この数日間で久しぶりの友達にたくさん会えた。フランスで出会った友達、アメリカで出会った友達が次々と関西にやってきた。旅行や仕事で来ている人も居るから、第一の目的が私に会うことではないけれど、私はじっとしているのに遠方から続々と、それも重なってやって来てくれて、まるで元気を私に届けにきてくれたようで嬉しかった。
実際、とっても楽しかった。コーヒー一杯で気がついたら3時間も4時間も喋る喋る・・どれだけ時間があってもしゃべり足りないくらいだ。私は彼女たちから色んなことを学ばせてもらっているなあとつくづく思う。
今回フランスに留学して、私より一回りどころか、私の年齢の半分・・とまでは行かないけれどそれに近い年齢のお友達ができた。今まで自分の親の世代の大事なお友達も居たし、自分より年上のお友達に囲まれていたことが多かったので、当初20歳くらいの学生にどう接していいかわからなかった。でも彼女達の話を聞いていたら、「あれ?そういえば昔私もそういうことで悩んでいたよなあ。」ということに気づいた。が、今から思えばたいした悩みでもないんだなあ、これが。ただ、一生懸命悩んでいるのに「たいしたことちゃうって」て言っていいんだろうか?と思ったが、「私がたいしたことないよ。私もそうだったよ・・」と自分の体験を語ることが、彼女たちの悩みの助けになることもあるというのが分かってからは、できるだけ思っていることを言うようにした。
彼女達は私より若いわけであり、経験から得た知識というのは、当たり前だが私より少ない。ただ人とのコミュニケーションから受け取るものって、知識だけではない。彼女達の素直さ、心の美しさ、知識を得ようとする貪欲さ、その吸収力、そしてこんなに若いのに自分を見つめる、向き合う勇気を持っていることに毎度感心する。私なんて大きな挫折によって、30歳を過ぎてやっと自分を見つめるようになったのに。
自分と向き合うことは勇気が要る。それまで自分でひた隠しにしてきた、逃げてきた嫌な自分の部分にスポットライトを当てなければならない。傷ついた自分、そしてできれば忘れたいような傷ついた出来事もたくさんでてくる。でも勇気を持って、その傷ついた部分を癒さない限り、現実で起きる出来事は変わらない。自分から出てくる嫌な感情も逃げないで感じきる、そしてそんな感情を持っている自分を認めること・・それをしない限り自分を丸ごと受けいれ、愛することはできない。自分を愛せない人がどうやって他人を愛することができるだろうか。
全ての出来事は偶然でなく必然で、一つ一つに意味がある。そして全ては自分がそこから何かを学ぶために起こっているんだと肯定的に解釈すること・・私が何年もかかって身につけたこれらの考え方をあっという間に身につけた彼女達を私は尊敬している。
若いお友達のお陰で「自分をもっと表現する」という流れになってきた。今までの体験から得た知識をそろそろ人とシェアーする時期にきたのではないか・・と思うきっかけになった。自分を表現するということはそれまでの私にとっては怖いことだったから。
海外から帰って日本に住んでいた7年ほどの間、一番戸惑ったのが「日本人は(って私も日本人だけど)何を考えているのかがわからなくて怖い。」ということだった。何でもいいのだが、例えば社会で起こる出来事でも、自分の人生(これからどういう人生を歩みたいか)などについてでもそれぞれの意見があるだろうし、正しい間違いはないのだから私は色々な人と話がしたかった。でも、私の意見に対しどこに行っても一番多い反応は「無反応」で、話している相手が何を考えているのかがわからない私は怖くなり、段々自分を表すことをコントロールするようになった。
でも今は違う。自分の体験や思うところが誰か悩んでいる人のヘルプになる可能性があるのなら、誰かが少しでも元気になるのなら、その人の世界が少しでも広がるのなら自分を表現していこうと思う。どんな風に思い、反応するかは受け取る人の選択。それと私が表現するということは別問題・・とそんな風に少しずつ思えるようになったのも、出合った人たちのおかげ。感謝してます。
実際、とっても楽しかった。コーヒー一杯で気がついたら3時間も4時間も喋る喋る・・どれだけ時間があってもしゃべり足りないくらいだ。私は彼女たちから色んなことを学ばせてもらっているなあとつくづく思う。
今回フランスに留学して、私より一回りどころか、私の年齢の半分・・とまでは行かないけれどそれに近い年齢のお友達ができた。今まで自分の親の世代の大事なお友達も居たし、自分より年上のお友達に囲まれていたことが多かったので、当初20歳くらいの学生にどう接していいかわからなかった。でも彼女達の話を聞いていたら、「あれ?そういえば昔私もそういうことで悩んでいたよなあ。」ということに気づいた。が、今から思えばたいした悩みでもないんだなあ、これが。ただ、一生懸命悩んでいるのに「たいしたことちゃうって」て言っていいんだろうか?と思ったが、「私がたいしたことないよ。私もそうだったよ・・」と自分の体験を語ることが、彼女たちの悩みの助けになることもあるというのが分かってからは、できるだけ思っていることを言うようにした。
彼女達は私より若いわけであり、経験から得た知識というのは、当たり前だが私より少ない。ただ人とのコミュニケーションから受け取るものって、知識だけではない。彼女達の素直さ、心の美しさ、知識を得ようとする貪欲さ、その吸収力、そしてこんなに若いのに自分を見つめる、向き合う勇気を持っていることに毎度感心する。私なんて大きな挫折によって、30歳を過ぎてやっと自分を見つめるようになったのに。
自分と向き合うことは勇気が要る。それまで自分でひた隠しにしてきた、逃げてきた嫌な自分の部分にスポットライトを当てなければならない。傷ついた自分、そしてできれば忘れたいような傷ついた出来事もたくさんでてくる。でも勇気を持って、その傷ついた部分を癒さない限り、現実で起きる出来事は変わらない。自分から出てくる嫌な感情も逃げないで感じきる、そしてそんな感情を持っている自分を認めること・・それをしない限り自分を丸ごと受けいれ、愛することはできない。自分を愛せない人がどうやって他人を愛することができるだろうか。
全ての出来事は偶然でなく必然で、一つ一つに意味がある。そして全ては自分がそこから何かを学ぶために起こっているんだと肯定的に解釈すること・・私が何年もかかって身につけたこれらの考え方をあっという間に身につけた彼女達を私は尊敬している。
若いお友達のお陰で「自分をもっと表現する」という流れになってきた。今までの体験から得た知識をそろそろ人とシェアーする時期にきたのではないか・・と思うきっかけになった。自分を表現するということはそれまでの私にとっては怖いことだったから。
海外から帰って日本に住んでいた7年ほどの間、一番戸惑ったのが「日本人は(って私も日本人だけど)何を考えているのかがわからなくて怖い。」ということだった。何でもいいのだが、例えば社会で起こる出来事でも、自分の人生(これからどういう人生を歩みたいか)などについてでもそれぞれの意見があるだろうし、正しい間違いはないのだから私は色々な人と話がしたかった。でも、私の意見に対しどこに行っても一番多い反応は「無反応」で、話している相手が何を考えているのかがわからない私は怖くなり、段々自分を表すことをコントロールするようになった。
でも今は違う。自分の体験や思うところが誰か悩んでいる人のヘルプになる可能性があるのなら、誰かが少しでも元気になるのなら、その人の世界が少しでも広がるのなら自分を表現していこうと思う。どんな風に思い、反応するかは受け取る人の選択。それと私が表現するということは別問題・・とそんな風に少しずつ思えるようになったのも、出合った人たちのおかげ。感謝してます。