大岡信ができるだけぶっきらぼうに詩を書きたいと言ったからといってそこらへんに散らばっていることばをぼくらのレベルの計らいでそれこそぶっきらぼうに取り集めてぶっきらぼうに書き連ねて詩になったと自賛しているようではお笑い草だ
吉本隆明が親鸞について信ずる者と信じない者とはイコールになってしまうわけだがこのイコールは三百六十度を回ってきたイコールだからただのイコールじゃないと言ったり いわゆる浄土教の考え方がひとたび浄土へ往ってそしてまた還ってきて衆生のなかにほんとうの意味の慈悲を発想していかなきゃいけないという考え方をいわゆる往相と還相として考えているとか言う
大岡信が徹底してぶっきらぼうに書くならば最後は詩なんてものを書く必要もないところまで行くのだろうけれどもその時実はいちばん詩が書ける状態に居るのでなければ意味がないと言う
吉本隆明がなんでもない人になっちゃうということは人間にとっても知識にとっても理想なんだという観点があるという
大岡信が詩は有用でありすばらしいものだと言う ただ私自身の詩について思うときは一度もそういうことが念頭に浮かばない有用ですばらしい詩はいつでも他の人が書いていると だからといってぼくらが有用ですばらしい詩を書いているとお褒めに与ったと思ったらとんでもない思い違いだお笑い草だ すぐ続けて千年もまた五十年も前にと書いてあるのを読めていないということになる 千年前といったら古今集やらの世界 五十年前といったら戦後派・現代詩のはじまった時代
吉本隆明が現在労働者と一般大衆の利害が相反する場合に当面したらどちらを支持するのかといったら一般大衆の利益を支持するんだというのが全体制だと言うのを読んで吉本は全体主義に寝返ったなど批判するのはごく初歩的な読解力に欠けるものであってすぐ続けてつまり開かれた反体制だというふうにぼく自身はそう思っているわけですと書いてあることが読めていないということになる そこの問題でほとんどあらゆる反体制の人と対立してしまうのだそうだ 全体主義とは言わなくとも「資本主義」に寝返ったと批判する左翼は多いだろう 労働者と一般大衆が別の存在だと想像すらできない連中もいるかもしれない
谷川俊太郎がマルクスもドストエフスキーも読まずに書いてきたと言うのを読んでああおれも詩人としてこれでいい本の一冊も読まなくていいと安心している輩がいたとすればそれこそトンだ思い違いだお笑い草だ 愛を歌いつづけるパミーナとパパゲーノを従えてモーツァルトを聴く人にぼくらがなれるかと言ったらまあチョット無理でしょうね
大岡信 詩集火の遺言(花神社一九九四年六月三十日刊)あとがきから引用
吉本隆明 〈非知〉へ―〈信〉の構造「対話編」(春秋社一九九三年十二月二十五日刊)「親鸞の信と不信」及び「僧侶―そのあり方を問い直す」から引用
谷川俊太郎 モーツァルトを聴く人(小学館一九九五年一月一日刊)「そよかぜ 墓場 ダルシマー」及び「どけよ猫」から引用
詩を書くなら、本は読もうよ、と読書の勧めでもある。
ところで、労働者と一般大衆の区別、みたいな話は、いまこそ、よくよく考えてみたい。