けたりして聞き入る,旅行者や、男女の群れ。
そして,彼女がその人々の間を抜けて、心細い心持ちで向かったホテルは、
この劇場の右にある、ほそいほそい路地を抜けて
路地の隙間に,ホテルの黄色い看板が,かろうじて見えます
「宿は劇場との間の細い道路をへだてた所にあって,名もラ・フェニーチェ
と劇場の名そのままである。鍵をもらって,入り組んだ廊下を回り,
汽船の内部のように磨き上げられた木の階段を5階まで登る。」
ホテルの左隣が劇場で,裏手が運河なので、彼女の泊まった部屋は,
正面から見ると丁度いちばん奥の左側と思われます。
熱っぽかった,彼女が顔の高さよりちょっと上にある正方形の小窓を開けると、
窓を開けたとたんに,待っていたようにどっと劇場からの
音楽がながれこんできます
その船室のような部屋で、彼女は自身の父に思いをはせるのでした。
須賀さんの最後の作品集となった
「地図のない道」
その一,ゲットの広場
ローマのゲットから、ミラノの,ユダヤ人の友人マッテオの話、そして
ベネツィアのゲットの見学ツアーへとエッセイはすすみます。
ここで、3回もゲットのツアー参加に、出発時間に2、3分遅れ
空振り、待ち時間にこの広場で時間をつぶします。
博物館のある広場の学校は右から2番目,濃い赤みがかった建物。
学生が沢山出てきました。そしていちばん右の建物は,シナゴク。
「博物館の入り口のすぐ前に、どこの広場にもあるような、
今は使われていない井戸があって、その横に一本
菩提樹らしい枝振りの悪い貧相な立ち木があった。」
左手奥が博物館。戦争を刻むレリーフがはめこんでありました。
左から2本目の木の横に,井戸が見えます。
その二,橋
イタリア人の夫が,急死した一年後、
初めてこの地を訪れた須賀さん。
働いていた書店で一緒になったベネツィア生まれの「ルチア」
に誘われて。
彼女とともに列車でミラノから到着した彼女が、わたすものがあるからと
雑貨屋を営むおばさんの所へ行っている間、待たされた「橋」
グリエの橋
初めて「ルチア」と、この地を訪れてから、25年後に、
この橋のそばに立って、流れていく人々や,旅行者を流れ去った
25年の歳月をその中に数えるようにぼんやりと眺める須賀さん。
そして,この橋をもう一度眺めるため、翌日、水上バスに乗って
ここを訪れ、この場所がゲットの入り口である事に気づきます。
もしかしたら、彼女はユダヤ人だったのかもしれない?、
彼女にはとんでもない過去があったのかも?とふと考え、
でもそれ以上考えを深める事は、あえてとどめる,須賀さんでした。
この、「ルチア」は、彼女が世に知られるきっかけとなった
「ミラノ 霧の風景」の「舞台の上のベネツィア」にも,
「ルチッラ」として登場します
「かならずベネツィアに連れていく」、との夫との約束は
遂に果たされる事はなかったのでしたね。
さらに「すべてがきっちりと計算されなければならない狭隘なベネツィアの街で,
しばらくの間だけ,という事で仮設のまま今日に至ったと言われるこの橋の野心の無さみたいなものが、私をほっとさせる」
と書いた
アカデミアの橋
この橋のたもとの,もうそこが水という所にあるカフェ。
東京で親しかった若い女の子が,授業の準備にくたびれて
一休みしていた須賀さんを見つけてぱたぱたと橋の階段を下りて来ます。
右下の橋の麓、少し暗いのですが,このカフェに間違いありませんね。
彼女がくぐったに違いない大学の入り口の門
アカデミアの橋のすぐそばです。
その三、島
滞在していたリド島から、トルチェッロ島に出かけた須賀さんが
出会った、古いバジリカ様式の教会のモザイク。
その,海を模したモザイクに、心を奪われ、なぐさめられました。
残念ながら、訪れる人が殆どないこの島への船の便は悪く、
私自身,この島を訪れる事はできませんでしたが,
隣のブラーノ島から見えた,トルチェッロ島の教会。
鐘楼は補修工事中でしょうか?
これ以外、高い建物は無かったので,あの、モザイクのある教会は,
この建物に違いないかと。
「ザッテレの河岸で」
300メートルの幅があるジョデッカ運河は,狭い運河ばかりの島にいると
穏やかで日常的な明るさがあってほっと心が和むと須賀さんはいいます。
余り観光客の行かない所を案内する、と連れて行かれた河岸
ザッテレ
この船着き場から、夕方近い時間に急がしく出入りする船を見ていた須賀さん。
「治る見込みの人たちの水路」
RIO DEGLI INCURABILI =リオ デリ インクラビリ
という名前を見て,俄然興味を引かれます
地図を辿ると、アカデミアの橋の反対側。
ジョデッカ運河から眺めた、この辺りに、この水路はある筈。
右側の橋のあたりでしょうか。
この,治る見込みの無い人たちとは、いったい、どんな人たちが
どんな病気でそう呼ばれたのか?
時間をかけて,探っていく須賀さん。
こんな風に、「作家の目をたどる旅」
こんな旅もいいものでした
子供が小さかったときは,こんな旅はとても,無理でしたから。
今回の、このレポートは,須賀さんつながりの、
naraoさん、おくさまのnaraさん、そして、Mayさんに、感謝をこめて。
皆様,新年早々、その節はいろいろ、ありがとうございました。
これで,私のベネツィアは終わりにしましょう
追記
今回,ふと、そういえば、イタリアでなくなりミラノに埋葬された,
ご主人のペッピーノさんと
日本でなくなり、日本に埋葬された須賀さん。
天国で再会できたとき,うれしかっただろうなあ、とベネツィア本島から、
ロンドンに帰る為に乗っていた空港行きの船から見えて来た
お墓の島、サン・ミケーレ島を見つめながら,思った私でした。