モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

大彦命と布施氏の布制(布施)神社詣でと茶臼山ラッセル(妻女山里山通信)

2016-01-29 | 歴史・地理・雑学
 以前の記事「茶臼山の茶臼ケ城、修那羅城、篠ノ城探索。布施氏の山城は想像以上に大規模でした(妻女山里山通信)」で、望月氏の後裔(こうえい:子孫)である布施氏について記しましたが、その布施氏を祀る布施(布制)神社が、茶臼山を中心として東西南北に4社あります。その内の北の篠ノ井山布施の社と西の山布施にある社は訪れたことがあるので、残りの2社を訪れてみました。前回、『滋野系図』より布施氏は滋野氏(望月氏)の後裔と記しましたが、滋野氏の祖は清和天皇なので、辿ると崇神天皇まで行くのでしょうが、まず間違いなく何度か切れているので真実は霧の中です。

 長野市篠ノ井五明にある布制神社(左)。延喜式式内社で、主神は布施氏の祖といわれる大彦命(おおひこのみこと)。『古事記』では大毘古命と記載。当社は、927年に完成した延喜式に記載があります。他の3社は南向きですが、ここのみ東向き。布施神社が正しい表記ですが、仏教のお布施に繋がるということで現在は布制神社と表記するそうで、これは明治の廃仏毀釈の置き土産でしょう。本来の布施神社に戻すべきです。
『日本書紀』では、崇神天皇10年9月9条で、『大彦命を北陸道へ、子の武淳川別命(たけぬなかわわけのみこと)を東海へ、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を西道へ、丹波道主命(たんばにおみちぬしのみこと)を丹波へ派遣したとしされています。いわゆる四道将軍のひとりです。
『古事記』には、崇神天皇が伯父の大彦命を北陸道(越国・高志国)へ、その子武淳川別命を東海道へ遣わせたとあります。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れ、二人の出会った所を相津(会津)というとあります。 その後、社伝によると、大彦命は五明の布制神社後背(西)の瀬原田の長者窪に居を構えそこで薨去(こうきょ)した(亡くなった)といいます。
 境内にある天満宮(中)と合祀された石祠が数多く並んでいます(右)。明治の廃堂令で長野市に400あったお堂で残ったのは僅か16。現在は40ほどに復活。南方熊楠が猛反対した神社合祀令により多くの産土神が合祀されたり消えてしまったのです。廃仏毀釈や合祀令は、中国の文化大革命に匹敵するといっていい明治政府による非情な文化破壊だったのです。明治政府の祖となる明治天皇が偽物だったのですからそこまでする必要があったのでしょう。詳細は「田布施システム」で検索を。
「1町村1社を標準とし、整理統合された数多くの神社跡は、その神社林が払い下げられ伐採されていく。熊楠の主たる研究対象は、この神社の森に保護された微小な生物であり、神社を単位とした共同体の風習や伝承である。それが一朝にして破壊の危機に立たされた。森がはぐくんできた数千万年の生物が、合祀令によって一朝に消え失せる。産土神を遠くの神社に合祀され、参詣の不便さをなげく村民の声を聞くにつけ、また、合祀後の払い下げを見込んで巨樹の多い神社を合祀の対象に選ぶ神官や郡長らの所行を見るにつけ、熊楠は怒りを爆発させた。」(新・田辺市民読本「南方熊楠」より)拙書でも粘菌のコラムで取り上げていますが、私が敬愛してやまない明治の偉大な研究者です。

 次に南西に車を走らせ、川柳将軍塚古墳の南の麓にある篠ノ井石川の布制神社へ(左)。参道が狭いので一の鳥居の脇に駐車して登ります。鳥居の中に見えるのが川柳将軍塚古墳のある山。400m足らず登ると社殿の赤い鳥居(中)。拝殿は新しく、後背の本殿もそう古いものではなさそうです。拝殿から南南東を見ると森将軍塚古墳が見えます(右)。赤い鳥居の前に東山道支道の標柱が立っています。
 神社に来る途中に長野市指定文化財建物 石造多層塔がありました。高句麗の王族、前部秋足(ぜんぶのあきたり)が延暦18年(799)に篠井性を下賜(かし)されています。それが現在の篠ノ井の名称の元でしょう。この時、多くの高句麗の豪族が帰化しています。高句麗人はツングース系で石の文化を持ち、現在の半島の人とは異なります。長野市には高句麗式積石塚古墳として大室古墳群が、多くが破壊されましたが妻女山にもあります。千曲市には堂平積石塚古墳群があります。

 石川の布制神社の上にある川柳将軍塚古墳(左)。前方後円墳で、地元ではここが大彦命の御陵といい伝えています。その上にある姫塚古墳は、更に古い時代のもので、やや小型で前方後方墳(中)。途中の四阿から南方を見ると森将軍塚古墳が見えます(中央の白い部分)。右上は有明山、左奥は五里ヶ峯。

 これは以前夏に訪れた茶臼山西の山布施にある布制神社(左)。村史には奈良時代後期の宝亀8年(776)創建とあります。拝殿は江戸時代後期のものでしょうか。木彫には諏訪立川流の様式らしき立派なものが見られるのですが、明治の村史には特に記載がありません(中)。これは後で研究者の友人に確認したところ、石川流の山嵜儀作の木彫と分かりました。その木彫の写真と説明は、「山布施の布施神社と諏訪立川流木彫。布施氏の須立之城探訪。陣馬平のカモシカの親子」の記事を御覧ください。
 神社から東方を見ると茶臼山北峰と崩壊してしまった南峯が見えます(右)。

 布施氏の領地を見たいと思い茶臼山へ。先週の雪かきで腰を痛めてしまったので若干躊躇したのですが、旗塚まで車で行けば大丈夫だろうと強引に茶臼山植物園入口のゲートまで車を入れました。積雪は10~30センチでしたが、先に歩いてくれた人が2名ほどいたようで、その足跡を辿りました。山頂西側の登山道(左)。気温が6度なので樹上の雪が落ちる度に粉雪の光の柱が立ちます。アニマルトラッキング。これはニホンジカのもの(中)。ノウサギが駆けまわった跡(右)。

 茶臼山のアルプス展望台から。中央やや左の高い杉の木に囲まれている山布施の布制神社。奥は左から爺ヶ岳、山頂に雲がかかった鹿島槍ヶ岳、右に雪解けの頃に武田菱が現れる五竜岳。北アルプスの仁科三山。命名の元となった仁科氏は、『信濃史源考』では、大和国の古代豪族安曇氏の一支族が仁科御厨に本拠をおいて、土地の名をとって名字としたといわれています。1400年の大塔合戦では、新守護として強圧支配をした小笠原長秀に対して村上満信と仁科氏を盟主とする大文字一揆を起こして守護軍を追いやっています。戦国時代の仁科氏の動静は非常に複雑で、武田に降りたり、信長の代には高遠城主で陥落したり。後に善光寺平に移ったものは故郷の湖を偲んで青木を名乗ったという説も伝わっています。また秀吉の景勝の国替えで付いていったのか米沢にも仁科姓があります。

 右へ目をやると、神城断層地震で山頂が4割も崩壊してしまった虫倉山。松代藩の尊崇が厚かった神話の山です。拙書でも紹介しているさるすべりコースが早く復活するといいのですが。虫倉山は善光寺地震でも大崩壊しており、その様を藩の御用絵師、青木雪卿が描写しています。彼については、「『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)」を御覧ください。コメント欄も読んでいただくと全貌がかなり見えてくると思います。

 そこから5分ほど北へ下って反対側が見える善光寺平展望台へ。川中島の奥に白い根子岳と黒い四阿山がそびえています。大河ドラマ『真田丸』の真田家と非常に関係の深い山で、麓の山家神社の奥宮が二つ、その間に信仰の原点といわれる小石祠があります。奥宮は拙書でも紹介しています。
 左手前のビル群は、長野冬季オリンピックで選手村になったところ。現在は住宅地。その手前が北陸新幹線。

 右に目をやると、松代方面。プリン型の皆神山の左上に保基谷岳、右に菅平の大松山。左中央に広い畑地が見えますが、地名を御厨(みくりや)といって平安時代に布施氏の荘園があった場所です。大麻を栽培し麻布を朝廷に献上もしていました。布施がつく地名は布施五明、布施高田、上布施、下布施、山布施などたくさん残っています。葛飾北斎と栗で有名な小布施は、鎌倉、室町時代にその名が登場するそうですが、ここも布施氏と関係があるのかもしれません。

 最後に妻女山展望台からの茶臼山。今まで記してきたことは、調べればだいたい分かることなのですが、この妻女山麓の会津比売神社の祭神、会津比売命(あいづひめのみこと)の会津が気になります。
 崇神天皇の命で東征から戻った出雲系の大彦命がこの地に暮らしたとありますが、同じ頃、『古事記』によると崇神天皇は大和系の武五百建命(たけいおたつのみこと)を科野国造に任命しており、森将軍塚古墳がその御陵ではないかといわれています。そして、その妻が出雲系の会津比売命と神社御由緒には記されています。会津比売命の父は皆神神社の祭神、出速雄命(いずはやおのみこと)で、その父は諏訪大社の祭神、建御名方命(たけみなかたのみこと)、その父は大国主命です。出速雄命が大彦命に敬意を評して娘に会津比売と名付けたということは考えられないでしょうか。果てしない妄想ですが、古代科野国は大和系と出雲系が結ばれて造られたといえるのです。

 この会津比売神社は、特異な社で同名の社が他に全くありません。往古は山上にあったが上杉謙信が庇護していたため武田の兵火に焼かれて山陰にひっそりと再建されたと伝わっています。
 延喜元年(901年)に成立した『日本三代実録』には、貞観二年(860年)に出速雄神に従五位下、貞観八年(866年)に会津比売神と妹の草奈井比売命に従四位下を授くとなっています。その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)に従五位上に、元慶二年(878年)に正五位下を授くとなっています。当時の埴科郡の大領は、諏訪系統の金刺舎人正長であったため、産土神(うぶすながみ)としての両神社の叙位を申請したものと思われるということです。金刺舎人正長 は、貞観4年(862)に埴科郡大領外従7位に任命されています。
 金刺氏は、欽明(きんめい)天皇( 539 ~ 571年在位)に仕え、大和国磯城島の金刺宮に由来するものです。金刺氏は諏訪下社の大祝(おおほうり・シャーマン)であり、中世に諏訪大社上社大祝によって追放されるまで存続しました。屋代遺跡群出土木簡には「他田舎人」や「金刺舎人」の名が見られます。舎人(とねり)とは、皇族や貴族の警護や雑務をしていた役職。会津比売神社が歴史から消えていったのも、金刺氏の衰退と関係があるのかも知れません。
 また、『松代町史』(上巻)第二節には、この地の産土神(うぶすながみ)と伝わる皆神山にある皆神神社(熊野出速雄神社)の祭神で、諏訪の健御名方命の子でこの地の開拓を任じられた出速雄命(伊豆早雄)と、その御子である斎場山(旧妻女山)の麓にある会津比売神社の祭神・会津比売命(出速姫神)の、会津(あいづ)または出(いづ)が転訛して松代の古名である海津となったという説が記されています。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千曲市倉科の三滝へ氷瀑の撮影に行ったのですが…(妻女山里山通信)

2016-01-23 | アウトドア・ネイチャーフォト
 友人が作ったどぶろくと、私が作った幻の少納言小豆を物々交換した後、せっかく外出したので直帰はもったいないと倉科の三滝に行きました。この季節、氷爆が見られるかも知れないからです。

 冬期は林道芝平樽滝線が通行止めになるので、林道入口のチェーンの前で駐車。30センチぐらいの積雪を強引に割って入りました。横には既に一台の軽自動車が。チェーンをまたいで林道を歩きます(左)。轍は猪狩りの人達のものです。今日は猟に入っているようです。樽滝と三滝の分岐まで登ると男性がひとり望遠レンズで鳥を撮影していました。しばらく色々な話をして三滝へ。樽滝方面は轍がありますが、三滝方面はバージンスノー(中)。約800mを歩きます。浅い所は5センチぐらいですが、深い所は40センチ以上。スノーブーツの中にまで雪が入ってくるし散々でした。ニホンカモシカやタヌキ、ノウサギなどの足跡があります。これはニホンカモシカか(右)。猪も同じような足跡ですが、副蹄の位置が低いので分かるのですが、パウダースノーなのと結構雪が深いのでもうひとつはっきりしません。これだけ深いと猪は脚が短いので擦り跡が残るのですが、ないのでニホンカモシカかなと。

 たくさん足跡があります。アニマル・トラッキングといって、こういう足跡を追いかけるのも楽しいものです(左)。ニホンカモシカですが、おしっこをした跡です(中)。分岐から時にはラッセルして15分ほどで三滝園地(右)。冬でなければここまで車で来られます。ここから谷を登って2時間半ぐらいで鏡台山に着きます。足跡はキツネのものだと思われます。タヌキだともっと寄り道してグニャグニャ曲がったり回ったりします。
続アニマル・トラッキングで再びニホンカモシカと(妻女山里山通信)

 橋の上から一の滝を撮影したのですが、積雪もあり綺麗な氷爆にはなっていませんでした。氷爆になっていたら、二の滝、三の滝と登ってみるつもりでしたが、がっかりして心が折れてしまったので、諦めました。見事な氷爆は、積雪がなく、最低気温マイナス10度以下の厳寒が一週間以上続かないとできないのです。

 一の滝の引きの画像(左)。吹き溜まりは50センチぐらいあります。帰りは自分の足跡を辿ります(中)。遠く西山が見えます(右)。気温はマイナスですが、無風なので歩くと結構汗ばみます。分岐に戻って鳥を撮影中のYさんとまた色々鳥の話などをしました。色々有意義な情報も得られました。アトリが二羽飛んで行きました。三滝ではカケスにギャーギャーと威嚇されました。途中で猪狩りの加勢の人でしょうか、ジムニーで登って行きましたが坂道で空転してバックして再挑戦。こんな道ではスタッドレスにチェーンを巻かないとスムースには登れません。林道芝平樽滝線は、倉科側からはカギを持っていないと入れませんが、森側からは入れるのですが、全面舗装ですがガードレールはほとんどありません。アイスバーンで滑ったら間違いなく谷底です。興味本位で入るのは非常に危険です。

 清野氏の山城、鞍骨城跡。松代PAのある北面から見るよりもこちらの方が里の標高が高いので近くに見えます。落葉期で積雪があると、夏では見えない林道や山道が浮き上がって見えてきます。

 2010年1月の氷爆の写真です。

 上の写真と同じ一の滝の全景なんですが、全く違う風景に見えます。この時は奇跡的に雪が少なく厳寒が2週間ぐらい続いた記憶があります。この氷爆の写真は拙書でも紹介しています。米子大瀑布の氷爆を撮りに行きたいのですが、林道が冬季閉鎖なのでスノーモービルがないと無理ですね。100mもある滝は、離れて望遠での撮影が一般的ですが、複数枚ずらして撮ってフォトショップでつなげるのをしてみたいですね。

 三滝は、明治の埴科郡誌に、「三瀧川は倉科村の三瀧山船ケ入に発源し御姫山より発する草山沢を合わせ倉科村を流るること一里三町にして沢山川に合す 三瀧一の瀧二の瀧三の瀧三階瀑布あり又南沢に樽瀧あり」とあります。鏡台山を水源とする三滝(みたき)は、一の滝(上段)・二の滝(中段)・三の滝(下段)で構成され、延長20mで、848mの周回遊歩道があります。一応ファミリー向けとなっていますが、高度差があり転落防止の柵もないので、幼児や老人は要注意です。また、単独や少人数のときは、冬季以外熊鈴が必携です。最近は暖冬続きで、年末まで熊が徘徊し、三月中旬には目撃例があります。冬ごもりが短くなっているようです。
 明治の倉科村誌には、「二の滝、高四丈三尺、幅一丈七尺、是に龍の劍摺石と唱うる石ありて、自然の穴七ツあり、俗に摺鉢と称す」とあります。川底に落ちた小石が川の流れで回転しながら川底に穴を開けた「おう穴」があったのでしょう。今は不明ですが、一の滝へのすぐ上に平らな場所があり、そこなのかなとも思えます。流れてきたゴミや石をどけると現れるかもしれません。龍の劍摺石は、二の滝の滝壺に四角い岩があるのがそれです。

「三瀧山岩の苔間に住ながら思ひくらせし瀧の水かな」(西行) 
 此歌里俗の口碑にして、確乎たらず。(倉科村誌)


倉科三滝の知られざる歴史(妻女山里山通信)甌穴(おうけつ)て知ってますか? 三滝にまつわる幻の県道の話も。


 明けて24日(日)の妻女山展望台から松代方面のパノラマ。昼というのに気温はマイナス1度です。晴れたり曇ったりで、夜は雪になる予報。左に奇妙山、右に保基谷岳。間の鞍部にやっと真っ白になった菅平の根子岳。右手前にプリン型の皆神山。その手前は象山。松代城は、左の松代PAの奥の森。今日は高速も順調に流れています。国道など幹線道路には雪はありませんが、除雪で道幅が狭くなっている箇所があります。

 妻女山展望台の積雪はこれぐらい。陽が当たるのでここは結構解けています。展望台の除雪をしてきました。雪かきを持っていくのを忘れたのでブーツで。駐車場までは4WDのスタッドレスなら登れますが最低地上高が低いときついです。駐車場奥の林道の上まで轍が続いていますが、これは猪狩りの人達のものです。一般車が入るとまずスタックします。鞍骨城跡などへの登山者は、存在を知らせる笛を携行してください。戊辰戦争以降の戦没者を祀った妻女山松代招魂社(右)。こんな積雪期でも散歩に来る人や観光客も訪れます。善光寺平の景色は抜群です。北アルプス、戸隠連峰、志賀高原、四阿山が全て見えるのはこの展望台だけです。
 大寒波襲来で沖縄に雪。奄美大島では115年ぶりの雪とか。九州、中国地方、北陸は大雪の予報。雪に慣れていない地方の人は検索でどういう備えが必要か確認をした方がいいですね。水道の凍結防止と食料の確保はまず必要です。明日は月曜なので、出勤の際の運転は要注意です。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『真田丸』効果か訪問者が増えた妻女山から清野氏の鞍骨城跡に登る(妻女山里山通信)

2016-01-17 | 歴史・地理・雑学
 大河ドラマ『真田丸』が始まり、松代城や妻女山にも訪れる人が増えました。土曜日に山の手入れをしていると、3人ぐらいが鞍骨城跡へ登っていったようです。翌日は薄曇りでしたが風がほとんどないので登ることにしました。今時積雪が全く無いのは初めてです。

 新年の晴天の日の妻女山松代招魂社(左)。戊辰戦争以降の戦没者を祀ってあります。瓦には真田の六文銭が。拝殿の中の額(中)。招魂社の書は、松代藩最後の藩主、真田幸民(さなだゆきもと)ですが、真田ではなく滋野幸民と書いてあります。わざわざ本姓を書くのには、何か相当の想いがあったのでしょう。滋野氏はもともといた望月氏の地に入り縁戚関係を深めていきます。そして海野氏、真田氏もその関係。望月氏の中からは布施氏を名乗るものも出て、善光寺平を収めました。平安時代のことです。幸民は、伊予宇和島藩主・伊達宗城の長男で、真田幸教の養子となりました。長年名主をやった我が家の祖先も御目通りしているはずです。
 招魂社の奥の駐車場から右の林道を登ります(右)。林道入口に私が立てた地図と看板があります。木の杖が置いてあるので使ってください。返却してもいいですが、捨ててきても構いません。ここから鞍骨城跡までは、約90~100分です。

 左はウスタビガの繭(まゆ)。年によって増減しますが、今年は異常なほどに少ない。これは羽化後で空ですが、以前蛹が入ったものを玄関の花瓶に挿しておいたら、ある夜羽化してしまい、家人の悲鳴で気が付きました。開張10センチ以上あるので、知らないと驚くでしょう。手のひらに乗せて遊んだ後に逃がしてやりました。
 逆光に映える桜の枝(中)。ガマズミの冬芽(とうが・ふゆめ)(右)。

 ミヤマウグイスカグラの蕾(左)。なんと咲いているものもありました。霜でやられていましたが。マユミの実(中)。例年ならば枯れているか落ちているのですが。そのマユミの冬芽(右)。

 コナラの蘖(ひこばえ)の冬芽(左)。白いものはシジミチョウの卵でしょうか。コナラの冬芽にカマキリの卵(中)。高さ1m以上についていました。豪雪があるのでしょうか。無関係という調査報告もありますが。ニワトコの冬芽(右)。

 天城山(てしろやま)を巻いて二本松峠を過ぎ、尾根を進むと駒止と呼ばれる深い堀切(左)。進むと二条の堀切(中)。これは越えて振り返ったところ。堀切を越えると鞍骨城跡が姿を現します(右)。尾根の両側には、馬場跡ともいわれる細長い削平地があります。

 まず一の郭(くるわ)に登ります(左)。ここは左を巻いて二の郭へ。大きなケヤキの木が立つ二の郭(中)。ここからは右へ巻いて本郭への斜めの道を登るのが普通ですが、今回は三の郭へ直登しました。かなり危険です。滑落しないよう慎重に登りました。三の郭から見上げる四の郭(右)。

 四の郭の石垣(左)。その上には本郭の石垣も見えます。四の郭から見上げる本郭(中)。さすがにここは登れないので右手の大手へ回ります。南面にある虎口(こぐち)(右)。倉科のMさんが立てた「天空の山城 鞍骨城」という標柱が迎えてくれます。

 鞍骨山798mが本郭で鞍骨山山頂(左)。村上義清の傍系の清野氏の山城です。西から土塁のある東を見たところ(中)。土塁の上から西を見たところ(右)。

 本郭から見下ろす松代城跡(海津城跡)。写真中央が松代城。『真田丸』のイベントでしょうか。麓から太鼓の音が聞こえてきました。右上はモーニング娘。16の羽賀朱音ちゃんが通っていた松代中学。世界的アコーディオン奏者のcobaもここの出身。二人共私の後輩ということになります。

 本郭先の展望岩から。西北西を見ると白馬三山。右に神城断層地震で山頂が崩壊した神話の山、虫倉山。その手前が茶臼山。一番手前の三角の山は、今回は妻女山から来る時に巻いた天城山(てしろやま)。

 北を見ると左に戸隠連峰と、戸隠富士といわれる高妻山。右に長野市民の山、飯縄山。手前に広がる善光寺平(川中島)。千曲川の手前に登山口の妻女山。気温は1度ぐらいですが、無風なので寒さは感じません。AC長野パルセイロのホームスタジアムも今日は試合がないようで静かです。試合がある日は、ここまでチャントが聞こえます。
 豪雪地帯の飯山などを除いて、全県下に大雪注意報が出ました。典型的な上雪(かみゆき)です。2014年2月の大豪雪の様にならないといいのですが。備えだけはしておきましょう。
清野氏と戦国時代』 鞍骨城跡の主、清野氏についての詳細な歴史です。
 海津城(後の松代城)の起源については、清野村誌の記述により清野氏という説があります。
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その1(妻女山里山通信)
真田十万国「松代城(海津城)」の歴史 その2(妻女山里山通信)

 明けて月曜日の昼。深夜から降り始めた雪で一夜にして真っ白に。上雪なのでシャーベット状。非常によく滑ります。写真は妻女山展望台から松代方面。上信越自動車道は動いていました。長野自動車道と中央道はほぼ通行止め。東京では京王線が麻痺状態になったようですね。明朝はこのシャーベット状の雪が凍結します。交差点や橋の上のミラーバーンに要注意です。週末は更に強烈な寒気が入ってくるとか。やれやれ。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左上のメッセージを送るからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤森照信氏の神長官守矢史料館・高過庵・空飛ぶ泥舟と、諏訪大社上社前宮と本宮へ(妻女山里山通信)

2016-01-09 | 歴史・地理・雑学
 初詣でに信濃國一之宮の諏訪大社へ。神位は正一位で末社含め全国25,000社に及ぶ諏訪神社の総本社です。下社春宮と秋宮が有名ですが、大混雑必至なので上社前宮へ行くことにしました。その前に、すぐ近くにある世界的建築家の藤森照信氏の神長官守矢史料館・高過庵・空飛ぶ泥舟へ寄りました。藤森さんは、私にとっては建築家というより70~80年代に赤瀬川原平さんの「路上観察学会」のメンバーのひとりという記憶のほうが強いのです。白夜書房の『写真時代』とかセルフ出版の『ウィークエンドスーパー』などはよく買っていました。カメラマンの荒木経惟さんの作品が見られる貴重な雑誌でもありました。「超芸術トマソン」は、一世風靡したので覚えている人も多いのではないでしょうか。

神長官守矢史料館」(左)。江戸時代まで諏訪大社上社の神長官をつとめた守矢家の敷地内にあります。正月なので残念ながら休館でした。諏訪産の鉄平石の屋根を突き破って延びる木が印象的です。外壁は椹(サワラ)の割板。守矢家の史料だけでなく、武田信玄や村上義清、真田昌幸などの史料もあるそうです。
 2010年に米国 Time 誌が発表した「世界の危険な建物トップ10」にも選ばれたという世界で最も危険な茶室「高過庵(たかすぎあん)」(中)。ハシゴは外されていて登ることはできませんが、どんな景色が見えるのでしょう。こんなところで一服いただくのも緊張感があっていいかもしれません。右は「空飛ぶ泥舟」。空飛ぶ茶室ですね。一坪で重量は600キロとか。6人が入れるそうですが、うむ。千利休に見せたい。茶道は元々戦国時代に本陣で死に向かい合う武士が嗜むものでした。浮遊する茶室は、諸行無常の形而上的な表現にも繋がるのかも知れません。まあ実際は微妙に揺れて一服どころではなく、「いいお手前でした。ブワッ!」っと鼻から茶を吹き出す爆笑茶会になるのかも知れませんが。それも一興。

 「空飛ぶ泥舟」。左下に小さな入口(にじり口)があるのですが、これは中で動くとかなり揺れそうですね。手前には畑というのもお洒落です。バックには茅野市民の憩いの山、永明寺山(1119.6m)が。山頂付近は永明寺山公園として整備されています。左手前の小ピークには、武田信玄由来の上原城址があります。背後にあるソーラーパネルの違和感が顕著。クリーン・エネルギーの様にいわれていますが、実際は製造や廃棄の際に、カドミウムやカドミウムテルル、鉛などの有害物質を出します。安全な廃棄方法さえ確立されていないのが実情です。加えてパワーコンディショナから出る有害な電磁波の問題もあります。こちらの記事のように個人差があるのも特徴です。人間は人工電磁波に耐性がありません。電磁波も放射線の一種。リニアモーターカー? 電子レンジに乗って旅をしたいと思いますか。

 神長官(じんちょうかん)守矢家(左)。諏訪大社の祭神・建御名方神 (たけみなかたのかみ)が来る前からこの地にいたという一族です。土着神の洩矢神(もりやしん、もれやしん)や守矢家については、子孫にあたる方が『私の諏訪考』という非常に詳細な興味深いサイトを開いています。「神長官守矢史料館」から「空飛ぶ泥舟」へ行くには、大祝(おおほうり)諏訪家の墓所を抜けて行きます(中)。この上には守矢家の墓所もあります。
 墓所のすぐ上に鎮座する御左口神(ミシャグジ神)信仰の中枢とされる御左口神社(右)。社の近くには二本のカジノキ(クワ科)があります。カジノキは諏訪大社の御神紋でもあります。
---諏訪地方では特に諏訪の蛇神であるソソウ神と習合されたためか白蛇の姿をしているともいわれており、建御名方神や洩矢神(モレヤ神)と同一視されることもある。(wikipedia)

 諏訪の祭祀の発祥地とされる諏訪大社上社前宮へ(左)。ここは大祝(おおほうり)の始祖といわれる有員(ありかず)が初めて大祝の位について以来、同社大祝代々の居館であったところと書かれています(中)。ここに書いてある1483年の内訌ですが、時は戦国時代で大祝も武士化し、祭政分離のため惣領は兄の諏訪信満が継ぎ、大祝は頼満が継承したのですが、対立し諏訪氏は分裂。この対立はそれぞれの子の政満(惣領家)と継満(大祝家)の代にも継続し、ついに文明15年(1483)に、継満は一族の高遠継宗や金刺興春と組んで、従兄の政満らを謀殺しました(文明の内訌)。しかし、惣領家の家臣の反撃に遭い、継満は伊那に逃亡しました。この最中、隠居の頼満は病床にあったため逃げ遅れ、討ち取られています。
 鳥居をくぐって更に200mほど登りますが、脇に民家があり、なんだか不思議な感じがします。境内には水眼(すいが)川が流れていますが、ペットを洗わないでくださいという看板が妙にリアルでした。

 諏訪大社上社前宮拝所。江戸時代までは「前宮社」として上社境外摂社筆頭の社格を有して鎮座していたのですが、明治以降上社の前宮と定められたということです。下社や上社本宮に比べると参拝者も少なく、静かに詣でることができます。

 神社の四隅に立つ御柱(左)。この裏山は、守屋山へと続いています。次に上社本宮まで歩きました。道中の道路は参拝者の車で大渋滞です。歩くにかぎります。旧杖突峠への入り口道標(中)。「従是北 高島江 一里二十丁」「東 金沢宿 二里二丁」「南 御堂垣外宿 二里二十丁」と刻まれています。本宮(ほんみや)東側の入り口前のお洒落なカフェ(右)。正月で休みでしたが、八ヶ岳連峰が綺麗に見えるはずです。

 本宮は、赤石山脈北端の守屋山北麓に鎮座します。神橋を渡り本宮に入ります(左)。入口御門の木彫は、文政十二年(1829)建立。上社宮大工棟梁である原五左衛門親貞とその弟子藤森廣八(諏訪立川流)が構築し巧微な彫刻が施されている。とあります(中)。ちなみに秋宮は諏訪立川流の立川和四郎富棟で、神楽殿は子の富昌。春宮は大隅流の伊藤長左衛門です。布橋(右)は、古くは大祝のみが渡り、布が敷かれたことからそう呼ぶのだそうです。

 本宮摂社 出早社(左)。祭神・建御名方神の御子で、長野市松代の皆神山山頂にある皆神神社の祭神で、出速雄命(いずはやおのみこと)とも書きます。その御子が妻女山の麓にある会津比売神社の祭神・会津比売命(あいづひめのみこと)で、ふたりは科野国(埴科更科)の産土神(うぶすながみ)と呼ばれています。会津比売命の夫は神武天皇の後裔といわれる武五百建命(たけいおたけのみこと)で、崇神天皇の御代に初代信濃國造に任命された人で、森将軍塚古墳に埋葬されているといわれています。関連記事は、右上のブログ内検索でどうぞ。
 本宮摂社 大國主社(中)。祭神・建御名方神の父で、大国主命(おおくにぬしのみこと)。出雲大社の祭神です。右は布橋から見た神楽殿。大きな太鼓が目を引きます。

 こちらが参拝者が詣でる表参道(左)。もの凄い人です。重要文化財の四脚門(中)。慶長13年(1608年)、徳川家康が大久保長安に命じて建立させたもので、かつては大祝だけが最上段にある硯石へと登るために使ったそうです。拝殿の木彫も入口御門と同じく諏訪立川流の素晴らしい木彫です(右)。

 杖突峠の展望台から俯瞰する諏訪の街と諏訪湖。左に高ボッチ山、その右に鉢伏山。右奥には美ヶ原の王ヶ頭。この暖冬では、諏訪湖も結氷しませんね。新年の信濃毎日新聞に、諏訪大社上社の旧神宮寺の本尊が確認されたという記事が載っていたのでスクラップしました。神仏習合の貴重な遺物で、明治の廃仏毀釈の難に遭うも住民が守りつづけたものだそうです。

 右を観ると左に蓼科山。右へ八ヶ岳連峰が続きます。真冬だというのに本当に雪が少ない。これからどうなるのか本当に気がかりです。今年は諏訪大社の御柱祭りがあります。大変な賑わいになるでしょう。それにしても、なんだか妙に胸騒ぎのする新年です。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陣馬形山で360度の大パノラマを堪能。信州伊那谷中川村(妻女山里山通信)

2016-01-06 | アウトドア・ネイチャーフォト
 大晦日は360度の大パノラマを誇る中川村の陣馬形山(1445.4m)へ。登山コースもいくつかありますが、むしろ山頂直下にある天空のキャンプ場の方が有名かもしれません。ほとんど山頂まで車で行けますから。検索しても登山よりキャンプやバイクツーリングの記事の方が遥かに多くヒットします。今回は遅出だったので、麓の望岳荘からではなく、美里の登山者用駐車場からでもなく、その上の風三郎神社の先のカーブから登ることにしました。通行車に迷惑にならないように道路脇の空き地に駐車。ここから約1時間半の登山です。

 左は、麓の与田切大橋辺りから見上げた陣馬形山。アンテナの見える左にもうふたつアンテナがあり、その左が山頂なんですが分かりづらいですね。今回は右の尾根を登っていきます。風三郎神社の先のカーブの空地に駐車して登り始めます(中)。下の登山者用駐車場には軽が一台停まっていました。登山道は尾根をほぼ直登しますが、つづら折れで登る林道を4回ほど横断します(右)。林道は幅が狭くすれ違いができないのでスピードを出し過ぎないように。大晦日とあって、今回出遭った車はわずかに四台ほど。

 赤松の混合林をつづら折れで登ります(左)。特に急登もなく初心者でも大丈夫。また林道に出ました(中)。標識に従い左へ巻きます。コースは標識も整備されて迷うことはないでしょう(右)。

 3回めの林道を横断(左)。落葉松の植林地を登ります。振り返ると中央アルプス(中)。落葉した落葉松の道は明るい(右)。他にはリョウブやクロモジ、ブナ、たぶんオオカメノキなどが見られます。山頂近くにはシラカバやレンゲツツジも。

 赤松に地衣類のウメノキゴケ(左)。環境の変化、特に排気ガスに弱いので環境汚染の目安にもなります。1340mのピークは南面を巻きます(中)。この道は細いので泥濘状態や積雪期は滑落に要注意。右にこれから向かう1425mのピーク、左奥に陣馬形山山頂が見えます。熊笹の道を鞍部に下ると・・(右)。

 丸尾のブナの大木。下記のような説明板があります。
一、由来
 文明元年(1469)丸尾村、宮澤播摩源宗長の代、このブナの木を御神木と定め、根本へ祠を建立す。諏訪大社の御神体として薙鎌(なぎかま)をこの祠へ祭りブナの木明神と称して毎年三月初の酉の日を祭日として祝い祭ってきたが、明治初年、丸尾熊野神社へ移奉す。
一、御神体薙鎌の謂(いわれ)
 鳥の形に作ってある鎌(宮澤氏にて保存)風を薙ぐ(鎮める)すなわち風鎮めの神である。当時、諏訪大社より分社の印としてこの薙鎌の下付を受けて祭ったものと思われる。
 薙鎌 長さ十センチ 巾三.八センチ 厚〇.二センチ
一、木の概要、樹齢 推定六百年、目通り幹の周囲六.四五m、樹高十四.五m、東西二十二m、南北二十m
一、所在地、中川村大草沢入山一六五八ノ二、標高一二八〇m
一、往古より丸尾宮澤氏所有地且つ所有木。
一、昭和二十三年(1948)より丸尾耕地共有地且つ共有木。
一、昭和三十年(1955)より官行造林地として長野営林局と契約の為南向村(現中川村)へ所有権を移転す。
 平成十二年(2000)十一月 中川村、丸尾耕地 南信森林管理署


 根本には虚(うろ)もできています(左)。推定樹齢600年というのはどうでしょう。ブナは根が浅く水分保有量が多いため杉や栃などと比べると意外に樹命は短いのです。上の説明看板(中)。薙は平坦な安定した状態を表す古語。イザナギノミコトのナギであり、日本武尊命が使う三種の神器の草薙の剣のナギでもあります。薙の神事は各地にあり、いずれも内陸地方での嵐や大風を鎮める祀りごとです。薙という鳥は、水薙鳥、または大水薙鳥のことでしょう(ミズナギドリ科の海鳥)。ナギという言葉が先にあり、後で漢字が当てられた様です。薙、凪、梛、柳、椥など。穏やかという意味で荒ぶるの反対語。
 最後の林道への登りは緩やか(右)。もうすぐです。

 舗装路をショートカットして再び舗装路に出てから400mほど南アルプスが見える広い林道を歩きます(左)。山頂直下の陣馬形山キャンプ場(中)。二張ほどテントがありました。越年キャンパーですね。満天の星空が綺麗でしょう。キャンプ場を抜けて長野県の防災無線のアンテナの脇を山頂へ(右)。空が宇宙を感じる様な濃いコバルトブルーから真上は底なしのプルシャンブルー。

 木段を登ります(左)。陣馬形山山頂!思わず万歳が出る絶景です(中)。浮遊感を感じるほどの絶景(右)。眼下は伊那谷、奥には中央アルプス(木曽山脈)。見晴らしのいい山頂は、武田軍が狼煙を上げたところでもあるそうです。
1881年に刊行された『日本案内』の中で、飛騨山脈を調査したイギリス人鉱山技師のウィリアム・ゴーランドが、ヨーロッパのアルプス山脈に因んで、そこから見える山脈、周辺含めて「日本アルプス」と紹介したのがこの名前の由来である。後に小島烏水が飛騨山脈を「北アルプス」、木曽山脈を「中央アルプス」、赤石山脈を「南アルプス」とした。(wikipedia)

 景色はまさにバーズアイビュー。眼下は飯島町。左下の天竜川のカーブ手前の集落は日曽利(ひっそり)。傘鉾(かさんぼこ)という松飾りを燃やす小正月の厄除け行事が残る小さな集落。この動画を観ると、昔の方が心も暮らしも豊かだったと思うのです。現在は科学文明の代わりに失ったものが多すぎます。EUの公式研究チームは、日本の15%が徹底的な放射能監視地域と認定。そこには東京都全てが含まれます。今年と来年、放射能パンデミックが必ず起きます。
 右手の木曽駒ヶ岳や宝剣岳は、山頂が僅かに雲の中ですが、左の空木岳、南駒ヶ岳はなんとか見えています。山頂には望遠鏡もあり、千畳敷カールの人影も確認できました。

 東側は南アルプス(赤石山脈)の大パノラマ。左から鋸岳、仙丈ヶ岳、北岳、間の岳、農鳥岳、塩見岳、東岳、荒川岳、赤石岳。山頂には山座同定のプレートもあるのですが、あまり形が正確でなく少し分かりにくいのが残念です。北には常念や穂高、美ヶ原に八ヶ岳連峰も見えました。南には飯田市の風越山も。

 撮影しまくりです(左)。ここで女性がひとり登ってきました。登山者用駐車場にあった軽の人でしょうか。寒風が吹き始めたので四阿に下りて昼食(中)。今回は途中のスーパーで地元の食材を使ったおろしソースカツ丼とカップ味噌汁を買ってきました。強風で凍えそうです。弁当は冷たいけれど美味でした。味噌汁で温まりました。食後は私が淹れてきたアールグレイティーを温めて。風が止んだので再び山頂へ。女性に景色が良すぎて下山するのがもったいないですねと言ったら、そうなんですと笑っていました。でも後ろ髪引かれつつ下山です(右)。下山後は望岳荘に寄って風呂に入り冷えた体を温めて帰路につきました。
 この中川村には、縄文時代から人が住んでいた遺跡がありますが、香坂氏(大草氏)が南北朝の頃から土着し、土豪としてこの地を治めていた様です。香坂系図には宗綱の第ニ子宗種、結城合戦〔永享12年(1440年)〕の功により大草郷地頭を賜うとも書かれているそうです。
香坂(高坂)氏:東信濃の名族滋野氏、滋野三家の一つ禰津氏の禰津宗直の五男貞行を祖とする。香坂は佐久郡香坂(現佐久市香坂)に由来する。
結城合戦:関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦いで、結城氏朝が鎌倉公方足利持氏の遺子(春王・安王)を擁立して幕府に抗したが、将軍足利義教はただちに関東管領上杉氏に討伐を命じ、攻城一年余のあと落城、氏朝は自殺し、春王・安王は殺された。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜と保科正之で知られる伊那の高遠城址へ。昭和グルメも(妻女山里山通信)

2016-01-04 | 歴史・地理・雑学
 伊那高遠の高遠城は、桜の城として全国的に有名で花のシーズンは大混雑しますが、静かな城跡探訪には、冬枯れの季節が一番と訪れました。高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継(たかとおよりつぐ)の居城でしたが、1545年(天文14)に武田信玄により攻略され、その後大規模な改修を行いました。南に三峰川(みぶがわ)、北に藤沢川が流れ、これらが合流する段丘上に築かれた平山城で、川からの比高は約70mです。武田氏以降は、織田氏、豊臣氏の時代から江戸時代へと城主は目まぐるしく変わって行きました。年末とあって訪れる人も少なく、静かに探索ができました。

 高遠城址公園へは車で行けるのですが、高遠のご城下通りにある商店街の無料駐車場に停めて歩きました。高遠の銘酒「黒松仙醸」の店構え。酒米を蒸すのに使った大釜が置いてありました(左)。藤沢川にかかる高砂橋を渡り右へ少し歩くと城址への階段があります(中)。城址への斜面はすっかり住宅地になっていてやや興ざめですが、これは明治以降の廃藩置県後のことなのでしょう。城壁の塀沿いに登ると城址公園(右)。

 そこから高遠の城下を俯瞰。三峰川と山に挟まれた狭い城下町です。三峰川沿いには、間口の狭い三階、四階建ての家屋が並んでいます。遠くには伊那谷と、その奥に木曽駒ヶ岳などの中央アルプスの絶景。高遠頼継や保科正之もこの景色を見ていたのだなと感慨に耽りました。実はわが一族には、保科正之について会津に行った武士がおり、その後豪商となって会津藩を支えた人達がいるのです。同じ頃に松代藩に仕えたものもいるらしいのですが、幕末の戊辰戦争では会津若松城をメリケン砲でボコボコにし、白虎隊を粉砕したのは松代藩でもあったわけで、戊辰戦争というのは信州人同士の戦でもあったという歴史の非情な側面があるのです。遥か昔、豊臣秀吉の国替えでは、上杉景勝の会津移封に伴い善光寺平の土豪が家族家来ともども全て会津に移り住みました。会津は信州人が作った城下町といっても過言ではありません。今では名物の高遠蕎麦も会津に移り、この地では長らく絶えていたそうですが、現在は高遠の名物となっています。辛味大根の絞り汁で食べる蕎麦やうどんは、北信の埴科更科のおしぼりうどんや蕎麦が有名ですが、この地にもその原点があったということです。

 廃藩置県で払い下げられていたものを復活し、高遠高校の正門でもあったという大手門(左)。松代城跡の太鼓門などと比べるとあまりに小さく貧相なので疑問も湧くのですが。いずれにせよこの高さでは乗馬してくぐれないので、幅も高さもかなり切り詰めてあるようです。
 旧藩校の進徳館。国指定史跡(中)。藩主内藤頼直が、藩士中村元起の熱望により大学頭林復斎の助言を得て1860年(万延元)三ノ丸に内藤蔵人の屋敷を文武場にあてて創設したもの。往時は8棟あったようです。1855年(安政2)年に開校した松代藩の文武学校など、この当時は藩校を創設するのが時代の流れだったようです。藩校の元は江戸時代初期ですが、黒船来航直後で優れた藩士の養成が急務だったのでしょう。
 1936年(昭和11)に建てられた高遠閣は、元々は地域の集会所だったそうですが、現在は観光客の休憩所として利用されています(右)。設計は長野県駒ケ根市出身で帝国ホテル、日本郵船本社、東京帝国大学図書館、旧赤穂村役場(駒ヶ根市郷土館)などを手懸けた伊藤文四郎、棟梁は竹内三郎(国登録有形文化財)です。様式的には建築を学んでいる次男によると、色々な時代の様式を取り入れたごった煮みたいなものだそうですが、雰囲気はあります。

 そこから二の丸へ入り右手を見ると本丸に通じる「桜雲橋」(左)。渡った先に問屋門。これは本町の問屋役所にあったものを移築したものということです。桜雲橋から見る堀切(中)。かなり深い堀切があちこちにありますが、見ると自然地形を上手く利用したと思われるものも見られます。
 問屋門をくぐって本丸へ(右)。江戸時代は天守閣はなく御殿や櫓、土蔵などがあったということですが、廃藩置県でほぼ全て取り壊されました。右手には新城(盛信)藤原神社があります。明治政府が天皇制を堅固なものにするために行った廃藩置県や廃仏毀釈、後の合祀令などは、中国の文化大革命に匹敵するほどの酷い文化的な歴史破壊だったということが分かります。詳細は田布施システムで検索を。

 本丸から見る中央アルプス。当時はそんな名前はありませんからなんて呼んでいたのでしょう。木曽山脈、飛騨山脈、赤石山脈という呼び名も、そう古いものではないはずです。また、山名というのは明治に帝国陸軍陸地測量部が地図を作る時に地元の古老に聞いてつけたものですが、実は名前がなく適当につけられた山名も多いのです。山名が異なる麓で違うものだったり、時代によって山名や漢字が変わることもよくあります。自然地名も大切な文化遺産なのですが、現在は地元の老人でも知らない人がほとんどで危機感を覚えます。

 時を告げたという本丸南西端の太鼓櫓(左)。これも想像の復元のようです。この奥に保科正之が幼少時を過ごしたという南曲輪(郭)があります。その南曲輪(中)。これは南方ですが、西を見ると中央アルプスが望めます。この先は三峰川に落ちる70mの断崖があります。そこから見える天女橋(右)。

 昭和37年に改修落成した「天女橋」(左)。それ以前は木製の橋だったのでしょう。コンクリートと鉄の頑強な橋です。橋の向こう側には、二十二夜さまという小祠が、こちら側には、少し下流にある戸隠神社から勧請した九頭竜さまの説明看板があります。橋から見る高遠城址。高遠大橋の向こうに城址の断崖が見えます(中)。昭和の薫りがする天女橋の銘板(右)。地元民の念願だったことがわかります。

 昼になったので伊那旧市街の「餃子の店 山楽」へ(左)。ショーウィンドウの中のサンプルが化石化しています。私は鶏そばを(中)。息子たちはタンメンとエビ丼。名物の餃子も。餃子は注文を受けてから包んで焼いていました。私は化学調味料アレルギーなのですが、まあ我慢できる範囲でした。美味しく頂きました。右は、小沢川が天竜川に注ぎ込む手前にある食堂の「クロネコ」(右)。昭和レトロな建物と昭和レトロなメニューが有名です。山楽以上に懐かしい昭和の味に出会えるそうです。伊那ではもちろんローメンとソースカツ丼もお勧めです。鹿肉や猪、熊などのジビエ料理に、地蜂の幼虫、ザザムシ、イナゴなどの昆虫料理もお勧めです。昆虫料理に慣れておくと、食糧危機も乗り越えられるかもです。ちょっと不安になるほど暖かすぎる年の瀬でした。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。

にほんブログ村 写真ブログへ にほんブログ村 写真ブログ ネイチャーフォトへ にほんブログ村 アウトドアブログへ にほんブログ村 アウトドアブログ ハイキングへ にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする