ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

宇野常寛 遅いインターネット 幻冬舎 あるいは〈グローバルな市場の強力なプレイヤーたち〉

2020-06-01 23:21:08 | エッセイ
 すいすいと読める面白い本であったことは間違いがない。ただ、読み進めながら、どこか違和感が付きまとう。
 こないだ、糸井重里氏がほぼ日のコラムで、自由について書いておられた件で少々考えるところあり、ブログにアップしたところ、自治総研、前福島大学の今井照先生から、糸井重里の歴史的な位置みたいなものはこの本に良くまとまっているよと教えていただいた。
 吉本隆明から糸井重里への流れ、なるほど、そうだな、的確にまとめられている。
 宇野氏は、ひところ、新進気鋭の学者という感じでよくテレビに出演されていた。「朝まで生テレビ」など、お見掛けしていた。1978年生、出身は、青森県八戸か。
 評論家、批評誌〈PLANETS〉編集長とのこと。
 あ、評論家か。いいな。私も評論家を名乗ろうかと考えるところはある。地方評論家。(私の場合は、Local Essayistの訳として。通用するとしても気仙沼地方においてしか通用しない評論家、という意味でもあるかもしれないが、地方に住んで地方について考え、書くことを試みる人間。)
最近は、評論家というと悪い語感でとらえられる傾向がある。曰く傍観者で口ばかり、何の実行力もない人物。当事者でもないのにマスコミで都合よく使われるだけの人物。だが、本来、評論家は、ある分野について学識をもって言葉で語る人物である。情報を伝え、解説し、評価する。宇野氏が、あえて評論家を自称し、言葉でもって立とうとする志はあっぱれである。(あっぱれというのは、今読んでいる松岡正剛の『日本文化の革新』(講談社現代新書)に影響されたもの言いである。)

  〈序章における宇野氏の時代認識〉
 さて、序章は、オリンピック破壊計画と名付けられる。(いま、オリンピックが延期され、中止の可能性も取りざたされているのは想定外の事態ではあるだろう。)人と語らって、オリンピック破壊計画なるものを作ってみた、というのは面白い、意味ある取り組みだと思う。その計画のことは置いておいて(この序章においても、それ自体について詳しく説明されているわけでもない)、見てみたいのは、今の時点がどういう時なのかという、宇野氏の認識である。

「気がつけば、2020年の東京オリンピックまであと1年足らずに迫ってしまった。
 この間に、天皇が譲位して元号も平成から令和へと変わった。あたらしい時代がここから始まったかのように、目を輝かせて語る人も多い。だけど、実際のところはこの国は何も変わってはいない。平成は終わっても、「失われた30年」が終わったわけではない。でも、気分だけが先走って実体が伴っていないことを、本当は多くの人が感じているはずだ。僕が改元にも、2020年のオリンピックにも空疎さを感じているのはそのためだ。ただ、この後ろ向きのモードをリセットしたい、という気持ちだけが空回りしてしまっているように思えるのだ。」(4ページ)

 正直に言うと、私個人の体感的なことを言って、「失われた30年」というのが良くわからない。確かに三十数年前、私が30歳のころまで、毎年給料は上がっていて、毎年12月に支給される4月にさかのぼっての昇給の差額は相当大きな金額だったし、郵便局の定額貯金の利率も相当に高かった。
 その後、就職氷河期の話もあって、リーマン・ショックもあったし、経済成長がごく低レベルであったことは知識情報としては知っている。
 しかし、この間、生活の質は、ずっと向上し続けてきたように感じられる。
 まあ、私が地方の公務員で、景気の良し悪しにダイレクトに左右されるような収入の種類ではなかったというのが大きいのかもしれないが、なんといえばいいか、Quality of Life、 生活の質は向上してきた。
 衣食住、すべての分野にわたって、センスのいいものに囲まれるようになったし、美味しいものが食べられるようになったし、便利になった。私が大学を出たころに比べて、現在の方がより良い暮らしが送れるようになった。いつのまにか糸井重里的な「おいしい生活」が実現してしまった、とも言えるだろう。
 当時は、パリのモードと、地方の田舎町の日常の衣類は、隔絶していた。今は、パリの街角の女性のファッションと、気仙沼あたりの女性のファッションは、そんなに違ってはいない。いや、違ってはいるが、少なくとも当時ほどの落差はない。スーパーマ-ケットには、コーヒー豆とか、オリーブオイルやバジルがふつうに並んでいる。
 現在、日本人の大半が、後ろ向きのモードで生きている、というのは本当だろうか?リセットしなければいけないという感覚は、そんなに広く共有されているものだろうか?日本の大衆は、日々暮らしづらいと感じているのだろうか?
 一億総中流の崩壊と言われる社会状況のなかで、どこか変わっていかなくてはならないのは確かだとして、では、どう変わっていくべきなのか、ここは、重要な考えどころである。(ただし、念のため言っておけば、社会福祉、社会保障の面で、なんらかの緊急の対応が迫られていることについては議論の余地はないだろう。)

「かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と讃えられた日本的な経営は、いまや個人の個性を抑圧し、才能を潰し、組織の歯車にすることで、情報産業を支えるイノベーションを疎外するための仕組みでしかない。そして今でもこの国では成果ではなくメンバーシップに対して報酬が支払われる制度が生き残っている。会社への忠誠心を測る基準として残業時間が評価され、「打ち合わせ」という名の上司や取引先への愚痴大会が稼働時間の大半を占め、その不毛で陰湿なコミュニケーションがそのまま夜の「飲み会」に反映される。こうしたコミュニケーションのためのコミュニケーションを反復する中で、人間は「個」を失い、独創的な思考を失い、組織の歯車となっていく。」(13ページ)

 ふむ、〈日本的な経営は、…情報産業を支えるイノベーションを疎外するための仕組みでしかない〉、そして、〈成果ではなくメンバーシップに対して報酬が支払われる制度〉がゾンビのように生き残ってしまっている、か。
 そもそも、継続した売り上げがなければ、報酬は支払われないのだから、成果なくして報酬はない、というのは当然のことである。でも、それは、会社全体としての成果であって、必ずしも社員である個人ひとりひとりの成果として個別に測定される必要はないのではないか。あえて、個別の成績として測定しようとすると無理が生じる場合もあるのではないか?とするとメンバーシップに対して報酬が支払われる、というのはあながち悪いことだらけとは言えないのではないか?
 人事評価として個別の成績を点数化することが、組織の成果の向上に本当に役立っているのか、というと、ここは疑問符が付く場合も多いようだ。(私も組織にいて、評価する、される当事者だった。)
 「打ち合わせ」という名の愚痴大会というのも、どうも一方的な決めつけだな。「不毛で陰湿なコミュニケーション」に落ちる、そういう場合もあるのは確かだとして、有意義な情報共有の場としての打合せは、むしろ必須である。情報が単線化して、一方的な上意下達だったり、その逆のラインの報告のみでいいということはあり得ない。横の情報共有は有益だし、情報の複線化は危機対策としても必要である。単なる組織の歯車ではない、独創的な思考を育てるためにも、情報収集、情報共有は必要であり、よき意味での打ち合わせは必須に違いない。直接顔を突き合わせようが、リモートでネットの画面を通してであろうが。
 なんだろう、宇野氏が言わんとしていることは、最終的には良きこととは思うのだけれども、ここに挙げている例など、どうも素直に腑に落ちてこない。
 イノベーション、イノベーションと、際限のない競争に駆り立てるのは、はたしていいことなのか?上の引用で言えることは、宇野氏はイノベーションによる情報産業の成長が、良きことであるとみなしているということである。イノベーションによる経済成長を目指すべきである、それが答えなのだ、にもかかわらず、今の日本はその答えに向かって歩を進めてはいない、と批判しているように見える。宇野氏はこの本で、解決策を示す、答えを示すと期待させているようにも読める。
 ただ、通して読めば、必ずしもそれが答えだと断言しているわけではない、のかもしれない。多くの人々の現状の認識としてそういうことになっているのだと記述しているだけだ、というのかもしれない。
 しかし、以下のようなところは、私として、まさしくその通りだと思う。基本的にその考えは共有し得る。ここには答えはない、と述べている。

「だからこれは、走りながら考える本だ。ゴールは決められていない。たぶん栄養剤のようにこの本を読み通すことで力が湧いてくることもなければ、安定剤のようにいまの自分はそれでよいのだと安心することもないと思う。いま書店に並んでいる本は大抵このどちらかだ。しかしこの本を読むと、どちらかと言えば、スッキリしない、モヤモヤとしたものが残るはずだ。けれど、こうしたモヤモヤとしたものが身体に沈殿するからこそ、それを吐き出すためにひとは走り出す。そう、この本は一緒に走りながら考えてもらうための一冊だ。あらかじめ分かっていることを確認して安心するための本ではなく、手探りで、迷いながら考える本だ。そしてこの国を、いやこの世界を覆う目に見えない壁を突破する言葉を手に入れること。それがこの本の目的だ。
では、そろそろ走り始めよう。…これは…答えを用意して、活力や安心を与えるための本ではなく、問いを共有して一緒に迷い、試行錯誤するための本だ。ゴールテープを切ってタイムに満足する気持ちよさは提供できないけれど、走ることそれ自体の気持ちよさはきっと共有してもらえると思う。」(27ページ)

 答えを求めるのでなく、問いを問い続けること。問い続ける言葉を獲得すること、問い続けることの気持ちよさ。このあたりは100%同意すると言っていい。
 しかし、なんだろう。
 宇野氏は、はじめは明確明晰な答えを提供する、というふうに思わせながら、実際には答えはない、と断言する、というか、最後には、放り出されて、肩透かしを食ったような気分になる、といえばいいのか。

  〈第1章の宇野氏の3つの提案について〉
 さて、第1章は「民主主義を半分諦めることで守る」。
 3つの提案があるという。

「まず第一の提案は民主主義と立憲主義のパワーバランスを、後者に傾けることだ。」(58ページ)

 この提案については、例えばドイツワイマール共和国下のナチスを念頭に、民主主義が専制的な独裁を生む危うさはつとに語られるところであり、そこをコントロールしていこうとする立憲主義の重要性は、最近、見直され、あるいは見出だされているところである。

「これから民主主義による国民国家のコントロールは基本的に自由と平等に背を向ける傾向を強めていく。生存権や表現の自由といった基本的人権については国際連合をはじめとする超国家的な枠組みの権限を強化すること、あるいはグローバルな市場の強力なプレイヤーたちが個人の自由な経済活動を要求する立場から国民国家の暴走を牽制することがより重要になる。」(60ページ)

 国民国家の暴走を止めるのは、一方では〈国際連合等の国家を超える枠組み〉であり、もう一方では〈グローバルな市場で勝ち残る強力なプレイヤーたち〉であるという。
 なるほど。
 それは確かにそうかもしれない。
 しかし、グローバルな市場の勝者が、国民国家に大きな発言権を持つということ、か。このあたりはどうなのだろう。その他大勢のふつうのひとびとはどうなるのだろう。
 
「その第二の提案は、情報技術を用いてあたらしい政治参加の回路を構築することだ。」(61ページ)

 第二の提案〈情報技術を用いたあたらしい政治参加の回路〉については、「市民」でもなく「大衆」でもない国民の層を想定しているという。その他大勢のふつうのひとびとを取り込んでいく道筋、ということだろう。

「本書を手に取る大半の人々が、民主主義と言えば選挙による代表者の選出や国民投票による意思決定のことを思い浮かべるだろう。あるいはデモを中心とした社会運動のことを想起するはずだ。だが民主主義の回路とはほんとうにこのふたつだけなのだろうか。」(61ページ)

 ここでは、選挙や国民投票が「大衆」によるもので、デモを中心とした社会運動は「市民」によるものだと整理されている。
 すぐ続けて、

「東日本大震災後にいよいよ明らかになったのは、この国の民主主義は使い物にならない、ということだ。市民運動は旧態依然とした左翼の文化が残り続け「意識の高すぎる市民」たちの自分探しの域を出ず、選挙は相変わらず「意識の低すぎる大衆」たちを対象にしたどぶ板選挙が支配戦略として定着している。しかし、インターネットと民主主義はここにあたらしい政治参加への回路を構築する可能性を秘めている。」(61ページ)

 〈使い物にならない〉か。
 〈意識の高すぎる市民〉と〈意識の低すぎる大衆〉。
 ずいぶんと単純に類型化されたようにも思える。というか、確かにこういうふうにモデル化すれば、分かりやすい、とは言える(自分探しだとか、どぶ板選挙だとかの修飾語についての吟味はとりあえず置いておくとして)。もう何十年も、政治学の周辺では、こういう問題こそ、問題として認識され、議論されてきたことだった、と思う。
 ああそうか、今の学生たちに、状況を学んでもらうためには、こういう分かりやすく類型化、典型化した議論は必要なことなのかもしれない。

「そもそも人間とはすべての選択を自己決定できる能動的な主体­=市民でもなければ、すべてを運命に流されていく受動的な主体=大衆でもなく、常にその中間をさまよっている。」(62ページ)

 これも、まったくその通りのことで、最近では國分功一郎氏の『中動態の世界』(この本の参考図書にも挙げられている)などに詳しく述べられている。
 この第二の提案については、二つの項目を挙げている。新しい政治参加への回路のことである。

「そのためにまず個人と国家の中間に、家族でも地域社会でもましてや戦後的企業のムラ社会でもない。現代的な連帯モデルを実現する。もちろん、いまさら「インターネットを通じた町おこしで地域共同体を再生」といった類の与太話をここに書き連ねようとは考えていない。」(66ページ)

 ふむ。国家と個人の間を媒介する中間項(共同体というか、団体というか、組織というか)は必要である。それは間違いない。〈インターネットを通じた町おこし〉などという枕詞を付けてしまうと与太話になってしまうのかもしれないが、〈地域共同体〉については、再生なのか、新たな形での創造なのか、〈現代的な連帯モデル〉のひとつとして、検討すべきであろう。決して与太話ではないはずである。里山の哲学者・内山節氏の論考なども踏まえつつ、私としては重大なテーマである。

「そしてふたつ目はこうして生まれたあたらしい日本人たちの団体によるロビイングや陳情を中心とした政治活動だ。」(68ページ)

 このあたりは、最近の若者たちのNPOの動向を踏まえつつ、確かに大切な動きだと思う。

「そして第三の提案はメディアによる介入で僕たち人間と情報との関係を変えていくことだ。端的に述べれば「よいメディア」をつくることだ。」(76ページ)

 ということで、宇野氏は、自らの新しいメディア、批評誌〈PLANETS〉を立ち上げたということになる。「遅いインターネット」のメディアである。
 〈市民〉でもなく〈大衆〉でもない新たな層をターゲットに掘り起こしていくということだろう。
 〈人間と情報の関係を変えていくよいメディア〉が実現することは望ましいことだと思う。
 ただ、私なら、新たな層を掘り起こそうとはしないだろう。現に、この国に生きている国民が、「大衆」でありかつ「市民」である、そんな社会をめざしたいと思う。この違いは、言葉尻の問題でしかないのかもしれないが、結構、大切に違いない、と思う。
 以上、3つの提案は、第二に付随する二つの項目も含めて、大筋として同意しうる。その通りだと思う。しかし、そこに付された説明については、なにか同意しかねるものがある。冒頭に述べた違和感はやはり厳然とある。
 違和感。
 この本において、宇野常寛氏は、グローバル市場の強力なプレイヤーを友人として多数持つ、言ってみれば現代社会のトレンドを牽引する1%の側の人間であること、トレンドとして社会の過半数の人間を牽引しようとする立場に立つ志を宣言したのだ、と言えると思う。宇野氏自身が、市場経済の勝者としての1%だということではないだろうが、そういう人々を多数友人に持つトレンドとしての1%の側。グロ―バル市場を肌感覚で実感できるような層。
 そもそも宇野氏が、日本のインテリとして1%の側にいることは間違いがない。巻末の参考図書のリストを眺めるだけでも明らかなことである。旧来の意識高い市民でもありうるのだが、その枠には留まらない人間。知識階級の1%の側にいる人間が、市場経済の1%の側(あるいはそれにごく近い場所)にもいて、これからの日本を切り開く方向性を指し示すトレンドとしての新たな1%の側に立つのだと宣言している書物、というふうに読める。
 こう書くと、いかにも私は宇野氏を非難しているように読めるだろう。確かにそうかもしれない。いや、高く評価しているのかもしれない。

  〈グローバルな市場のプレイヤーであること〉
 正直に言おう。私にはわからない、のだ。
 グローバルな市場のプレイヤーであることはいいことなのか、はたまた悪いことなのか。
 全世界の人類は、好むと好まざると関わらず、グローバル市場に放り込まれており、そこには勝者がおり、いくばくかの勝者がおり、どちらかと言えば敗者もあり、全くの敗者もいる、人類は、その尺度のなかのどこかにしかいないのだ、それ以外の居場所はないのだ、ということかもしれない。であれば、市場内のゲームでより良いポジションを取ろうとするのは当たり前のこと、となる。
 どうなのだろう。
 この強力な一つの尺度に、人類すべての人間が位置づけられてしまうこと、こそが、現代の恐怖である、と私は思う。
 この強力な一つの尺度を拒絶すること。
 この強力な一つの尺度を拒絶することは可能なのか。
 可能なのではないか、と私は考えている。
 この尺度は幻想である。吉本隆明のいう共同幻想であることに間違いはない。というよりも、幻想を通り越した妄想の部類に属すること、なのではないか、と考えている。だから拒絶することは可能であると。
 (このことは、相当に重大な問題であり、また別の機会に深く考えてみることにしたい。)
 ところで、この本で、宇野氏の「グローバル」に対する「ローカル」が、国民国家であることに驚いた。いや、ローカルというのは、常に中心とか全体に対する一部のことなので、地球全体において国家がローカルであるというのは、別におかしな物言いではないのだが、ふだん私は、国家に対する県とか市町村の地方をローカルと呼んでいる。中央政府とか、東京とかに対する地方政府、地方自治体、まちを重視する立場なので、国家をローカルと言われると戸惑ってしまう。「ローカル」ということばを、ほぼ常に良き意味で使っている。
 地方を重視するというのは、宇野氏の言う国家と個人の間の中間項として、自治体を重視するということである。直接に肌で触れられているかのように実感できる場所として市町村を重視する立場である。
 「遅いインターネット」の「遅い」というのは、最近のSNSのような脊髄反射のような発言はよろしくない、熟慮して発言すべきだということで、これはどんな場合にも当てはまることである。ごく当然の当たり前のことを言っている。
 宇野氏の論法は、旧来のものをあえて単純化矮小化して批判し、あたかもそれを乗り越えたかのように、ごく順当なあたりまえの主張を述べる、という構造になっているように見える。
 しかし、ごく当たり前の正論は、何度でも繰り返し語られるべきであるし、より若い人々のためには、その世代に分かりやすい語彙を多用して語り直すということは意味あることである。インターネットという身近な道具も、きちんとうまく使いこなすことが肝腎である。
 そこで、私からの見え方として、少々留保をつけたい論点もあったので、書いてみたということである。
 吉本隆明については、第3章「21世紀の共同幻想論」において詳しく論ぜられている。吉本の主著のひとつである『共同幻想論』。「個人幻想」、「対幻想」、「共同幻想」という懐かしい3つの概念。今も役に立つ概念である。吉本から糸井重里へのつながりもよくわかる。
 糸井重里のインターネットのメディアである「ほぼ日」が、宇野氏の〈PLANETS〉の先行モデルであり、宇野氏はその限界を指摘して、もっと進化したメディアとしての〈PLANETS〉を育ていく、ということのようである。〈PLANETS〉の活動が、宇野氏の掲げる「遅いインターネット」の具現化としてどう機能しているのかということは注視していきたい。
 しかし、ずいぶんと長くなってしまった。宇野氏にまんまと乗せられて、考えさせられてしまった、ということなのだろう。
 あ、そうそう、この本の編集者は、幻冬舎の箕輪厚介ということで、巻末に謝意が述べられているが、この本を読み始めた後にネットで問題にされていて、びっくりしたところである。


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