第四次川中島合戦の時に武田信玄が最初に布陣したと江戸時代の軍記物に書かれている茶臼山は、有旅茶臼山です。それは茶臼山とは違うのかと思われる方もいるでしょう。実は違うのです。でも同じともいえるのです。微妙です。なぜなら茶臼山は北峯と南峯の双耳峰だったからなのです。
だったと過去形で書くのは、その南峯の有旅茶臼山は善光寺地震で崩壊が始まり、大正時代末期から昭和にかけてに大崩壊して山頂がなくなってしまったからなのです。ですから現在茶臼山といわれているのは、標高730mの北峯なのです。ちなみに南峯は720mだったという説と、元々は740mだったという説があります。現在は地滑り防止の工事も終わり、跡地はレッサーパンダで有名な茶臼山動物園や恐竜公園、自然植物園などになって市民に親しまれています。
有旅茶臼山の南の尾根には、九基の塚(古墳)が、信玄茶臼山布陣の石碑の近くにあります。旗塚といって信玄が旗を埋めた塚と俗にいわれていますが、実際は古墳時代の墳墓で、群司や県司の墓といわれています。同じようなものが上杉謙信の布陣したと伝わる斎場山の円墳から続く尾根にも七基あります。また、同様な塚が川柳将軍塚古墳にも付随して六基あります。その類似性には興味深いものがあります。そう考えると有旅茶臼山の山頂にも、崩壊する前には、斎場山と同じように円墳があったかもしれないのです。里俗伝では、崩壊する前の山上には山城の跡があり、堀切もあったということです。江戸後期の『甲越信戦録』には、茶臼ヶ城と書かれています。
現在の茶臼山(北峯)は、木々に囲まれ眺望は全くありませんが(そのためハイカーにもうひとつ人気がでないのかも。松本の芥子坊主山のように展望台が欲しいところ。)、古い山城と思われる跡が見られます。最初の写真は山頂ですが、南北に長く平坦地があり、東西と特に南側は急峻な構えになっています。二枚目は北側ですが、大きく二段に分かれており、腰郭の跡かと思われるような広い段差があります。その北側には東西に長く掘切があります。現在の深さは2mぐらいですが、元々はかなりの深さがあったのではと思われます。戦国時代以前に、大塔合戦などもあったので、山城があったとしても不思議ではありません。
そして、戦国時代ですが。『松代町史上巻』には、こう記してあります。
武田晴信は同月十八日嫡子太郎信義、武田逍遙軒、同左典厩信繁を初めとし家臣長坂、飫富、山縣、山本、両角、馬場、真田、跡部等二万余人を引具して甲州石和城を発して信濃に入り更級郡茶臼山に陣を取り機を見て二十八日広瀬渡(埴科郡寺尾村柴)を渡りて海津城に入れば総勢実に二万五千に達すという。
ただし、『甲陽軍鑑』には、信玄の茶臼山布陣の話は全くでてきません。
有旅茶臼山から川中島に下る中腹に「耕心庵(甲信庵)」という古刹があります。「川中島合戦後に信玄が巡国の時、この地に立ち寄り、川中島合戦場を見下ろして、この處はまさに景勝地であると感嘆し、ここに禅寺を建立し、法性山甲信庵と名づくべしと高坂弾正に命じた。」と看板にあるのですが、有旅茶臼山に布陣したなら、川中島に下る際に、ここは既に通っているはずなんですが…。猿ケ馬場峠(旧北国西街道にある麻績宿と桑原宿の間の峠)から有旅茶臼山へは、またかなり登り返さなければならず、5日ばかりの布陣と考えると、実際は石川茶臼山(川柳将軍塚古墳)に布陣し、その後すぐに謙信のいる斎場山の千曲川対岸に移ったのではという説もあるのです。
二枚の茶臼山遠望の写真は、妻女山展望台からのカットです。戦国時代には妻女山という名称はありませんから、ここは赤坂山(赤坂)と呼ばれていました。謙信の本陣だったと伝わるのは、展望台左後方上の斎場山です。二枚目のカットは、信玄が布陣し、謙信が見たかも知れない双耳峰の茶臼山をCGで再現してみたものです。実際はどんなだったのでしょう。昔は樹がなく茅で覆われていたかもしれません。
最後の絵地図は、江戸時代の後期に榎田良長によって描かれた『川中島信玄陣捕之圖』です。正式名称は、『信州有旅村茶臼山川中嶋合戦之砌信玄陣捕之圖 』といいます。北に虫倉山と犀川が描かれ、西に山布施、南に有旅の村が描かれ、中央やや右に茶臼山本陣が描かれています。物語を絵にしたと捉えるべきなのでしょうが、江戸時代の人が川中島合戦をどう捉えていたかをビジュアルで知ることができるいい史料だと思います。
ちなみに全国に茶臼山は200以上あり、山名では最も多いとか。名称の由来は、山容が抹茶をひく茶臼の形に似ているためといわれますが、台座がついて大小の円柱を二段重ねた円墳のような形をしたものもあり、茶臼山が古墳の山であることも多い所以でしょうか。また、その形態からか武士が好んで山城を築いたという話もあります。古くは、語源をアムール川流域のチャムス(佳木斯)に源を持つという説もあります。
武田信玄の軍旗「風林火山」には、「動かざる事山の如し」とあるのですが、その山がなくなってしまった事を知ったら、さぞかし信玄も驚いたことでしょう。
★古墳巡りは、【
MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の
「森将軍塚・大室古墳群探訪」や、
「川柳将軍塚古墳探訪」をご覧ください。MORI MORI KIDSには、鞍骨城跡や尼巌山城跡など山城巡りもあります。
★また、川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「
「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
■『川中島信玄陣捕之圖 一鋪 寫本』(かわなかじま しんげん じんとり の ず) 榎田良長 彩色
榎田良長の図会は、他に川中島全図を描いた『河中島古戰場圖 一鋪 寫本』と『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』があります。いずれも狩野文庫所蔵。
出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)流用転載厳禁!