1284年6月26日
ドイツの都市にキッチュなファッションの放浪のミュージシャンが現れ130人の子供たちを惑わして連れ去った
子供たちはミュージシャンの笛の音に恍惚して行列のまま天国か地獄まで歩いて行ったともいうあるいは都市から十数キロメートルの沼地で遭難したともいうついに都市には戻らなかった
1284年のドイツの笛からどんな音色でどんなメロディが流れたのか
20世紀のデカダンスの日本の東北部の太平洋に面した小都市に笛を吹く男が現れたとの話は聞かない
笛の音色とメロディに陶酔して街をパレードする子供たちがいたとの話は聞かない
素敵にきらびやかでよく練り上げられた白昼夢のような光景を繰りひろげたとの話は聞かない
20世紀のデカダンスの笛吹き男と子供たちはせきとめられた沼に溺れて消息を断つんじゃなくて世界にひらかれた清冽な水のうえで優雅にシンクロナイズドスイミングを上演する
という話も全然聞かない
詩集湾Ⅱ 第Ⅴ章 何処へ… より
2015年の注;ひとつめのモチーフは、ハーメルンの笛吹き男で、これは歴史学者阿部謹也の著書を読んだ影響である。もうひとつは、大川にダムなんかつくったらおしまいだよ、そうじゃなくて気仙沼の港町としてのポテンシャルを活かしたまちづくりを進めたら面白いんじゃないだろうか、みたいな提案。もちろん、当時、そんなことはあからさまには書けなかったけれども、読めばわかることではある、と思う。しかし、ほとんどだれもそこまで読みとってはくれなかっただろう。三つめは、でも傑出した演出家はついに現出しなかった、のかどうか。下手に優れた演出家なんかが現れると、むしろハーメルンのまちの子供たちのように溺れて滅ぶのが関の山かもしれないね、みたいな。哲人政治家の出現に期待するのか、あるいは衆愚をまた良しとするのか、みたいな。この「ハーメルンの笛吹き男」を誰になぞらえるか、というのはまた面白い問題の立て方であって、もちろん、いくつか候補は上げられるわけだが、そういうのは、作者が種明かしするというよりも、むしろ、読者の想像力に委ねる、というのが正統な詩の楽しみ方、ということになる。というか、この注は、無駄に冗長な冗句でした。
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