モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

春風に舞うプレパラート、哀れなるかなウバユリ(妻女山里山通信)

2010-02-28 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 ウバユリは、ユリ科ウバユリ属の多年草で「姥百合」と書きますが、なんとも哀れな名前です。花はやや黄みがかった美しい白百合という感じなのですが、花期に葉が虫食いになってボロボロになってしまい、葉(歯)がないことから姥の百合「姥百合」と命名されてしまいました。

 林道脇の森の縁に生えていることが多く、花期には葉がないといいますが、実際は結実しても葉はあります。ただ虫食いでボロボロにはなります。ぎっしり詰まった種の割には群生はあまり見ないので、この種は、数が多い割には発芽成長の確率はあまり高くないのかもしれませんね。花が咲くのはこぼれた種子が発芽してから6~8年目です。結構時間が掛かります。開花すると枯れますが、翌年は鱗茎から芽が出て開花します。高さは1.2mから1.8mと非常に大きくなります。

 花の写真はまだ未撮影なのですが、有る場所は分かっているので今年はなんとか、その美しい百合の花を撮りたいと思います。ウバユリにしてみれば、「悲しくてやりきれない」ような名前です。しかし、どんな美しい花も「あの素晴しい愛をもう一度」のように、故郷のあの人の足元に咲く白百合の花は、ボロボロになってしまい、葉(歯)がない姥百合になってしまうのも世の常。

 そのウバユリの種が掲載の写真です。種はプレパラートのような薄い膜状で、重なってぎっしりと詰まっています。それが乾燥すると実が割れて弾けて飛び出すのです。殻にレースのようなひも状の模様があるのは、なぜでしょう。「さよならをするために」このような風に舞いやすい薄い膜(比翼)つきの種をしているのに、それを飛ばないようにしているかのような……。不思議だなあと思い考えてみました。つまり、一気に全部が飛ばないようにでしょうか。風の強さや方向も違った方が、色々なところへ広く種を飛ばせますから。それ以外には思いつきませんでした。

 ウバユリは、若芽、鱗茎ともに食べられる山菜です。野草なので相当あくが強いようですが、丁寧にあく抜きすれば大丈夫でしょう。群生地のようなものをまだ発見していないので食したことはないのですが、いつか食べてみたいと思います。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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早春の一枚、地上の星・ツチグリ(妻女山里山通信)

2010-02-27 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 林道脇の斜面に土栗がありました。普通は、夏から秋によく見られるのですが、こんな風に春まで残っているものもあるのです。別名は、「土柿(ツチガキ)」「地上の星」「湿度計」「晴雨計」など。晴れて乾燥すると球状になり、風に吹かれて地上を転がって移動します。そのため「晴天の旅行者」とも呼ばれます。そして別の場所で湿気を帯びると、再び星形に開くのです。胞子は丸い袋状の中にあり、外皮が丸々と押されて吹き出します。

 ツチグリの幼菌は、固い外皮に覆われ土の中に半分以上埋まっています。雨が降って外皮が湿ると破裂して星状に裂けて反り返り立ち上がって地上に出ます。まさにこの時、地上の星となるわけです。そして、晴れて乾燥すると球状になり、風に吹かれて、あるいは斜面を転がって移動するのです。晴天になって乾燥すると外皮が戻り袋を押しつぶします、すると押されて胞子が袋の上にある穴から一斉に青空へ飛び出していくのです。再び雨が降ると外皮は反り返り立ち上がります。袋は元に戻り丸くなります。これを繰り返すわけです。

 写真のツチグリがいつ発生したものかは分かりませんが、袋の状態を見ると秋に発生したものではないかと思われます。以外と寿命は長いのではないでしょうか。こんな地上の星が林道脇の斜面にたくさん見られることもあって、それは可愛らしいものです。と同時になんて巧妙な仕組みを持った不思議なきのこなのだろうと思わずにはいられません。

 別名の「土柿(ツチガキ)」「地上の星」は見たままですが、「湿度計」「晴雨計」は湿度に敏感に反応するその生態からきているものです。中が白い幼金は食べられます。東南アジアでは缶詰もあり、アジアンエスニックの食材店などで売られています。日本では郷土食として味噌汁の具にしたりして食べられています。味噌汁は飲んだことがあります。味は時になく、特別美味しいというほどのものではありませんが、ホコリタケの幼菌と同様に独特の食感を楽しむものなのでしょう。

 ちなみに、バラ科キジムシロ属の多年草にもツチグリという黄色い花を咲かせる植物があります。

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、地衣類、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
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ニホンカモシカも春待ちかねて……(妻女山里山通信)

2010-02-26 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 ここ数日で急に気温が上がり、里山の雪も一気に消えてゆきました。カエデやニワトコミヤマウグイスカグラの冬芽も膨らんできました。草は芽吹いてきましたが、若葉はまだ。ニホンカモシカの餌が充分とはいえません。そんな暖かいある日の午後、わが家の山にいつものニホンカモシカがやってきました。

 いつもは、向こうに先に発見されるのですが、今回は向こうが気付かすにやってきました。檜(ヒノキ)の幹の陰に隠れて観察していると、枝落としした檜の葉を食べています。やがて気配を感じて、こちらに気がつきました。15mほど離れていることと、顔見知りなので逃げません。

 落としたヒノキの葉を持って振ると、興味深そうに見ています。もちろんやってきて食べたりはしませんし、餌付けもするつもりもありませんが、首を傾げて不思議そうに見ているような仕草が妙に可愛らしい。しばらくすると消えたので、どうしたのかなと林道を歩いて見下ろすと、急斜面の下の方の段差で座っています。反芻タイムなのでしょう。反芻している間は、じっとして動きません。ご飯食べたらしばらくはジッとしていないとダメだよと、昔親に言われたあれです。無防備になるため、反芻は森の中の周囲を見渡せる急斜面や崖の棚などでするようです

 このニホンカモシカの食害が植林地では問題になっています。檜の苗木を好んで食べてしまうようです。そこで、特別天然記念物ですが、特例として駆除されることもあるようです。雨でも落ちない唐辛子スプレーをかけておくとか、なにか手だてはないものでしょうか。この間は杉の葉を食べていましたが、檜があるとそちらを好んで食べるそうです。檜の方が栄養があるのか、美味しいのか、尖っていなくて食べやすいのかわかりませんが、枝落としした檜の葉をまとめて置いておきました。

 ニホンカモシカは、色々な植物を食べるようですが、さすがに毒のあるアセビやヤマトリカブトは食べません。山菜は人間が食べるものならたいてい食べるようで、蕗、独活、行者大蒜なども食べます。キノコや苔も食べるようです。冬は最も食糧の乏しい季節なので、見ると枯葉や冬芽、針葉樹の葉などを食べています。春はニホンカモシカにとっても待ち遠しい季節でしょう。

 ニホンカモシカの角は、鹿に比べると短いのですが、角研ぎはします。すべすべした木を好むようで、カエデやリョウブなどが使われ、角研ぎをされた木は樹皮が剥けてしまいます。糞場は縄張りの中に何カ所かあって、朝と夕方には必ずするようです。反芻する場所も何カ所かあって、そこは窪地になっています。

 暖かくなったといっても、開花したのはわずかの蕗ぐらいですが、目を凝らすとオオイヌノフグリがいくつか咲いていました。早春から咲く可憐な花ですが、大犬の陰嚢という、あまり可愛らしくない名前をいただいてしまいました。元となった犬の陰嚢がなければ、こういう命名にはならなかったでしょうが、その元のイヌノフグリは、帰化植物のオオイヌノフグリにおされてなかなか目にすることがない植物になってしまいました。蕗の薹(フキノトウ)を探して落ち葉をどけると、バイモの新芽が出ていました。

●オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢、学名 Veronica persica)とはゴマノハグサ科クワガタソウ属の越年草。別名、瑠璃唐草・天人唐草・星の瞳。 アジア西部や中近東の原産で、ヨーロッパを中心に世界中に広く帰化している越年草。山の日当たりの良い山里の草地や畑の畦道、土手の斜面などに見られます。 早春にコバルトブルーの花をつけるます。

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早春の雪景色の茶臼山で地名考(妻女山里山通信)

2010-02-23 | 歴史・地理・雑学
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 久しぶりに晴れ渡り気温もあがった日曜日、歴史館の帰りに茶臼山へ登ってみました。妻女山と違って残雪が多いので驚きました。けれども登山道は踏み固められていて問題なく歩けましたが、展望台のベンチの雪がそのままでした。雪をどけて敷物を敷いて北アルプスを見ながらやや遅めの昼食。鹿島槍ヶ岳や白馬三山は雲もかかっていましたが、きれいに見えました。やはりここからの眺めは格別です。眼下に山里の風景が広がり都市が見えないのも好ましい。

 帰りは山布施の棚田に下りてみましたが、棚田は残雪の下で、猪や小動物の足跡だけが模様を描いていました。花は皆無のように見えますが、よく見ると足元にオオイヌノフグリが咲いています。カラコギカエデやハウチワカエデなどの冬芽もかなり膨らんでいます。棚田の遠くには神話の山、虫倉山がそびえています。帰りの登りの急坂で滑って転倒。泥だらけになってしまいました。この山は滑りやすいのです。急傾斜路にはステップを作って欲しいですね。

 茶臼山のあるこの辺りの山域は、千曲川の西にあることから西山と呼ばれています。妻女山や一重山のある東山とは成り立ちが異なり、山と谷や小さな盆地が入り組んだ複雑な地形をしています。そして、古くは小さな村がたくさんあったためか、山名も複雑です。

 研究者によると、日本の山名は沢名からとられることが多く、そのため山の反対側の集落で山の呼称が異なるという例が多いのだそうです。つまり、山名が複数あるということは普通にあることなのです。どれが間違いということではなく、どれも正しいのです。ただ地形図にする際にはそのうちのひとつにされたため、残りは自然消滅して人々の記憶からも消えていったという事例が多いのだそうです。

 地形図は、明治時代に陸軍参謀本部陸地測量部が作ったのが初めですが、複数ある山名をひとつに絞るのには、軍事的、政治的、経済的な力関係が働いたのでしょう。力の強い方が命名権を持ったということだと思います。加えて、測量技術の未熟さや確認作業の甘さから標高が違ったり、山を取り違えたり、中には妻女山のように軍部によってありもしない山が捏造される?ということも起きました。また、信州はアルプスの名峰があり、そちらに関心がいくためか地形図に里山の名称の記載が少ないのが残念です。鏡台山から妻女山までの戸神山脈には間に山名の記載がひとつもないという嘆かわしい状況です。

 山名沢名など自然地名は文化遺産なのですが、里山への関心が薄れるに連れて、自宅から見える山名をほとんど知らない人が多いのも現実です。知っていても由来や、別名は知らない人がほとんどです。里山は本来の名称(本名)があっても、後の俗名が定着して本名が忘れ去られるということもあります。本名が忌み嫌われて、斎場山が松代藩により妻女山へ、里人により祭場山へと二種類になったのも、その一例かもしれません。妻女山はその後、赤坂山へと名称が移動するというおまけまで付きました。

 この茶臼山ですが、明治45年の『更級郡誌』には、茶臼山691m云々。茶臼山の東北なる灰白色の山を中尾山とし、その北なるを光林寺山とし、その北西を高松山とす。と書かれています。また周囲の村によって微妙に記述が異なるのも興味深いところです。下記はその記述ですが、カッコ内は筆者のコメントです。また旧字は新字に直してあります。興味の有る方は図書館で原本をご覧下さい。それぞれが、どこの山頂を指すのかは、地元の人に聞いてみたいと思います。

 岡田村【茶磨山】高四十八丈(145m・標高ではなく村からの比高か)、周囲まだ実測を経ず。村の酉(西)の方にあり。嶺上より東方低下する所より本村に属す。余りは山布施に属す。山脈子丑の方長塚山に連なる。樹木なし、草生なり。登路一條、村の西の方山新田組より上る。高二十町(2182m)ばかり険路なり。(臼ではなく磨をあてたところが拘りか。磨の旧字に石臼の意味あり。後の高二十町は、村からの距離。山新田組からの登山道は、現在廃道)

 山布施村【茶臼山】高六十丈(182m)ばかり、周囲諸山連接して測り難し。村の巳午(南南東)の方にあり。全山本村に属す。(全山と言い切っています)山脈、北は中尾山に連なり、樹木なし。登路一條、村の辰(東南東)の方字北原より上る。高三百間(546m)ばかり、険路なり。(明治時代には、茶臼山には樹木が無く草原、たぶん屋根を葺く茅原だったということです)

 中尾山(古名:郷内山という記述もあり)に関しては、山塊のことで山頂はないと地元の人はいうのですが、明治の村誌を見ると標高が書いてあります。つまり山頂はあるということですか。岡田村では、高四十丈(121m)と。山の反対側の山布施村では、高二十丈(61m)と、倍も開きがあります。しかも、これは前記のように茶臼山同様、海抜標高ではなく村からの比高のようですが、それでも変です。低すぎます。郷内山は、共和村地図で664.5m(現地形図で668mのことか)と記されています。

 全体を集約すると、茶臼山の北に長塚山、その北ないしは北東に中尾山。その北に光林寺山、その北西に高松山。同じくその辺りに笹ケ峯、郷内山があるわけです。いずれかの山は同じ山の異称かもしれません。山名とか沢名などの自然地名は、郷土の歴史を知る上で重要な文化遺産です。登山道整備と共にこの山域の山名沢名を詳細に調査して地図を作ってくださいと、N君に頼んでおきましょう。

★茶臼山・中尾山のトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の●09年4月16日●5月2日●10月31日のルポをご覧下さい。北アルプスや鏡台山のパノラマ写真があります。
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武田別働隊も駆け上がったか?土口から東風越への谷【斎場山】(妻女山里山通信)

2010-02-21 | 歴史・地理・雑学
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 週末に山蕗を採りに某山へ。途中、通常のルートではつまらないので、妻女山から林道を長坂峠まで歩き、古道を下って土口へ下りました。最上部の写真は、所持している昭和22年にGHQが撮影した掛軸で、今回下った谷が写っています。右下の絵図は、江戸後期の榎田良長彩色『信州妻女山川中島合戦謙信陣捕之圖 』ですが、今回下った谷が描かれています。

 現在の長坂峠は、古道の越えていた東風越(こちごし・こちごえ)より30mほど西です。古道は、東風越から最初急斜面をつづら折りで下り、直ぐに緩やかな広い谷に出ます。谷は広がりながら緩やかに右へ曲がり、土口集落の最上部へと出ます。山藤の太いつるがあちらこちらで大木を締め付けていました。初夏には藤紫の花が咲き誇るでしょう。

 昭和30年代までは養蚕が盛んで、谷の上部から下部までほとんどが桑畑でした。子供の頃に下った記憶がかすかにあります。養蚕が衰退すると谷は次第に荒れ果ててゆき、現在のような姿になってしまいました。夏は酷い藪になってしまうので、歩くなら冬枯れの季節しかありません。

 今回久しぶりに歩いてみて、想像以上に荒れ放題で驚きました。桑畑だった頃の風景は思い出しようもないのですが、土留めの石垣や枯れた小川に昔日の面影がわずかに見られ、逆に過ぎ去った年月の長さを感じました。第四次川中島合戦の上杉謙信斎場山布陣の折には、この谷にも軍勢がいたという言い伝えもあり、ここも千人窪であるという人もいます。

 谷の上部の東風越は、戸倉から宮坂峠を越えて松代へ抜ける際に、千曲川の氾濫などで笹崎が通れないときに使われた、土口から清野へ抜ける斎場越(長坂、清野坂)と呼ばれた街道の一部でした。道は、土口の古大穴神社から薬師山(笹崎山)に乗り、長坂を登って御陵願平から斎場山の横を通り、東風越から赤坂山(現妻女山)に下り、勘太郎橋から松代城下へ入るというものです。

 谷を下りてからは、向かいにある蟹沢(がんざわ)を堂平へ登り、天城山経由で戻りました。堂平は、堂平大塚古墳をはじめ、積み石塚古墳群もあります。斎場山の南側の麓には北山古墳群があり、薬師山の先には笹崎山古墳群がありました。ほぼ過去形なのは、江戸時代の戌の満水の後で瀬直しのために笹崎の先端が大きく削られ河川工事に使われてしまい、そこにあったとされる横穴(古代の住居とも古墳ともいわれた)が消滅してしまったからです。

 川中島合戦の際には、謙信軍が斎場山一帯に布陣し、武田別働隊が斎場山背後の天城山から襲撃したという伝説のある山塊です。古代に想いをはせるか、戦国時代に想いをはせるか。人様々でしょうが、「兵共が夢の後」であるには違いありません。底知れぬ寂寥の虚しさを感じる谷でもありました。

★川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。

■『川中島謙信陣捕之圖 一鋪 寫本』 榎田良長 彩色
 榎田良長の図会は、他に川中島全図を描いた『河中島古戰場圖』と『川中島信玄陳捕ノ圖』があります。
 出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)流用転載厳禁!
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ルリビタキの舞う雪林で(妻女山里山通信)

2010-02-19 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 山仕事をしていると、必ずどこからともなく現れ付かず離れずまとわりつく青い鳥がいます。作業中は保護用にポリカーボネートのグラスをして眼鏡をしないので細部の模様が分からず、幸せの青い鳥かなと勝手に思っていたのですが、どうにも気になってしょうがないわけです。そんなある日木を切っていると、またその青い鳥が現れました。

 これはチャンスと車に戻って眼鏡とカメラを手に戻るといません。仕方なくまた作業をし始めると、暫くしてどこからともなく現れました。眼鏡をかけると、濃い青い羽に白い腹部、脇は鮮やかなオレンジ色であることが分かりました。図鑑であたりをつけておいたので、これはルリビタキの雄かなと思いながら、鳥に視線を合わせず、そっとカメラを手にして液晶ファインダーを見て撮影。手持ちのカメラは望遠が不得手なので掲載のカットがせいいっぱいですが、なんとか撮影できました。

 こちらに流し目をくれながら大きく胸を膨らませているカットがありますが、これは求愛行動ですね。雄の小鳥に求愛されても困るんですが…。どういうことなんでしょうね。周りに雌がいる様子もなかったし、繁殖期でもないはずですが。不思議です。それとも威嚇か? 接近すると、ある程度の距離を保って逃げていきます。といって樹上に逃げるわけでもなく、地上近くの切り株や倒木の枝に留まり、横目でこちらを見ています。早く木を切れと言われているようです。

 ルリビタキは、夏は亞高山で暮らしています。この辺りだと菅平でしょうか。根子岳や四阿山辺りにいるのかもしれません。冬になると里に下りてくるようです。鳴き声を文字にするのは難しいのですが、「ピッピッ」と鳴いたり、「グッグッ」と鳴いたりしますが、「ルリビタキだよ~ん」と鳴くともいわれています。本当でしょうか。都会の公園などでは餌付けをしている人もいるようですが、なにもしなくてもこんな風に寄ってきてくれるのは、嬉しいものです。ところで、『青い鳥』というと、やはりザ・タイガースのこの曲でしょうか…。

 山仕事をしていると寄ってくるのは、木を切ると虫が出てくることがあるからでしょう。なかなか賢い鳥です。でも視線を感じると逃げてしまうので、見ないようにします。それとなく見ると、ルリビタキも横目でこちらを見て様子を窺っています。こちらが移動すると、作業していた辺りの木を盛んに調べています。時には虫を見つけてついばんでいることもあります。人なつこいわけではないのですが、現れるとなんとなく和みます。それにしても寒い毎日で、神経痛に悩まされています。春は名のみの風の寒さや。『早春賦』の歌を思い出しました。

「雪林に 追えば届かぬ 青い鳥」 林風

●ルリビタキ(瑠璃鶲、Tarsiger cyanurus)スズメ目ツグミ科。昆虫類、節足動物、果実などを食べる雑食性。単独で行動し、繁殖期には縄張りを持ちます。6~8月に針葉樹林の地表に、枯葉や苔、地衣類などでお椀状の巣を作り、1回に4、5個の卵を産みます。雌は羽が緑褐色。

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私の横で日本羚羊が杉の葉を食べていたある冬の午後の森(妻女山里山通信)

2010-02-17 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 ある冬の寒い午後のことです。森の中で作業をしているところへ日本羚羊がゆっくりと現れました。こちらを見てジッと立っています。これを「寒立ち」といいます。いつもならカメラを構えて近づくのですが、作業の途中なのでそのまま続けました。時折横目で見ると首を傾げてこちらを窺っています。それでも構わず作業をしていると、興味を失ったのか傍らの何かを食べ始めました。これには少々驚きました。顔馴染みなので気を許したのでしょうか。

 手を休めて見入ると、視線に気が付いたのかこちらを見ました。食餌の邪魔をしてはいけないと、再び作業を始めるとまた食べ始めました。なんだか不思議な感じでした。日本羚羊と私の間に、妙な信頼関係というか、そのようなものがそのときあったからです。まあお互い食べる食べられるの関係ではないし、干渉しあわないというところでしょうか。

 しばらくすると、日本羚羊はゆっくりと森の奥へと帰っていきました。なにを食べていたのだろうとその場所に行ってみると、それは青々とした杉の葉でした。葉先だけをついばんでいました。冬は彼らにとって餌が乏しい厳しい季節です。リョウブやヤマナラシ、ブナなどの樹皮も餌になります。アオキなどの常緑樹も餌になります。そして、檜や杉の苗木や幼木も恰好の餌になるのです。

 そのため、植林地の食害が問題となることもあります。ただ集団で行動せず単独なので、その被害は集団で行動する日本鹿のように甚大ではないようです。日本羚羊は、一種類のものだけを食べるという採食歩行はしません。色々なものを少しずつ食べるということを、以前追跡して確認したことがあります。それが、氷河期から生き延びてきた理由のひとつかもしれません。また、山菜はもちろんのこと野菜も食べるので、里山では農業被害もあるそうです。間伐や除伐のされない放置林が増えて林床まで陽が差さない森が増えると、植生が貧しくなり食害も増えます。

 日本羚羊は、好奇心が強く簡単に仕留められるため、「肉馬鹿」とか「あほ」、「肉」などと呼ばれることもありました。一人が踊りを踊って気をひきつけ、もう一人が背後から仕留めることから「踊りじし」などとも呼ばれました。しかし、一方では岩場に悠然と立ちつくす姿から「森の哲学者」などとも呼ばれます。好奇心が強いのは、別に自分たちが特別天然記念物で絶対に撃たれないと知っているからではなく、牛科なので好奇心が強いのでしょう。牛も好奇心が旺盛です。昔、好奇心が旺盛な牛にアマゾンの牧場で数十頭の大きな瘤牛に取り囲まれたことがあります。危うく角で突かれるところでした。日本羚羊も襲ってくることはまずありませんが、希に襲われたケースもあります。近づきすぎたり刺激することは禁物です。親子連れの場合は特に要注意です。

 「森の哲学者」といわれる日本羚羊。確かに森で出会う彼らは、他の野生動物もそうですが、森の一部と化しています。岩の高見から人間界を見下ろしていることもよくあります。家の窓からは、斎場山の急斜面を横切っていき、立ち止まってこちらをジッと見ている日本羚羊を見ることがあります。なにを感じているのかなと知りたくなります。

 森は深層心理のメタファー(隠喩)に使われます。シニフィエ(意味されるもの・パン屋じゃないですよ)としての森は、民族によっても違います。『ノルウェーの森』(村上春樹ではなくビートルズ)は、“Norwegian Wood”が、“Isn't It Good, Knowing She Would?”(彼女がやらせてくれると分かっているのはステキだろ?)の意図的な転訛だとはあちこちで書かれている説ですが、友人の四歳になる娘と歩いたノルウェーの森は、トロール伝説やイングマール・ベルイマンの映画に描かれるような人間の深層心理に潜む恐怖の森でありながら、究極の癒しの場でもあることを想起させてくれました。人は森を恐れつつ森に癒されるのです。

 森が重要なファクターとなっている映画が、最近静かに評判になっています。『ユキとニナ』公式サイト『ユキとニナ』オフィシャルブログ『ユキとニナ』予告編。岩波ホールにせっせと足繁く通った日々を思い出し、ベルイマンの映画をまた観たいなと思いました。私の横で日本羚羊がゆっくりと杉の葉を食べていた森でそんなことを思う午後でした。

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★妻女山については、本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
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サッカー日本代表とアマゾン先住民と日本羚羊(妻女山里山通信)

2010-02-14 | サッカー
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 トルシエジャパンやジーコジャパンのように、岡田ジャパンとは誰も言わない現在の日本代表。「我々のコンセプトは間違っていない。」、「自分たちのサッカーをやれば勝てる。」等々。そこにあるのは、「自分たちらしいサッカー」、「自分らしさ」という概念ですが。それが当座のベストメンバーで、韓国にも中国にも全く通じないとなった今、さあどうしましょう。
 前三人は相変わらず必死に犬走りしていましたが、守備にも攻撃にも全く効果がないことがはっきりしました。シュートを打たずに走り回ってボールに触るだけなら犬三匹でも構わないでしょう。そんな映画がありましたね。DFには、狂犬が一匹いて追い出されましたが、守備はいいというのも簡単に翻されました。本当にコンセプトが間違っていませんか?

 「自分たちのサッカー」、「自分らしさ」、いったいそんなものがあるのでしょうか。あのブラジルでさえ、今やロナウジーニョが外されるほど、そのスタイルは変貌しているわけで…。どこの国にも普遍的な完全に強いサッカースタイルなんてないと思うのです。フィジカル、テクニックで劣るから、相手より長く走らなければならない。このコンセプトは、完全に破綻したのではないですか。コンセプトは間違っていないけれど、選手がそれを体現できていない? 体現できないコンセプトが間違っているのではないですか。サッカーは極めて有機的なもので、むしろ理論(分析)は後からつくものではないですか。というか、彼のコンセプトは90分もたないし、退場者や怪我人が出たらジ・エンド。選手交代や試合中に聞こえる指示も全く論理的ではないですね。矛盾だらけ。

 ところで、世界には「自分らしさ」という概念を全く持たない人々がいます。たとえば、アマゾンのある先住民達がそうだそうです。彼らは、自分たちがジャングル(世界)の一部で同一(等価)であると思っています。 自分らしさというのは、世界と自分が乖離した概念が生み出すもので、それ故存在理由(レーゾンデートル)を必要とし、自分らしさを求める強迫観念に囚われるのです。そこには答えなどあるはずもなく、空虚さと孤独感だけが付きまといます。

 レヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』でも紐解いてみてください。誤りでなければ、彼は「自然状態」と「社会状態」という言葉でその差異を表現していたと思います。一見西洋合理主義にならされた我々から見るとまったく不条理にみえる彼らの神話や風習にも構造認識の秩序があるということ。彼らは自信に満ちており、孤独感のかけらもないこと。

 森で遇う日本羚羊を見るたびに思うのです。彼らのあの自信に満ちた凛とした強い存在感はどこから出てくるのだろうと。彼らも森と自分は同一で一部であると、生まれながらにしてそう存在しているのではないかと。そんな彼らも檻の中に入れるとストレスですぐに死んでしまうそうです。単独で生きる日本羚羊は、集団で飼ったり飼育することが非常に難しいのだとか。しかし、森で遭う彼らは例え子供でも威厳に満ちています。卑屈さの微塵もない。

「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」『悲しき熱帯』は、そう終わります。人類もそろそろ「私権」、「個人主義」、「存在理由」、「自己実現」等から自由になって、新たな構造認識を創り出す季節にきているのではないでしょうか。2009年10月30日、レヴィ・ストロースは、100歳で大地に還りました。疑ってみなければいけない……。我々は本当に覚醒しているのでしょうか。
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日本羚羊と榎茸(妻女山里山通信)

2010-02-12 | アウトドア・ネイチャーフォト
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 早春というにはまだ早い北信濃ですが、このところの多雨で山は例年になく湿っています。数日前の大雪も、その後の大雨でかなり溶け、霰(あられ)も降って溶けては凍って、林道は凍結と泥濘(でいねい)状態の混合。とても歩く気にはなりません。そんな小雨の中、久しぶりに山へ出かけました。林道ではなく、落ち葉の積もった山道や林内を登ります。

 雪と強風で落ちた太い枝を切って片付けてから天然の榎茸を採っていると、誰かの視線を感じました。見上げるとすぐそこに日本羚羊が一頭こちらを凝視しています。この妻女山から斎場山にかけて棲んでいる母子の、おそらく子供の方です。随分と成長しました。去年は、かなり遠くからシッ!という威嚇音を発してすぐに逃げたのですが、今回は堂々としていました。しかも、時間をおいて違う場所で三回も遭遇。最初の出合いでは、呼び止めると何度も立ち止まって振り向きながら、凍結した林道を去っていきました。写真は最後に遇ったときのものです。車で帰る途中でした。見つけて車を止め、降りて近づく間もずっとこちらを観察していました。三度目で見慣れたのか、興味深げにいつまでも私を見ていました。

 最初に母親と思われる個体を見かけたのは、2002年の夏でした。小学生だった息子達と妻女山の駐車場で遭遇しました。妻女山に日本羚羊がいるらしいという噂は聞いていましたが、こんな里山に高山の動物がいるなんてと、子供達も驚いて見ていました。

 その後は、見かける機会がなく、次に遭遇したのは2008年の12月。既に成獣となっていました。おそらく同じ個体だと思います。そして、すぐに母子でいるところに遭遇。母親であることが分かりました。その後は何度か見かけるようになりました

 翌年の春には、おそらくそのつがいと思われる雄にも遭遇しました。その他にも、鞍骨城跡で大きな雄と思われる個体に遭遇。土口将軍塚古墳では、毛並みの白っぽい個体と遭遇。南の倉科尾根では大小二頭に遭遇。間の唐崎城跡にも一、二頭いるようです。日本羚羊の個体識別は、なかなか難しく、度々遇っている妻女山のマダム以外は、なかなか区別がつきません。雌雄共に角があるので、大きさと風貌の違いしか区別する手だてがありません。子供も成長が早いので大きくなってくると母親との区別が困難になるかもしれません。体の大きさと角の長さで、だいたいの年齢は分かるそうです。

 二頭の母子は、妻女山(赤坂山)の上の日当たりの良い植林地で一緒にいることがよくあり、母親の方はそこから南方の天城山方面、子供の方は西方の薬師山方面をテリトリーとしているようです。それぞれ決まった糞場があり、朝夕には必ず訪れます。そのうちの一箇所は、わが家の山中にあり、糞場にはササクレヒトヨタケが生えます。一頭のテリトリーは、雄15ha、雌10haだそうですが、親子や雌雄だと重なっていることもあるようです。この辺りだと、大凡ひとつの尾根に二頭ぐらい棲息している感じです。

 秋の繁殖期には、大きな雄がマダムをもの凄い勢いで追いかけ、マダムはもの凄い勢いで逃げていました。ちょうど上杉謙信槍尻の泉の上にいたのですが、人間がいることなどお構いなしに高速道路と林道の間の杉林の中を、右へ左へと地響きを立てて激しく追いかけっこしていました。結末がどうなったかは知りませんが、この冬遇ったマダムのお腹が大きくなかったので、子作りには至らなかったようです…。

 ところで、日本羚羊の鳴き声というのを聞いたことがあるでしょうか。検索してもあまり出てきません。めったに鳴かないんですね。フシュッ!という警戒音はよく発するのですが、いわゆる鳴き声というのは確かにあまり聞きません。繁殖期の雄雌同士の追いかけっこでも鳴き声は一切発していませんでした。その鳴き声を一度だけ聞いたことがあります。鞍骨城跡で、谷にいる子供が親を呼んだのか、親が子供を呼んだのか、どちらかでしょう。けたたましく鳴きました。それは、グウェーーーーーーッというような鳴き声で、綿羊や山羊の鳴き声を濁声にしたような鳴き声でした。決して美しい鳴き声ではないですね。単独で棲息するので鳴く必要があまりないからでしょう。

 日本羚羊と遭遇した時に採っていたのが天然の榎茸。市販のものとは随分と姿形が違います。学名をFlammulina velutipesというのですが、ラテン語で「ビロード状の柄の小さな炎」という意味です。その通り、軸には細かな天鵞絨状の細毛が生えています。小さな炎というのは傘がまだ開く前の状態をいっているのでしょうか。ずいぶんと洒落た学名だと思います。冬に採れる貴重で希少なキノコです。

「羚羊の 振り向き振り向き 凍り道」林風

★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、森の動物、特殊な技法で作るパノラマ写真など。

★妻女山については、本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
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「猫の子が 手でおとす也 耳の雪」小林一茶(妻女山里山通信)

2010-02-08 | 歴史・地理・雑学
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 新年早々に小林一茶の句が見つかったというニュースを目にしました。「これがまあ 終の棲家か 雪五尺」という句は有名ですが、今年は雪が少ないなと思っていたら、この大雪です。発見された句は、小布施の旧家の屏風に貼られていた手紙に記されていたものです。一茶は、52歳で結婚してから猫を飼い始めたようで、300余りの猫の句を詠んでいます。
 発見された句は…。

「猫の子が 手でおとす也 耳の雪」
 この句は耳に積もった雪を足で払おうとする子猫の仕草を詠んだものということですが、猫は雪の日に外に出たりはしませんからね。ましてや耳に積もるまで出歩くなど考えられません。おそらく雪が止んだ晴れ間に外に出たら、樹上か藁葺き屋根から小さな雪の塊が落ちてきて子猫の頭に乗ったのを、前足であわてて掻き落としたということなのではないでしょうか。

 他にも一茶が猫を詠んだ句を挙げてみます。

「猫の子の かくれんぼする 萩の花 」
 この萩は、低木の山萩ではなく、地を這う多年草の猫萩でしょうか。ネコハギ(猫萩)は、マメ科ハギ属。夏に小さなマメ科特有の形をした花を咲かせます。全体に軟毛があるので猫萩と呼んだのか。それとも、同じような花を咲かせる落葉低木のイヌハギ(犬萩)に対して、それよりも小さな萩ということで猫萩と呼んだのか。いずれにしても、草陰で子猫のじゃれ廻る様が浮かびます。

「嗅で見て よしにする也 猫の恋」
 猫のことを知っているとよく分かる句です。とりあえず雌猫のあそこを嗅いでみて、こいつはよしておこうという句です。好みの匂いというよりも、充分に発情しているかということでしょうか。一茶はよく観ています。止しにするなんでしょうけど、好にするもあるし、良しにするもあるのですが、やはり止しにするでしょうね。

「鼻先に 飯粒つけて 猫の恋」
 説明することもないでしょう。情景が目に浮かびます。

「梅咲や せうじに猫の 影法師」
まだ寒い信州の早春にもやっと梅が咲き、暖かい陽を受けて猫が障子の向こうを歩いてどこかへいく。

「 紅梅に ほしておく也 洗ひ猫」
 泥まみれにでもなった猫を洗って紅梅の木の枝にのせて乾かしている様でしょうか。
「猫洗ふ ざぶざぶ川や 春の雨」
 猫は洗われるのが大嫌いですが、一茶は猫を洗うのが好きだったのでしょう。
「虫干に 猫もほされて 居たりけり」

「陽炎や 猫にもたかる 歩行(あるき)神」
 【歩き神】 人をそぞろ歩きや旅にさそう神。春雨後に急に気温が上がった陽炎の立つ日は、猫も遠出をしたくなるのでしょう。
「陽炎に ぐいぐい猫の 鼾(いびき)かな」
 一茶は、オノマトペ(擬声音語・擬音語・擬態語)の使い方が巧みです。

「恥入って ひらたくなるや どろぼ猫」
「春雨や 猫におどりを おしえる子」
「なの花も 猫の通いじ 吹きとじよ」
「蒲公英(たんぽぽ)の 天窓はりつつ 猫の恋」
「垣の梅 猫の通ひ路 咲とじよ」
「梅さくや ごまめちらばふ 猫の墓」
「火の上を 上手にとぶは うかれ猫」
「うかれ猫 奇妙に焦れて 参りけり」
「うかれきて 鶏追いまくる 男猫哉」
「寝て起きて 大欠伸して 猫の恋」
「鳴猫に 赤ン目をして 手まり哉」
「綿くりや ひよろりと猫の 影法師」
「蝶々を 尻尾でなぶる 子猫哉」
「なりふりも 親そっくりの 子猫哉」
「猫の子や 秤にかかり つつざれる」
「猫の子が 蚤すりつける 榎かな」
「猫の子が ちよいと押へる おち葉かな」
「猫の子の くるくる舞や ちる木のは」
「猫の子の ほどく手つきや 笹粽(ささちまき)」
「猫の子の 十が十色の 毛なみ哉」
「大猫の 尻尾でじゃらす 小てう(蝶)哉」
「大猫も 同坐して寝る 雛哉」
「大猫が 尿かくす也 花の雪」
「塗盆に 猫の寝にけり 夏座敷」
「猫の目や 氷の下に 狂ふ魚」
「猫の飯 相伴するや 雀の子」
「恋猫の ぬからぬ顔で もどりけり」
「恋猫や 答へる声は 川むかふ」
「恋猫が 犬の鼻先 通りけり」
「恋猫や 口なめづりを して逃る」
「恋猫や きき耳立て また眠る」
「さし足や ぬき足や猫も 忍ぶ恋」
「夜すがらや 猫も人目を 忍ぶ恋」
「猫鳴や 塀をへだてて あはぬ恋」
「妻乞や 一角とれし のらの猫」
「通路も 花の上也 やまと猫」
「つぐらから 猫が面出す いろり哉」
「冬の蝿 逃せば猫に とられけり」

 キリがないのでこの辺で…。「猫なでの 声に見とれて 糞を踏む」林風

 尚、「一茶記念館」では、3月まで一茶と猫の展示をしているそうです。以前は猫館長がいたらしいのですが、ある日旅に出たまま戻らないそうです。きっと放浪の旅に出たのでしょう。
 掲載の写真、本当は雪と猫を撮りたかったのですが、この寒空に猫に歩き神がつくはずもなく、仕方がないので以前深大寺近くの野川で撮影したものを使いました。この後、土竜は無事に逃走しました。

★猫の写真は、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】の[動物]をご覧ください。他にキノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。
★猫ではないのですが、放浪の旅は、【AMAZON.JP-アマゾンひとり旅-】をご覧ください。
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薬師山トンネルで大事故!(妻女山里山通信)

2010-02-06 | 歴史・地理・雑学
 暖冬というのに大寒波が押し寄せ信州は大雪となりました。そんな午後、けたたましいサイレンの音がいくつも響きました。これは何事と見ると、妻女山(赤坂山)先端の高速の上り線で車が大渋滞。大雪による山の様子も見たかったのでマウンテンバイクで妻女山へ。

 上杉謙信槍尻の泉には、既にテレビクルーの車が二台来ていました。午後二時前に薬師山トンネル内部の上り線で多重衝突事故があったそうです。後で分かりましたが、怪我人は不幸中の幸いで軽傷者が数名でしたが、なんと18台を巻き込んでの大事故でした。きっかけは、多摩ナンバーのワゴン車がスリップして側壁に衝突。後続車が止まったところへ次々と追突したというもの。実はこの上信越高速道路の薬師山トンネル上り線は、事故の多発地帯なのです。それには下記の理由が考えられます。

 上り線は松代SA方面から更埴ジャンクションへ向かうのですが、妻女山の先端を巻くように左カーブで入ります。その時、前方のトンネルが妻女山で見えないのです。しかも突然現れるトンネルの入口は、長いトンネルに比べると穴の直径が狭いのです。そしてトンネルに入ると、今度はすぐに内部で右カーブになります。

 スピードを出しすぎと感じて慌ててハンドル操作やブレーキを誤り、側壁に激突する自損事故が多発しています。今回は、土曜日で運が悪く後続車がたくさんいました。しかも、前述のように前方が山やカーブ、トンネルで見えないために次々とトンネルに入ってしまい多重衝突となったわけです。トンネル内部のカーブの先で事故があっても、後続車からは見えないのです。降雪時でしたが路面は積雪はないものの濡れていました。しかし、トンネル内の路面は凍結していたということです。

 私も晴天時に何度か走ったことがありますが、このS字カーブは危ないなと思いました。知っている人は、ここでは決してスピードを出さないと思います。これは安全性の配慮を欠く道路の設計ミスではないでしょうか。実は、最初の設計では土口から清野の宮村に抜ける予定でした。これならS字を描かなくても済むのですが、近隣住民の猛反対で現在のルートになった経緯があります。そのために多発する事故ともいえます。

 高速道路には、ここだけでなく、更埴ICの事故が多発したカーブも設計ミスといわれていますし、更埴ICから乗って東京方面へ向かうときも、一旦、北にある長野方面へ走ってから上田方面へ向かわなければならず、知らないと不思議に思える所です。人間の感覚を無視した設計といえるかもしれません。いずれにしても高速道路には、事故多発地点というものがあります。ネットで調べると色々と掲載されているので、始めての所へ行くときは確認しておいた方がいいでしょう。

 ところで中国戦。性懲りもなく全く機能しない小男三人の3トップ(あるいは1トップ2シャドー)をまた使ってきましたね。得点の形が全く見えません。シュートもなし。意欲すら見えません。監督解任も現実味を帯びてきたといえます。本当に見るに耐えない試合でした。
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掘切山と立石山は同じ山?(妻女山里山通信)

2010-02-05 | 歴史・地理・雑学
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 写真は、妻女山の林道倉科坂線を少し入ったところから撮影した先日登った奇妙山。奇妙山岩沢登山口からは、尼の岩戸経由で尼巌山、笹ノ登経由で尼巌山、または奇妙山へ登ることができます。
 山座同定をしたものですが、問題がふたつ。藤沢峠の位置と立石岳の位置です。藤沢峠は、埴科郡誌では上高井郡では掘切というとあり、「立石山(立石岳・立石嶽)の北にあり、上高井郡保科村に通ずる鳥道なり」と記されています。

 その立石山は、「上高井郡では掘切山といい豊栄東条二村に渡り、保基谷岳の北に連なりて上高井郡保科村に跨る」と記されています。また、「立石山の山脈一支西北に延びるものを戸山城山という」と記されています。しかし、東条村誌によると立石嶽として、「高さ凡そ六十五丈、周囲未だ実測を経ず。峯巓(山頂)より界し、以東は高井郡保科村に属し、西は本村豊栄村に分属す。山脈、北は奇妙山に連なり、南は四阿山に亘(わた)る。登路一條、本村卯の方字菅間耕地、奇妙山の半腹を経て登る。高さ一里三十町余、稍易なり。これまた大笹駅に通じる間道なり」と記されています。

 埴科郡誌の第一編 天然地誌 第二章 第一節では、掘切山と立石山は同じ山と書いていますが、掘切山が現在の通りだとすると、郡境の向こう側にある山になり、北西に延びる尾根もないので辻褄が合いません。写真の立石岳を本来の掘切山とすると辻褄が合うような気がします。そもそも本当に掘切山と立石山は同じ山なのでしょうか。郡誌に書かれている標高は、正確ではないのであまり参考になりません。それとも、本来別の山のことなのでしょうか。峠を挟んで尾根の反対側で山名が違うというのは、よくあることですが、指している山そのものが違うというならば埴科郡誌は間違っているということになります。現在の掘切山は、東条や松代からは見えません。山向こうの保科の山という感じです。藤沢峠も写真の左にある小ピークの左(北)だったかもしれません。

 山名は、妻女山の例にもあるように、国土地理院の地形図が必ずしも正しい、或いは旧山名を踏襲しているとは限りません。また、地元でも地域によって呼び名が異なったり指す山が異なったりします。例えば、鏡台山は、千曲市のほとんどの場所からは山頂が見えない山なのですが、雨宮から見える鏡台山は北峯で、南峯は見えません。鏡台山というと北峯のことなのです。

 また、こんな例もあります。茶臼山の北に中尾山という山があります。地元の人に聞くと中尾山とはその辺りの山塊のことで特定の頂上をいうものではないといいます。しかし、中尾山は旧名を郷内山といい、埴科郡誌には標高が書かれています。ということは山頂が特定できるということです。
 埴科郡誌は、編集の時に独自で山脈名をつけたりもしていますが(戸神山脈など)、山名については各村の戸長や総代が書いているので間違いはないと思うのですが…。自然地名というのも、大切な文化遺産だと思うのですが、それを残していくというのは大変なことだとも思います。

★妻女山については、本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
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森将軍塚古墳から有明山に登る(妻女山里山通信)

2010-02-01 | 歴史・地理・雑学
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 「森将軍塚古墳」は、長野県千曲市森の大穴山山頂(490m)にある4世紀代の築造といわれる全長100m余りの巨大な前方後円墳です。この森将軍塚古墳を中心として、周辺にある倉科将軍塚古墳、有明山将軍塚古墳、土口将軍塚古墳は、埴科古墳群として国指定史跡となっています。墓の主は古代科野国の初代大王ともいわれており、古墳の上に立って、その規模の大きさを目の当たりにすると、当時の繁栄が目に浮かぶようです。

 森将軍塚古墳は、平地からの比高が130mですが、その展望は素晴らしいものです。森将軍塚古墳の表面に積み上げられた葺石(しゅうせき)の材質は大穴山産の石英斑岩で、総数は約8万個と膨大なものです。また、古墳の周りには大きな埴輪が並べられています。元々は壺を乗せる臺と壺が一体化したもの(朝顔形埴輪など)といわれています。祭祀用のものだそうですが、実際には置かれただけなのか、何かに使われたのか興味がわくところです。後に棺に使われたりもしたそうですが…。この古墳は自然地形を利用して造られたためか、左右非対称でくの字形に曲がっているのが特徴です。

 この森将軍塚古墳へは、麓の科野の里歴史公園にある森将軍塚古墳館から、バス道路(冬季以外運行)や二本ある登山道を使って約15~20分で登ることができます。さらに古墳から、有明山将軍塚古墳経由か直登で、20~30分で有明山(651.8m)へ登ることができます。なお、冬季以外に来られると分かるのですが、古墳管理の人達は熊鈴をつけています。この山域は、毎年月の輪熊が出没します。有明山南の尾根で熊による木の皮剥がありますし、熊に襲われる被害も出ています。森将軍塚古墳だけなら熊鈴は不要ですが、有明山へ登る場合は熊鈴は必須です。ただ、有明山山頂は、冬枯れの季節以外は木々に遮られてまったく眺望がききません。

 また、冬季は猪狩りが行われます。登った日ももう少し先の久保峰辺りまで往復しようかと思ったのですが、先の尾根から銃声と猟犬の鳴き声がしたので諦めて下山しました。狩猟期間中(毎年11月15日 から 翌年2月15日まで)は注意が必要です。

 有明山へは、尾根に乗ると一本道なので迷うことはありません。登山道さえ外れなければ危険な箇所もないのですが、登山道左手にトラロープがありますが、左側(北面)は、採石場の跡で崖になっているので(写真三枚目)、そちら側には絶対に行かないことです。

 有明山ですが、有明とは陰暦16日以後、月が空に残りながら夜が明けること。または、その月をいいます。有明山は、手力男命が投げた天の岩戸が落ち、天地が明るくなったとの伝説に由来し有明の名がついたという安曇富士と呼ばれる安曇野の霊山が有名ですが、千曲市の有明山も残月の名勝だったのでしょうか。この南宮坂峠北には大月峰があり、千曲川を挟んでは月の名勝姥捨山があり、有明山からは鏡台山も見えます。月にちなんだ名称の山が多いのも特徴です。

 有明山は、五里ケ峯山脈のほぼ南端に位置しています。健脚であれば、ここから宮坂峠経由で五里ケ峯まで登ることができます。逆に坂城駅から葛尾城跡、五里ケ峯と登り、五里ケ峯山脈を北進し、有明山、一重山の先端の蹄ケ崎まで歩き、屋代駅というコースもおすすめです。いずれも冬季以外は熊鈴必須です。途中には、五里ケ峯北の鞍部にある山本勘助が葛尾城跡攻略のために造らせたという勘助道(勘助横手)や、護兵山の戸倉城跡(樫井城跡)などがあります。

 森将軍塚古墳の麓は、科野の里歴史公園として整備されており、古代科野国の集落や水田が再現されています。また、隣には長野県立歴史館があり、今回はそこの図書室を訪れました。長野県に関する歴史書や雑誌などが閲覧できます。季節柄、受験生が猛勉強をしていました。

●古墳巡りルポ
■08/08/10 森将軍塚古墳・大室古墳群ルポ
■08/12/13 堂平大塚古墳・斎場山古墳・土口将軍塚古墳ルポ
■09/04/09 森の春のあんず祭(古墳遠望)

★このトレッキング・ルポを、【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の「森将軍塚古墳(大穴山)-有明山」にアップしました。ご覧下さい。
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