シンガー『ナターシャ』のブログ

関西・東京・名古屋・広島、そして台湾もグローバルに歌うシンガーソングライター、jazzシンガーナターシャのブログです

治安は?

2008-04-30 | 
エルサレムの前によくある質問FQAを。

「イスラエルに行った」言うと決まって聞かれるのがまずはこれ。
「え~治安大丈夫なの?」

はい、何も問題ありませんでした。
前回「山元加津子ツアー」で行った去年の7月はレバノンとの戦闘体勢だったため、観光地はどこもすいていたそうですが(当たり前だわな)今回はエルサレムは人、人、人。世界中からの人のエネルギーがすごかった。皆ここを目指してくるのよね。

入国審査も厳しいとよく聞きましたが、何の問題もなし。「教会のグループか?」「違う、観光です」という問答くらい。イスラエルの入国スタンプを押されるとアラブ諸国へ同じパスポートでいけないので「ノースタンプ」とお願いするとスタンプも押されなかったし。

帰りの出国審査はさすがに厳しく一人ずつスーツケースを開けられました。イスラエルのどこに行ったのか聞かれ、あまりにもたくさんのところを訪れたので旅のしおりを見ないと分からなくて戸惑ったり、旅行会社からもらった物なども詳しく聞かれました。帽子とパンフレットくらいなんですが。

写真はゴラン高原。なんとものどかな高原だけれど、すぐ向こうはレバノンとの国境。国境地帯なので何度も戦場となった場所だが、この景色からは想像できない。しかし、ちょっと先へいくと「地雷注意」の看板がありこの景色とのギャップが激しい。

イスラエルという国は国家存続のために、万が一攻撃されてもできるだけ日常生活を淡々と送るようにしているとのこと。それを聞いていつ何が起こってもおかしくないところで暮らすって本当に私たちの想像を絶することだなあと思ったし、そしてそんなことを心配しないでもいいところに住んでいる私達がどれほど幸運なことか・・・考えさせられました。

私もイスラエルに行くまでは「中東のあたり、ややこしいところ」というくくりしかできなかったし、イスラエルに行ったと聞いた人の反応の中でも「ベールとかかぶっているんでしょ?」とか「戦争中じゃないの?」とか、いかに日本にイスラエルの情報が入ってきていないかがわかります。

他国に頼れないイスラエルは自給率が世界1。自給率を上げなくてはならない日本にはたくさん学べるところがあるだろうし、な~んにもない砂漠から奇跡のように大きな都市をつくったイスラエル人。森が消えつつある世界中で唯一緑の面積が増えている国。学べるところは本当にたくさんあるのです。

一説によると石油が必要な日本にはアラブ寄りの情報しか入らないとも。真偽は分からないけれど、自給自足しているイスラエルより石油を依存している日本にはアラブの方が大事なのかもしれない。

そういう意味でもそうそう行けないところに旅できたことは、本当に幸運です。感謝。


イスラエルの教育

2008-04-29 | 
ブログをアップしようと思いつつ、このイスラエルネタは書くのにかなりエネルギーがいるので遠のいてしまいがちですが、今日は「イスラエルの教育」。と言っても詳しいことは分かりません。ただ旅行者が聞いたこと感じたことです。

そういえば、10年ほど前にイスラエル人の通訳をしたのですが、「知育玩具」の商談でした。なんだかイスラエルの知育玩具ってすごそうだなあと思ったのだけ覚えています。アメリカで修士の勉強をしていたときも、イスラエルの語学教育や語学テストはとても高いレベルだというのをよく聞きました。テストの質のことです。日本はテストの質は世界一ひどいかも。テストが一体何のために、何を調べる為に行われるかが全くわかってない。

私が今回の旅行で聞いたインパクト、ショック、が~んときた話は色々ありますが、この「教育」もそのひとつ。イスラエルという国は2000年の流浪の歴史を経てやっとできた国家です。だからその存続にはそれこそ命をかけているのです。

だから教育も「先生や親や大人というのは、子供が何に向いているのかを見つける手助けをするためにいる」。子供一人ひとりの向いているものを見つけ、才能を伸ばすことが国家を存続させることに繋がるからです。

日本のテレビで以前放映されていたイスラエルの学校の番組では、イスラエルの学校が日本の価値観でいえば「まとまりがない」「むちゃくちゃ」な状態だったとか。でも、先生はじっとその子を観察しているのです。

確かにイスラエルだけでなく、どの国にとってもそして個人にとっても、子供が何に向いているか、そしてその向いている仕事をさせるほうがどちらにとってもメリットがあるはずですよね。なんで日本は点数を上げることばかりに気を取られているんだろう? 国にとっても個人の才能を活かさないのは損失なはずですけれどねえ。それを教育カリキュラムを作るお役人が本当に理解したときに日本の教育も変わるのでしょうか。それまでは根本的なことは何も変わらないと思います。私は日本の教育と相容れないものがあるので、力をつけるための教育ではなく、点数だけをあげる教育にはもうこれ以上かかわりを持たないようにしていますが。

さて、写真はイスラエルの幼稚園。
前回のイスラエル旅行で行ったキブツで子供と交流することになっていたので、私達は子供たちへのお土産を持っていったのですが、そのキブツ、色々事情も変わっていたようです。それを見たバスドライバーのダビデさんが、「君らがせっかくもってきたお土産をもっと喜んでくれるところを探すよ」と見知らぬ土地なのに彼がその辺りの幼稚園を電話で探してくれました。

その辺りはどちらかと言うと貧困な地域らしいけれど、バスで通った感じでは建物が新しいせいかそんな感じはあまりしませんでした。だいたいよその国で「貧困地域」と言えば、ゴミが落ちていたり落書きがしてあったりとすぐ分かるもんですが、なんといってもイスラエルは清潔。きれい。

どんな砂漠のど真ん中の遺跡の観光地でも水洗トイレです。そして、紙が必ず置いてある。すごいでしょ~。

さて、この幼稚園児たち、ちょうど「過越祭」が間近に迫っていたのでそのお勉強をしていました。ちなみに私はアメリカで「パスオーバー」というのはユダヤ系の祭だと知っていましたが、その意味もやっと今回の旅で知りました。そして、パスオーバー=過ぎ越しなのだと・・確かに直訳ですね。

過越祭というのは・・・

イスラエル人は、エジプトで奴隷として虐げられるようになっていた時代、神は、当時80歳になっていたモーセを民の指導者に任命して約束の地へと向かわせようとするが王がこれを妨害しようとする。そこで神は人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子を撃つ」いう。神は、戸口に印のない家にその災いを臨ませることをモーセに伝える。つまり、この名称は、戸口に印のあった家にはその災厄が臨まなかった(過ぎ越された)ことに由来する。(出エジプト記12章)


私達が行くとその幼稚園児は楽器を持ち歌を歌ってくれました。その後は日本チームもお返しに歌を歌うと、幼稚園児も歌を返して歌合戦。「幸せなら手をたたこう」は共通歌だったのでみんなで一緒に歌い、最後はハティクバ。勿論幼稚園児でも国家を歌うときは起立します。

写真を見たらお分かりでしょうが、ほんと~にほんと~に可愛いのですよ。そして、最後に私達のお土産を渡しました。使用上の注意の要る「シャボン玉」を説明し先生がふくとシャボン玉をつかもうと子供たちがやってくるのです。無邪気さ、可愛らしさで涙がでそうでした。


教育関係でもうひとつ。
最終日、イスラエルに留学している日本人大学生との交流会がありました。彼らにもインスタントラーメンやせんべいや日本の食べ物をたっくさんみんなで持って来ました。現在イスラエル全土で勉強している留学生は全部で約30人。この日は試験中ということもあり3人だけがやってきました。夕食を一緒にしましたが、テーブルのおっちゃん、おばちゃんからの質問攻めであんまり食べられなかったなあ、かわいそうに・・その後、別室にうつり三人がひとりずつお話してくれたり、質問に答えてくれました。

彼らの選考は「聖書」、「文化比較」などでしたが、なんせヘブライ語で学び試験を受けるんですからね。本当にすごいです。勉学が大変なせいだけでなく、イスラエルに行こうと思う若者だけあって、日本のあほズラの大学生とは人種が違うというより、星が違うといってもいいくらい。勿論私もあほズラの大学生でしたが、彼らは本当に地に足ついている。そして、なんといっても目の輝き。そうそう日本ではお目にかかれない瞳の輝いた若者です。だから彼らの短いスピーチも20歳そこらとは思えないほど。内容も勿論、その話し方も若き熱い情熱を感じさせるものでした。私達の中には彼らのスピーチで号泣している人も居ました。

ヘブライ語という特殊な言語、文化の違った中で一生懸命学び、そしてイスラエル人たちから「国があるということ、ないということ」そして、国への誇り、自分達への誇り・・・そんなものをたくさん体で学んでいる彼らは本当にすがすがしかった。

では次回はエルサレムについて書きます。


ハティクバ

2008-04-24 | 
写真はぷかぷか浮く死海です。ここは海抜下400メートルで世界で最低な(一番低い)場所だそうです。だから太陽の紫外線もここまではやって来ないから肌にも悪影響なしと聞きました。まあ、私は夜にぷかぷか浮いたので関係ありませんでしたが。

そういえば去年行ったペルーのチチカカ湖は標高4000メートルくらいだったから、とっても高いところ低いところに行ったことになります。浮いている場面を友達のカメラで写真を撮ってもらいましたが、たぶん夜だからうまく撮れていないだろうな。なので、写真は知らないおじさんたち。

夜の死海は場所によっては冷たいところもありましたが、少し歩くと暖かい。なんせ目や鼻などの粘膜に海水が触れてはいけない!と聞いていたので、ひっくりかえったらこわい~とびびりの私はびびっていましたが、そんな私でもすぐにぷかぷか浮きました。

そういえば「死海でおならをするとまあすごい」と聞いていてましたが、そんなタイミングよく出た人はいなかったのか、誰からも何がすごいのかの体験談を聞けずじまいでした。知りたいなあ。

舐めたら塩味だけでなく、硫黄やにがりなど色々な混ざった味でした。肌はぬるぬるになり、部屋に帰ってしっかり石鹸で洗いましたが、翌日朝食テーブルで「もったいない」といわれてしまいがっくり。そっか、この成分が肌によいから水で洗い流すだけでよかったのかも。でもかなり刺激強そうでしたよん。

私にしては高価だったので買いませんでしたが、死海のミネラルの化粧水や泥パックなどたくさん売っていましたよ。バスソルトは買おうか迷ったけど、どうせ買っても絶対使いきる自信は全くないな・・と石鹸だけ買いました。


毎日メーリングリストで一緒に旅した人達と同窓会の連絡や旅のシェアーをしたり未だに繋がっているのですが、旅の団長赤塚さん、今ではイスラエルに10回くらいいらっしゃっていますが、彼を一番最初にイスラエルに導いた故、糸川英夫博士は「旅の前と帰ってから、何か違って見えたらその旅は成功なんだよ」とおっしゃっていたと投稿してました。

帰って10日ほどしか経っていないのに、旅の思い出が薄れつつあるような気がしてちょっと淋しいのですが、それはもうそろそろ旅の衝撃が外側でなく内側に入ってきているのかもしれません。

昨日は、映画「4分の1の奇跡」が新体制になったお祝いパーティーというのがあり、そこでイスラエル旅行についてお話させてもらいました。写真の順番がばらばらになっていたため、聖書関係の場所はお手上げ状態でしたが、山本加津子著「宇宙の約束」を皆、読んでいる、知っているので話が早い。

去年の7月「山本加津子と行くイスラエルツアー」でかっこちゃんが感じたことを書いたのがこの本、「宇宙の約束」。実はこの時期、イスラエルはレバノンと戦闘中だったため、ガイドさんがみつからなくってようやくみつかったのがイスラエル在30年の「バラさん」こと榊原さん。このバラさんがあんまりにも素晴らしい人なので、今回は「バラさんと行くイスラエル」というタイトルのツアーになったのでした。

旅の企画者小林さんから「バラさんは、男がほれる男だよ。本当に素晴らしい。」と聞いていましたが、男でも女でも動物でも惚れちゃうくらいの人でした。ほんと。

話がそれましたが、昨日の報告会でお話の後、私はイスラエル国歌「ハティクバ」を歌いました。私達は初代首相、独立宣言の人ベングリオンのお墓の前でこの歌を歌うためにずっとバスの中で練習していたのです。世界広しと言えども国歌がマイナー調なのは日本とイスラエルだけらしいですよ。日本とユダヤの共通点は色々ありますねえ。

「ハティクバ」の大体の意味はこんな感じです。

我々の希望は、なお失せない。
その希望は、2000年にもなる
私たちの国で、シオンの地で、
エルサレムで 自由の民となること。

このどこか哀しいメロディー、すんなり体に入ってくるので、気がつけばいつもこの歌を口ずさんでいました。買い物するときも、ホテルの部屋でも。(歌詞は難しいから紙を見ないと歌えませんが)変わった観光客ですよね、日本で買い物しながら君が代歌っている外国人ってことですからね。

ベングリオンのお墓の前で「ハティクバ」と「君が代」を歌いました。なかなかこれも感動的な場面でした。ベングリオンが最後に住んだ家の側にお墓があるのですが、「イスラエル独立にこれだけ貢献した人がなぜこんな辺鄙な砂漠に住んだの?お墓も?」と思われますがこれは彼の意思だったのです。

イスラエルの国が豊かになるにつれ人々は都会に住もうとします。ベングリオンは「イスラエル国家存続の為には、南に行け!砂漠を耕せ!」といい続け、実際自らこの南の砂漠に最後の住処を創りました。彼が亡くなったときのままにしてあるので、彼のスリッパもそのままです。

しかし、本当に簡素な家です。元首相の家だとは思えないほど。首相という立場を離れても、絶えず国家のことを考え自らが実践していた・・この家は、日本の政治家に見せたいと思いました。私利私欲でなくどんなときでも国家の事を考える・・これが本物の政治家ですよ。

日本とユダヤにはたくさん共通点があるので、その手の本もよく出ていますが、いうなれば政治家も含め「民族や国に誇りを持っていた(過去形)日本人と民族や国に誇りを持っている(現在形)ユダヤ人」が似ていたのではないかと思います。現在の日本人は民族にも、国にも、そして一番大事な「自分」にも誇りや尊厳をなくしているように思えます。その大きな原因は教育だと思いますが、次回はイスラエルの教育できいた話を書きますね。

イスラエル国歌を聞けるチャンスはそうそうないですから、リクエストいただきましたがいつでも「ハティクバ」歌いますよ。しかし、この曲「こぎつねコンコン山の中♪」をマイナー調にしたのに似ているので、時間があいてしまうとコギツネの歌になってしまうのでお早めに。

ゴリヤテ2

2008-04-23 | 
ゴリヤテの続きです。

今回の旅では、魂をかけて生きてきた人達の話を聞いたり、壮絶な人生の中、自分の使命を知りそれに徹する方々と一緒に旅をしました。彼らは本当に軽くて明るくて笑いがいっぱいで、愛に満ち溢れているんですよね。

帰ってきて私は心の底から彼らのように、自分の魂の目的に生きたいと思いました。でも、だんだん色んな事がわからなくなってきて、土曜日は楽しみにしていたことも行く気がしなくて、家で落ち込んでいました。変わりたい!変わりたい!と思っても何をしていいのかわかりません。

その時、ふとやってきたメッセージが・・・・
「掃除しなさい」でした。

一瞬「え?なんやそれ?」と笑ってしまったのですが、「そっか、自分を変えようと思えばその環境を変えなければならないのか」とガッテンガッテンガッテン!でした。

私はお掃除が嫌いなわけではなく、トイレ、風呂場、洗い場など水周りなんてすごく綺麗にしているつもりです。(だって水周りは金回りですからね)でも、片付けが苦手なのです。テーブルのスペースあるだけ使ってしまうので、書類や本やイヤフォンやいろんなものをすぐ散らかしてしまうのです。

ドライヤーのコードなんかも不思議なことに、巻いたわけでもないのに、たくさん団子ができているのですが、団子が多くなりすぎてコンセントから届かなくなったときにやっと団子を解くといういいかげんさ。

ただ我が家には人がやってきてくれる機会がよくあるので、その度なんとか片付けをしてもっているようなものです。考えれば片付いていないうちに神様来たくないよね、綺麗にしてたら「いこっかな」とか思うだろうけど。

そんなことを反省していると、自分の今まで嫌だった部分で変えられなかった部分、色々あるんですよ。いつも出る前にバタバタしてあせるとか。前もって用意せえよ~といつも出かけるときは怒っちゃうし。

他にもあるある。着物を着たいと思っても襟をつけるのが面倒くさいのです、私。何かを創るために裁縫をするのはいいけど、単に縫うだけなんて私にはだるくてだるくて・・。

自分を変えたい!て思うなら、実はた~くさん変えるべきこと、変えられることがあったのです。何も大きな夢を描いてそれに向かっていくことが自分を変えることではなくって、毎日つまんないと思えるようなことにも喜びを持ってすること、そして、自分の目の前にあることを淡々とこなすこと・・それが本当の意味で「魂の目的」に近づいていくんだろうと気づいたのです。

神のおつげで「これをしなさい」と言われ「わ、使命がやってきた」というもんでもなく、全ては日常生活の延長にあるのでしょう。

そうは言っても頭は「どうせ3日坊主」と言ってくるのですが、3日坊主でも結構。4日目休んで5日目からまた3日坊主になればいい。それを繰り返しているうちに習慣となるのですから。

いつも「だるい」とか「面倒くさい」と思うことがたくさんある私には、イヤイヤやっていたその日常の仕事を喜びを持ってすることができたら、人間変わるでしょう。

結局、ダビデとゴリヤテの戦いの教えと同じだったのです。
自分を変えようと思うなら、変わりたいと思うなら、自分の中に変えるべきことがたくさんあったのでした。

写真は砂漠で乗ったらくだ。この垣根の中を回るくらいだと思っていたら、ここから出発して30分ほど丘を登り下ってきました。


ゴリヤテ

2008-04-22 | 
昨日はとっても嬉しいことがありました。

3月に終わったNHK朝のドラマ「ちりとてちん」の草原役の桂吉弥さんの落語をききにいったのでした。それもやってくれたのが「ちりとてちん」。ミーハーにも一緒に写真も撮ってもらったし♪

お正月甥や姪と一緒に過ごしていたら「ようこそのお運び厚く御礼申し上げます」とか「きいさん、ようきはったなあ」とか「ちりとてちんて知ってるか?」「豆腐の腐ったような・・(オエエ)」というセリフが次から次へと出てくるので「何それ?」と不思議に思って聞くと、テレビ「ちりとてちん」に出てくる落語を何度も聴くうちに覚えていたのでした。子供はほんますごい。

それ以来、テレビをほとんど見ない私も「ちりとてちん」をちょこちょこ見るようになりましたが、私が見る時は残念ながらあまり落語のシーンはでてこず、覚えることもできずだったのですが、昨日聞いた「ほんまもん」のちりとてちんは面白かったあ。

落語って本当に日本の誇るべき芸術ですよね。話に引き込まれ想像の世界に入り笑ってばっかり。。。

さて、イスラエルのお話、たくさんのご感想いただき厚く御礼申し上げます。しかし、実はこの後が続かなくて・・というのも、このデルアビブを出た後、私達一行はイスラエルの各地、新約、旧約聖書に出てくるところを訪れ、素晴らしいお話を聞くのですが、「まんが旧約&新約聖書」を読んだくらいの私には、たくさん訪れた場所が一体いつ?どこに?行ったのかよく分からないのです。聖書の書いてある順番にいく訳ではないですからねえ。写真だけが手がかり。スケジュール表も変更につぐ変更なのであまり当てにはならず。

しかし、漫画であっても一回読むのと読まないのではすごい違いで、話をよ~く聞いていると途中で「あ、その話知ってる」と分かるのですよ。しかし、その場で分かっていても帰ってきたらう~ん。

私にとっては独立宣言の家と最後の3日間滞在したエルサレムが旅の盛り上がった所でありました。コースでいうと最初の「独立宣言の家」、途中のこの宣言をした初代首相「ベングリオンの家」、最後はホロコースト博物館で、ユダヤの歴史が繋がるのでした。

パレスチナ自治区だったので行くのも大変なキリスト誕生の地「ベツレヘム」、ユダヤ人が自決した「マサダの砦」、訪れた幼稚園、ぷかぷか浮いた死海などが印象に残っている、心にぐっときた場所でしたのでそういった場所を中心にお話することにします。

写真の草原、旧約聖書にある「エラの谷」です。
ペリシテがイスラエルに攻め込み、ここエラの谷で対決することになったのですが、ペリシテ側には3メートルもある巨人「ゴリヤテ」が一騎打ちで戦いを決めようとします。しかし、イスラエル側には強そうな3mの巨人に立ち向かう者はいません。ダビデはまだ子供でしたのでこの軍には加わっていませんでしたが、兄達に父からの差し入れを届けに戦場、エラの谷に行きます。

そこでイスラエル軍の誰もがひるんでいるのを見て、ダビデは自分が戦いたいと申しでます。しかし、鎧や兜を着せても大きすぎて合いません。ダビデは「こんなものは要らない。私は私のやり方でゴリヤテと戦います。」と川から石を5つ拾い羊飼いの自分がいつも下げている皮の袋に入れ、ゴリヤテに向かいます。そして、この石でゴリヤテを倒してしまうのです。

この話だけなら「ふ~ん、ここがそうなんだ」と私達以外誰も居ないのどかな平原を見て記憶にも残らなかったかもしれません。しかし、今回の旅ではエドガーケーシー研究者の光田さんによる「ケーシーの聖書の解釈」というむちゃくちゃお得な説明がついているのです。

ケーシーは、「聖書を自分の人生に引き寄せて読みなさい。人生に適用させなさい。」と言っていました。このゴリヤテとダビデの戦いも私たちの人生において意味をなすものなのです。

「ダビデはそこにあるもの、川べの石で戦った。」ここがポイント。強い武器やたくさんの何かを使ったわけではないのです。つまり、「自分の持っているもので戦える」というのがケーシーの解釈でした。

つまり、何かをしようとするとき、多額の資金もたくさんの人材も要らないのです。自分の中にあるもの、側にあるもので人生戦えるということ・・・今回のイスラエル旅行で色々なことを感じましたが、聖書の教えとして私に一番ぐっときたのはこの教えでした。帰ってからもこのことが一番残っています。

つづく

独立宣言の家

2008-04-18 | 
日常生活に戻り少しずつ自分の変化を言葉にできるようになってきました。私自身が旅行前と明らかに違うことがあります。

この旅で私は本当の自分の「魂の目的」を生きている人達に出会いました。

彼らは壮絶な人生の中で自分の魂の目的を見つけ、そしてそれを役割だと誇らしげに、そして笑いと愛と希望をふりまきながら軽やかに自然に生きています。そして、自分たちが神に祝福された存在であることを全身全霊で知っています。

私は自分の魂や命をかけて生きてきただろうか?今生きているだろうか?

勿論現在の自分や過去の自分を否定するわけではありません。ただ、私もああいう生き方をしたいなと強く思います。自分の人生にコミットして生きていこうと決めました。

そして、もう一つ。
「ユダヤ人には不可能という言葉はない」ということ。

イスラエルで知った彼らの歴史、知れば知るほど彼らには不可能という言葉はない・・というより、不可能だなんて言ってられない状況だったのですが、それは「不可能ということを許さない」のだと思います。

彼らの生き方を通していかに自分が「あれはできない」「それは難しい」「あれは大変だ」と世界を縮めて生きてきたのだと知りました。これからは「できない」「難しい」と思ったときは、「果たしてイスラエルの人はできないって言うだろうか?」と考えることにします。私も同じ人間。本当に必要なことならば(ここは大事です)できないわけがないのです。

そのイスラエルの歴史ですが、私たちの旅の最初の地、テルアビブで最初に行ったのは「独立宣言の家」でした。ここのガイドのお兄さんが説明を英語でするのですが、今回のツアー参加者にはたくさん英語の堪能な人が居るので順番に通訳していってもらいましょう~と言うことになり、たまたま・・でなく必然的なんですが・・目の前に居た私が担当することになりました。

イスラエル王国が滅亡して、国というものが持てなかったユダヤ人。流浪の民となるものの各国で迫害を受け、行き場を失った民族。そしてイスラエルに国家を建設しようとするシオニズム運動へ発展するのですが、そのきっかけともなった「ドレフェス事件」

これが出たときはどこで何が役に立つかわからないなあ・・と思いました。というのも、この事件、私はフランスに留学するまで知りもしなかったのです。ドレフェス大尉がユダヤ人という理由でスパイだと決め付けられた事件、これは歴史の時間に勉強したことでもあり、尚且つこれを冤罪だと激しく糾弾したのがエミールゾラだったのですが、彼は私の居た南仏エクスに住んでいたこともあり(セザンヌの友人)この事件のことは歴史以外の授業でもよくでてくる話だったのです。

この有名な事件が分かっていないと通訳するにも理解しにくかったと思います。そしてヘルツルがシオニスト会議を開き、「聖地にユダヤ人自身の国家をつくろう」というシオニズム運動に展開していくわけです。その頃ベンイェフダがヘブライ語を再現させたりその気運は高まっていくのでした。

ややこしいイギリスの占領を経て、1948年国連で奇跡の大逆転のパレスチナ分割案が可決され、5月14日にイギリス軍が撤退。そしてその夕方にテルアビブのその場所でイスラエルの独立宣言が行われたのです。

反発する周辺のアラブ諸国の攻撃をかわすため、エルサレムでなくテルアビブに、そして半地下になっているこの博物館が選ばれたのでした。ここなら攻撃されてもなんとか宣言はできると考えられました。しかし、突然決まったことだったので椅子は通りの向こうのカフェから借り、絨毯も町の絨毯屋さんで調達したのが写真の部屋です。

ラジオでは宣言が行われることは流されましたが場所は極秘でした。宣言の原稿を持った人が時間ギリギリだった為、その辺の車を運転している人に「急いでいるんだ、乗せてくれ」と言っても「いやだよ。今からすごい宣言がラジオから流れるんだから家帰るんだよ」と何人にも断られたという笑い話もありました。

この部屋では宣言をしたデビットベングリオン(初の首相)や後の政府の要人になる人達が横一列に座り、その前には後の議員になる人達が座ったそうです。

ガイドの若いイスラエル青年の側に居て心を打たれたことがあります。いかにイスラエルという国家を持つことが大変だったかということを彼は説明していたのですが、その説明より "the State of Israel" (イスラエル国家)という言葉を言う度、彼は本当に震えていたことに私は驚き心を打たれました。客席からは見えなかっただろうけど、私は彼のイスラエル国家というものに対する強い強い思いを側で感じることができたのです。

宣言の次の日、国境に配置されたレバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプトの軍隊がイスラエルに侵攻し、第一次中東戦争が勃発するわけですが、アラブ諸国にしてみれば自分達の土地が奪われることになったわけで、私たちがどちらがいい、悪いということはいえません。

ただ、震える彼を見て「国家」というものを持たない人達がどれほど大変な目をしてきたのか、だから彼らが「国を持てなかった辛い時代」に戻らないようにどんなことでもする、できるんだということを知りました。

私達日本人はほとんど世界中ノーパスで行けるようなパスポートを持っています。それは日本という国がしっかりしていて、世界中から信頼されているから。それなのに、そのことに本当に感謝している日本人がどれだけいるのでしょうか。

ある一枚の写真がありました。それは以前この独立宣言の家の辺りで撮ったらしいのですが、今ではすっかり都会になっているテルアビブとは思えないほどのただの砂漠です。60人ほどが固まっていて、そこから離れた所に一人男の人が立っています。

この集団は「このテルアビブに住もう!」と決めてやってきたのですが、離れた男の人は「こんな砂漠に住めるはずがない。街を作れるはずがない! 馬鹿ばかしい!」と怒っているのです。

こんな砂漠にテルアビブのような大きな町をつくることは私たちの頭では「奇跡」としか思えません。でもこれから旅する砂漠、その信じられないような奇跡をたくさん見せてもらうことになるのです。

「不可能だ」「できない」なんて言ってられなかったのですね。

40分ほどの滞在予定がなんと2時間に。なので初日からスケジュールはフレキシブルに変更されていく訳ですが、ここでイスラエルの歴史を学んだことはその後の旅に繋がって行きます。特に私は耳で聞いただけの人よりも、自分の口を通して言っただけ体に入ってきました。そして、側に居てガイドさんのイスラエル人の国家に対する想いも体で感じることができました。

彼はロシアからの移民だそうでロシアアクセントとイスラエル人の英語だった為、後で皆さんに「分かりにくい英語だったのによくやったね」と褒めていただきました。確かに最初の3分くらいは彼の音に慣れるのに苦労しましたが、私にとってはちんぷんかんぷんな音ではなかったし、話に夢中になりあっという間でした。私にはどちらかと言うとインド人、ニュージーランド人のアクセントの方がよっぽどちんぷんかんぷんです。音って面白いものですね。今回の通訳は「ドレフェス事件」くらいしか知らない私にしては自分でもよくやったかな・・と。2時間だったのでちょっと疲れましたけど。

たくさん英語に堪能な方が居るのに、この独立宣言の家で私に番が回ってきたことって本当に光栄なことだと思いました。そして、イスラエルやユダヤに疑問、ハテナがいっぱいの私だったから、神様がこの子の勉強にはちょうどいいな、と選んでくださったのですかね。有り難いことです。




テルアビブ

2008-04-17 | 
昨日ブログを書いてお風呂に入っていた時、ふと気づきました。

私が自分が幸せでないと感じていた時期というのは、結局「神」や「宇宙」や 大いなるものと離れていたときなのだと。

30代前半、本当に辛かった時期にいつも「子供の頃、幼稚園の頃に返りたい」と思っていました。そして、幸せになろうと思えばなれる外的環境にありながら、幸せになれなかった私。自分を見つめていき、精神的なこと、体や心の事を知り最後に行き着いたのはやはり目に見えない「大いなる存在」でした。その存在が近くになればなるほど生きるのが楽しく、幸せになってきたことを考えれば、「辛かったのは大いなる存在と分離していたから」なんだと分かったわけです。

「分離感」という言葉も精神世界ではよくでてくる言葉ですが、イマイチ分からなかった。「分離しているから辛く苦しい」といわれているけど、何と分離しているのか分からず「本来の自分と離れているってこと?!」と思っていました。でも本来の自分と離れているというのは、大いなる存在とつながっていなかったからですね。

子供の頃にお祈りをしていたことを昨日思い出し、一人遊びの好きだった私は要するに目に見えない存在とコンタクトを取っていたのだと気づきました。今までスピリチュアルな本に「私は幼少の頃から妖精と話していて・・」と書かれているのを読むたびに、「ひええ、すごいなあ」と思っていましたが、私を含め、ほとんどの子供はみんなそうなんじゃないかな。それを大人になっても覚えているかどうかだけで。

さて、このイスラエル旅行でまだ言葉にできることは少ないのですが、その一つに長年疑問であったユダヤ人に関することがだいぶクリヤーになったことがあります。

私は23歳の時にアメリカに行きました。それまで受験勉強はできても世界の常識というものからかけ離れたパッパラパーの私にとって、アメリカでなんとな~く感じるユダヤ人への差別というのが全く理解できませんでした。

ある時クラスメートのモロッコ人アジザが「ミリアムは私のことを嫌っているわ。」と言う彼女に「え?なんで?」と間抜けな質問をした私に「彼女はユダヤ人だからね」という答えが返ってきました。私にとってイスラエルを最初に教えてくれたのは、キブツで一年間働きヘブライ語を話せるミリアムでした。彼女は本当にユダヤ人であることを誇りにしていましたが、名前を言うと「ユダヤ人?」としょっちゅう聞かれるのはウザイとも言っていました。今回の旅行で「ミリアム」という名前はメアリー=マリアというヘブライ語だとういうのを知り、彼女の言っていたことが今、15年後に理解できました。

学校の授業についていくのに必死だった私には、モロッコ人とユダヤ人の緊迫状態なんてぜ~んぜん気づいていなかったのです。アジザんちに遊びに行ったらお祈り中だから会えないということでもびっくりしたくらいですから。イスラム教徒の風習も全く知りませんでした。

或いはよく一緒に日本料理を食べにいっていた友達がいつも「とんかつ」を注文するので「とんかつ好きなんだね」と言うと「ユダヤ人によく間違えられるからね。僕は豚を食べるからユダヤ人ではないでしょ」とも言ってました。彼は鼻がかぎばなだし言われてみれば・・と思いましたが、このこともなぜ思い出したかと言えば今回旅の最後に訪れた「ユダヤ人博物館」でホロコーストの時にユダヤ人を見つけるための機械というか道具の一種で鼻の角度を測るものを見たからでした。今その道具を思い出すだけで胸が裂けそうに辛くなりますが。

また別の友達が「ルームメートはいっつもお金を数えてる。さすがユダヤ人」なんていうのを欧米人から聞く度に、「はっきりと表に出ない差別」に「なんで?なんで?」と思うのでした。

大体の歴史がわかってもまだ疑問はありました。

映画界や金融関係などユダヤ人が牛耳っているという話もききました。特に私はロスでそれもハリウッドの近くで日本語を教えていたので、生徒さんい映画関係の人達がたくさん居て、そういう話をよく聞きました。でも、じゃあ映画の「クイズショー」でなんでユダヤ人はイカサマされるの? 「ドライビングミスデイジー」のおばあさんがユダヤ系で運転手が黒人という設定の彼女がユダヤ系である微妙な意味合いが私には頭ではわかっても肌では分からなかったのです。結局、アメリカやヨーロッパを理解するのに「ユダヤ」や「聖書」を知らなければ本当の理解はできないのです。

勿論全てを理解することは無理ですが、今回の旅行で長年の疑問が少しは解けました。その代わりにまた新たなる疑問が生まれてきましたが・・。

今回の私達の旅は「テルアビブ」から始まりました。

まずは「イスラエル独立宣言の家」を訪れたのですが、ここで私はとても大きな役割をいただくことになります。「なぜあれが私だったのだろう?」と思っていましたが、今こうやって長年の疑問をまとめていたら、「ああ、だから私にお役目をくださったのだな」って分かりました。

長くなったので続く。写真はそのイスラエル建国の際に宣言をした場所です。

統合中

2008-04-16 | おもうこと
今日は統合中の日だったようです。

15時間ほど寝て体はしっかり元気なんだけれど、何かをしようとしても四つんばになってしまいます。昨日洗濯をしたものの、物に溢れた部屋をなんとかしようと思っても無理。お腹がすいているからかも・・とごはんを食べたけれど無理。

そこで思い出しました。アンマの後もそうだったと。http://www.amma.jp/
去年、抱きしめる聖者アンマのボランティアを2日間やった次の日、起きたくても体が動かず四つんばになってしまい、でも夜には友達の還暦祝いの飲み会があったので出かけたはいいが、お酒や揚げ物を食べたせいで、帰りに上からも下からも体外流出の巻で駅のトイレで苦しんだことを。

甥が生まれた瞬間にも、立ち会った私はその時のあまりにも大きなエネルギーに包まれ、その後四つんばになり立ち上がれなかったことを。命の誕生の瞬間ですから当たり前といえば当たり前なのですが。

きっと大きなエネルギーが私の中に入り統合するときにこういった状態になるのでしょう・・と何回か経験し学習した私は今日は予定も入れていなかったのでゆっくりすることにしました。

一つ素晴らしいことは声。
いいエネルギーに触れると声の響きが変わりますが、自分で声を出すのが気持ちいい。まさしくバイブレーションが違うのです。私にとって声は自分のエネルギー状態を教えてくれる大事なもの。

ということで、私が住んでいる日本でイスラエルで触れたエネルギーが今統合されているようですが、旅の間は考えられなかった「私と神様」あるいは「私とイエス」なんてことを初めて考えたりしました。

私はマリア幼稚園というキリスト系の幼稚園に通っていました。そこでお祈りというものを知り、幼稚園からもらったマリア様の小さな像に向かい毎日お祈りをしていたことを思い出しました。小学生になって近所の子供たちと毎週行っていた日曜学校は、帰りに駄菓子屋さんによって買い食いするのと、先生があまりにも優しいので調子に乗って先生のズボンの裾を上げ友達とスネ毛をひっぱったことしか覚えていません。もしかしたら父親との接触がなかった私には、大人の男の人とじゃれあうことを求めていたのかもしれませんが・・先生ゴメンナサイ。我が人生で懺悔すべき人はいっぱいいます。

しかし、家は仏教の家なので般若心経を唱えられた時期もあったし、ご先祖様に対する意識は普通の日本人家庭よりかなり大きいでしょう。

外国で暮らすと「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれることがよくあります。その度に「家は仏教ですが、仏様というよりは私に繋げてくれたご先祖に感謝し、仏壇にご飯を供えたり、お墓参りにいきます」というような答えをしてきました。

現在、私はご飯をいただく前に軽くお祈りをするので、よく「クリスチャンですか?」ときかれます。その度に私は「お祈り=クリスチャン」にしていては勿体無いなと思うのです。「ありがとう」と言うだけで水の結晶が変わることが目に見える形で証明されているこの時代。勿論「いただきます」という言葉を言うだけでも素晴らしいですが、感謝や祝福を与えるとどれだけ食べ物のエネルギーが変わるでしょう。

今「あなたの宗教はなんですか?」ときかれたらどう答えるでしょう。私はイエスも釈迦も自然の精霊も大好きです。私が繋がる神はxx教という枠がなくその全てを包み込む神、宇宙という言い方もできる大きな大きな目に見えない力です。

私がイスラエル行きの話をきいて、躊躇したこと、或いはそれを自分の目で体で知りたいと思ったことがあります。まず一つ目は去年あるヒーラーのワークショップの通訳をしていたとき、彼女が「ここに居る人はイエスが十字架に架けられたときの現場にみんな居ました」と言いました。そのヒーラーがワークしたかったことは「イエスのように生きれば苦しい目に遭う」という思考がその現場に居た私たちに入っているのでそれを解き放つということでしたが、「ほんまかいな」と思いつつその間中私の目からは涙、体からは咳きがでていました。

だからイエスが十字架にかけられた「ゴルゴダの丘」やそれまでの道ヴィアドローサに行くのが怖かった。ヴィアドローサは悲しみの道と訳されていますが、これは実際行って見ると「誘惑の道」。実はこの道、今日ではアラブ人のお土産やがずら~っと両脇に並んでいます。分かりにくい道なのでここでは脇目をふらさず皆についていかねばならぬ場所で、買い物したくてもできない私たちには「誘惑の道」なのでした。しかし、これも行って見なけりゃ分からない。

もうひとつイスラエル行きを真面目に考えたときに出てきた事は、ある意味「怒り」でした。どの宗教でもそうなのですが、政治や人をコントロールするために「神」という名前が使われたことに対する怒りがあるのです。キリスト教を布教するという名のもとに南米を侵略し虐殺を行ったり、実際ペルーでインカの人々の神殿を取り壊し上に教会を建てられたのを見ると、「これはイエスが望んだことであるわけない」と怒りをおぼえるのです。

私自身のことでいえば、自分の問題、例えば「人に自分を表現する異常なる恐怖」というのがどこから来ているのか探ってみると、行きついた先は過去世で修道女として「自分の思うことを言ったばっかりに、罰せられ仲間はずれにされ、神からの罰とされたこと・・がでてきました。でも本当の神様はそんなことで罰するはずがないのです。人間が人をコントロールするために使う「神」というものに対する怒りを感じるのです。

そういったことを胸にイスラエルに行ったわけですが、団長の赤塚さんからの「聖書は人生の書。宗教の書としていては勿体無い。」という言葉に「そうそうそう!」と嬉しくなり「今回の旅は人間としてのイエスの足跡」を辿る旅ときいてワクワクしました。「2000年経っても世界中の人が誕生日覚えているってすごいやろ?」って。確かに。

だって聖書によるイエスは私達が目にする十字架に架けられた偶像ではなく、とっても大きくて力強くてルックスもむちゃくちゃいい男だったようですから。偶像を禁止しているユダヤ教、ユダヤ人によってではなく、そこから「キリスト教」として広まったヨーロッパでキリストの像が創られ、絵が描かれたのですからね。

そして、今回エドガーケイシーセンターの光田さんもご一緒だったことで、「ケーシーの聖書の解釈」も聖書に実際でてくる現場できけました。こんな贅沢なことってないでしょ。ケイシーは聖書の教えを「自分の人生に引き寄せて、適用させて読め」と言っているそうでこれまたすごい解釈でした。

ケーシーについては、私は健康についてのリーディングは興味をもっていましたが、キリスト関係は今までパスしていました。しかし、ケーシーの聖書解釈に出会えたこと、光田さんと出会えたことは一生の宝となる気がします。


ケーシーについてはこちらをどうぞ。https://www.caycegoods.com/
ここの店長さんは今回の旅をご一緒した光田さんの妹さんでして、毎日ブログをアップされていましたので、「イスラエルのどんなところ行ったの?」という方は「店長ブログ」をどうぞ。写真も素敵です。http://caycegoods.exblog.jp/

私は行ったところ、感じたことを書くのには、もう少し熟成させる時間がかかりそうです。

写真はヘブライ語の「マクドナルド」

帰国報告

2008-04-15 | 
日本に帰ってきました。

エルサレムのホテルを午前1時に出発し、テルアビブ空港で厳しい出国審査を終え5時に飛行機に乗りましたが、あれから何時間経ち何回食べたのかもよく分かりません。長いフライトでした。

今回の旅、本当に素晴らしく言葉では言い表すことができません。

「旅は誰と行くかが大事なんだよ」と誘われるままに参加した今回の旅行ですが、行ってその意味がよく分かりました。これ以外のイスラエルツアーなんて有り得ない。

毎日お腹が痛くなるまで笑い、感動で涙し、楽しくて楽しくてしょうがありませんでした。あのままずっと皆でバスで旅を続けたかった。31人誰一人欠けても成り立たないツアー。

「イスラエル独立宣言の家」から始り、旧約聖書の遺跡やイエスの足跡を追いそして最後は「ユダヤ人博物館」。聖地巡礼もユダヤ人やイスラエルの歴史も学び、夜は夜で素晴らしい方たちの講演、夕食後は飲み会・・本当に盛りだくさんでした。

私がどうしてイスラエルに呼ばれたのか、その答えは目に見える形ではこれからの人生で起こってくることが示してくれるでしょう。でも、目に見えなくても「大きく変化した」という言葉では言い尽くせない感覚、大げさかもしれないけど細胞が生まれ変わったような気がするのです。

まあ、とりあえずあれだけ毎日笑えば細胞も変わるでしょう。とりあえず帰国報告でした。今日は眠いのでこの辺で。写真はエルサレムの嘆きの壁。


いってきま~す♪

2008-04-05 | 近況・イベント
6日からイスラエルへいってきま~す。早朝に成田発なので明日は成田へ移動日。ということは今日は旅行前日で普段なら今頃から荷造りスタートであせるあせるの私ですが、今回は成田のホテルにスーツケースを送るという段取りのお陰で、スーツケースに詰め込む仕事は木曜日に完了。

とは言うもののスーツケースに入れられなかったものなど、そして洗濯や片付けを出発前にするので明日もドタバタになることは避けられないだろうな。今日すべきことも全部明日に回ったし・・

というのも今日は突然誘われた「ロシア領事館のお花見&コンサートパーティー」なるものへ行き今帰ってきたところです。張り切って桜色の着物と桜模様の帯で行ってきました。なかなか好評だったので、時間かけて着た甲斐がありました。最近は着物を着る機会が少ないので時間はかかるわ、手つりそうになるわでしたが。

コンサートは群馬交響楽団主席のチェロ演奏でした。全てロシア作曲家の作品。なんと言っても彼の音色が本当に体に心に響く音で、そして切ないメロディーが多くて素晴らしい演奏でした。すごく気もちよかった。

その後はお庭に移って桜の木の下(実際は2本)でお食事でしたが、次々と紹介される方たちとお話してたのでロシア料理はほとんど食べられずじまい。しかし、なんといっても私の目をひいたのはドリンクのテーブルにある「ウオッカ」。おう、やっぱりロシア人はウオッカ飲むのね、お酒強そう~とおもいきや、お話したロシア人青年は「僕アルコールだめなんです」てオレンジジュースを飲みながら流暢な日本語で話していました。そういう人もいるのね。

ロシアと言えばシャーリーマックレーンの本でロシアの事が書かれている部分を思い出します。(2冊目だっかな?)多くの人のスピリチュアルな世界への入り口になる彼女の著書ですが、私には霊的な事よりも「へええ、ロシアってそんな国なん?」と驚いたことの方がよく覚えています。

今までロシア人の友達は居なかったので未知なる世界でしたが、今日はデザインの勉強をしているロシア美女とも仲良しになったので、これからまた新しい世界が広がりそう。コンサートのときから「うわあ、美人。お友達になりたいな~」と私は密かに思っていたのですが、そういう人ってだいたい仲良くなれるのです。

さて、イスラエル旅行に向けてDVD「天地創造」と「King of Kings」の二本、それぞれ「旧約聖書」「新約聖書」を題材にした映画を鑑賞し、漫画「旧約聖書」と「新約聖書」を読みましたのでこれで予習はOKでしょう。飛行機の中で「聖地エルサレム」という本を読む予定なのでこれでOK.(ほんまかいな)しかし、地球の歩き方をまだ買ってないのに気づきました・・近くの本屋さんで在庫がなく、そのままになってました。「あ~あ、さっさと買っとけよな・・・」また別の本屋さんに行かないといけないので忙しくなる前日だなあ、明日。

多くの人が大きく人生をかえるほどの土地、イスラエル。自分が行くなんて思ってもなかった場所・・人生は不思議ですね。向こうでは保育園に行ったり、日本人留学生との交流などもあり、そして生き字引みたいな方たちのお話やらと普通のツアーでは味わえないことが体験できそうで本当に楽しみです。ドカ~ンとエネルギー大きくなって帰ってきます!!

では帰ってからの「イスラエル紀行」楽しみにしていてくださいね。
いってきま~す。