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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

桜と保科正之で知られる伊那の高遠城址へ。昭和グルメも(妻女山里山通信)

2016-01-04 | 歴史・地理・雑学
 伊那高遠の高遠城は、桜の城として全国的に有名で花のシーズンは大混雑しますが、静かな城跡探訪には、冬枯れの季節が一番と訪れました。高遠城は諏訪氏一門の高遠頼継(たかとおよりつぐ)の居城でしたが、1545年(天文14)に武田信玄により攻略され、その後大規模な改修を行いました。南に三峰川(みぶがわ)、北に藤沢川が流れ、これらが合流する段丘上に築かれた平山城で、川からの比高は約70mです。武田氏以降は、織田氏、豊臣氏の時代から江戸時代へと城主は目まぐるしく変わって行きました。年末とあって訪れる人も少なく、静かに探索ができました。

 高遠城址公園へは車で行けるのですが、高遠のご城下通りにある商店街の無料駐車場に停めて歩きました。高遠の銘酒「黒松仙醸」の店構え。酒米を蒸すのに使った大釜が置いてありました(左)。藤沢川にかかる高砂橋を渡り右へ少し歩くと城址への階段があります(中)。城址への斜面はすっかり住宅地になっていてやや興ざめですが、これは明治以降の廃藩置県後のことなのでしょう。城壁の塀沿いに登ると城址公園(右)。

 そこから高遠の城下を俯瞰。三峰川と山に挟まれた狭い城下町です。三峰川沿いには、間口の狭い三階、四階建ての家屋が並んでいます。遠くには伊那谷と、その奥に木曽駒ヶ岳などの中央アルプスの絶景。高遠頼継や保科正之もこの景色を見ていたのだなと感慨に耽りました。実はわが一族には、保科正之について会津に行った武士がおり、その後豪商となって会津藩を支えた人達がいるのです。同じ頃に松代藩に仕えたものもいるらしいのですが、幕末の戊辰戦争では会津若松城をメリケン砲でボコボコにし、白虎隊を粉砕したのは松代藩でもあったわけで、戊辰戦争というのは信州人同士の戦でもあったという歴史の非情な側面があるのです。遥か昔、豊臣秀吉の国替えでは、上杉景勝の会津移封に伴い善光寺平の土豪が家族家来ともども全て会津に移り住みました。会津は信州人が作った城下町といっても過言ではありません。今では名物の高遠蕎麦も会津に移り、この地では長らく絶えていたそうですが、現在は高遠の名物となっています。辛味大根の絞り汁で食べる蕎麦やうどんは、北信の埴科更科のおしぼりうどんや蕎麦が有名ですが、この地にもその原点があったということです。

 廃藩置県で払い下げられていたものを復活し、高遠高校の正門でもあったという大手門(左)。松代城跡の太鼓門などと比べるとあまりに小さく貧相なので疑問も湧くのですが。いずれにせよこの高さでは乗馬してくぐれないので、幅も高さもかなり切り詰めてあるようです。
 旧藩校の進徳館。国指定史跡(中)。藩主内藤頼直が、藩士中村元起の熱望により大学頭林復斎の助言を得て1860年(万延元)三ノ丸に内藤蔵人の屋敷を文武場にあてて創設したもの。往時は8棟あったようです。1855年(安政2)年に開校した松代藩の文武学校など、この当時は藩校を創設するのが時代の流れだったようです。藩校の元は江戸時代初期ですが、黒船来航直後で優れた藩士の養成が急務だったのでしょう。
 1936年(昭和11)に建てられた高遠閣は、元々は地域の集会所だったそうですが、現在は観光客の休憩所として利用されています(右)。設計は長野県駒ケ根市出身で帝国ホテル、日本郵船本社、東京帝国大学図書館、旧赤穂村役場(駒ヶ根市郷土館)などを手懸けた伊藤文四郎、棟梁は竹内三郎(国登録有形文化財)です。様式的には建築を学んでいる次男によると、色々な時代の様式を取り入れたごった煮みたいなものだそうですが、雰囲気はあります。

 そこから二の丸へ入り右手を見ると本丸に通じる「桜雲橋」(左)。渡った先に問屋門。これは本町の問屋役所にあったものを移築したものということです。桜雲橋から見る堀切(中)。かなり深い堀切があちこちにありますが、見ると自然地形を上手く利用したと思われるものも見られます。
 問屋門をくぐって本丸へ(右)。江戸時代は天守閣はなく御殿や櫓、土蔵などがあったということですが、廃藩置県でほぼ全て取り壊されました。右手には新城(盛信)藤原神社があります。明治政府が天皇制を堅固なものにするために行った廃藩置県や廃仏毀釈、後の合祀令などは、中国の文化大革命に匹敵するほどの酷い文化的な歴史破壊だったということが分かります。詳細は田布施システムで検索を。

 本丸から見る中央アルプス。当時はそんな名前はありませんからなんて呼んでいたのでしょう。木曽山脈、飛騨山脈、赤石山脈という呼び名も、そう古いものではないはずです。また、山名というのは明治に帝国陸軍陸地測量部が地図を作る時に地元の古老に聞いてつけたものですが、実は名前がなく適当につけられた山名も多いのです。山名が異なる麓で違うものだったり、時代によって山名や漢字が変わることもよくあります。自然地名も大切な文化遺産なのですが、現在は地元の老人でも知らない人がほとんどで危機感を覚えます。

 時を告げたという本丸南西端の太鼓櫓(左)。これも想像の復元のようです。この奥に保科正之が幼少時を過ごしたという南曲輪(郭)があります。その南曲輪(中)。これは南方ですが、西を見ると中央アルプスが望めます。この先は三峰川に落ちる70mの断崖があります。そこから見える天女橋(右)。

 昭和37年に改修落成した「天女橋」(左)。それ以前は木製の橋だったのでしょう。コンクリートと鉄の頑強な橋です。橋の向こう側には、二十二夜さまという小祠が、こちら側には、少し下流にある戸隠神社から勧請した九頭竜さまの説明看板があります。橋から見る高遠城址。高遠大橋の向こうに城址の断崖が見えます(中)。昭和の薫りがする天女橋の銘板(右)。地元民の念願だったことがわかります。

 昼になったので伊那旧市街の「餃子の店 山楽」へ(左)。ショーウィンドウの中のサンプルが化石化しています。私は鶏そばを(中)。息子たちはタンメンとエビ丼。名物の餃子も。餃子は注文を受けてから包んで焼いていました。私は化学調味料アレルギーなのですが、まあ我慢できる範囲でした。美味しく頂きました。右は、小沢川が天竜川に注ぎ込む手前にある食堂の「クロネコ」(右)。昭和レトロな建物と昭和レトロなメニューが有名です。山楽以上に懐かしい昭和の味に出会えるそうです。伊那ではもちろんローメンとソースカツ丼もお勧めです。鹿肉や猪、熊などのジビエ料理に、地蜂の幼虫、ザザムシ、イナゴなどの昆虫料理もお勧めです。昆虫料理に慣れておくと、食糧危機も乗り越えられるかもです。ちょっと不安になるほど暖かすぎる年の瀬でした。

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本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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