シンガー『ナターシャ』のブログ

関西・東京・名古屋・広島、そして台湾もグローバルに歌うシンガーソングライター、jazzシンガーナターシャのブログです

1年ぶりに

2008-05-28 | 近況・イベント
今日お昼にかかってきた英語の電話、取りながら誰だろう? と思いつつ、このなまり、この強いアクセント・・聞き覚えがあるぞ・・と思った頃、向こうからちょうど自己紹介が・・・。それは、インドの副領事さんでした。

去年、私は神戸であったイベント「アンマが世界を抱きしめる」http://www.amma.jp/web/rainichi/rainichi.html
にボランティア通訳として来賓としてきてくださった副領事さんのスピーチを通訳をし、その後しばらく一緒に時間を過ごしました。後日、お礼状を出してそれから一年とくに交流があったわけではありません。

この土日にあった神戸でのアンマのイベントには、今回はボランティアはできなかったのですが、土曜日アンマのダルシャン(抱擁)を受けに会場へ行きました。しかし、オープニングセレモニーが思ったより長く、そして寒く、子連れだったこともありダルシャンを受けずに帰りました。

セレモニーではその副領事さんがスピーチを今年もなさったのですが、誰も通訳せずで「あれ?」と思いつつスピーチを観客席で聞いていました。司会の方は副領事とも領事とも言っていたのでもしかしたら領事さんになられていたのかもしれません。

とにかく、今回は彼とはお話する機会がなかったのですが、彼の方から今日「今年も会えると思ったのにあなたは居なかったからどうしたのかな?と思って電話した」と聞き、なんだかちょっと嬉しかった。「元気にしているの?元気がない声にきこえるけど大丈夫?いつでも家に遊びに来たらいいからね。」と優しいお言葉。

しかし、彼、話が途中なのに「バアイ」て電話切っちゃいましたが、そういえば一年前も打ち合わせのために電話したときもそうだったなあ・・と思い出し笑いしちゃいました。

でも、一年間連絡取り合っていた訳ではない人が、ちゃんと私の連絡先を取っておいてくれて覚えておいてくれたんだなあと思うと、嬉しかったな。

今年のスピーチを聞いたり電話で話したりしていたら、去年よりは私、彼の英語が分かったような気がします。去年は私の知っている英語の音とほど遠い英語に通訳も冷や汗物でした。私が慣れたのか、彼のアクセントが日本人向けになったのかどっちなんでしょうね。

20年・・

2008-05-07 | 近況・イベント
GWが終わりましたが、今年のGWの目玉は4日に学生時代のOBフルバンドのライブに行ったこと。ライブを見ていて、自分たちが楽しそうに演奏し、そして聴いている人達も楽しそうに足でテンポを取っている・・そんな姿をみてすご~く幸せな気持ちになりました。

そして、20年ぶりの再会もいくつもありました。当たり前だけど20年の間にはいろんなことがいっぱいあって、当たり前だけどみんな大人になっていて、でもあっという間にタイムトリップして20歳そこらに戻ってしまうのがなんとも面白い体験だし、こんな体験させてもらえる仲間が居るということはとっても幸せなことだな。

宴会で私は「もう私はお酒が弱い」と言うてるのに、「わははは」って・・別にウケねらった訳ではないのにウケてた。しかし、「鬼ごろし」で「かんぱ~い」する度に5年ずつくらい時間が戻っていくようでした。あの頃の私のお気に入りのドリンクは鬼ごろしだったと思う。

人の出会いも再会もお互いが何らかの必要があって、最高最善のタイミングでやってくるのだなってつくづく思います。何の意味があるのかはその時は分からなくても。

しかし、どれだけ考えても20年という数字は嘘のよう。どう考えても10年だろ~。こんなにあっという間に過ぎるなんて早すぎるよなあ。

南仏で私はフランス人の先生に日本のいけばなを習ってました。これがまた日本の型だけど、フランスのエスプリが入ってなんとも言えず素敵なアートだったのですが、その先生40才代で「いけばな」に出会い、私が教えてもらってた頃はキャリア20年でした。

何を始めても20年経てばかなりのキャリア。人生に遅すぎることはないのです。

写真はエルサレムで見た樹齢1000年のオリーブの樹。1000年もあっという間なのかなあ。

ベツレヘム

2008-05-05 | 
エルサレムに行く前日、なんともいえない高揚感がありました。よくわからないけれど、この「エルサレム」という響きが私をここまで連れてきてくれたような気がしてたから。

その日、本来は自爆テロの危険性もあるので予定にはなかったのだけれど、団長の心変わりのお陰でイエス・キリストの生まれたベツレヘムに行くことになりました。エルサレムから車で10分くらい。

ここはパレスチナ自治区なので色々な手配が必要。ずっと私達と旅してきた運転手のダビデさんはユダヤ人なのでそこには入れない。だから、ガイドのバラさんが急遽アラブ人のドライバーとバスを手配してくれました。

写真のこの高い塀。これがパレスチナ自治区とイスラエルを分けている塀。当初はイスラエル人も自由に行き来していたのだが、パレスチナ自治区でイスラエル人への暴行や自爆テロが多いため、イスラエルが国として国民を守るためにパレスチナ自治区への通行を禁止したのでした。

特に厳しいチェックもなくゲートをくぐって塀沿いに歩き、パレスチナ自治区に入るとガラッと景色が変わった。勿論文字がアラブの文字に。それだけでなく落書きがしてあるし、ゴミも結構落ちている。さっきまでいたイスラエルは清潔感があり、きっちりしていたところだったのだなと感じました。そして、イスラエルに居たときには感じなかった緊張も私は感じました。

このゲートの側にはたくさんのアラブ人のタクシー運転手が待っていて、私達は用意してくれたバスに乗り込んでイエスの生誕教会へ。外観は全く石でできた建物でこの教会の中にイエスが生まれたとされる場所があるとのこと。

しかし、人・人・人・・・・。今まで砂漠の聖書にでてくる場所を旅してきた私たちには久しぶりの人ごみ。勿論、砂漠の観光地にも観光客は居たのだけれど、人ごみとは言えないものだったし、人数もさることながら世界中から来る人達の熱気みたいなものも感じました。これはその後のエルサレムでもっと感じることですが。

そういうわけで、教会の中のイエス誕生の場に行き着くまでに1時間近くも待たなければなりませんでした。しかし、この教会古くて暗い感じで、なんともいえないゴテゴテ感。イエスが生まれたのは「馬小屋」と聞いていたが、実際は地下の石の洞窟。この洞窟の入り口が小さいので、これまた入り口のところで結構待たされるのです。

私はこの場所にいい感じを持ってなかったけれど、でもアクビと涙が結構でてきたから私にとって磁場が反応する場所だったのでしょう。あまりに涙がでるので、「感動して泣いていたの?」と後で仲間にきかれたけれど違うのです。単なる体の反応です。そういえばイスラエルなんてすごいエネルギースポットだから、どこでもこんな風に反応するかと思っていたけれど、旅の終わりに近づいたベツレヘムでやっとこういう反応がでてきました。

さて、この洞窟。ローマ帝国のコンスタンチノープル帝の母へレナがこの場所を決め、この教会もヘレナが作らせたのです。そして今やキリスト教の聖地となり世界中からキリスト教徒や観光客が大勢やってくるのです。

この入り口で待っているときやっと「さあ、次わたし!」というところで「待った」がかかり、洞窟の中でお祈りが始まりました。10分ほどのお祈り(きっと時間が決まっているのだと思う)が終わり、いざ中へ。中には祭壇が飾られ生まれた場所とされる所には星形が記されていました。


長い時間をかけて到達した洞窟をでて、次はこの教会にあるヒエロニムス(340年~420年頃)のお部屋に行きました。彼は人生の莫大な時間を費やし聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳した人です。彼のお陰でヨーロッパ人が聖書を読めるようになり、この聖書こそが中世から20世紀にいたるまでカトリックのスタンダードになっていたのです。

彼の気が遠くなるようなこの仕事の影には一人の女性が居ました。彼女はヒエロニムスを支えつづけたのですが、彼女の死後、ヒエロニムスは彼女の頭蓋骨を側に置き聖書の翻訳の仕事を続け、最終的に成し遂げたのです。聖書をヨーロッパ人が読めるようになった影には生きている間は勿論、死んでからも彼女の支えがあったのでした。

ということで、ここで皆が歌ったのは「骨まで愛して」。
残念ながらこの懐メロ私は知らなかったので一緒に歌えなかった(涙)


骨まで愛したヒエロニムスのお部屋を後にし、次に向かったのは予定にはなかった「羊飼いの丘」。アラブ人のガイドさんとバスのドライバーさんが到着が少し遅れたお詫びにとサービスで連れて行ってくれました。

のどかな草原を見渡す丘に立つと「わたしはちいさいひつじかい♪」という歌がつい口から・・だってまさに現場!ですもん。イエスがお生まれになったと天使の声を聞いた場所。この曲は幼稚園の聖劇で歌ったのかしらん、私。何の役をしたのかはま~ったく覚えていませんが、この曲がでてくるところを見ると私は羊飼いの役だったのかもしれません。

のどかな景色をあとにし、エルサレムに向かうため境界塀まで戻りました。その塀沿いを歩いていると、塀に描かれた大きな落書き。それは大きな手でした。その指一本一本にそれぞれ 「仏教、キリスト教、ヒンズー教、イスラム教、ユダヤ教」と英語で書かれていました。そしてその上にPEACE(平和)と。

不思議な気持ちでした。こんな大きな落書きがあるっていうことは、いろんな宗教があるよ~っていうのは頭では分かっている人達がたくさんいるのだろうな。でも現実には宗教の違いから戦いがまさに起こる現場。この気持ちはエルサレムに行きますます大きくなりました。





イスラエルその後

2008-05-03 | 
素敵なお天気が続くGWですねえ。

この3日ほどで私の手元には続々とイスラエルグッズがやってきました。まずは、ガイドのバラさんのことを書いた本「熱風の地に生きる」イーグレープ社。これは絶版になっているので、一緒に旅をした方でもってらっしゃる方が回してくれています。全国を駆け回っています。

昨日はテンプルビューティフル https://www.caycegoods.com/ さんから購入したこの旅の下敷きともなった講演会「イエスを人生に招き入れる」のDVDとエドガーケーシーの「キリストの秘密」も届きました。まだ初めの数ページしか読んでいませんが、ケーシーの本「最後の晩餐」をリーディングした描写があまりにもリアルで美しくそれだけで感動してしまいました。

実際、「最後の晩餐」が行われた場所も今回の旅で行きましたが、私の知っているのはダビンチの絵画。でも実はその時代、テーブルで食事をしていたわけではなく、寝そべったり地べたに座ったりしながら食事をしていたようです。洞窟のようなところでした。つくづく私達が「キリスト」とインプットされているものは、絵画も音楽も含め、ヨーロッパに渡ってからのものだと認識させられます。

そして、道中を録ってくれていたDVDも小林さんから届きました。DVDスタートしたらいきなり私がでてきてびっくり。「独立記念の家」から始まったので通訳シーンからでした。長いDVDなので、おやつを少しずつ食べるように恋しくなったときに少しずつ見ようっと。

しかし、私のイスラエルの本当の旅は日本に帰ってから始まりました。

あまりにも大きなインパクトを受け帰ってきたため、大きく自分が変わってしまい、何がなにか分からなくなりました。自分の口からでてくることは、ただ一言「わからない」。何を自分にきいても「わからない」のです。体験したことの無い様な混乱の時期を経て、自分の気持ちをごまかすことはできないので、全ての将来のプランを白紙にしました。

生き方を変えるべき時期だったからイスラエルに行ったのでしょう。でも今まで支えていた生き方を変えるのは、手放すのはとてもきついプロセスでもあり、まだここで言葉で書く自信がありません。なぜならまだ昔の自分の価値観や社会の価値観などが少し私に棲みついているからでしょう。でも、そうなっていくと思います。

でも、面白いことがあって友達に会うと「きれいになった」「肌がきれい」「軽くなった」と言われます。そういえば、その3日くらい前も言われたし。自分では全く分からないけど、それって神様が「その生き方でいいんだよ」って言ってくれているような気がします。そして、そういった言葉を私は今まで受け取ってなかったって本当に思いました。「自分はまだまだ」っていつも思ってたから、褒めてくれる言葉を受け取ることができなかったのです。

昨日、外に出て歩くと自分の体が軽くなっているのに気づきました。そして何もしないでも中心をとって歩いているのです。買い物の荷物もいつもは「げええ、重~」と感じるのに重さもあまり感じない。そういう意味ではこれからどんな感じになるのか楽しみです。

このブログは写真を一枚しかアップできないし画素数を落とさないといけないから鮮明でないので、ミクシィに写真をたくさんアップしました。よかったら見てください。コメントは少しずつ書いていきます。ミクシィでは「かえる」です。

なかなかエルサレムを書くのに到達しない・・その前にベツレヘムかな。写真はキリストが生まれたベツレヘムの生誕教会のまさに生まれた場所とされるところ。暗いけど見えるかな~。ベツレヘムはパレスチナ自治区です。

食べ物は?

2008-05-01 | 
今日から5月。

5月も日本各地、そしてバンクーバーでも映画「4分の1の奇跡」が上映されますので、まだの方は是非ごらんください。詳細はこちら。http://www.yonbunnoichi.net/

そしてアンマも日本にやってきます。神戸24,25日、東京27,28日。
http://www.amma.jp/web/rainichi/rainichi.html
去年一緒にボランティアした皆さん、またよかったら一緒にやりましょう。通訳チーム募集中です。WEBからも登録ができるそうですよ。

さて、私の統計ではイスラエルに行ったというと、第一の質問が「治安」、第二の質問が「食べ物」です。食べ物はす~ごく美味しかったですよ。私はファラフェル(ソラマメのコロッケ)がだ~いすき。パリの中で一番好きな食べ物は、マレ地区のユダヤ人街のファラフェル屋さんかもしれないくらい。イスラエルの食べ物をとっても楽しみにしていました。

写真はある日の昼食。これは前菜で、少しずつ皆で分けて食べます。そして、メインの肉(大体シシカバブ)か、魚がついていました。この前菜はいつでもでてきます。朝食、夕食はホテルでビュッフェの場合が多かったのですが、朝だろうが夜だろうがこの前菜はかならずあります。

絶対あるのがフムス。ひよこまめのペーストです。これも私の大好きな食べ物でパーティーの時につくってディップにしたり、ハムを食べない私はサンドイッチの具にして食べています。でも本場のフムスは日本で作るのよりこってりしていて、アーモンドペーストかと思えるくらいでした。

ビュッフェの場合は生野菜とり放題だし、とってもヘルシーな食べ物でした。海外へ行くと野菜が美味しいですからね。南仏で野菜の素晴らしさ、エネルギーの強い美味しい野菜に出会ってしまった私には、どうも日本のスーパーの野菜はうすくてエネルギーも少なくって悲しい。勿論、日本もお金を出して手に入る、有機なりちゃんとした野菜はすっごく美味しいですけれど・・。農業やっている友達には「それは日本人は野菜の外見ばっかり気にするからそうなる」と言われましたが悲しい限りです。ペルーの野菜もちゃんと大地や太陽のエネルギーがぎっしりでむちゃくちゃ美味しかった。海外に行くとその土地の美味しい野菜をたくさん食べるのも最近では私の楽しみなのです。

ただ、同じおかずが毎朝昼晩続いていたので1週間目くらいにはちょっと飽き気味に・・しかし、ちょうどいいタイミングでシャバット(安息日)があったので、ユダヤ人の店は開いていないから、中国人がやっている中華料理が食べれてとってもハッピーでした。さすが中華料理、世界中どこに行ってもある。

シャバットは金曜の日没から土曜日の日没まですべてお休みになるのです。レストランも電車も・・びっくりしたのが、エレベーターもシャバット用があるのですが、それは各駅停車ならぬ各階停車。なぜならエレベーターのボタンを押すことさえ仕事になるから・・だそうです。

厳格なユダヤ教ではこの日は礼拝にでて祈る、勿論労働は禁止。(エレベーターを押すのも仕事になるという考え)家でも料理もつくらない。火を使わないもの、あるいは事前に作っておいたものを食べるそう。土曜日の暗くなってからホテルのお土産屋さんも開きました。夜からオープンが変な感じでしたが、日曜日は銀行も店も全てオープンします。ホテルのレストランはいつもは制限時間がありませんでしたが、シャバットの日は8時で終了でした。

食事のおきて「コーシェル」は3000年前にモーゼが決めた律法でこれが今でも守られています。動物の中で食べてもいいものは、ひずめが割れていて、尚且つ反すうする動物。牛、羊、鶏はOKだけど、血のある食料も×なので牛は血を抜いて食べるそう。実際レストランでよくでてきたのは、羊と鶏でした。魚もヒレとウロコがある魚だけ食べてOK.なのでエビ、カニ、イカなども×。

明日はフムスでもつくろうかしら。そうなると今からヒヨコ豆を水につけとかなくっちゃ。