ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

津波の後に

2011-09-16 22:39:51 | エッセイ

 ほぼ半年が過ぎようとしている。
 ここから眺める風景は、あたかも何もなかったかのようだ。川の中の住宅の残骸は片付けられた。夜には、明るく照らされたコンビニや車のディーラーやショッピングセンターの看板も見える。
 しかし、ここからは見えない港の周辺は何もない。コンクリートの土台だけが延々と広がっている。
 津波は襲いかかって、とりあえずは去った。
 しかし、原発事故は未だ終息していない。大きな問題としてこの国に圧し掛かっている。福島、東北を中心に、大きな受苦を被っている。
 もちろん、津波自体の被害も甚大で未だ復旧の目途は見えない。
 事態が巨大過ぎて、いま、私自身として、どこから書き始めるべきなのか、立脚点が定まらない。
 職業人として語るべきこと、いや、それ以上に行動すべきこと、これは当然ある。文学を、詩を書こうとするものとして、あるいは、思想を学ぼうとしでき得れば語ろうとするものとして、これも当然ある。産業カウンセラーとして語るべきこと、これもある。
 被災した地域に住む一人の人間として、被災した地域に居ながら、個人的にはそれほど被災しなかったものとして、避難所に張り付いて、家を失い、肉親を失ったひとびとの傍らにいたものとして、これもまた、ある。
 福島の詩人・和合亮一氏が、ツイッター上で、現場から詩を発信し続け、三冊の詩集を発表した。
 私は、ツイッター上で、彼をフォローし始めたが、まだ、最近のこと。三冊の詩集も購入し、「詩の礫」(徳間書店)、「詩ノ黙礼」(新潮社)と読んだが、「詩の邂逅」(朝日新聞出版)はまだ読んでいない。彼が、現地から言葉を発し続け、詩を書き続けたことは、それ自体として素晴らしいことだ。それ以上のことは、三冊目を読んだ後に別に書くこととしたい。
 文明論を語りたい思いはある。
 中沢新一、内田樹、平川克美の討論、宮台真司と飯田哲也の討論、荻野アンナのルポ、坂本龍一の本、そして、吉本隆明や柄谷行人のコメントなど読んで、この震災が、デカルト、ニュートン、そして産業革命以来の現代文明の、実社会的な終わりの始まりなのだと言いたい思いはある。思想的な意味での終わりの始まりは、実はもうすでに随分前から始まっているが、現実の出来事として終わりの始まりを画する事件であろうと。
 だが、まだ、一段落にも至っていない。
 個人的なことを言えば、今年一月に、十九年ぶりの第三詩集「寓話集」をまとめた。二月には霧笛通算百号を発刊した。(私自身は、二号からの参加ではあるが。)。三月に入って、三日に父が逝った。(母は五年前に既に亡くなっている。)葬式を無事に終えたあと、十一日、大きな地震があり、津波が来た。
 父の死は、大正十五年生まれで八十歳を超えており、長く療養中の特養老人ホームでのこと、言わばごく当然の時の流れの中での出来事。主観的には、それほどの衝撃があったわけではない。涙を流すこともなく、たんたんと葬式を終えた。(むしろ、脳卒中で倒れたあと、病院でベッドに横になっている父を見たときのほうが、重い思いがあったと言える。この父の子として生きてきたことについて。母の生前に特養ホームへ入居しており、その介護に苦労したということはない。基本的に週に一度、車で五分ほどの施設まで短時間面会に通ったのみだ。)
 死に目には会えなかった。
 その日午後、すぐにとは予想もせず、ちょと近くに買い物に出たすきに、息を引き取った。家族では、弟がひとり看取った。妹は東京から新幹線でこちらに向かう途上だった。
 母のときも死に目には会えなかった。朝、通常通り出勤して、間もなく弟から電話があった。妹も同様に、早朝に東京を立ってまだ到着していなかった。
 私は無情なのかもしれない。
 震災後、ふた月ほどして、友人の妹が亡くなった。私が高校生の頃、まだ小学生だった。別の同級生と結婚して、ここ十年ほど福祉法人で介護の仕事を始めていた。実は、父の入居施設の職員だった。父が亡くなったときは親身に対応してくれた。臨終にも立ち会って、勤務時間が終わったあとも、そのまま、葬祭車が迎えに来るまで居てくれた。小さなころはちょっと生意気な口をきく(かわいい)女の子で長じてもその性格は残していたが、父のときの対応は有難いものだった。少し意外な感じがした、と言っては失礼になるけれど。
 仕事から戻って、家族でスーパーマーケットで買い物終えると、その兄がひとりやってきた。妻が何気なく「Nちゃんは変わりない?」と聞くと、あー、と一瞬躊躇したあと、実は、と話し始めた。
 震災の後、病気が発見されて入院したのだと。父のときは、分かっていたわけではないようだ。
 震災では、同級生や知人、その親御さんなど多くのひとが亡くなったが、私にとってごく身近な身内は無事だった。しかし、その前と後の、身近な、お世話になったふたりの死。
 今年の、連続した三つの「死」の中に、三月十一日の震災もある。
 さらに言えば、詩集を出し、霧笛が百号を迎え、産業カウンセラーの試験に合格し、という私にとっての大きな節目のあとに震災があり、七月には、五十五歳となった。(産業カウンセラーの合否通知は、三月十一日発送予定で、一か月過ぎてから合格の通知が届いた。)
 震災という、途方もない圧倒的な出来事と個人的な出来事の連続、あるいは落差。
 私にとっては同等の出来事なのか、比較を絶する出来事なのか。
 今はよくわからない。
 自宅は、本も食器も落下せず、机の上に乱雑に積み重ねた書類が滑り落ちたのみだ。家族も無事だ。
 しかし、よく考えてみると、妻の母が翌日に救急車に運ばれたという。低血糖の状態だったようだ。大事には至らずに済んだ。弟が独り住まいしている実家は、一階に水を被って多くのものが流されている。(父の葬儀の記録も。)震災後半月ほどは職場や避難所に泊まり込みで、三回ほどしか帰宅していない。妻と息子は停電と断水と食料調達の困難な中で、妻の実家にお世話になっていた。
 避難所では、肉親を失い、自宅を失ったひとびとと共にいた。
 私には、ものごとを深刻に考えまいとする性癖があるらしい。悲観を避ける、というよりも、悲観から逃げるとでもいうような。
 


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