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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

冬のニューウェーブ信州の郷土料理。冬瓜・ヤマブシタケ・合鴨・シナノスイート・お醤油豆・カブのおやき・おしぼりうどん(妻女山里山通信)

2023-12-31 | 男の料理・グルメ
 冬は温かい料理が食べたくなるのはもちろんですが、やはり地元の食材を中心に使いたいものです。信州の伝統野菜や地元の野菜は新鮮で安く、旨さも大量生産のものとは一味違います。有機栽培や低農薬栽培であるのも嬉しい。そんな冬野菜を使ったちょっとニューウェーブな信州の郷土料理です。

「冬瓜とヤマブシタケ、牡蠣とカニカマとひき肉の中華煮」 冬瓜は夏野菜なんですが半年もつので冬まで貯蔵できます。昔は父も作っていて冬の煮物料理に使いました。今回はヤマブシタケを使います。加えて牡蠣、カニカマ、合い挽き肉を。冬瓜とヤマブシタケを干し椎茸を入れて煮て、ひき肉はごま油でさっと炒めて加えます。カニカマを入れ、牡蠣は焼いて最後に加えます。中華出汁、貝出汁、牡蠣ソース、味醂、胡椒で味付け。もっと寒くなったら水溶き片栗粉に卵を溶いた金あんでとろみをつけると温まります。

 ヤマブシタケ。天然では2回しか採ったことがありません。幻のキノコです。近年、記憶力増強の成分があると分かり注目されているキノコ。千曲市の久保産業で栽培され、JAのスーパーなどで売っています。

「豚バラ、ゴボウ、大根、ヒジキ、戻し干し椎茸、フキと山椒の実の佃煮、長ネギの炊き込みご飯」 昆布鰹出汁、本味醂、醤油で。業務スーパーの姜葱醤(ジャンツォンジャン)が味のポイント。山椒の実の佃煮を入れたので少しピリッと爽やかな味です。

「ビーフシチューのチーズドリア」。ハンバーグ・ビーフシチューを作りすぎたので残りをチーズドリアに。業務スーパーのクラシック・アルフレッドソースとチェダーチーズで。クラシック・アルフレッドソースは、リコッタチーズ、生クリーム、ペコリーノ・ロマーノチーズ、グラナ・パダーノチーズ、ホエイなどが入ったパスタソースですが、色々な料理に使えます。ほかにクラシック・トリュフソースがありこれもお勧めです。

「合鴨ロースとカブ、赤ネギの煮込みうどん」 業務スーパーの合鴨ロースにカブの葉も使って、関東名産の赤ネギと。昆布鰹出汁に干し椎茸、更に鶏出汁を加えています。解凍した鴨の汁も。カブと赤ネギの甘さと旨さが加わって得も言われぬ美味しさに。父手作りの赤唐辛子を振って。体が芯から温まります。うどんは友人が作った大正時代に日本一のうどん粉といわれた幻の小麦「伊賀筑後オレゴン(通称いがちく)」に地粉を少しブレンド。いがちくは本当に美味しい小麦粉です。ただ生産量が非常に少なくあまり一般には出回っていませんが、ネットでは買えます。うどん好きの方はぜひ一度食べてください。

「リンゴのコンポート」 友人からもらったシナノスイートがぼけはじめたのでリンゴのコンポートを作りました。赤ワイン、水、蜂蜜、シナモンパウダー、レモン汁を適当に鍋に入れてリンゴを15分ほど煮たらできあがり。冷蔵庫で冷やしてハーゲンダッツのバニラアイスといただきます。ミントの葉があればもっと映えたのですが。アルコールは飛ぶので大人のデザートにしたければ、リンゴのお酒カルヴァドスを加えるといいでしょう。リンゴがぼけるというのは信州の方言で、リンゴのシャキシャキ感がなくなってフニャッとする状態です。

「お醤油豆」 北信の郷土料理で市販もされています。茹でた黒大豆に同分量の米麹を入れ、粗塩、醤油、本味醂、キビ糖で味をつけて60度の低温調理で4時間ほど。その後は常温保存します。出来上がりは透明ですが時間が経つと麹が溶けて薄茶色に濁りとろとろになってきます。ご飯のおかずはもちろん、焼き餅に大根おろしとのせたり、煮込みうどんに調味料として入れたりと便利で美味しい体にもいい発酵食品です。

「カブと合挽き肉のおやき」 旬の野菜、カブと合挽き肉のおやきです。皮は幻の小麦、伊賀筑後オレゴン。皮はいがちくに長芋のとろろと全卵、炒り粉を混ぜます。具は合挽き肉とカブは拍子切り。葉もざく切りで使います。手作りの信州糀味噌にごま油、牡蠣ソース、昆布鰹出汁パウダー、炒り粉で混ぜ混ぜ。26センチのフライパンで具を挟んで片面6分ずつ中弱火で焼いてできあがり。カブの甘みがたまりません。具は多すぎるぐらいでちょうどいい。

「ブリ大根」 鮮度抜群の天然ブリのアラが手に入ったのでブリ大根を作りました。最も大事なのは下ごしらえ。竹串で徹底的に血合いを取り除きます。ぬるま湯で洗って湯が赤く染まらなければ大丈夫。仕上げに熱湯で霜降りにします。大根は皮をむかずに下茹でもせずに厚切りで三等分。昆布鰹出汁、本味醂、キビ糖、干し椎茸、生姜2かけ、鷹の爪を電気圧力鍋で炊きました。普通はこれを煮詰めるのですが私はそのまま一晩置きます。今は冷蔵庫の中より朝の台所の方が寒いのできれいな煮凝りができます。 冷たいブリ大根を暖かい部屋でいただく。これが好きなのです。

「おしぼりうどん」 冬の旧埴科郡と更級郡だけで食べられる古代からの郷土料理「おしぼりうどん」。激辛の後に「あまもっくら」という甘さと旨さを感じます。うどんはもちろん地粉で手打ちうどん。激辛のねずみ大根とか戸隠地大根にやや辛味の少ない青大根、別名中国大根(江都青長)を合わせます。青大根はビタミン大根の名で売られています。信州味噌をといて花鰹や葱を薬味にいただきます。北信州の坂城町、千曲市、戸倉上山田温泉、篠ノ井、松代には、おしぼりうどんを食べさせてくれるお店が何軒かあります。
 辛味大根は、辛味成分のイソチオシアネートを多く含んでいます。栄養価も高く、カリウムやビタミンAやカロテンを豊富に含んでいるのです。ジアスターゼも豊富ですから、消化剤を一緒に飲んでいるようなものと良く言われます。そんなわけでお酒を飲んだあとの締めにも最適です。小麦粉は伊賀筑後オレゴンと地粉のブレンドで。製麺機はうどん通なら知っているはずの小野式製麺機。

「牡蠣と信州冬野菜の味噌煮込みうどん」 岡山産の大振りな牡蠣があったので、信州冬野菜の味噌煮込みうどんを作りました。白菜、長葱、春菊、カブ、スナップエンドウ、舞茸。昆布鰹、炒り粉、アゴ、帆立の出汁をブレンド。本味醂と醤油で煮ます。手作り信州味噌は最後に。火を止めて予熱で牡蠣を入れて蓋をして1、2分で完成。牡蠣とたくさんの冬野菜の出汁が合わさって体の芯まで温まる美味しいうどんになりました。うどんは伊賀筑後オレゴンに唐木田製粉の志賀を少しブレンド。残った汁は翌朝卵で閉じて味噌おじやに。

「アジフライとほうれん草の卵とじのサンドイッチ」 揚げたてで分厚いアジフライは豚カツに勝るとも劣らない。ホウレン草は30センチ以上の規格外品の大きなものが甘くて美味しい。根っこが一番甘いのでついていたら使う。オリーブ油で炒めてコンソメパウダーで味付け。アジフライには塩を振りマヨネーズと粒マスタードをたっぷりと。サバフライだとトルコ風に(本当は焼き鯖)。オニオンスライスとレタスにレモン汁で。パンはバゲットがいいですね。

「信州の伝統野菜」図鑑 古くから東西文化の融合点にあった長野県は、全国有数の伝統野菜の宝庫。各地の気候風土に適応して特徴的な味や形、香りなどを持った多種多様な野菜が、貴重な「食の文化財」として脈々と受け継がれてきました。しかし、戦後の経済発展の中で、野菜の生産の主流は育てやすく見栄えのよい規格の揃った品種に移行し、その多くは衰退していきました。その一方で、近年、伝統野菜の存在意義を見直し、復興させようという取り組みが各地に広がっています。(長野県のサイトより)
信州の伝統野菜(Wikipedia)

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『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、
『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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今年最後の妻女山へ。陣場平へ。堂平大塚古墳へ。玄関に飾る松をとりに登る(妻女山里山通信)

2023-12-29 | アウトドア・ネイチャーフォト
 玄関に飾る松をとりに妻女山へ。御用納めも済んだので森林組合や獣害駆除のハンターも入らないでしょう。ついでに陣場平や堂平大塚古墳へ異常がないか見に行きました。それにしても暖かい。

 妻女山松代招魂社でびっくり。なんと拝殿がありません。前回瓦屋根を壊していたので屋根を葺き替えるのかなと思っていましたが建て替えるのですね。驚きました。どんな立派な社ができるのか楽しみです。

 妻女山展望台へ。西方の長め。右に丸い茶臼山。右奥に虫倉山。標高1000mぐらいの里山には雪がまったくありません。今日の最高気温は9度。無風なので日向は暖かく感じるほどです。

 茶臼山の左奥には白馬三山。手前の尾根にはJAの建物と左には信里小学校の校舎。あんな山の上に小学校!?と思うかもしれませんが、結構広い校庭もあります。手前には葡萄畑とワイナリーも。中腹を左へ行くとバスクチーズケーキで有名なロンディネッラがあります。森でないところは多くが林檎畑。

 東の松代方面。奥の根子岳や四阿山にも雪は少ないですね。菅平のスキー場はオープンした様ですが。昨年から世界中で豪雨や大干魃が続いていますが、気象学者は2022年1月16日に起きたトンガの海底火山の大噴火の影響を挙げてています。なんと大気中の水蒸気の10%にあたる膨大な量の水蒸気が大気中に放出されたのだそうです。リビアの大豪雨とかありました。豪雨の横では乾いた下降気流が起きるそうで、そのためアンデスやアマゾン川が干魃になっています。チチカカ湖は2メートル、アマゾン川は10数メートルも水位が下がっています。

 展望台から後方、南側。下に松代藩が建てた善光寺地震の慰霊碑があります。

 展望台の地図はあまりにひどくてでたらめなので載せません。松代城へ行くと近くの観光案内所で御城印が買えるそうです。

 長坂峠手前から北の眺め。千曲川の向こうに川中島。飯縄山と戸隠連峰は雲の中。

 長坂峠から見る斎場山(旧妻女山)。上杉謙信が最初に本陣とした山頂は古墳(円墳)です。左には榎(えのき)が何本かありおます。根本の落ち葉の下にはオオムラサキの幼虫がいるはずです。

 陣場平入り口のインセクトホテル。越冬のための昆虫のホテルです。鞍骨山へ向かうという二人が登ってきました。熊は大丈夫でしょうかと。普通なら冬眠する頃ですが今年は暖かいので。でも里に下っても食べ物はないので大丈夫でしょうと。

 冬枯れの陣場平。上杉謙信が七棟の陣小屋を建てたと伝わる場所。妻女山里山デザイン・プロジェクトが貝母(編笠百合)の群生地を保護しているところです。夏に球根を大量に移植したので来春が楽しみです。満開は4月の10〜20日頃です。開花情報はこのブログでお知らせします。満開の様子は左のアーカイブで4月をご覧ください。

 堂平大塚古墳へ。以前傷ついた子鹿が中に隠れていたことがあったそうです。今日はだれもいませんでした。

 その脇にあるログハウス。今月の納会で使わせてもらいました。一応掃除もして草も刈ったのですが、周りの藪や雑木は処理した方が良さそうです。

 下山の途中で森林組合が伐採した大きな赤松が。根本に木材腐朽菌の大きなキノコがあるので、いつ倒れてもおかしくないものでした。クヌギやヤマザクラも伐採されていました。春先に湿雪が大量に降ると倒木が出るのでそれも処理しないといけません。来春はどんな気候になるのでしょう。

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直木賞作家、山崎豊子の『沈まぬ太陽』のモデル小倉寛太郎さんの思い出『サバンナの風』。「自然の中の人類の位置を見直す」(妻女山里山通信)

2023-12-23 | アウトドア・ネイチャーフォト
■2009年10月21日にアップした記事です。アクセスが結構あるのでリライトと追記して再アップします。私には人生で身内以外で生き方を揺さぶられた人が二人います。一人は作家になる前の村上春樹さん。もう一人が小倉寛太郎さんです。限られた人生は出会いが全てなのかなと思います。彼ら二人との出会いは私の人生をある意味決定づけたといえるかも知れません。


『サバンナの風』1993年3月30日刊   写真集『サバンナの光』1996年10月1日刊  サバンナクラブ編

 映画『沈まぬ太陽』(原作:山崎豊子)が10月24日(2009年)に公開されます。そのモデルが小倉寛太郎さんであることは有名です。作品は、「モデル小説」という事実を元にしたフィクションですが、巷やマスコミの関心は、各登場人物が実在の人物ではだれか、事実はどうだったのかというような点に集約され、報道も過熱しました。
 基本的に私は、『沈まぬ太陽』は、あくまでもフィクションだと思っています。真実に近づきたいならば、あらゆる立場の人に取材した緻密で公平なノンフィクションの本を作るべきでしょう。
 ここでは、氏の経歴とかではなく、私が二冊の本を通じて関わり、体験したことを綴ってみようと思います。

 私が小倉さんと出会ったのは、確か1991年の後半か92年の初めだったと思います。氏が主催していた「サバンナクラブー東アフリカ友の会」の本を作りたいということで、仕事をすることになりました。私はアートディレクター、デザイナー、エディトリアルディレクターとして参加しました。

 なんといっても(JALで)ナイロビ左遷の憂き目にあった小倉さんですが、「捨てる神あれば拾う神あり」。アフリカの水は氏にピッタリと合ったようです。もし、アフリカに出会わなければ氏の人生は、労働運動活動家としてだけの、実に味気ないものになっていたに相違ありません。「アフリカの水を飲んだものは必ずアフリカに帰る」という言葉があるように、氏もまたその幸せなひとりだったのです。

 本の名前は、『サバンナの風』。クラブの会員には、いわゆる有名人も多く掲載順や写真の選定、トリミングなどには非常に神経を使いました。既に高名なプロの写真家もいらして、そういう方の写真はギリギリまで寄って余計なものが全く写っていないので、基本的にノートリミングで使うしかないのですが、本の版形と写真の版形は違うため、版面いっぱいに断ち切りで使おうとすると、周り3ミリのどぶ(製本の際に断ち切られてしまう部分)でさえとるのが難しいという状況さえ出てきます。絶対に切れない一方に白場を設けてキャプションを入れることにしました。

 ある日小倉さんから、「岩合さんの所へ行って写真借りてきてください。」と言われました。「岩合さんといえばライオンですね。ぜひ、これといういい写真を借りてきてくださいね。」
 いい写真ねえ。ライオンなんて動物園でしか見たことがないし、どういう写真があるかも分からないし。ええいままよと岩合光昭さんの事務所に出かけたのでした。

 岩合さんの事務所では、ご自身が膨大なライオンのまだマウントもしていない撮りたてのリバーサルフィルムをゴソッと出してくれました。私はルーペを片手にライトボックスに次々にフィルムを乗せて膨大な量のカットを見ていきました。さすがです、『ナショナル・ジオグラフィック』にライオンの写真が特集された方ですから。どのカットもライオンの姿形の迫力が手に取るように伝わってきます。しかし、もうひとつピンッとくるものに出会えない…。共通の知人の話や、アフリカと私が行ったアマゾンの違いなどを話ながら、選定を進めましたが、どうにも出会えません。思わずひとりで唸ってしまいました。

 そんな時、赤ちゃんライオンのカットを見ていて、「赤ん坊のライオンて、親とは毛質がぜんぜん違うんですね。」と岩合さんに話しかけました。「ああ、そうなんだよ。分かる?」といって、奥から別のフィルムを持ってきてくれました。それは、4頭のライオンがやっと倒して仰向けになったバッファローに食いついているというものでした。しかも、天を向いたバッファローのアゴ先には、子供のライオンが必死の形相でかみついています。これだ!と思いました。連写の中から一番のカットを選び出し、「これお借りします。」と言って意気揚々と帰路に就きました。
 「よくこの写真借りられましたね。いい写真ですよ。」小倉さんの笑顔を見て、私は一気に苦労が吹き飛びました。


 困ったのは、会長をされていた作家の戸川幸夫さんに『サバンナの風』の題字を書いてもらってきてと言われた時でした。動物を主人公とした「動物文学」を確立させた方で、イリオモテヤマネコの学術的発見の手がかりを得た方でもあります。子供の頃に『少年サンデー』や『少年マガジン』の原作や学校の図書館にあった小説で、私にも非常に馴染みの深い方でした。それだけに、毛筆で題字を書いてもらうなんて、気むずかしい人だったらどうしようと思いながら出かけたのでした。

 ところが、氏は非常に物静かな方で、こちらの無理なお願いにも心易く書いてくださいました。ところが、ところが、なかなか題字にできそうな字があがってこないのです。特に風という字がしっくりこないんです。何度も何度もお願いして書いていただき、最後は風という文字だけたくさん書いてもらいました。書道ではないので、結局たくさん書いていただいた文字から「サバンナ」「の」「風」の文字のいいものを選び出して組み合わせることにしました。この件に関しては小倉さんも苦笑していたのを覚えています。

 小倉さんは、非常に緻密な方で、「写真もまず標本写真として通用すること」が基本です。まあ面白くもない写真にもなりがちですが、いわゆるイメージカット風はダメなんですね。また、私が全編写真ばかりなので奥付にはイラストを使いたいと思い、昔の欧州の画家が描いたアフリカの動物の木版画やエッチングを持参し、小倉さんに見せたのですが、全てボツになりました。理由は生物学的に間違っているからということでした。そして、ひとつひとつのイラストを指し示し、その生物学的な間違い箇所を説明してくれました。納得せざるを得ませんでしたが、私は困ってしまいました。すると見かねたのか、「私の絵を使ってください。」とのこと。「えっ! 絵も描かれるんですか?」と伺うと、「つたない絵ですけど。」といって後日何点かペン画を持ってきてくださいました。そして、その中から私が気に入った一点を使わせていただきました。


 仕事が一段落すると、小倉さんとはよく雑談をしました。アフリカや私が放浪したアマゾンの話、自然保護の話、ハンティングを銃からカメラに持ち替えた話、アフリカの動物はほとんど食べたという話、アフリカを撮る写真家は多いのに、なぜアマゾンを撮る写真家は少ないのかという話、アフリカンに嫁いだ日本女性の話、アフリカを訪れた日本人観光客の面白い話など話題は尽きませんでした。前者の女性は、東京でアフリカ人の男性に出会って恋に落ち結婚したのですが、アフリカの彼の家に行ってみると奥さんがすでに10人ぐらいいたとかいう話です。一夫多妻を知らなかったのですね。後者は、ある朝サバンナに行くと向こうから明らかに日本人旅行者と思われる男性が物凄い形相で駆けてきたそうです。車を降りるとパニックの形相で、昨日ツアーで来たが置いていかれた。岩陰に隠れたが、獣の唸り声が聞こえて一睡もできなかったと英語でまくし立てたそうです。私は日本人です大丈夫ですよと言ったが、彼はそんなことは頭に入らず英語でわめき続けたそうです。今でも人なつっこい小倉さんの笑顔と、アフリカを語るときの情熱的な眼差しは忘れることができません。

 70年代のアフリカの話ですが、「田舎の娘がナイロビのクラブにほとんど裸で出勤してくるんですよ。そして服を着て舞台に出る。踊りながら裸になって踊る。家に帰る時は、また裸になって帰るんです。」急速な近代化を迎えたアフリカのちょっと哀しい笑い話もしてくれました。
 ナイロビに住んでいても野生動物を見たことがない人もいるんです。実際、来日して上野動物園で始めて実物のライオンを見たというアフリカンもいるんですよ。」と。

 『サバンナの風』の氏の文章の一節に、好きな言葉として、こういう一文があります。
「ここ東アフリカの大地に立つと、夜空を仰いでは天文学者になればよかったなあと思い、大地の亀裂、大地溝帯の不思議さを見て、ああ地理学者でもよかったなあと思う。原野を走る動物を見て、そうだ、動物学者という手もあった。目を落として足元の花を見て、植物学者でもよかった…と。」
 こんな風に思わせるのが、東アフリカの自然なのです、と。

 アフリカを通じて、「自然の中の人類の位置を見直す。」ということを訴え続けた方でした。

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 映画『沈まぬ太陽』は、2009年に主演・渡辺謙が主人公の恩地元を演じました。
「日本のナショナル・フラッグ・キャリアである大手航空会社「国民航空」社員で同社の労働組合委員長を務めた恩地元と彼を取り巻く人々の描写を通して、人の生命にかかわる航空会社の社会倫理を表現した作品である。日本航空とその元社員である小倉寛太郎、単独機の事故として史上最悪の死者を出した日本航空123便墜落事故などがモデルとされている。実在の複数の人物が登場人物のモデルとなったとの推測があるが、山崎豊子は公式には認めていない。しかし、山崎豊子は多くの日本航空関係者にインタビューを実施している。」Wikipedia
 ただ氏は事故原因や事故後の補償問題も含めて、JAL123便墜落事故には一切関わっていません。
「定年退職後は長い僻地勤務の経験からアフリカ研究家、動物写真家、随筆家として活躍。ケニア政府とウガンダ政府からは野生生物保全管理官(名誉ウォーデン)に任ぜられた。1976年には戸川幸夫、羽仁進、渥美清、田中光常、小原秀雄、増井光子、渡辺貞夫、岩合光昭ら東アフリカの自然と人を愛する同好の士を集めて「サバンナクラブ」を発足させ、事務局長を務めている。2002年(平成14年)10月、肺癌で死去(72歳)。 Wikipedia
 他にメンバーではいかりや長介、岡崎友紀、見城美枝子、久保田利伸など。個人的には『サバンナの風』の出版記念パーティーで岡崎友紀さんと少しお話できたことが最高の思い出でした。大ヒットした「おくさまは18歳」(最高視聴率33.1%)とか長野の田舎でテレビで見ていた国民的アイドルであこがれのスターでしたから。出版記念パーティーは、著名な方々やクラブの会員の方々が大勢集まり、掲載された写真が飾られ、それは賑やかなものでした。小倉さんから私も紹介され栄誉をあずかりました。『サバンナの風』には、上記の方々のアフリカの写真やアフリカへの熱い想いが載っています。ネットで中古本が買えます。

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 知り合って間もない頃、打ち合わせをしていて小倉さんが、「アフリカ行ったことないですよね。でも若いのになんでそんなに世界の事知っているんですか」と言われたことがありました。そこで、南米、アマゾンとアンデス200日の放浪のことを話しました。あーなるほどと頷かれ、それから仕事の話が一気にスムーズに運ぶようになったのです。
 ある時、本に載せる小倉さんの写真を選ぶためにご自宅にお邪魔したことがありました。アフリカや生物学、動物学などの膨大な書籍が収められた書架が並ぶ氏の書斎で膨大な量のリバーサルフィルムを観ながら選定を始めました。驚きましたその膨大な量に。そして氏の几帳面さを感じさせる図鑑に載せてもいいほどのクオリティ。私はそうではない遊びのある写真も好きなのでいやあ本当に生真面目な人なんだなあと思いました。アートディレクターの目線はもっと幅が広いのです。ただ、氏の写真は動物に対する愛があるので冷たくはないのです。それが本当に素晴らしいなと思いました。奥様も写真を撮られていて写真集に載っているのですが、タイトルがユーモアがあって好きでした。その後、だんだん打ち合わせ以外の話が増えていったのを懐かしく思い出します。それは楽しい充実した時間でした。彼が常々言っておられた「自然の中の人類の位置を見直す。」それは今にも通じる命題です。


 小倉さんの写真。

1999年駒場祭講演会・小倉寛太郎「私の歩んできた道」:ぜひ読んでほしい講演です

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『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、
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妻女山の真実 ー妻女山は往古赤坂山であった。本当の妻女山は斎場山である。ー

2023-12-15 | 歴史・地理・雑学
■この記事は、2008年の長野郷土史研究会会誌『長野』第259号に掲載された私の小論文です。
 斎場山が妻女山と改名され、後に別の山に移ってしまうという数奇な運命に翻弄された歴史ある里山の話。
 川中島の戦いや古代科野のクニに興味がある方はぜひご一読を。



はじめに
 妻女山は、第四次川中島合戦で有名になった山であるが、麓の岩野や土口では、古来より本当の妻女山というものが言い伝えられており、往古は斎場山といった。しかし、現在その山は、国土地理院の地形図において測量もされず名無しという誠に憂うべき状況にある。地元では、そのことに長い間危惧の念を抱いてきた。
 本来の妻女山が誤解された理由については、大きく四つある。ひとつ目は、軍学書であるが故に誤記も多いとされる『甲陽軍鑑』に、妻女山を西條山と記され、それが広まってしまったこと。この書には、「年号万次第不同みだり候へども、それを許し給いて」とか「人の雑談にて書記候へば、定て相違なる事ばかり多きは必定なれども」とか断り書きがあるように口述筆記のためか誤記が多い。二つ目は、江戸時代中期後半の歌舞伎や浮世絵による川中島ブームで、本来の斎場山という名称が、妻女山という俗名に置き換えられてしまったこと。三つ目は、明治2年に戊辰戦争の英霊を祀るために建立された赤坂山の招魂社が、「妻女山松代招魂社」と命名され、妻女山の名称が、本来の山から赤坂山に移ってしまったこと。四つ目は、昭和47年の国土地理院の地形図改訂の折に赤坂山の位置を妻女山と記載され、それが全国的に定着してしまったということ。
 ここでは、妻女山の位置と名称の変遷を、史料や地元の伝承等を元に解き明かしてみたい。
 
一 妻女山は、往古斎場山であった
 まず、史料や地元の村誌に記されている妻女山について記したい。
 現在、国土地理院の地形図に記載されている標高411メートルの妻女山は、本来は赤坂山といい、本当の妻女山の支尾根にある頂である。本当の妻女山は、それより20分ほど南西に登った、標高513メートルの円墳(斎場山古墳)のある頂である。地名は天上といい、西の支尾根に標高437.7メートルの薬師山(笹崎山)をもち、頂上から東西に伸びる尾根を含めて斎場(妻女)山脈という。妻女山は、往古斎場山といい、祭場山となり、妻女山となる。
 妻女山の位置と名称については、諸説あるわけではない。江戸時代以前まで妻女山とよばれていた本来の妻女山(本名は斎場山、妻女山は俗名)513メートルと、江戸時代初期以前は、赤坂山、または単に赤坂と呼ばれ、明治2年松代招魂社建立後から妻女山と呼ばれるようになった現妻女山、411メートルがあるだけである。それ以外に地元で妻女山と呼ばれた山は存在しない。
『信濃宝鑑』中巻によると、「【妻女山】まことは斎場山なるべし、上古県主及び郡司(或は田村将軍東夷征伐の際とも云ふ)などの天神地祗を祭れる壇上の意ならん。今岩野・清野・土ロの三村に跨りて峠立せり、即ち、岩野は、斎野(いはひの)・清野は須賀野にて清く須賀須賀しき野の意なるべし、然して土ロは祭壇への登りロの意ならん。現今、古墳やうのもの多きは、皆祭壇にてこれ穿てば祭器古鏃を出だすを以ても上古の斎場たる事知る可きなり、後永禄年中甲越合戦の際上杉謙信の陣を張れる処たり。」とある。
 また、『信濃史料叢書』第四巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺においては、「上杉謙信は村上が頼に依て、武田家と鋒を争う事数度、斯て永禄四年八月十六日、上杉が軍中山八宿を越え、海津城西妻女山へ人数を引揚げ備を立て、武田家の変易を待つ、其備立記、一、赤坂の上、甘粕近江守陣場也。一、伊勢宮の上、柿崎和泉守陣場也。一、月夜平、謙信が従臣多く是に陣す。一、千ヶ窪の上の方、柴田道壽軒が陣也。一、笹崎の上薬師の宮、謙信本陣也。此下東風越と云う所あり、其下北にをりて十四五間行て水あり。」とある。赤坂の上とは、現妻女山のことであり、伊勢宮とは岩野字西幅下に伊勢宮があったと祖母の伝聞あり。月夜平とは、清野の会田集落の上の字名。千ヶ窪の上の方とは、清野小学校の南の奥まった所の上ということで、地元で陣場平と称する標高520メートルの高原を指す。笹崎の上とは、薬師山から斎場山までの長尾根をいいう。東風越とは、岩野と土口の間にある斎場山東の峠のこと。北に下りると謙信槍尻之泉がある。
 備立覺の続きには、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」と記されているが、その前記には、「同九月九日の夜、信玄公の先鋒潜に西條山の西山陰に陣す。」とある。西條山とは狼煙山のことであり、西條山が本来の名称で、狼煙山は信玄由来の俗名であろう。甲陽軍鑑の誤記は、ひとつの推理を生む。それは、戦国当時「さいじょざん」ではなく「さいじょうざん」と呼んでいたのではないかということだ。「さいじょ」ならば、西條という文字は浮かばない。然るに、妻女山は近世の創作による呼び名であろうと推測できるのである。
『長野県町村誌』第二巻東信篇の【岩野】では、「本村古時磯部郷(和名抄にあり)に属す。里俗傳に斎野村たり(斎場山は本村起源の地ならんか)延徳の頃(1489~1491)上野村と名す。寛文六年(1666)岩野村と改称す。附言、里俗傳に、往古斎場山に會津比賣神社あり。土地創々神にして土人の古書にも當郷に深き由縁ある神にて、貞観中(859~877)埴科大領、外従五位下金刺貞長の領地たり。蓋其際官祭の社にして、郡中一般祭典を施行せしものか、今に至り斎場山の麓に斎場原と称する地あり。此地字を以て村名を斎野村と称せしなるべし。」とある。
 また、妻女山については、「山【妻女山】高及び周囲未だ実測を経ず。村の南の方にあり。嶺上より界し、東は清野村に属し、西南は土口村に属し、北は本村に属す。山脈、南は西條山に連り、西は生萱村の山に接す。樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。渓水一條、中間より発す。細流にして本村に至りて湧く。」とある。「樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。」とは、外部の人には、まずどこか分からない記述であるが、これは岩野駅南の山裏(山浦)から前坂を登って韮崎からの尾根に乗り、斎場山(妻女山)へ登る急な山道のことである。養蚕が盛んな時代は、数十キロの肥料を背負ってこの道を登ったという。現在はほとんど登る人はいないが、この記述により妻女山は斎場山であったということが分かる。西南は土口という記述からも明白である。「渓水一條」とは、もちろん上杉謙信槍尻の泉のことである。
 また、「古跡【斎場山】本村の南より東に連り、祭祀壇凡四十九箇あり。故に里俗傳に、此地は古昔国造の始より続き、埴科郡領の斎場斎壇を設けて、郡中一般袷祭したる所にして、旧蹟多く遺る所の地なり、確乎たらず。」とあり、(注=斎場山から御陵願平、土口将軍塚古墳にかけての記述)古跡の続きでは、「【上杉謙信陣営跡】 本村南斎場山に属す。永禄四年(1561年9月此処に陣すること数日、海津陣営の炊烟を観、敵軍の機を察し、夜中千曲川を渡り、翌日大に川中島に戦うこと、世の知る所なり。山の中央南部に高原あり、陣場平と称す。此西北の隅を本陣となし、謙信床几場と云あり、今誤って荘厳塚と云う。」とある。(注=陣場平から斎場山にかけての記述・南より東に連なりとは、字妻女・妻女山のこと。)
 以後町誌市誌県誌のほとんどは、この報告を元に記されているようだ。[山]妻女山と[古跡]斎場山と記載があるが、同じ山頂のことである。妻女山が赤坂山のことであれば、土口とは境を接しない。[古跡]上杉謙信陣営跡も同じ山頂であり、床几塚のことである。謙信台ともいう。斎場山の地名は、天上であり、地元では御天上という。謙信陣営跡の記載で「本村南斎場山に属す。」とあるが、「本村、南斎場山に属す。」ではない。「本村南、斎場山に属す。」である。南斎場山などという地名はない。また、「誤って荘厳塚という。」とあるが、荘厳塚は正しくは土口将軍塚古墳のことである。「山の中央南部に高原あり、陣場平と称す。」という記述により、斎場山を起点として南に陣場平があるということが分かる。「西北の隅」は、もちろん斎場山である。
 本来の妻女山については、小林計一郎先生の『川中島の戦』甲信越戦国史の記載を外すわけにはいかない。「妻女山(松代町長野電鉄又はバス岩野下車)松代と屋代との間、長野電鉄岩野駅の南にそぴえる山である。山上に古墳があり、また旗塚と称せられる小円墳がたくさんある。永禄四年謙信が本陣をすえた所であるという。妻女山の支山赤坂山には招魂社があり、ふつうこの赤坂山を妻女山と言っているが、本当の妻女山は地図に見えるとおり赤坂山より高い山であり、赤坂山と笹崎山はその支山である。」と記されておられる。同書116頁の「川中島の戦のようす<五 永禄四年の激戦>妻女山・海津城の対陣」の写真に「海津城から見た妻女山(○印)」とあるが、○印は、本来の妻女山(斎場山)の上にある。但し、この海津城から見た妻女山が、大正元年陸軍参謀本部陸地測量部測量の五万分の一「長野」の誤記載を生んだのではとも考えている。海津城から見ると、妻女山は天城山(てしろやま)から現妻女山(赤坂山)への尾根上にあるように見える。しかし、実際は尾根の向こうの東風越を挟んで400メートルほど西にあるのである。この見え方が、大正時代の地形図にあるはずもない546メートルの山頂を誤って作らせたのではと考えている。実際は、その場所にはピークは昔も今も存在しない。しかも、546は、単なる標高点であり山頂の印ではない。昭和35年の改訂版では、山頂の閉じた等高線は誤記載のままだが、標高点の記載は無くなっている。現地系図では、その山さえない。
 現妻女山については、『真田史料集』に、「松代招魂社を祀る 長野県信濃国埴科郡清野村字妻女山鎮座 官祭 松代招魂社『明治2年己巳4月17日藩戦死者の英魂を妻女山頭に鎮祭して松代招魂社と称す』」とある。妻女山頭であり、字妻女山なのである。頭(かしら)とは山頂ではなく、山頂に至る尾根の出っ張った所をいう。招魂社の裏を境に、清野側を字妻女山、岩野側を字妻女という。本来の妻女山は、字妻女にあり、清野側の字妻女山にはない。招魂社の場所の地名は、赤坂山である。ところが、妻女という地名は、岩野の山裏や清野の字妻女山にもある。実にややこしく、地元でも全てを把握している人は、地権者を除けばほとんどいないであろう。地元の人も現妻女山を赤坂山とは呼ばずに、妻女山と呼んで久しい。それは、字妻女山をもって妻女山と呼んでいるのである。本来の妻女山は、子供の頃より「本当の妻女山」という呼び方で上級生や親から教えられてきた。


 
二 斎場山について
 大きな誤解の元は、江戸時代から現代まで、戦国時代の妻女山にばかり興味のスポットライトが当てられてしまった事である。
 斎場山は、古代科野国造(しなののくにのみやつこ)がお祀りしたところといわれており、歴史的に重要なところといわれる。その科野国造が、崇神天皇の代に、大和朝廷より科野国の国造に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔の建五百建命(タケイオタツノミコト)であるといわれている。国府が小県に移る以前には、屋代、或いは雨宮辺りにあったという説もある。
 昭和四年発刊の松代町史には、森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓であるという説が記されている。妻女山の麓にある會津比売神社の祭神・會津比売は、建五百建命の后であるという。よって信濃国造がお祀りした斎場山の麓(往古は山上にあったという)に神社を建立したといわれている。
 建五百建命には二人の息子がいたといわれる。兄は速瓶玉命(ヤミカタマノミコト)といい、阿蘇の地にくだり、崇神天皇の代に阿蘇国造を賜る。弟の健稲背命(タケイイナセノミコト)は科野国造を賜ったという。健稲背命の系図は、科野国造、舎人、諏訪評督、郡領、さらに諏訪神社を祭る金刺、神氏という信濃の名門へと続くものである。いずれも未だ神話の域を完全には出ないものであるが、記しておきたい。
 原初科野は、埴科と更級辺りであったといわれる。斎場山は、森将軍塚古墳のある大穴山と共にその中心にある。長野県考古学会長であられた故藤森栄一氏は、『古墳の時代』の中において、「四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生式後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前線基地となっていたことは事実である。」と記しておられる。その痕跡は、森将軍塚古墳・川柳将軍塚古墳・土口将軍塚古墳などに見ることができる。
 そして、5世紀には、大陸から渡来人と共に馬が到来し、6世紀から11世紀にかけて信濃は牧馬の中心地となる。その機動力により、朝廷の権力が地方にも早く確実に届くようになり、次第に古い国造の治外法権を奪っていき、国造は、大化改新を経て、後に律令管制が布かれ、諸国に国司・郡司が置かれるに至っては、祭礼のみを司る象徴的な役目へと変貌したといわれている。
 その中で、雨宮廃寺と雨宮坐日吉神社、笹崎山(一名薬王山)政源密寺と會津比賣(会津比売)神社の関係など、仏教が伝来し、盛んになった大和・奈良時代から、平安時代における菅原道真の建議による遣唐使の廃止により神道の隆盛と国風回帰、それに伴う寺社の盛衰等が、此の地でもあったと思われる。
 1996(平成8)年、會津比賣神社新社殿建立の折りに「妻女権現」と記された木札が確認されている。斎場山(妻女山)古墳と會津比賣命の関係を示すものとして興味深い。往古會津比賣神社が斎場山の山上にあり、斎場山古墳は會津比賣命の墳墓であるという伝説もある(土口将軍塚という説もある)。
 昭和59年12月20日に記された『會津比賣神社御由緒』には、會津比賣は、「信濃国造・建五百建命の妻であり、現神社より三丁余り南の山腹に二神の住居があったと伝えられる。」と記している。また、雨宮坐日吉神社(あめのみやにいますひえじんじゃ)の三年に一度の春季大祭(御神事)においては、清野氏の屋敷があったとされる海津城内へ移動して踊る「城踊り」が奉納された。その際、周辺の寺々を巡り、清野の「倉やしき」、岩野・土口などといった旧家で踊りも奉納していたという。雨宮の御神事の「橋がかりの踊り」は、沢山川(生仁川)の「斎場橋」で行われるが、斎場橋は、「郡司」が雨宮から斎場山へ参る際に渡る橋としての命名かと思われる。往古斎場山の表参道は南であり、そのため祭壇への登り口の意味で土口という地名があるという。會津比賣命の墓については、「神社の上、斎場山脈の頂上の西方にある、荘厳塚と称する所の御車形山稜が命の墓なり」と記されている。「郡司」については、『日本三代実録』貞観四年(862)三月の項に「三月戊子(廿日)信濃国埴科郡大領金刺舎人正長(かなさしのとねりまさなが)・小県郡権少領外正八位下 他国舎人藤雄等並授、借外従五位下」とある。里俗伝によると、埴科郡の郡司の筆頭・大領の金刺舎人正長が大穴郷(森・雨宮・土口)にいたということである。
 1982~1986年にかけて、長野市と更埴市(現千曲市)の教育委員会による土口将軍塚古墳の合同調査がなされたが、その報告書には、土口将軍塚は岩野と土口の境にある妻女山から西方に張り出した支脈の突端にあると記してある。つまり、円墳のある頂が、往古の妻女山であり斎場山なのである。それ以外に本来の妻女山はない。尚、前記したように、斎場山が本来の名称であり、妻女山は後世の俗名である。
 平成19年2月7日に、土口将軍塚は、埴科古墳群のひとつとして国指定史跡となった。信濃の国の起源とされる科野の国の史跡としての重要性が認められたのであろう。つまり、現在名無しである斎場山の地形図への山名記載が一層重要なものとなってきたわけである。土口将軍塚、斎場山古墳や天城山(てしろやま)の坂山古墳、堂平古墳群などもいずれ詳細な学術調査研究が為されることを期待したい。尚、『長野県町村字地名大鑑』の字図には、斎場山(円墳)の場所に妻女山とはっきりと明記されている。
 
三 妻女山(斎場山)への想い
 岩野は、古代科野の国の起源の地のひとつとして重要な場所であったが、その後、岩野村誌には、「養和元年(1181)6月、木曽義仲が平家方の城資茂の大軍と横田川原に戦う時に、ここ笹崎山に陣を取り、大勝の後、戦死者のために守本尊『袖振先手観音』を安置。(源平盛衰記)その後里俗、石像薬師仏建立する。」とある。また、応永七年(1400)には、信濃の新守護(婆娑羅大名)小笠原長秀と村上満信、仁科氏ら国人衆たちの大文字一揆党が戦った大塔合戦もあった。そして村上氏が勝利し、善光寺平を支配した。
 その後は、周知のように川中島合戦の激戦地となった訳である。また、『類聚三代格』一七赦除事・仁和四年五月廿八日詔によると、仁和四年頃(888)には、千曲川の大洪水に見舞われている。その後も度々洪水に襲われ、近世においては、寛保二年(1742)に有名な大洪水「戌の満水」が起きている。千曲川流域で2800人の死者、岩野でも160人が亡くなっている。その際に、全ての古文書、家系図、付宝のほぼ全てが流失してしまったという。その約百年後、弘化四年(1847)には、善光寺大地震があった。今ある人々は、その惨禍を生き抜いてきた人々の子孫なのである。
『會津比賣神社御由緒』のむすびには、こう記されている。「此の地に生まれ育ちて、地についた神格たる産土神(うぶすながみ)を、朝な夕な尊崇し奉る人々の幸を、ひしひしと身に覚ゆる次第なり。」と。妻女山(斎場山)の真実が、未知なる科野の国の古代史と共に更に解明され、広く人々に知れ渡ることを祈るのみである。

(注)細部で追記が必要な記述もありますが、大意に影響がないため未修正で載せました。文字数の制限があり記したいことの全ては書けませんでした。例えば妻女山の初出は幕府が作らせた天保国絵図です。慶長国絵図は現存しないので確認不可。松代藩がなぜ斎場山を妻女山と改称して申請したかなど書きたかったのですが。別のブログ記事では既に書いていると思います。

参考文献:『信濃宝鑑』中巻 (株)歴史図書社 昭和49年8月30日刊
     『信濃史料叢書』第四巻 1913(大正二)年編纂全五巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺
     『長野県町村誌』第二巻東信篇 昭和11年発行 調査=明治13年 岩野戸長窪田金作氏への聞き取り調査より
     『長野県町村字地名大鑑』長野県地名研究所 昭和62年11月3日刊
     『真田史料集』天保一四(1843)年 信濃国松代城主真田氏編集 重臣河原綱徳編集主任
     『川中島の戦』甲信越戦国史 小林計一郎著 長野郷土史研究会発行
     『會津比賣神社御由緒』考古学者柳沢和恵先生監修 雨宮坐日吉神社及び會津比賣神社片岡三郎宮司監修 岩野編纂
     「藤森栄一全集第11巻」『古墳の時代』

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妻女山里山デザイン・プロジェクト2023最後の作業と納会。激旨海鮮鍋、蒸し牡蠣など(妻女山里山通信)

2023-12-11 | 男の料理・グルメ
 最高気温が15度の暖かい冬の日。妻女山SDPの今年最後の作業を行いました。そして納会。寒風もなく穏やかな日でした。

 まず作業をする陣場平へ。彼らが見ているのは二つ前の記事で紹介しましたが、森林組合が赤松を伐採して燻蒸している白いビニール。妻女山山系のあちこちにあります。

 駆除するのはこのチカラシバ(イネ科)。かなり種がこぼれてしまっているのが気がかりです。シャベルで根の周りをザクッと切って根を掘り起こします。大量の土がついてくるのでジャベルに叩きつけて落とします。

 ここは夏に保護活動をしている貝母(編笠百合)の球根を移植したところです。球根を傷つけないように作業しています。ここ何年も周囲に散った球根を掘り起こしては中央部に植え替えてきたので毎年数が増えています。来年の4月の満開時はそれは見事な花園が見られるでしょう。貝母が満開の様子は、左のアーカイブから4月をクリックしてご覧ください。それは見事です。

 積み上げていきます。この3倍ぐらいを掘り起こしました。まさかエノコログサ(猫じゃらし)の除去の後にチカラシバが繁茂するとは思いませんでした。イネ科の植物は有害帰化植物と同様に非常に厄介です。

 ほぼ作業は終了。他に飛び散ったものも掘り起こして作業は終了。1時間はかかりませんでした。納会を行うログハウスへ移動します。この陣場平は、第四次川中島の戦いで上杉謙信が本陣とした場所です。そんなわけで歴史マニアもこのブログを見て訪れます。三つ前の記事で『甲陽軍鑑』の編者・小幡景憲が描いたここに本陣がある絵図を紹介しています。

 まず掃除をしてテーブルや椅子を水拭きして宴の準備です。ノンアルコールビールで乾杯。

 メインの海鮮鍋。赤海老、牡蠣、帆立、鱈の白子、ムキタケ、ハナイグチ、白菜、長葱。出汁は昆布鰹。フランス産の塩で味付け。それぞれの海鮮から出汁が出て、キノコの出汁と相まって激旨でした。海と山のマリアージュ。食べた後はキムチの汁を加えて残りのキノコも足して煮込みうどんでしめにしました。満足です。

 蒸し牡蠣。

 シンプルですが、これが一番美味い。

 赤海老の炭火焼き。殻まで食べられます。まあ人間はキチン質は消化できませんが。旨味はあります。焼いた殻を粉砕して塩を混ぜると海老塩ができます。

各自が作ってきた自家製の副菜。イカとキュウリ、ワカメの酢の物。大根のキムチ、長芋のポン酢醤油漬け。これに手作りの醤油豆もありました。土産は規格外のふじリンゴ。収穫が遅いため実がしまって密がたっぷりで、やはりリンゴの大様だと思いました。以前もらってぼけたリンゴは、赤ワイン、水、蜂蜜、シナモン、レモン汁で煮てコンポートにしました。バニラアイスといただくと馬鹿旨です。

 先月個展をやったメンバーが、新作2点を持ってきました。これは野尻湖。遊覧船が停泊する弁天島。すごく横長の構図がいいですね。

 信濃町から見る戸隠連峰。右奥が高妻山。実はメンバーはほとんどが高校時代に美術班にいました。当時は油絵を描いていました。夏合宿では、戸隠や奥志賀へキャンバスを抱えて描きに行きました。

 皆山仕事の道具や食材を積んで車で登ってきましたが、慣れているからできるのでお勧めしません。林道がかなり荒れているので来年はその整備もしようと決まりました。本来は行政がやるべきなんですが、長野県の林道の多さを考えたら現実的ではありません。そこで我々のボランティア活動が必要になってくるのです。こんな風に里山保全の活動をしている人達は長野県中にいると思います。

 数日前に強風の日があったので、落葉松の葉もずいぶんと散りました。

 下山します。長坂峠から斎場山(旧妻女山)。手前の落葉した黒い木はエノキ(榎)。樹下の落ち葉の下にはオオムラサキの幼虫がいるはずです。

 妻女山松代招魂社。瓦屋根を葺き直す作業が始まっています。周りのソメイヨシノはすべて落葉しました。暖冬なので1月いっぱいぐらいは大雪は無さそうです。逆に2月に入っての上雪(かみゆき)が心配です。2014年の大豪雪の冬がまさにこんなでした。

インスタグラムはこちらをクリックツイッターはこちらをクリックYouTubeはこちらをクリックもう一つの古いチャンネルはこちら。76本のトレッキングやネイチャーフォト(昆虫や粘菌など)、ブラジル・アマゾン・アンデスのスライドショー

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、
『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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宮本佳林。ハロプロの元Juice=Juiceのオリジナルメンバーのセンターだった宮本佳林特集。現在はソロで絶賛活動中(妻女山里山通信)

2023-12-08 | BABYMETAL・LOVEBITES・ジャズ・宮本佳林・クラシック

 SBCの「ずくだせテレビ」に出たとき私がBABYMETALやJuice=Juiceが好きなんですと言ったら島田秀平さんが押しは誰ですかというので宮本佳林ですと言ったら、すみません存じ上げませんと。はあ!? オリジナルメンバーのセンターなんですが。というわけで宮本佳林特集です。世が世なら松田聖子や中森明菜、松浦亜弥ぐらいの人気者になったと思います。動画は重くなるため小さいサイズです。YouTubeでフルサイズでご覧ください。

宮本佳林『バンビーナ・バンビーノ』Promotion Edit

最新シングル。昭和レトロな感じが新しくノリが良い。滑舌が良くて発音が綺麗。

宮本佳林 (Miyamoto Karin) - イイオンナごっこ / Ii onna gokko

イイオンナです。

ハロプロ25th Ultimate Juice=Juice 「ロマンスの途中 プラトニック・プラネット」

ハロプロ25周年記念コンサート。やはりJuice=Juiceのセンターは宮本佳林。新旧メンバーのコラボは感激。

♪宮本佳林『氷点下』(オリジナル曲)【2019年10月17日Zepp Tokyo】

この歌唱力。聴き惚れてしまうやろ。

宮本佳林の凄さ

凄さがよく分かる動画です。

天使のウィンク 宮本佳林 

彼女のカバーはカバーを遥かに超えている。

山中留美奈 (宮本佳林) - 『かいぶつのこども』 (2010)

こんな演劇に出ていたんだね。

Juice=Juice『Fiesta! Fiesta!』(ショートVer.)

メキシコ公演は大成功だった。

イザベラ (宮本佳林) - シンデレラの姉に転生 「悪嬢転生」

素晴らしい。

【Juice=Juice】VS宮本佳林8番勝負+1【Remaster】

つんくが宮本佳林をセンターとしてJuice=Juiceを作ったということがよく分かる。

【Juice=Juice】プラトニック・プラネット【Remaster】

Juice=Juiceの宮本佳林の集大成といえる名曲。

インスタグラムはこちらをクリックツイッターはこちらをクリックYouTubeはこちらをクリックもう一つの古いチャンネルはこちら。76本のトレッキングやネイチャーフォト(昆虫や粘菌など)、ブラジル・アマゾン・アンデスのスライドショー

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ピーカンの善光寺平。妻女山展望台から北アルプス、戸隠連峰、飯縄山、根子岳・四阿山の絶景。アオツヅラフジとノイバラ(妻女山里山通信)

2023-12-06 | アウトドア・ネイチャーフォト
 朝窓を開けると東はうろこ雲でしたが西は快晴。これはピーカンになると10時頃に晴れ渡ったのを見届けて妻女山に登りました。週末に行う今年最後の妻女山里山デザイン・プロジェクトの作業と納会の下見も兼ねています。

 仁科三山の爺ヶ岳(2670m)。南峰と本峰の間の白沢の上部には、春に種蒔きをする老爺の雪形が見られ、山名の由来となりました。雷鳥も生息します。爺ヶ岳には、栂山・栂谷ノ峯・後立山・五六ヶ岳・爺岳・爺子岳とたくさんの別称があります。手前の里山は、茶臼山などがある西山。

 鹿島槍ヶ岳(2889m)。山頂の右手の陰になっている谷には、平家の落人が隠れたというかくね里があり、上部の雪渓は2018年に長野県初の氷河であると認定されました。かくね里の人々は、やがて大川沢を下り鹿島川の辺りに住み、それが今の鹿島集落とか。ただ、鹿島神社には807年(大同2年)には集落があった記述があるそうで、平家追討以前にすでに集落があったことになります。戦国時代の天文年間の大地震で鹿島槍が大崩壊し、麓が大被害を受けたため、地震の神様である鹿島神社を勧請したともいわれています。

 北へ。白馬三山の左から白馬鑓ヶ岳(2903.11m)、杓子岳(2812m)。信里小学校とJAの建物や民家が見えます。最近ワイナリーの建物ができました。周囲には葡萄畑が広がっています。

 白馬三山全景。手前右は茶臼山の崩れた南峰。中腹から下には林檎畑が広がっています。サンふじなどの収穫は終わっていると思います。今年は猛暑で贈答用のリンゴが充分に集まらなかったそうです。

 これらの写真はこの妻女山展望台から撮影しています。411mと低いのですが、北アルプス、戸隠連峰、信越トレイル、笠ヶ岳、四阿山までの大パノラマが見られます。

 左斜め後方には斎場山(旧妻女山)。これから撮影機材と山仕事の道具を積んで林道を登ります。

 陣場平へ。第四次川中島の戦いで上杉軍が本陣の陣城を建てた場所です。先日、SBCの「ずくだせテレビ」に出演した時に島田秀平さんを案内しました。週末はチカラシバの除去作業をします。来春の貝母の開花が楽しみです。満開の様子は各年の4月の記事をアーカーイブでご覧ください。それは見事です。満開は4月10〜20日頃。手前の樫の木で作ったベンチに腰を掛けてゆっくりと鑑賞してください。高句麗人の積石塚古墳の横にも3つあります。下の駐車場から歩いて30〜40分ぐらいです。保育園児でも登れます。開花状況はこのブログでお知らせします。

 陣場平の中央にあるクマノミズキ。樹冠にはまだ実が残っています。実がついている枝の赤が鮮やか。小鳥の餌になります。ここで顔見知りの鳥に非常に詳しいご夫婦と邂逅。鳥談義をしているとイカルが来てきれいな鳴き声を聞かせてくれました。冬鳥がたくさんいてあちこちから鳴き声が聞こえます。

 先週から長野森林組合が松枯れ病対策で赤松の伐採と薬品の燻蒸をあちこちで行っています。被せてあるビニールは昔と違って自然分解性です。

 陣場平の入り口から林道。落ち葉で分からなくなりましたが、ベンチの手前は左右にニホンカモシカの獣道があります。時間が合えば見られます。左の三角のものは昆虫が冬ごもりするためのインセクトホテル。右手前の緑はゴヨウアケビでニホンカモシカの冬の餌になります。

 堂平大塚古墳のログハウスへ。週末使わせてもらうので掃除をしました。逆光の紅葉が美しい。麓は13度になった様ですが、山上は4度でした。寒風がないのが何よりでした。

 長坂峠に戻って歩いて斎場山へ。クヌギの枯れ葉と手前下にはヤマコウバシの枯れ葉。ヤマコウバシは春の新葉が出るまで落ちないので、受験生のお守りになっています。

「ずくだせテレビ」でも紹介した斎場山(旧妻女山)上杉謙信が最初に本陣としたと伝わる山。山頂は古代科野のクニの古墳です。

 円墳なので山頂は平で円形です。ここに盾を敷き床几を置いて陣幕を張って本陣とし、鼓を奏でたといわれています。ただ信玄が全軍を海津城にいれてしまったので、本陣を陣場平に移したと伝わっています。

 鮮やかなアオツヅラフジ(青葛藤)の青い実。毒草ですが、漢方では利尿、鎮痛薬として、民間薬では神経痛やリウマチ、通風、むくみ、膀胱炎などに用いられます。アルカロイドの一種が含まれるため、多量に接種すると呼吸不全、心臓麻痺、腎機能障害になる危険があります。クリスマスリースを作る時にも用いられます。
 万葉集では黒葛(つづら)という名で登場します。
「駿河の海 おしへに生(お)ふる 浜つづら 汝(いまし)を頼み 母に違(たが)ひぬ」東歌
(駿河の海に生えている浜つづらのように、長くいつまでもそなたを頼りにしていて母と仲違いしてしまった)

 ノイバラ(野茨)の赤い実。いわゆる野薔薇で芳香のある白い小さな花を咲かせます。しかし繁殖力が強く地下茎をのばすため、陣場平では貝母のために有害なので除去しています。また、これが登山道を塞ぐと登れなくなってしまいます。この赤い実は食べられますが。下剤としてつかわれる生薬なので過食は禁物です。アオツヅラフジもノイバラの実も食べる小鳥がいます。

 妻女山松代招魂社。戊辰戦争以降の戦没者を祀っています。瓦が落ちたりしたので屋根を葺き替える様です。
「戊辰戦争」の戦没者を祀る妻女山松代招魂社と松代藩の戦没者名簿(妻女山里山通信):戊辰戦争以降の経緯と明治時代の招魂社の貴重な写真も掲載。

 展望台に戻って北方の別名戸隠富士の高妻山(2,353m)。左奥に乙妻山。手前の戸隠山の崖が見応えがあります。その手前は富士ノ塔山の尾根です。

 飯縄山(1917m)。山頂は右の頂きです。左の南峰には飯縄神社の奥宮があります。祭神の飯縄権現(飯綱大明神)は、管狐(くがきつね)を使って術を行う飯縄遣(いいづなつかい)の仏神。山岳信仰が発祥といわれる神仏習合の神です。その姿は白狐に乗った烏天狗で、大日如来の化身の不動明王のさらなる化身といわれています。上杉謙信の兜の前立てにもあります。冬山登山は雪がしまる2月中旬以降がおすすめです。もちろん冬山装備は必須。アイゼンも必要です。手前の里山の左下に見える大きな四角いものは電波反射板です。

 東方には根子岳(2207m)と四阿山(2354m)。四阿山は真田の修験の山で、山頂には麓の山家神社の奥宮が二つあります。麓の神社には、真田幸隆が奉納した奥宮の漆塗りの扉が現存します。拙書では四阿山と真田の関係を詳細に記しています。菅平牧場から四阿山、根子岳をまわるループコースは拙書でも紹介していますが、大人気です。

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「河中島合戰圖」武田の軍学書『甲陽軍鑑』編者、小幡景憲彩色。江戸時代に描かれた川中島合戦図色々。『長野電鉄沿線温泉名所案内』吉田初三郎(妻女山里山通信)

2023-12-02 | 歴史・地理・雑学
 川中島の戦い以降、江戸時代になってたくさんの絵図が描かれました。その多くは第四次川中島合戦の上杉軍と武田軍の布陣図です。それらを紹介します。歴史を年号や小難しい文章でなく、絵図という分かりやすいビジュアルで見るということの楽しさを知って欲しいと思います。そして興味を持ったら、歴史書や史料を読むといいと思います。特に川中島の戦いは第一級史料がなく、幕府奪取とも無関係だったのでまともな歴史家は研究対象としないとまでいわれていました。第一級史料がないのは、ひとつには豊臣秀吉の国替えで善光寺平の土豪が全ていなくなったことや、松代藩が支配するまで多くの藩主が変わり移住者も多く歴史資料の保存がなされなかったということがあります。善光寺平の人は日本のギリシャ人とかいわれて議論好きですが、あちこちから集まった人々が意思疎通するには話し合うしかなかったのでしょう。
まあそれが行き過ぎて「俺に言わせりゃあ〜」とか、誰も聞いてないよの自説語りの人が増えたのも事実ですが(笑)。

「河中島合戰圖」小幡景憲彩色。武田の軍学書『甲陽軍鑑』の編者。斎場山南の陣場平に陣小屋が七棟建てられた図が描かれています。かなり大雑把な絵ですが、それでも大体の地名は当てはめることができます。陣場平の北に赤坂山(現妻女山)、左に斎場山(旧妻女山)の尾根。上杉軍は赤で、武田軍は白で描かれています。上杉謙信は、短い布陣でも必ず陣城を構築したといわれています。築城前には、「乱取り」といって麓の寺社や家屋を壊して建築材料や食料を得ていました。
 合戦後50年位(1610年頃:江戸時代初期)に描かれた絵ですから布陣の位置の正確な描写は無理としても、その内容はかなり正確かも知れません。小幡景憲の祖父虎盛と叔父光盛は、海津城で春日虎綱の副将を務めました。そういう経緯から景憲は『甲陽軍鑑』原本を入手しやすい立場にいたということでもあり、実際に合戦当時の話を聞いていたのではないかと思われます。数ある川中島合戦戦国絵図の中でも最も信憑性の高い一点だと思います。この絵図は、東北大学狩野文庫に所蔵されているもので掲載の許可を得ています。
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 ここからは江戸時代に描かれた主に土産物の川中島合戦図を紹介します。時代は滑稽本『東海道中膝栗毛』十返舎一九が出版され大好評を博し(1802〜1814年)、一般庶民にも旅ブームが起きました。善光寺参りも盛んになり、川中島合戦絵図が土産物として飛ぶように売れた時代です。この中にもそういう絵図が含まれていると思います。土産物の絵図のサイズは意外と大きく、わら半紙の2倍、B2ぐらいあります。掲載は順不同です。

「河中島古戰場圖」一鋪 寫本 榎田良長彩色。どういう人物か不明。南が上になっているので180度回転させると地形図と同じになります。ということで回転してみました。北に飯縄山。犀川、南へ千曲川、斎場山(妻女山)と右の千曲川脇の黄色い海津城が分かると思います。茶臼山に武田軍が描かれていることから物語性の非常に高い絵図です。左下の赤い線は、武田軍が下りてきたという猿ヶ馬場峠からの善光寺道。この道は、武田信玄の命で配下の馬場美濃守によって開発整備されたものです。第四次川中島の戦いではここを下り、塩崎城や長谷観音に布陣したと考えられます。そして、信玄は間者を斎場山へ送り対岸の横田城を本陣とし、雨の宮の渡しから広瀬の渡しまでずらっと兵を並べたと伝わっています。ただ下から攻めるわけにもいかず作戦を練り直すために全軍を海津城に入れてしまいました。
 この海津城の形は大坂冬の陣の真田丸に非常によく似ています。突出した曲輪(郭)が丸いことから真田丸と呼ばれ色々な絵図でも半円形に描かれているのですが、発掘調査やレーダーによる探索で実際は台形であると判明しました。

 斎場山への上杉謙信布陣図が別にあります。「川中島謙信陳捕ノ圖」これは南が上です。分かる限りの地名を書き込んでみました。わりと正確な描写であることが分かります。妻女山という名は戦国時代にはありません。斎場山です(誤って西条山と)。妻女山は江戸幕府の命令で作られた正保4年(1647)年の「正保御国絵図」には妻女山と記されています。慶長9年(1604)の「慶長国絵図」では信州は現存しません。赤坂山の下に蛇池がありますが、千曲川旧流の跡です。戦国時代はここにぶつかって流れていたのです。そのため斎場山は天然の要害に囲まれていたというわけです。蛇池は、高速ができるまでありました。

 千曲川の堤防上から斎場山を撮影したパノラマカット。上の絵図と当てはめて見比べると分かると思います。鳥が翼を広げた様な山域や麓にたくさんの兵が布陣していたわけです。陣場平は長坂峠の300mほど向こう側なので見えません。

「川中島圖」折 一枚 寫本 島津定桓 原本 弘化三年圖(1846年)(彩色本):狩野文庫。これも上が南です。地図は上が北という決まりはこの頃はありませんでした。非常に稚拙な絵ですが、千曲川の旧河道が点線で妻女山や松代城の脇に描かれています。

「信州河中島合戰圖」信州河中島合戰圖 一鋪 寫本 明和九年(1772年)片岡長候寫(彩色):狩野文庫。赤が上杉軍で黒が武田軍です。赤備えといったら武田、真田だと思うのですが、小幡景憲の絵図といいそういうことに無頓着なのが笑えます。川中島での両軍の布陣や妻女山への武田軍の布陣が詳しく書かれています。斎場山は西条山と書かれています。古城清野は鞍骨城のことなので、西条山(斎場山)がその東に描かれているので間違っています。斎場山と西条山を取り違えています。こういう間違いは江戸時代からあったという証明です。片岡長候寫は土地勘が無い人なのでしょう。

「信州川中島古戰場」 一鋪 寫本 杉山憲長寫(彩色):狩野文庫。これはまた本当に下手な絵図ですね。これも斎場山と西条山を間違えています。戦国時代は口述筆記も多いので音が合っていれば漢字はどうでもよかったのです。ただ当地には西条山(にしじょうやま)と呼ばれる山域があったことで、とんでもない間違いがいくつも生まれました。真田家の史書「*眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺」には、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」と書かれています。
 *「眞武内傳」竹内軌定著。松代藩主真田家歴代の系譜および事績を記載。正編5巻が享保 16 (1731) 年に、付録4巻がのちにでき異本もある。幸隆・昌幸・信之・幸村などの記述が詳細。

「信州川中島合戰之圖」(合戰圖叢三五枚之内) 六鋪 寫本:狩野文庫。この絵図に至ってはもう方角も滅茶苦茶です。上の東と書いてある方が南です。合戦絵図の中でもかなり粗悪なものです。斎場山麓の岩野村は上野村、土口村は出口村、屋代は八代と書かれていますが、こう書いたことがあったのは事実です。斎野(いわいの)村→上野(うわの)村→岩野村と変遷して行きました。斎野は「信濃宝鑑」などに記載がありますが、斎場山が元です。

「信州川中島合戰圖」一鋪 寫本:狩野文庫。これも上が南です。あちこちにびっしりと物語が書かれています。茶磨山(茶臼山)布陣が出てくるので、江戸時代後期の『甲越信戦録』を元にした話かと思われます。拡大してひとつひとつ読み解くと面白いと思います。

「甲越 川中島合戦陣取地理細見図」仁龍堂花川真助 信濃善光寺。善光寺参り土産として売られたもの。出典:「川中島の戦」小林計一郎著。地元で作られたものなので赤坂山(現妻女山)と斎場山(旧妻女山)がきちんと区別されて描かれています。川中島の布陣は、上杉軍が黒、武田軍が白枠で描かれています。千曲川の犬ケ瀬、十二ケ瀬、猫ケ瀬が描かれているのも地元ならでは。右下にちゃんと凡例があります。

「信州川中島合戰陣取畧繪圖」:臨江齋画 更級郡北原村(長野市川中島町):松屋栄助 妙高の関山神社拝殿に奉納されたものを撮影。善光寺参りの土産として買ったものを奉納したのでしょう。
「信州川中島合戰陣取畧繪圖」:南喬画 更級郡北原村:松屋栄助再板 手持ちの資料より。
 これらも上と同じ様に土産物と思われます。川中島の戦いは、歌舞伎や人形浄瑠璃の演目となり大人気を博しました。絵巻や浮世絵も数々。善光寺参りの際には八幡原や妻女山、海津城のある松代を訪れる旅人も多かったのでしょう。

『長野電鉄沿線温泉名所案内(部分)』吉田初三郎 長野電鉄(株)昭和5年発行。「大正広重」と呼ばれた鳥瞰図で有名な画家。昭和5年の長野駅や川中島古戦場の八幡原など当時の様子が興味深い。海津城址に噴水があったことが描かれています。遠く下関まで描かれていますが、この手法は葛飾北斎が江戸時代に既に確立しています。長野県立歴史館で吉田初三郎展が開かれた折に買い求めました。長野電鉄の屋代駅・長野駅から木島駅・湯田中駅までの路線が描かれ、沿線の旧所名跡や温泉・スキー場などの観光地が記されています。

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『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、
『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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