シンガー『ナターシャ』のブログ

関西・東京・名古屋・広島、そして台湾もグローバルに歌うシンガーソングライター、jazzシンガーナターシャのブログです

統合中

2008-04-16 | おもうこと
今日は統合中の日だったようです。

15時間ほど寝て体はしっかり元気なんだけれど、何かをしようとしても四つんばになってしまいます。昨日洗濯をしたものの、物に溢れた部屋をなんとかしようと思っても無理。お腹がすいているからかも・・とごはんを食べたけれど無理。

そこで思い出しました。アンマの後もそうだったと。http://www.amma.jp/
去年、抱きしめる聖者アンマのボランティアを2日間やった次の日、起きたくても体が動かず四つんばになってしまい、でも夜には友達の還暦祝いの飲み会があったので出かけたはいいが、お酒や揚げ物を食べたせいで、帰りに上からも下からも体外流出の巻で駅のトイレで苦しんだことを。

甥が生まれた瞬間にも、立ち会った私はその時のあまりにも大きなエネルギーに包まれ、その後四つんばになり立ち上がれなかったことを。命の誕生の瞬間ですから当たり前といえば当たり前なのですが。

きっと大きなエネルギーが私の中に入り統合するときにこういった状態になるのでしょう・・と何回か経験し学習した私は今日は予定も入れていなかったのでゆっくりすることにしました。

一つ素晴らしいことは声。
いいエネルギーに触れると声の響きが変わりますが、自分で声を出すのが気持ちいい。まさしくバイブレーションが違うのです。私にとって声は自分のエネルギー状態を教えてくれる大事なもの。

ということで、私が住んでいる日本でイスラエルで触れたエネルギーが今統合されているようですが、旅の間は考えられなかった「私と神様」あるいは「私とイエス」なんてことを初めて考えたりしました。

私はマリア幼稚園というキリスト系の幼稚園に通っていました。そこでお祈りというものを知り、幼稚園からもらったマリア様の小さな像に向かい毎日お祈りをしていたことを思い出しました。小学生になって近所の子供たちと毎週行っていた日曜学校は、帰りに駄菓子屋さんによって買い食いするのと、先生があまりにも優しいので調子に乗って先生のズボンの裾を上げ友達とスネ毛をひっぱったことしか覚えていません。もしかしたら父親との接触がなかった私には、大人の男の人とじゃれあうことを求めていたのかもしれませんが・・先生ゴメンナサイ。我が人生で懺悔すべき人はいっぱいいます。

しかし、家は仏教の家なので般若心経を唱えられた時期もあったし、ご先祖様に対する意識は普通の日本人家庭よりかなり大きいでしょう。

外国で暮らすと「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれることがよくあります。その度に「家は仏教ですが、仏様というよりは私に繋げてくれたご先祖に感謝し、仏壇にご飯を供えたり、お墓参りにいきます」というような答えをしてきました。

現在、私はご飯をいただく前に軽くお祈りをするので、よく「クリスチャンですか?」ときかれます。その度に私は「お祈り=クリスチャン」にしていては勿体無いなと思うのです。「ありがとう」と言うだけで水の結晶が変わることが目に見える形で証明されているこの時代。勿論「いただきます」という言葉を言うだけでも素晴らしいですが、感謝や祝福を与えるとどれだけ食べ物のエネルギーが変わるでしょう。

今「あなたの宗教はなんですか?」ときかれたらどう答えるでしょう。私はイエスも釈迦も自然の精霊も大好きです。私が繋がる神はxx教という枠がなくその全てを包み込む神、宇宙という言い方もできる大きな大きな目に見えない力です。

私がイスラエル行きの話をきいて、躊躇したこと、或いはそれを自分の目で体で知りたいと思ったことがあります。まず一つ目は去年あるヒーラーのワークショップの通訳をしていたとき、彼女が「ここに居る人はイエスが十字架に架けられたときの現場にみんな居ました」と言いました。そのヒーラーがワークしたかったことは「イエスのように生きれば苦しい目に遭う」という思考がその現場に居た私たちに入っているのでそれを解き放つということでしたが、「ほんまかいな」と思いつつその間中私の目からは涙、体からは咳きがでていました。

だからイエスが十字架にかけられた「ゴルゴダの丘」やそれまでの道ヴィアドローサに行くのが怖かった。ヴィアドローサは悲しみの道と訳されていますが、これは実際行って見ると「誘惑の道」。実はこの道、今日ではアラブ人のお土産やがずら~っと両脇に並んでいます。分かりにくい道なのでここでは脇目をふらさず皆についていかねばならぬ場所で、買い物したくてもできない私たちには「誘惑の道」なのでした。しかし、これも行って見なけりゃ分からない。

もうひとつイスラエル行きを真面目に考えたときに出てきた事は、ある意味「怒り」でした。どの宗教でもそうなのですが、政治や人をコントロールするために「神」という名前が使われたことに対する怒りがあるのです。キリスト教を布教するという名のもとに南米を侵略し虐殺を行ったり、実際ペルーでインカの人々の神殿を取り壊し上に教会を建てられたのを見ると、「これはイエスが望んだことであるわけない」と怒りをおぼえるのです。

私自身のことでいえば、自分の問題、例えば「人に自分を表現する異常なる恐怖」というのがどこから来ているのか探ってみると、行きついた先は過去世で修道女として「自分の思うことを言ったばっかりに、罰せられ仲間はずれにされ、神からの罰とされたこと・・がでてきました。でも本当の神様はそんなことで罰するはずがないのです。人間が人をコントロールするために使う「神」というものに対する怒りを感じるのです。

そういったことを胸にイスラエルに行ったわけですが、団長の赤塚さんからの「聖書は人生の書。宗教の書としていては勿体無い。」という言葉に「そうそうそう!」と嬉しくなり「今回の旅は人間としてのイエスの足跡」を辿る旅ときいてワクワクしました。「2000年経っても世界中の人が誕生日覚えているってすごいやろ?」って。確かに。

だって聖書によるイエスは私達が目にする十字架に架けられた偶像ではなく、とっても大きくて力強くてルックスもむちゃくちゃいい男だったようですから。偶像を禁止しているユダヤ教、ユダヤ人によってではなく、そこから「キリスト教」として広まったヨーロッパでキリストの像が創られ、絵が描かれたのですからね。

そして、今回エドガーケイシーセンターの光田さんもご一緒だったことで、「ケーシーの聖書の解釈」も聖書に実際でてくる現場できけました。こんな贅沢なことってないでしょ。ケイシーは聖書の教えを「自分の人生に引き寄せて、適用させて読め」と言っているそうでこれまたすごい解釈でした。

ケーシーについては、私は健康についてのリーディングは興味をもっていましたが、キリスト関係は今までパスしていました。しかし、ケーシーの聖書解釈に出会えたこと、光田さんと出会えたことは一生の宝となる気がします。


ケーシーについてはこちらをどうぞ。https://www.caycegoods.com/
ここの店長さんは今回の旅をご一緒した光田さんの妹さんでして、毎日ブログをアップされていましたので、「イスラエルのどんなところ行ったの?」という方は「店長ブログ」をどうぞ。写真も素敵です。http://caycegoods.exblog.jp/

私は行ったところ、感じたことを書くのには、もう少し熟成させる時間がかかりそうです。

写真はヘブライ語の「マクドナルド」