日常生活に戻り少しずつ自分の変化を言葉にできるようになってきました。私自身が旅行前と明らかに違うことがあります。
この旅で私は本当の自分の「魂の目的」を生きている人達に出会いました。
彼らは壮絶な人生の中で自分の魂の目的を見つけ、そしてそれを役割だと誇らしげに、そして笑いと愛と希望をふりまきながら軽やかに自然に生きています。そして、自分たちが神に祝福された存在であることを全身全霊で知っています。
私は自分の魂や命をかけて生きてきただろうか?今生きているだろうか?
勿論現在の自分や過去の自分を否定するわけではありません。ただ、私もああいう生き方をしたいなと強く思います。自分の人生にコミットして生きていこうと決めました。
そして、もう一つ。
「ユダヤ人には不可能という言葉はない」ということ。
イスラエルで知った彼らの歴史、知れば知るほど彼らには不可能という言葉はない・・というより、不可能だなんて言ってられない状況だったのですが、それは「不可能ということを許さない」のだと思います。
彼らの生き方を通していかに自分が「あれはできない」「それは難しい」「あれは大変だ」と世界を縮めて生きてきたのだと知りました。これからは「できない」「難しい」と思ったときは、「果たしてイスラエルの人はできないって言うだろうか?」と考えることにします。私も同じ人間。本当に必要なことならば(ここは大事です)できないわけがないのです。
そのイスラエルの歴史ですが、私たちの旅の最初の地、テルアビブで最初に行ったのは「独立宣言の家」でした。ここのガイドのお兄さんが説明を英語でするのですが、今回のツアー参加者にはたくさん英語の堪能な人が居るので順番に通訳していってもらいましょう~と言うことになり、たまたま・・でなく必然的なんですが・・目の前に居た私が担当することになりました。
イスラエル王国が滅亡して、国というものが持てなかったユダヤ人。流浪の民となるものの各国で迫害を受け、行き場を失った民族。そしてイスラエルに国家を建設しようとするシオニズム運動へ発展するのですが、そのきっかけともなった「ドレフェス事件」
これが出たときはどこで何が役に立つかわからないなあ・・と思いました。というのも、この事件、私はフランスに留学するまで知りもしなかったのです。ドレフェス大尉がユダヤ人という理由でスパイだと決め付けられた事件、これは歴史の時間に勉強したことでもあり、尚且つこれを冤罪だと激しく糾弾したのがエミールゾラだったのですが、彼は私の居た南仏エクスに住んでいたこともあり(セザンヌの友人)この事件のことは歴史以外の授業でもよくでてくる話だったのです。
この有名な事件が分かっていないと通訳するにも理解しにくかったと思います。そしてヘルツルがシオニスト会議を開き、「聖地にユダヤ人自身の国家をつくろう」というシオニズム運動に展開していくわけです。その頃ベンイェフダがヘブライ語を再現させたりその気運は高まっていくのでした。
ややこしいイギリスの占領を経て、1948年国連で奇跡の大逆転のパレスチナ分割案が可決され、5月14日にイギリス軍が撤退。そしてその夕方にテルアビブのその場所でイスラエルの独立宣言が行われたのです。
反発する周辺のアラブ諸国の攻撃をかわすため、エルサレムでなくテルアビブに、そして半地下になっているこの博物館が選ばれたのでした。ここなら攻撃されてもなんとか宣言はできると考えられました。しかし、突然決まったことだったので椅子は通りの向こうのカフェから借り、絨毯も町の絨毯屋さんで調達したのが写真の部屋です。
ラジオでは宣言が行われることは流されましたが場所は極秘でした。宣言の原稿を持った人が時間ギリギリだった為、その辺の車を運転している人に「急いでいるんだ、乗せてくれ」と言っても「いやだよ。今からすごい宣言がラジオから流れるんだから家帰るんだよ」と何人にも断られたという笑い話もありました。
この部屋では宣言をしたデビットベングリオン(初の首相)や後の政府の要人になる人達が横一列に座り、その前には後の議員になる人達が座ったそうです。
ガイドの若いイスラエル青年の側に居て心を打たれたことがあります。いかにイスラエルという国家を持つことが大変だったかということを彼は説明していたのですが、その説明より "the State of Israel" (イスラエル国家)という言葉を言う度、彼は本当に震えていたことに私は驚き心を打たれました。客席からは見えなかっただろうけど、私は彼のイスラエル国家というものに対する強い強い思いを側で感じることができたのです。
宣言の次の日、国境に配置されたレバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプトの軍隊がイスラエルに侵攻し、第一次中東戦争が勃発するわけですが、アラブ諸国にしてみれば自分達の土地が奪われることになったわけで、私たちがどちらがいい、悪いということはいえません。
ただ、震える彼を見て「国家」というものを持たない人達がどれほど大変な目をしてきたのか、だから彼らが「国を持てなかった辛い時代」に戻らないようにどんなことでもする、できるんだということを知りました。
私達日本人はほとんど世界中ノーパスで行けるようなパスポートを持っています。それは日本という国がしっかりしていて、世界中から信頼されているから。それなのに、そのことに本当に感謝している日本人がどれだけいるのでしょうか。
ある一枚の写真がありました。それは以前この独立宣言の家の辺りで撮ったらしいのですが、今ではすっかり都会になっているテルアビブとは思えないほどのただの砂漠です。60人ほどが固まっていて、そこから離れた所に一人男の人が立っています。
この集団は「このテルアビブに住もう!」と決めてやってきたのですが、離れた男の人は「こんな砂漠に住めるはずがない。街を作れるはずがない! 馬鹿ばかしい!」と怒っているのです。
こんな砂漠にテルアビブのような大きな町をつくることは私たちの頭では「奇跡」としか思えません。でもこれから旅する砂漠、その信じられないような奇跡をたくさん見せてもらうことになるのです。
「不可能だ」「できない」なんて言ってられなかったのですね。
40分ほどの滞在予定がなんと2時間に。なので初日からスケジュールはフレキシブルに変更されていく訳ですが、ここでイスラエルの歴史を学んだことはその後の旅に繋がって行きます。特に私は耳で聞いただけの人よりも、自分の口を通して言っただけ体に入ってきました。そして、側に居てガイドさんのイスラエル人の国家に対する想いも体で感じることができました。
彼はロシアからの移民だそうでロシアアクセントとイスラエル人の英語だった為、後で皆さんに「分かりにくい英語だったのによくやったね」と褒めていただきました。確かに最初の3分くらいは彼の音に慣れるのに苦労しましたが、私にとってはちんぷんかんぷんな音ではなかったし、話に夢中になりあっという間でした。私にはどちらかと言うとインド人、ニュージーランド人のアクセントの方がよっぽどちんぷんかんぷんです。音って面白いものですね。今回の通訳は「ドレフェス事件」くらいしか知らない私にしては自分でもよくやったかな・・と。2時間だったのでちょっと疲れましたけど。
たくさん英語に堪能な方が居るのに、この独立宣言の家で私に番が回ってきたことって本当に光栄なことだと思いました。そして、イスラエルやユダヤに疑問、ハテナがいっぱいの私だったから、神様がこの子の勉強にはちょうどいいな、と選んでくださったのですかね。有り難いことです。
この旅で私は本当の自分の「魂の目的」を生きている人達に出会いました。
彼らは壮絶な人生の中で自分の魂の目的を見つけ、そしてそれを役割だと誇らしげに、そして笑いと愛と希望をふりまきながら軽やかに自然に生きています。そして、自分たちが神に祝福された存在であることを全身全霊で知っています。
私は自分の魂や命をかけて生きてきただろうか?今生きているだろうか?
勿論現在の自分や過去の自分を否定するわけではありません。ただ、私もああいう生き方をしたいなと強く思います。自分の人生にコミットして生きていこうと決めました。
そして、もう一つ。
「ユダヤ人には不可能という言葉はない」ということ。
イスラエルで知った彼らの歴史、知れば知るほど彼らには不可能という言葉はない・・というより、不可能だなんて言ってられない状況だったのですが、それは「不可能ということを許さない」のだと思います。
彼らの生き方を通していかに自分が「あれはできない」「それは難しい」「あれは大変だ」と世界を縮めて生きてきたのだと知りました。これからは「できない」「難しい」と思ったときは、「果たしてイスラエルの人はできないって言うだろうか?」と考えることにします。私も同じ人間。本当に必要なことならば(ここは大事です)できないわけがないのです。
そのイスラエルの歴史ですが、私たちの旅の最初の地、テルアビブで最初に行ったのは「独立宣言の家」でした。ここのガイドのお兄さんが説明を英語でするのですが、今回のツアー参加者にはたくさん英語の堪能な人が居るので順番に通訳していってもらいましょう~と言うことになり、たまたま・・でなく必然的なんですが・・目の前に居た私が担当することになりました。
イスラエル王国が滅亡して、国というものが持てなかったユダヤ人。流浪の民となるものの各国で迫害を受け、行き場を失った民族。そしてイスラエルに国家を建設しようとするシオニズム運動へ発展するのですが、そのきっかけともなった「ドレフェス事件」
これが出たときはどこで何が役に立つかわからないなあ・・と思いました。というのも、この事件、私はフランスに留学するまで知りもしなかったのです。ドレフェス大尉がユダヤ人という理由でスパイだと決め付けられた事件、これは歴史の時間に勉強したことでもあり、尚且つこれを冤罪だと激しく糾弾したのがエミールゾラだったのですが、彼は私の居た南仏エクスに住んでいたこともあり(セザンヌの友人)この事件のことは歴史以外の授業でもよくでてくる話だったのです。
この有名な事件が分かっていないと通訳するにも理解しにくかったと思います。そしてヘルツルがシオニスト会議を開き、「聖地にユダヤ人自身の国家をつくろう」というシオニズム運動に展開していくわけです。その頃ベンイェフダがヘブライ語を再現させたりその気運は高まっていくのでした。
ややこしいイギリスの占領を経て、1948年国連で奇跡の大逆転のパレスチナ分割案が可決され、5月14日にイギリス軍が撤退。そしてその夕方にテルアビブのその場所でイスラエルの独立宣言が行われたのです。
反発する周辺のアラブ諸国の攻撃をかわすため、エルサレムでなくテルアビブに、そして半地下になっているこの博物館が選ばれたのでした。ここなら攻撃されてもなんとか宣言はできると考えられました。しかし、突然決まったことだったので椅子は通りの向こうのカフェから借り、絨毯も町の絨毯屋さんで調達したのが写真の部屋です。
ラジオでは宣言が行われることは流されましたが場所は極秘でした。宣言の原稿を持った人が時間ギリギリだった為、その辺の車を運転している人に「急いでいるんだ、乗せてくれ」と言っても「いやだよ。今からすごい宣言がラジオから流れるんだから家帰るんだよ」と何人にも断られたという笑い話もありました。
この部屋では宣言をしたデビットベングリオン(初の首相)や後の政府の要人になる人達が横一列に座り、その前には後の議員になる人達が座ったそうです。
ガイドの若いイスラエル青年の側に居て心を打たれたことがあります。いかにイスラエルという国家を持つことが大変だったかということを彼は説明していたのですが、その説明より "the State of Israel" (イスラエル国家)という言葉を言う度、彼は本当に震えていたことに私は驚き心を打たれました。客席からは見えなかっただろうけど、私は彼のイスラエル国家というものに対する強い強い思いを側で感じることができたのです。
宣言の次の日、国境に配置されたレバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプトの軍隊がイスラエルに侵攻し、第一次中東戦争が勃発するわけですが、アラブ諸国にしてみれば自分達の土地が奪われることになったわけで、私たちがどちらがいい、悪いということはいえません。
ただ、震える彼を見て「国家」というものを持たない人達がどれほど大変な目をしてきたのか、だから彼らが「国を持てなかった辛い時代」に戻らないようにどんなことでもする、できるんだということを知りました。
私達日本人はほとんど世界中ノーパスで行けるようなパスポートを持っています。それは日本という国がしっかりしていて、世界中から信頼されているから。それなのに、そのことに本当に感謝している日本人がどれだけいるのでしょうか。
ある一枚の写真がありました。それは以前この独立宣言の家の辺りで撮ったらしいのですが、今ではすっかり都会になっているテルアビブとは思えないほどのただの砂漠です。60人ほどが固まっていて、そこから離れた所に一人男の人が立っています。
この集団は「このテルアビブに住もう!」と決めてやってきたのですが、離れた男の人は「こんな砂漠に住めるはずがない。街を作れるはずがない! 馬鹿ばかしい!」と怒っているのです。
こんな砂漠にテルアビブのような大きな町をつくることは私たちの頭では「奇跡」としか思えません。でもこれから旅する砂漠、その信じられないような奇跡をたくさん見せてもらうことになるのです。
「不可能だ」「できない」なんて言ってられなかったのですね。
40分ほどの滞在予定がなんと2時間に。なので初日からスケジュールはフレキシブルに変更されていく訳ですが、ここでイスラエルの歴史を学んだことはその後の旅に繋がって行きます。特に私は耳で聞いただけの人よりも、自分の口を通して言っただけ体に入ってきました。そして、側に居てガイドさんのイスラエル人の国家に対する想いも体で感じることができました。
彼はロシアからの移民だそうでロシアアクセントとイスラエル人の英語だった為、後で皆さんに「分かりにくい英語だったのによくやったね」と褒めていただきました。確かに最初の3分くらいは彼の音に慣れるのに苦労しましたが、私にとってはちんぷんかんぷんな音ではなかったし、話に夢中になりあっという間でした。私にはどちらかと言うとインド人、ニュージーランド人のアクセントの方がよっぽどちんぷんかんぷんです。音って面白いものですね。今回の通訳は「ドレフェス事件」くらいしか知らない私にしては自分でもよくやったかな・・と。2時間だったのでちょっと疲れましたけど。
たくさん英語に堪能な方が居るのに、この独立宣言の家で私に番が回ってきたことって本当に光栄なことだと思いました。そして、イスラエルやユダヤに疑問、ハテナがいっぱいの私だったから、神様がこの子の勉強にはちょうどいいな、と選んでくださったのですかね。有り難いことです。