モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

平安時代は荘園で大麻の名産地だった麻績村の初雪に佇む郷社・麻績神明宮へ(妻女山里山通信)

2018-12-28 | 歴史・地理・雑学
 信州は諏訪系の神社が多いのですが、そんな中で伊勢系の国宝仁科神明宮を訪れたブログを以前アップしましたが、麻績村に神明宮があると知り訪れました。28日はこの冬初めて善光寺平に積雪がありました。積雪のある403号の峠越へはこの冬初めてで緊張しましたが、国の重要文化財で郷社を名乗る神社は非常に趣のある佇まいでした。

 国道403号の姨捨上の千曲川展望台からの善光寺平の眺め。高層には筋雲(5000=13000m)が、その下には雪雲(1500〜2500m)が。不思議な光景です。晴れて陽がさしたり、突然雪雲に覆われて雪が降り出したりとドラスティックな天気の日でした。夜にかけて降りそうですが、善光寺平は大雪にはならないでしょう。この冬初めての積雪道路の運転でかなり慎重になりました。どんな有能なスタッドレスでも万能ではありません。長野県では車に雪を積んだまま走るのは条例違反です。後ろに落ちれば事故を誘発する危険性が。前に落ちればフロントガラスを覆って視界がなくなり非常に危険です。必ず雪を落として走行を。
 右手前は、姨捨の棚田です。屋代市街の向こうに坂城まで続く五一山脈。その向こうに上杉謙信が布陣した斎場山(旧妻女山)の鏡台山まで続く戸神山脈。いずれも拙書で紹介しています。

 麻績村の三峯山。もちろん拙書でも紹介しています。さすがに積雪が少なくてスキー場はまだ開いていないようです。麓の聖湖のへらぶな釣りも来春までお休みです。
 信州の冬に来る際は、スタッドレスやチェーンはもちろん、融雪剤スプレー、ウィンドウの雪かきスキージ、雪かきスコップ、車中泊のための毛布や寝袋、食料を積み込むことをお勧めします。笑い事ではありません。賢い雪国の人は皆そうしているでしょう。

(左)筑北村方面へ左折して暫く行くと鳥居という店の向こうに神明宮への道が。一ノ鳥居。昔は木造だったのですが、車がぶつかって破損。石造りにしたのですが、また車がぶつかって破損。これはその後再建されたものだそうです。安全運転で。(中)神社の右側にある小さな社。猿田彦大神とか色々。南方熊楠(みなかたくまぐす)が猛反対した明治の「合祀令」の結果でしょう。境内にも稲荷や天満宮なども、合祀令の暴挙の痕跡が見られます。(右)神橋の先に二ノ鳥居。ここで氏子のお爺さんと出会いました。貴重な話を色々聞かせていただきました。一ノ鳥居の話や、二ノ鳥居が木造だったが古くなって倒壊しそうになったなので銅板を巻いた話とか。

 御神木の大杉。樹齢1000年とか、500年とか色々説があるそうです(笑)。非破壊検査に調べてもらいましょう。話をした方は、昔は杉に囲まれていて、60本以上を伐採したと。本殿の近くにも巨木があったが、国に本殿と木とどっちが大事ですかと言われて、泣く泣く御神木を切ったと言っていました、その切り株は本殿の左に残っています。国宝の仁科神明宮の事故を見ると、伐採はやむを得ないと思います。今回私が見て、本殿の左の皮の剥けた杉が少しまずいなと思いました。

 舞台。地下にコンクリートの基盤を造り、舞台を組み直したそうです。その完成時には、大鹿村の歌舞伎を呼び演じてもらったそうです。こんな素晴らしい舞台は凄いと驚いていたそうです。屋根は葦葺きです。小川村の屋根職人が葺いたそうです。葦(あし)と葦(よし)は、同じものです。関西で葦が悪しにつながるとして、よし(良し)と呼ぶようになったとか。

 拝殿。初詣はともかく、普段はだれも来ないなと寂しそうにお爺さんは言っていました。平安時代、麻績郷は大麻の生産地で朝廷に献上していたのでしょう。近くにある美麻村もそう。善光寺平の篠ノ井や川中島は布施氏の荘園があり大麻を生産していました。大麻は麻布や綱として用いられただけでなく、神道の重要な儀式のツールでした。戦後GHQが大麻を禁止する法律を作らせたのは、麻薬だからではなく神道との結びつきがあまりにも強かったからなのです。海外ではマリファナの医療仕様や解禁が進んでいますが、そういうものなのです。麻薬と一緒にしてはいけません。特に医療用大麻は一刻も早く認可すべきです。それを阻んでいるのは、全く効果のない抗がん剤で莫大な利益を得ている日本の製薬メーカーと馬鹿な御用政治家です。

 本殿。国宝の仁科神明宮より大きなものです。お爺さんから新旧ふたつのパンフレットをいただきました。まだ読み込んでいないので、追加記述します。

 仮殿。宝暦10年建立。

(左)拝殿から見下ろす風景。(中)御神木の巨木と舞台。(右)本殿の後背に杉の深い森。
麻績神明宮(おみやさんcom)
日本最古の神明造りの国宝・仁科神明宮と、七色大カエデとカミツレの咲く大峰高原(妻女山里山通信)私のブログ記事です。

(左)麻績村から筑北村へ。坂上トンネルを抜けて、善光寺精進落しの湯の戸倉上山田へ。雪の中を万葉橋たもとの亀屋へ。雪が激しく降り始めました。(中)ここのラーメンは無化調で脂っこくなく、やさしく旨味が深い。若者から高齢の人にも人気のラーメン屋です。(右)味噌野菜ラーメン。サービスの豚辛味噌付き。粉も地元産。夢つけ麺は、地粉のユメセイキです。スープも飲み干すほど美味い。
 今年のブログ記事はこれで最後になります。たくさんの御高覧ありがとうございました。来年も研鑽してまいりたいと思います。では皆様、良いお年を。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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クリスマスイブの善光寺平を妻女山展望台から望む。雪はちらついてきたものの…。ボヘミアン・ラプソディ。Queen(妻女山里山通信)

2018-12-24 | BABYMETAL・LOVEBITES・ジャズ・宮本佳林・クラシック
 ホワイトクリスマスにはならないでしょう。それでも周囲の1000m以上の里山も白く雪化粧しています。

 年末年始の買い物の前に妻女山展望台へ。東の松代方面。左の拙書でも紹介の奇妙山も雪化粧か霧氷で白くなっています。右のプリン型の皆神山やその右手前の象山には暖冬で全く白いものが見られません。

 北の展望。右の飯縄山のスキー場のゲレンデが白い。左の戸隠連峰は雪雲の中。長野盆地(善光寺平)の里には全く積雪は見られません。手前は名産の長芋畑ですが、今日は農作業する人は見られません。長野Uスタジアムからも、今日はチャントが聞こえてきません。

 西の展望。晴れていれば西山の向こうに北アルプスの仁科三山(爺ヶ岳・鹿島槍ヶ岳・五竜岳)が見えるのですが。

 展望台後ろの善光寺地震の慰霊碑。8600人の犠牲者がでました。1847年5月8日(弘化4年3月24日)、晴天の善光寺の町は、善光寺の御開帳に訪れた諸国からの大勢の参詣者で終日ごった返し、周辺の宿屋は7000人から8000人の泊まり客で満員となっていたのです。松代藩がここに慰霊碑を立てたのは、右奥に見える斎場山(旧妻女山)が古代科野国の聖地であることを知っていたからと思われます。このことは拙書の斎場山でも詳しく記しています。

 買い物や用事を済ませて善光寺の精進落としの湯、万葉温泉へ。これは近くの観世温泉。温めのエメラルドグリーンの優しい湯が魅力です。雪がちらついてきました。でも積もることはないでしょう。

 帰ります。正面に拙書でも紹介の五里ヶ峯。左の平らになる部分に、山本勘助が後ろから村上義清の葛尾城を襲うために造らせたと伝わる勘助道(勘助横手)が現存しています。もちろんそれも拙書では紹介しています。
 帰りの車の中では、山下達郎の『クリスマスイブ』がFM長野から流れてきました。名曲といっていいでしょう。帰宅してからは、NHKでQueenのボヘミアン・ラプソディの謎についての番組を視聴。これがヒットしていた当時、ロンドンに5週間ほど住んでいたことがあるので、特別な想いがあります。ザ・バンドの『ラストワルツ』とともに衝撃を受けた曲です。シェークスピアのマクベスやイタリアオペラ、ジプシーのボヘミアン。深い歌です。そして最後はたいしたことじゃないんだよと締めくくるザンジバル出身でペルシャ系インド人でゲイのフレディ・マーキュリー。人はみんな違ってみんないい。
 1977年のロンドンや村上春樹さんのジャズ喫茶や当時の国分寺や国立についてのフォトエッセイを記しています。マイノリティを尊重できない社会はいずれ滅びる。実は誰もがマイノリティ。存在理由は万人にあるのです。映画『ボエミアン・ラプソディー』は、新年に必ず観に行きます。
 クリスマス寒波は来ませんでしたが、年末寒波は確実に来るとの予報です。ご自愛を。
村上春樹さんの国分寺ピーター・キャットを中心とした70年台のクロニクルまたはスラップスティック - 『国分寺・国立70Sグラフィティ』 福一事故の萌芽がここに。32本のフォトエッセイ #村上春樹 #HARUKI-MURAKAMI

77年の3月、羽田空港からロンドンへ、空中分解しそうなアエロフロートで飛んだ フレディの彼女が働いていたビバでロンドンコートとウェスタンブーツを買った。フレディと同じ空気を吸っていたんだね。後日映画を観ました。当時のロンドンと彼女と、色々なことを思い出して、涙腺が崩壊しそうでした。

ボヘミアン・ラプソディ【訳詞付】- Queen


Queen - Greatest Hits (1) [1 hour long]


実はこれが一番好きだったりして(笑)。好きだよ!
Queen - Bicycle Race


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佐久間象山を祀る松代の象山神社へ。象山の大砲試射地へも。明治維新の真実は。晩白柚の浮かぶ万葉超音波温泉(妻女山里山通信)

2018-12-22 | 歴史・地理・雑学
 新たに明治維新の志士の銅像が祀られた象山神社を訪れました。学問の神様なので、初詣には受験生やその父母が大勢参拝に訪れます。後背には象山の名の元となった拙書にも載せている象山がそびえています。麓には象山の名の元となった中国から訪れた隠元禅師を祀る黄檗宗(おうばくしゅう)象山(ぞうざん)恵明禅寺(えみょうぜんじ)があります。第二次世界大戦の遺構、象山地下壕とともに訪れることをお勧めします。
象山神社公式ホームページ

 象山神社の境内案内図も刷新されました。象山記念館もぜひ訪れてください。

(左)佐久間象山の騎馬像。当地ではしょうざんではなく、ぞうざんと呼んでいます。私が通った清野小学校の家庭科室には彼の肖像画が飾ってありました。(中)象山神社。(右)鳥居をくぐって左手に心字池。

 拝殿。その後背に本殿。建築は象山殉難五十年祭を契機に神社建立が計画され昭和十三年に県社として創建された新しい神社。新しいので特に見るべき木彫はありません。右のご神木はイロハカエデ。松代初代藩主真田信之の寵臣で信之に殉死した鈴木右近忠重の子孫の屋敷跡があった場所で、その庭にあったものを移植したもの。

 佐久間象山が安政元年(1854年)から約10年間の蟄居中に住んでいた松代藩家老望月主水の下屋敷聚遠楼の敷地内にあった建物。来客があるとこの2階に招き、応対したそうです。中岡慎太郎や高杉晋作も訪れています。

 松代藩主 真田幸貫公と佐久間象山の銅像。地球儀を持つ象山。
 佐久間象山は儒学者・科学者・医者・砲術家で、日本最初の電信実験をし、地震計、医療器、写真機など数多くの科学実験をしました。その多彩な才能には驚かされますが、それ以上に、世界的な視野から日本の行く末を見つめる視点を持っていたことに驚かされます。後に勝海舟にまでほら吹きなどといわれましたが、結局鎖国が続いた後の日本では、彼の才能と見識を真に理解できる人は誰もいなかったのでしょう。ただ、そんな象山も、明治維新が英仏金融勢力による日本隷属を企て、明治維新は結局彼らが薩長の田舎侍を利用したクーデターになるとは、想像もできなかったのではないでしょうか。

 象山の正室は門弟勝海舟の妹順子ですが子がなく、嫡子は側室お菊の生んだ恪二郎です。象山の敵を討つべく新撰組に入りましたが、生来のわがままで役立たず、後に司法省に入りましたが、食中毒で29歳で亡くなっています。象山はケツがでかい女がいいと言っていたそうですが、勝海舟の娘はたぶんそうだったのでしょうね。でも子ができませんでした。多産とお尻の大きさは無関係です。

 心の池。この向こう側の小径を行くと象山の生家跡。生家跡の片隅にある煙雨亭は、象山が元治元年、凶刃に倒れるまでの2ヶ月間を過ごした煙雨楼の遺構で、 煙雨楼の茶室を移築したもの。煙雨楼は2階家で京都木屋町の鴨川畔にあったそうです。

(左)心の池の無事カエル(帰る)大明神。交通安全の神様です。(中)後背にそびえる象山。拙書でも紹介していますが、ぜひ登ってみてください。桜の季節は特にお勧めです。(右)昔は松代の街中にあった神社右手の泉水路。各家々の庭をつないでいるものもあります。黒澤明監督の『椿三十郎』を思い出します。

 千曲市生萱の沢山川辺りにある佐久間象山の大砲試射地。砲弾は屋代の一重山を越えて幕府領の満照寺に着弾とよくいわれていますが、これはでっち上げ。佐久間象山を快く思わない人達が地元の子供に駄賃をあげて実際は一重山手前に着弾したものを運び上げて満照寺に落としたものだそうです。

 冷えた体を温めに戸倉上山田温泉の万葉超音波温泉へ。大きな晩白柚が30個ほど浮かんでいました。柚子も。温まって帰りました。

 明治維新は欧米金融機関の傀儡となった薩長や土佐藩の田舎侍が起こしたクーデターでした。写真の明治天皇はなりすました大室寅之祐か。
「明治維新オールスター写真は本物」ツイッターで相互フォローしている佐伯まお氏のブログ記事上の写真は氏のブログからお借りしました。このブログ記事の明治天皇の若き頃の写真と天皇時代の写真は、どう見ても同一人物。詳しくは田布施システムで検索を。こう書くと、私が天皇制反対と思われるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。海外に何度も放浪や旅をしてきた時に、皇室の凄さも知ったのです。天皇皇后の外交力というのは、外交官100人にも勝るものです。政治力を奪われ、職業選定の自由もなく、つまり基本的人権もないわけで、日本のために勤しんでいるわけです。天皇=エンペラーは、国王女王、ローマ法王よりも格上なのです。完全な平等など存在しません。旧ソ連の共産主義も、極一部の特権階級とそれ以外の貧民を生み出しただけでした。ブラック企業並みの激務をこなす天皇や皇后には、常人には絶対に務まらないと思います。昔、有栖川記念公園の坂を、朝散歩で登っていたら、角から白バイと先導車が。続いて黒塗りの大きな車が。突然1m前の車の後部の窓が開き、美智子さんが私のためにお辞儀をしてくれました。おはようございますとお辞儀をしましたが、いやあこんな朝早くから大変だなとつくづく思ったことがありました。私には無理です。昭和天皇は極悪人でしたが、それを分かっていた平成天皇は壮絶な努力をしたのでしょうね。
「田布施システム」と明治天皇替え玉説 長州藩は長年、南朝の末裔をかくまってきたという。桂小五郎・伊藤博文ら長州の志士たちは、この南朝の末裔を天皇にして政権を取ろうと考えた。攘夷派だった孝明天皇(北朝)と息子を暗殺、大室寅之助少年を即位させたという。明治維新のプロセス全体が、ロスチャイルド系商社のプロデュースによるものだという話。

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妻女山里山デザイン・プロジェクトの作業と絶品グルメが揃った納会。不思議な石碑(妻女山里山通信)

2018-12-09 | 男の料理・グルメ
 暖冬が嘘のような厳寒の日曜日。妻女山里山デザイン・プロジェクトの作業と納会を行いました。最高気温は3度。ちぎれた雪雲が舞ってきて雪もちらつきました。納会は、山仲間だった故人のログハウスの庭を借りて。仲間が作った絶品グルメが並びました。今回は洋食を中心に用意。ちょっと食べすぎました。

(左)作業は、妻女山駐車場の奥にある我が家の山で行っている椎茸の原木栽培の補修です。手前の登山ノートには、上杉謙信本陣の斎場山(旧妻女山)へ登ったという書き込みが。今日も清野氏の鞍骨城へ行かれた人がいるようです。『真田丸』以降登山者が増えました。(中)手前の折れてしまったホダ木の馬を直します。また、上のもう出なくなったホダ木の整理も。(右)今回は鉄管とクランプで馬を作ります。

(左)馬が出来上がりました。(右)立ち枯れの赤松を伐採します。楔を打って倒したのですが、オニグルミの木に掛かり木になってしまいました。まず赤松を玉切りして、オニグルミの枝を切って掛かった赤松を落としました。枝を片付けて作業は終了。昼餉を行う堂平大塚古墳へ向かいます。

(左)K氏が用意した牛筋と我々が栽培したブラジル豆のフェジョン・プレットのトマトシチュー。デルモンテの濃厚リコピンリッチで煮込みました。馬鹿旨です。(右)N氏が持参の赤海老とミニホタテをニンニクでオリーブ炒め煮して白ワインで蒸しました。これも絶品。

(左)チーズフォンデュ。これは私がネットで買い求めたものです。パンだけでなく赤海老やポテトやカボチャも美味でした。(中)パンはS氏がユメチカラで焼いてきたフランスパン風。(右)S氏が作ったホットワイン。レモンとシナモンとクローブが入っています。温まります。もちろん完全に酔いを覚まして山を下ります。

(左)今回は洋風と言ったのにN氏が作ってきたもつ煮。旨い!(中)信州の冬といえばこれ。野沢菜漬け。(右)寒いと分かっていたので、今回は薪ストーブを二つ持ってきました。これはN氏手作りの灯油のタンクを再利用した薪ストーブ。

 今回は、宮彫り研究科のK氏が「聖徳太子の善光寺」の話をしてくれました。矢島忠享氏自費出版の『封じられた寺 聖徳太子の善光寺』を氏から勧められて買い求めたのが発端です。この本は、100部限定出版で、シェルシェ長野の平安堂書店でのみ売られています。そんなで古代科野国の話で盛り上がりました。春秋戦国時代の呉と越の話や、秦の始皇帝の時代に来訪して全国にその伝説が残る徐福の話。そこから越後や信州に点在する諏訪社の話など。善光寺と守矢一族とユダヤの消えたある部族との関連性など、興味ある話題で盛り上がりました。

(左)前日まで暖冬だったため狂い咲きのノコンギク。(中)こちらも狂い咲きのツツジ(躑躅)。(右)堂平大塚古墳。横穴式で、古墳時代末期のものです。

(左)この敷地内にある石碑。勅命とあります。正一位とも。(右)天宮大穴郷堂平と読めます。いつごろのどういう石碑なのか非常に興味があります。千曲市歴史財団センターや長野県立歴史館の学芸員の方に検証していただきたいです。この石碑は、古墳の持ち主のKさんがログハウスを建てる時に整地していて掘り出したものと本人から聞いています。この古墳は、以前某大学が調査をして本にまとめています。Kさんに見せてもらいました。千曲市や歴史館にも所蔵されているのではないでしょうか。そこにこの石碑の記述はないでしょうか。

 そこからの風景。北アルプスは吹雪いているようです。正面は鹿島槍ヶ岳。眼下に流れる千曲川。そこを渡る手前から国道18号、しなの鉄道、北陸新幹線、長野自動車道。向こうの里山には川柳将軍塚古墳や丸山古墳群があります。古代科野国の面影が偲ばれます。

(左)帰りに川中島の戦いで上杉謙信が陣城を建てたと伝わる陣場平へ。我々が貝母(ばいも)の保護活動をしている場所です。4月中旬に満開になります。ブログ記事にもアップしているので、4月の記事を御覧ください。(中)森の珊瑚と私が呼ぶクマノミズキの実。野鳥の餌になります。(右)長坂峠からの上杉謙信の本陣と伝わる斎場山(旧妻女山)。山頂は円墳です。ぐんぐん冷えて2度になりました。皆と別れた後は、冷えた体を温めるために戸倉上山田温泉へ。万葉超音波温泉で温まって帰りました。

 陣場平のクマノミズキです。近くにはミズキや信濃柿(豆柿)もあります。

 万葉超音波温泉から見上げる冠着山(姨捨山)。山頂は見えていません。寒いときは温泉が一番です。超音波風呂に入った後は、48〜49度という激熱の温泉に入って出ます。信州は温泉天国です。
 今回は我々の活動の保全でしたが、里山保全の活動もしています。非常に難しい命題ですが、大事なことです。市街地で暮らしていると分からないかもしれませんが、周囲の里山が健全でないと、街の暮らしも健全さを失うのです。極論ですが無知は罪です。必ず私達の生活に害をもたらします。自然に生かされているという教育を徹底すべきです。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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松代中学に通った長野電鉄屋代線を松代駅から屋代駅まで辿る小春日和の日曜日(妻女山里山通信)

2018-12-02 | 歴史・地理・雑学
 紅葉は終わってしまったし、少々疲れ気味の日曜日。ということで、買い物や用事ついでに2012年4月1日に廃線となった長野電鉄屋代線を辿ってみました。松代中学への通学に毎日乗っていました。当時は大正10年製造の古い車両がメインでしたが、たまにスイス風の2000系のD編成の特急車両が各駅で来ることがあり、その日は本当に嬉しかったのを覚えています。その頃は河東線といっていました。千曲川の東を走る線路だからです。世界的アコーディオン奏者のcobaやモーニング娘。18の羽賀朱音ちゃんも乗ったでしょう。
日本を走る鉄道車両図鑑 長野電鉄2000系

 松代駅。長野電鉄の中で最も古い駅舎です。中学生のときは、そこに見えるベンチで電車を待ったこともありました。駅の待合室には、映画のポスターがたくさん貼ってありました。若大将の加山雄三とか、ヤクザ映画とか。ちょっとエッチなポスターは、先生が笑いながら見ないようになと言ったり。

(左)松代駅前。寂れていますが、昔からこんなです。サッカー部の帰りに空腹を我慢できず、駅前の母の同級生がやっていたラーメン屋に飛び込んだこともありました。(中)駅のある場所に置かれたポイント切り替えのレバー。(右)『汽車ポッポ』の石碑。

「駅舎と跡地の現状」。東屋代は、母校の駅。夏は下駄を履いている輩が多かったですね。通学時にはカランコロンという音が響きました。岩野駅は上杉謙信の本陣、斎場山の麓。春の桜が見事でした。電車の本数が少ないので、よく松代駅から象山口駅まで友人と歩きました。真夏に用水から浮かび上がった人魂を見たり、真冬の駅前の小川で氷に乗って遊んでいたら割れて落ちて、下半身ずぶ濡れで電車に乗って帰ったこともありました(笑)通学時には近所のグラマーで美人のお姉さんがタイトスカートとシームの入ったストッキングでお尻をふりふり通勤していく後をついていくのが日課でした(笑)。

 昔は須坂は凄く遠いところだと思っていました。でも車で行くと近いんですよね。屋代線は屋代−須坂まで23キロぐらいしかないんです。自転車で余裕の距離です。

「雄姿な電車と鉄道施設」。東急車輛とか小田急のロマンスカーとか、後期ですね。昭和40年ごろだったか国鉄の信越線から河東線に志賀高原に向かうスキー列車が乗り入れていて、小学校の通学時に何度も見たことがありました。今は昔。

「線路撤去と活用状況」。一部は遊歩道やサイクリングロードになっているようですが、長野市の区間はほとんど進んでいません。本当に長野市の行政は駄目だなと思います。全面サイクリングロードにすれば、自転車通学の学生が安全に通学できます。とにかく県庁所在地だというのに駅前が悲惨です。国際的に通用するホテルさえない。長野駅から善光寺までなにもないし遠すぎる。長野市民ですが、遊びに行くのは松本。長野はつまらない。本気で街づくりをするべきです。よそ者若者馬鹿者を受け入れる度量が必要です。私も請われれば参加したいと思っています。

 左下のスイス風車両が懐かしいです。しかし、廃線に反対の声は思いの外少なかったですね。バスが復活するならそれでいいと、松代病院に通う老人も言っていました。しかも停留所が2つできて便利になったと。

 松代城跡から見る松代駅舎。左奥にそびえるのは、真田幸隆に攻略された東条氏の山城がある尼厳山。拙書でも紹介していますが、非常に面白い里山です。

 松代城のお堀。真鴨が泳いでいました。観光バスや観光客の車も。黄色い柳の黄葉と左の緑の樹木の間に見える丸い山が、上杉謙信が本陣とした斎場山(旧妻女山)です。展望台のある現在の妻女山は旧赤坂山で謙信の本陣ではありません。ここのところを歴史作家や歴史研究家が知らずに間違いを犯しています。

(左)妻女山(旧赤坂山)の尾根の先端を屋代線は巻いていました。母校の清野小学校のすぐ近くです。カーブから突然電車が出てくる非常に危険な踏切で、私が通っていたころは遮断器もありませんでした。しかし、90年の開業時代に一度も踏切事故はなかったのです。(中)屋代線の土口トンネル。屋代線には、もうひとつ大室にトンネルがあります。(右)始発終点の屋代駅。現在はしなの鉄道のみです。大学生時代、上野から特急浅間で帰り、屋代駅で夜に河東線に乗り換えて帰ったものです。

 撮影を終えて温泉に入って帰る道すがら。北アルプスの白馬三山が映えていました。里は向こうが稲刈りが終わった田んぼ。手前の緑は麦です。だぶん千曲市名産のユメセイキでしょう。非常に美味しい小麦です。冬なのに春みたいな風景ですね。

 素晴らしい動画です。彼女は京王線や資生堂のCMでもおなじみです。澄んだ歌声が大好きです。
◉長野電鉄屋代線90年 24.4kmの思い出 ありがとう屋代線 熊木杏里


『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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