モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

44年ぶりの歓喜 西班牙優勝!

2008-06-30 | サッカー
 ユーロ(欧州選手権)2008は、ファイナリストに相応しいスペインの優勝で幕を閉じました。“クアトロ・フゴーネス”(4人の創造者)と呼ばれるシャビ、セスク、イニエスタ、シルバの「真の黄金のカルテット」を有したスペインは、本当に優勝に相応しいチームでした。反対に、ドイツはファイナルに相応しいチームかというと疑問が残ります。おそらくトルコに怪我人がいなければ、決勝に進出したのはトルコだったかもしれません。たぶんスペインにとってはトルコの方がやりにくかったでしょう。しかし、そこがサッカーのサッカーたる所以。

 シャビのスルーパスに反応したフェルナンド・トーレスが、ラームに競り勝ってギリギリでのシュート。その瞬間スピードとコントロールの正確さは、見事でした。準決勝ではもうひとつボールが足につかない様子だったフェルナンド・トーレスですが、決勝ではワントップはこういう風に仕事をするんだよというお手本を見せてくれました。その気迫とスピード、ゴールを狙う嗅覚。惜しいヘッドもありましたが、あれがゴールの予感をなにより暗示していました。最後の最後で大きな仕事を成し遂げましたね。

 ラームは、大怪我で交代したようですが、彼がいなくなったことで、ドイツは攻め手がなくなりました。スペインのワントップに対してコンパクトに中盤を厚くしましたが、スペインはじれずにその裏を常に狙っていました。ドイツは前半、縦へのボールがよく通りましたが、その先の展開に工夫が無く、常にスペインに跳ね返されてしまいました。その後の選手交代も、残念ながら裏目裏目に出たようです。

 クアトロ・フゴーネスは、その内の3人が170センチ。Jリーガーと変わらない体格。けれど豊富な運動量に、正確なトラップ、早い判断、速いパスと仕掛け。立ち上がりは、確かにナーバスになっていましたが、ピンチから逆に息を吹き返し、怒濤の攻めに転じていきました。得点は時間の問題に思えました。
 比べるのもなんですが、日本代表の中盤と比べた方も少なくないのではないでしょうか。何が違うんだろうと。何が日本代表には足りないんだろうと。基本となるリーグのレベルが一番なんでしょうけど。やはり身に付いているサッカーというのは、分かっていてもそう変えられないですからね。色々な意味でJリーグのレベルアップしかないんですよね。11人全員が海外組というのも非現実的ですし、逆に弊害も起きるでしょう。

 欧州は、勢力地図がすっかり変わってしまいました。次期W杯では、どんなドラマが起きるのか、今から楽しみです。南米予選では、ブラジルが苦戦していますが、いつものこと。早くチームができてしまった時は、逆に優勝できていません。最終的にどんなチームになるか楽しみです。
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呪縛のとけた西班牙

2008-06-27 | サッカー
 アッという間の試合展開でした。走れなければヒディンクマジックもただの尾座敷芸でしかないわけで。突然の豪雨がロシアから、体力と共に戦意も奪ってしまったのでしょうか。スペインは、人も走れば球も走らせる。前半は、これもヒディンクマジックのシナリオか、後半初めは怒濤の攻撃で来るぞと予想しました。

 確かにその気配はありました。けれども、前述のように体力も戦意も、オランダ戦のロシアではありませんでした。攻撃に移っても二人目三人目の素早い動きが見られません。サイドの上がりもワンテンポ遅い。リスクチャレンジがなければ、チャンスも生まれようもありません。オランダ戦で全てを使い果たしてしまったかのようなロシアでした。

 スペインが先制するのは、時間の問題かなと思い始めた頃に得点。シャビへのボールは、クロスではなくてシュートなのでしょうけれど、前が中央に作ったスペースに飛び込んで合わせたシャビの動きは秀逸。スペインの中盤の動きとコンビネーションはすごかったですね。速回しで見ているようなボールさばきと球回し。トップスピードでのボールコントロールの素晴らしさ。同じ雨でもこの間の日本-バーレーン戦とは大違いでした。

 その後、スペインは選手交代。解説の金田氏は、分からないと言ってましたが、スペインは勝ちに来たと思いました。完膚無きまでに叩き潰すということですね。ちょっと動きの重くなってきたフェルナンド・トーレスを外し、中盤を更に厚くする。これが功を奏しました。選手の戦術に対する共通理解が完璧と思わせる追加点でした。

 老練なドイツは、ロシアのようにはさせてくれないでしょう。ショートパスはするようになったドイツですが、調子がもうひとつでも強引にパワープレーでゴールをこじ開けてくるリアリズムのサッカーに、スペインが潰され、跳ね返され続けても、どこまで切れずに辛抱強く自分たちのサッカーを展開できるか。見ものです。

 後ろ7人で固めて、得点は前3人だけでできる、最強だった頃のブラジルは別格として、スペインが日本がロシアの遠く先に目指すサッカーが、成就できるか楽しみです。といってもこれがW杯となると全く別で、アフリカのとんでもない個人技と身体能力のサッカーにコロッと負けてしまったり、南米の更にものすごい個人技にかき回されてしまったりと、そう上手くはいかないんですね。だからサッカーは面白い。そういった時に、では日本はどういうサッカーで強豪を打ち破るんだ。それを明確に形で見せて欲しいですね。日本代表には。

 いやあ、それにしても面白かった。
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近頃創作の「妻女山」という名は最低!【妻女山里山通信】

2008-06-26 | 歴史・地理・雑学
 そう看破したのは、明治15年編纂の土口村(現長野県千曲市土口)村誌の編者・飯島謙貞氏でした。以下は、その土口村村誌からの抜粋です。凡例:■以下は、村誌の文章。()は、私の注記。[]は、注記として小文字で表記された文章です。●以下は、私の解説です。

■山
【手城山】高二百三十丈(天城山・696.9m正しくは694.6m)、周囲未だ実測を経ず。村の南の方(正確には東南)にあり。嶺上より界し、東は清野村、生萱村に分属し、西は本村に属し、南は生萱村に属す。山脈西は、南山に連なり北は妻女山に接す。樹木なし。登路一條、村の東の方字築地より上る。高十五丁二十五間(約1680m・これは村の中心からの距離か)険路なり。
●天城山(てしろやま)は、倉科や岩野では坂山ともいい、生萱では入山ともいいます。頂上には6世紀頃の坂山古墳という円墳があります。戦国時代には、清野氏の山城・鞍骨城の支城・天城城があったとされます。古墳は、その建設の際に壊されたのでしょうか、竪穴式石室の上屋はなく雨ざらしになっています。

【齋場山】高八十丈(正しくは百六十九丈=512.5m)、周囲諸山連接して測り難し。村の東南(誤り、正しくは北東)の方にあり、嶺上より界し、東は清野村に属し、西南は本村(つまり反対の北東が斎場山)に属し、北は岩野村に属す。山脈、南は西條山(西条村高遠山、あるいは象山)に連り、西は生萱村の山に接す。高十町余(約11000m・距離?)、易路なり。
●これが本当の斎場山(サイジョウザン)です。北緯36度33分32秒・東経138度9分58秒。読みが同じであるために『甲陽軍鑑』で、西條山と誤記されました。妻女山という名称は、江戸時代前期の松代藩による創作です。

■陸墓
【将軍塚】[岩野村にては荘厳塚(しょうごんづか)と云ふ]村居の西北七町半余を距て、北山(薬師山・笹崎山)の山脊上にあり、岩野村に跨る。東西三十八間、南北十八間、裾二段をなす。其形山陵志に所謂御車型の陵に似て、唯小なる耳、何人の墓なるや千数百年前の者たる疑なし。或日往古此地の君長、何縣主[即後の郡司の祖]などと云いたる人の墓なるべし其事尚営窟の條に記す。
●国指定史蹟になった埴科古墳群のひとつ、土口将軍塚古墳です。5世紀中頃の築造で、古代科野の国の国造(くにのみやつこ)の墳墓といわれている前方後円墳です。二基の竪穴式石室が並列しているので、何代目かの国造夫婦のものでしょうか。

【古塚】村の北の方にあり。一は前條将軍塚の束数十間、北山の峯頭にあり。其ち圓にして裾二段級有り。其形山陵志に所謂、十代内の山陵に似て小なり。(斎場山古墳のこと)然れば前條の墓より尚古く、殆ど太古の者と云うべき歟(やorか)(実際は逆で将軍塚より新しく6世紀の築造といわれます)[或云ふ是は墓にあらず、祭壇場ならんやと云へり]此外に三塚有り。一は祭場山長尾根の道の左に有り(実際は七つ)。一は赤坂[祭場山北の一尾也]に在り(現妻女山)。是も亦将軍塚と称す。一は祭場山の東南隅に在り。此二塚今清野村に属す。此他近山尚古塚あり、巳に残骸僅に跡を遺すものも有り。車形、圓形、大小等不同なり[更級郡石川村に十余所の古塚ありて、其内将軍塚と称するもの有り(川柳将軍塚古墳)、将軍塚の多き所以別々に説あり今贅せず。]
●この辺りは、埴科古墳群と称して、4世紀から8世紀にかけての前方後円墳、円墳、横穴式古墳等がたくさんあります。そこで、森将軍塚古墳の大穴山、雨宮、生萱、土口と合わせて、岩野、清野も大穴郷とする記述が見られます。崇神天皇の代に、大和朝廷より科野国の国造に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔の建五百建命(タケイオタツノミコト)を祀った神社が多いのも特徴です。

■古跡
【齋場山】[又作祭場山、古志作西條山誤、近俗作妻女山尤も非なり。岩野村、清野村、本村に分属す]の山脊より東に並び、峯頭の古塚[或云ふ是塚にあらず、祭壇中の大なるものにて、主として崇祭たる神の祭壇ならんと云ふ]に至り、又東に連なり、南の尾根上を登り又東に折れて清野村分界に止む。
凡四十八個の圓形塚如きもの有り、俗に旗塚と云ふ。又四十八塚と云ふ是上古縣主郡司の諸神をこう祭したる斎場祭壇にして、之を掘て或は祭器、古鏃(やじり)等を獲るものあれども、遠く之を望めば累々と相連なり、其かづ数えふ可く、相距る事整々として離れず。必ず一時に築く所にして、墳墓の漸次員を増たるものにあらざるなり。是齋場山の名ある所以なり。
或は云ふ此山の裾を回て千曲川の古道有り。山水の間に岩野、清野両村在り、岩野は齋[イハイ]野、清野の古訓須賀野[其村にて菅野と云ふ]皆祭祀潔齋に因ありと。是本村第二の古跡と称す。
永禄四年九月上杉謙信此に陣する事数日、海津城の炊煙を観、敵軍の機を察し翌日大に河中島に戦事世の知る所なり。山の中央南部に一段の高原有り、之を陣場平と称す。其左西北に降り又左へ登る一峯[即北山の東の峯の古塚在る所]之を謙信の床几場と云ふ。其西の薬師堂を寝所と云ふ。床几場より北に降り、半腹に涌水あり、之を陣用水と云ふ[此外山中所々に泉口あり]其他千人窪、両眼平等の字有りと。里人傳ふる所如斯と雖(いえど)も床几場を本陣とすれば、陣場平より左手先にあり、此より海津城を望めば明瞭掌を指が如し。同城に対して東北に面するの陣とすれば可ならんか。赤坂[北に出る一尾]数隊の陣を置たるは、海津城の道を塞ぐ事左もある可し。但常時未だ此道なく、長尾根より清野へ下り、只越を経て海津に通たりとも云ふ。未詳なり。
●「齋場」というのは、「いつきば」のことで、「斎庭」とも書き、「ゆにわ」ともいい「神様を祀る為に清められた場所」です。つまり、墳墓だけではなく、祭祀を行う場所でもあったわけです。そこで「主として崇祭たる神の祭壇ならんと云ふ」という表現になるわけです。 
 「又作祭場山」とありますが、そういう意味で、祭場山という名称も当てはまるということになります。祭場山という漢字は、土口村誌と生萱村誌にしか見られないので、俗名妻女山に対向して読みを変えぬよう村の長により当てはめられた漢字なのでしょう。
 「古志作西條山誤」とは、『甲陽軍鑑』で、西條山と誤記さたことを指しています。西條山(にしじょうやま)という別の山が、同じ松代に有るわけですから、これは当然否定されるべきものです。
 「近俗作妻女山尤も非なり」というのは、会津比売命にちなんで、相変わらず江戸や上方で西條山と誤記されることに業を煮やした松代藩が創作したと思われる俗名妻女山ですが、読みも違うし、余りにも古代の歴史を無視し安易で商業主義的な名称であると、土口の人々が反旗を翻したわけです。この時、廃藩置県により松代藩はなくなり、松代県もすぐに長野県に吸収されており、松代から、戊辰戦争、松代騒動など幕末に市民を混乱に陥れた真田家は既にいなかったわけです。
 近年、改修工事が終わり松代城となりましたが、それ以前は地元では、海津城とみな呼んでいました。未だ記憶に新しい真田の松代城より、武田の海津城への憧憬の方が深かったということでしょうか。混乱期の中で松代を去らなければならなかった真田家には、大政奉還により江戸城を明け渡した徳川家のそれと重なる侘びしさがありますが、文武学校など今に残る功績が連綿と受け継がれていることも記さなければならないでしょう。
 「凡四十八個の圓形塚如きもの有り」とは、とにかく山中が古墳だらけで、それで齋場山の名がある所以となったと書かれています。
 「此山の裾を回て千曲川の古道有り」とは、北国街道東脇往還(松代道)のことです。信濃追分から上田、善光寺への北国街道(善光寺参りで賑わい、佐渡金山と江戸を結ぶ金の道、加賀百万石の大名行列も通った)に比べると静かだったようですが、江戸後期の川中島ブームで謙信槍尻之泉が霊水として評判になると、日本中から汲みにくる人で妻女山は賑わったとあります。しかし、松代には本陣が無く宿場町としては発達しませんでした。旅人は、矢代宿や丹波島宿、善光寺宿に泊まり賑わったようです。土産物として川中島合戦図会などが飛ぶように売れたことでしょう。
 「永禄四年云々」は、お馴染み第四次川中島の戦のことですが、記述はこの2年前に書かれた岩野村誌とほぼ同じで、地元では同様の伝承があちこちにあったということです。この辺りの人は、みな戦後(もちろん第二次世界大戦ではなくて川中島合戦)に、この地に住みついた人々です。戦争中は両軍による焼き討ち、乱取り、小屋落し、戦で、とても人が住めた環境ではなかったはずですから。実際地元の苗字を見ると、村上義清の配下のものが多く見られます。中には戦闘に参加した人もいるでしょう。わが家の祖先もそうして土着した武士のひとりでした。また、戦後甲州から国替えで移住させられた人達もたくさんいました。山中に隠れていて戻ってきた人もいるかもしれません。
 そんな中でも、斎場山という古代からの名称とまつわる伝承をを連綿と伝え続けた里人が少なからずいたのです。

●写真は、上信越道屋代バス停から見た斎場山。地形図は、25000分の1松代に字や地名・古跡を記載したものです。

 妻女山の詳細は、妻女山について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。また、右上のブログ内検索で「妻女山」を。たくさん関連記事があります。
 
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ユーロ2008と日本代表の眠い朝…

2008-06-23 | サッカー
ロシア3-1オランダの目の覚めるような激戦を観た後のこの二試合は退屈以外のなにものでもありませんでした。消化試合の難しさはあるとはいえ、自陣での守備とボール回しはいいとしても、相手陣内に入ってからサイドでいつも人数が多すぎてつまってしまうのはなんとかならないものでしょうか。ポジションが重なってしまいいつも詰まってしまう。

それにあのダブルボランチの組み合わせは、良かったことがないですね。ストッパーが不在で危なっかしくて観ていられない。上手いけれど危うい。両サイドバックの若手の不出来も今回は響いていました。同じようなタイプの2トップも、コンビネーションがいまいち。代表初出場の本田は、存在感がなかったですね。もっとミドルを打つとかチャレンジしてほしかった。

狭いスペースでショートパスをまわすのが岡田流サッカーなのでしょうが、いつも手詰まりになり打開できない。ポジションが重なってしまって、観ていてフラストレーションのたまるサッカーですね。松井のようなプレーヤーが全く活かせない。攻めの形が少なすぎるし、新しくメンバーが入るとコンビネーションがとれないように、攻撃でのチームの共通理解する形がいつまでたっても見えてこないですね。セットプレー以外に。

反対にロシアは、日本が目指すべきサッカーの形を見せてくれたような気がします。10番のアルシャビンにしても、そう大きな選手ではないし。ただ、ヒディンクとオシムの目指すサッカーは似ていて、ロシアや日本のようなチームが、より強い欧州列強や南米の強豪チームに勝つには、走り負けたら勝てないということ。トップスピードでも90分後でも、速い判断と正確なプレーができないとだめだということを示してくれています。

今の岡田ジャパンは、アジア列強の中では負けないかもしれないけれど、本当の強豪チームを倒すことはできないだろうと思います。ただ、ヒディンクとオシムの違いは、オシムはテクニックのある選手を外して馬鹿みたいに走れる選手を入れるけれど、ヒディンクはテクニックのある選手を走れる選手に改造して使うこと。これかなと思うのですが。その辺りは、現代サッカーは一緒で、あのイタリア代表もWC決勝では、これがあのイタリアかというぐらいに、デルピエーロもピルロも走っていましたからね。

スペイン-イタリアは、息詰まるような展開で始まりましたが、そのまま同じシーンを何度も観ているような試合運びになってしまいました。フランスは、世代交代に失敗という感じで消えていきましたが、イタリアもピルロ、ガツゥーゾがお休みで、新顔が守備ではそれなりに魅せてくれましたが、攻撃の形が作れませんでした。PKになれば、恐らく負けると分かっているのに…。スペインも、攻撃は個人頼みで、効果的なフリーランニングもない凡庸なもの。頭を使ったサッカーではなかったですね。

さて、楽しみなのはロシア-スペイン。トラウマを払拭したスペインが、持ち前の攻撃力を発揮して悲願の決勝進出か。ロシアが走り勝つか。しかし、あれだけ走ってもプレーの精度が落ちないって驚愕。ドイツは、ポカをしない限り、その老練さで決勝までくるでしょう。若手も育っているし。スペインが悲願の優勝を果たすか、老練なドイツが順当に優勝か。ロシアが優勝なら、ヒディンクマジックは、本当に本物ということでしょう。楽しみです。
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時に笑える『地名辞典』における妻女山の記述 その3【妻女山里山通信】

2008-06-21 | 歴史・地理・雑学
多くの電子辞書に搭載されている『百科事典 マイペディア』の記述。
「さいじょさん【妻女山】
長野県松代(まつしろ)町清野(きよの)の西部にある山。鞍骨(くらぼね)城から続く山系の突端に位置し、北には海津(かいづ)城、西には千曲(ちくま)川の彼方に川中島(かわなかじま)が望める。標高546m。西条山とも記される。永禄4年(1561年)8月上杉政虎(謙信)は西条山に登って武田信玄の拠る海津城攻略の評定をしている。9月信玄は8000の軍勢を率いて川中島に渡り、12000の軍勢を西条山へ向かわせたが、謙信は千曲川を渡り川中島の武田軍を攻略した。妻女山には二つの郭からなる簡単な構えがみえる。」
                   ◆
 まず、当地では、さいじょざんと濁って発音し、さいじょさんとは言わない。鞍骨(くらぼね)城から続く山系の突端に位置するのは、現妻女山であり、標高は411mである。(国土地理院25000分の1地形図より)ちなみに、旧埴科郡の最高峰・鏡台山から戸神山脈(大嵐の峰)、鞍骨山(清野山)、天城山(てしろやま)から斎場山、赤坂山、薬師山(笹崎山)に至る長い山脈を埴科山脈と称することがある。「北には海津(かいづ)城、西には千曲(ちくま)川の彼方に川中島(かわなかじま)が望める。」とあるが、現妻女山(本来は赤坂山)からも往古の妻女山(本来は斎場山)からも、海津城は東(厳密には東北東)、川中島は北に見える。現地に行けば一目瞭然である。あまりにもずさんで初歩的な間違い。

 「標高546m。」は、大正元年測量の日本帝国陸軍陸地測量部測量の地形図を元にしたものであろうが、既に何度も記しているように、546という数字は単なる三角測量の際の「標高点」で、妻女山の山頂ではない。そもそも地形図にあるような山頂そのものが存在しない。地形図自体が誤りである。現地には標石も無い。昭和35年の改訂版(下図右)では、標高点は無くなり(妻女山頂なら無くなるはずがない)、現在の地形図では、山頂そのものの閉じた線が無くなり、(存在しないのであるから当然)標高点は、さらに南の594mに移動している。妻女山が動くはずはない。

 更に穿った見方をすれば、当時の測量のミスではなく、1903年(明治36年)に刊行の、日本陸軍参謀本部編集『日本戦史叢書』川中島の戦(日本戦史学会編・豊文館・明44.7)を都合良く補足するために、ありもしない妻女山が、天城山から赤坂山の尾根上に、軍部によって捏造された可能性も完全には否定できない。

 「9月信玄は8000の軍勢を率いて川中島に渡り、12000の軍勢を西条山へ向かわせた」とあるが、この西条山は、『甲陽軍鑑』の誤記からの引用であり、斎場山(さいじょうざん)のことである。本来の西条山は、にしじょうやまと読み、西条氏の竹山城があった象山(本名は臥象山・竹山・城山ともいう)である。あるいは、西条村最高峰の高遠山を西条山という場合もあり、狼煙山(舞鶴山・明治14年の西条村村誌には、「一に高テキ山と云ふ」とあり)と合わせて西条村青垣山三山と称する。西条山とも記されるという記述は完全な誤り。

 「妻女山には二つの郭からなる簡単な構えがみえる。」とあるが、どこの何を指しているのか全く不明である。赤坂山の土塁であれば、招魂社建立、或いは、それ以前に松代藩の射撃場建設の際に作られたものであろうし、他には、謙信床几塚と呼ばれる斎場山古墳の円形の削平地、陣場平の削平地と石垣、切岸、御陵願平の二段の削平地等が考えられるが、斎場山古墳の二段の墳丘裾は、古墳時代のものであるし、それ以外は発掘調査もされず、未だ戦国当時のものと同定されてはいないはず。実に曖昧な記述である。

 しかし、上杉謙信は、たとえ一日でも野陣をするときは陣小屋を造ったと記録に残っているので、20日以上布陣の妻女山には、それ相当の陣小屋を造ったと思われる。『甲陽軍鑑』の編者といわれる小幡景憲彩色の「河中島合戰圖」(東北大学付属図書館狩野文庫)では、陣場平辺りに柵、または板塀で囲まれた門のある陣所が描かれている。中には寄棟風の小屋が七つほど見える。戦国時代は、陣小屋を建てるために乱取り、または、小屋落しという大規模な略奪が行われた。

 絵巻には、建具や床板、などを略奪する様子が描かれたものがある。謙信も妻女山陣取りの前に、松代や妻女山周辺で大掛かりに焼き討ちや乱取り、小屋落し行ったことが記されている。軍勢が動く際には、行軍しながら略奪が行われたという。途中の住民はたまったものではない。略奪されるのは物や食糧だけではない、人も捕らわれ奴隷市がたった。また、戦場には長陣となるとどこからともなく遊女が現れ身を売ったという。もちろん足軽や雑兵が買えるわけはないが。宣教師のルイス・フロイスは、日本女性の貞操観念の無さを心底嘆いている。

 陣取りに欠かせないのは、その外に水である。妻女山では、謙信槍尻之泉が有名だが、実はここは昔も今もそんなに水量が豊富ではない。地形的にそうなのである。それよりも斎場山の南側、陣場平から堂平の南西に下ったところに蟹沢(がんざわ)という水量豊富な水場がある。ちょうど天城山の北西の谷で、名前の通り沢ガニがたくさんいた。現在も雨期には下の道路にまで水が溢れるほどである。また、清野側の谷にも何カ所か水量豊富な水場がある。

 戦では、敵の領地の井戸や川には糞尿を投げ込んで使えなくしたという。武田の最初の攻撃は、投石だったというし、山城籠城の切り札は、上からの糞尿攻撃だったという。糒(ほしい)や乾物など保存食や携行食が発達したのもこの頃であるが、何を食べても出るものは出る。二万人も籠城したら糞尿の始末だけでも大変なものであろう。秀吉の小田原城攻めでは、六万人も籠城したというが、四万人近くは農民など領民だそうだ。領主は領民を守る必要もあったのだ。その地下人といわれた農民も略奪されっぱなしではない。戦の後は、死人から金目の物を略奪したのである。いやはやなんでもありの戦国時代である。

 学校で習う日本史は、権力者の歴史である。それ故権力者を主体とした歴史観が形作られる。大河ドラマの英雄史観が批判されるのもそのためである。しかし、実際は権力者も当時の社会システムの構成員にすぎない。現在の日本史の研究は、そのパラダイム(思考の枠組み・クーンは自然科学に対してパラダイムの概念を考えたのであり、社会科学にはパラダイムの概念は適応できないと発言しているが…。)の転換が進められている。民衆から見た権力者の視点が必要であり、それにより社会システムの解析が位置づけられるとしている。戦国時代は、飢饉と戦が日常の時代であった。そこから逃れる術は、権力者にも民衆にも無かったのである。

参考文献:『甲陽軍鑑』高坂弾正著,山田弘道校 甲府:温故堂 『実録甲越信戦録』西沢喜太郎編 長野:松葉軒 『百姓から見た戦国大名』黒田基樹 ちくま新書 『雑兵足軽たちの戦い』東郷隆/上田信絵 講談社文庫
■「国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』」をカシミール3Dにて制作。

 妻女山について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。
 
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時に笑える『地名辞典』における妻女山の記述 その2【妻女山里山通信】

2008-06-21 | 歴史・地理・雑学
 ああっ惜しい!記述の『角川日本地名大辞典』です。
 岩野について、「いわの 岩野く長野市> 千曲川流域,薬師山・妻女山の支脈赤坂山山麓に位置する。多くの円墳が分布し,また往古斎場山に会津比売神社(信濃国造建五百建命の室)があったが(埴科郡志),その祭祀を行う地の麓にあるため古くは斎野(いわいの)村と称し、延徳年間頃に上野(うわの)村となり,寛文6年に岩野(いわの)村と改称したという(県町村誌)。妻女山中央の南部の高原は,永禄4年の川中島の戦で上杉謙信が陣営を置いた地で,陣場平と呼ばれる。」

 斎場山という名称が出ているのは、見たところこの辞典だけでした。ところが、斎場山と妻女山が同じ山で、斎場山は、妻女山の往古の名称であるという記述がどこにもないんですね。惜しい!

 西条山と妻女山についての記述です。
「さいじょうざん 西条山 ⇨妻女山(さいじょざん)〈更埴市・長野市〉
 さいじょざん 妻女山〈更埴市・長野市〉
西条山ともいう。更埴(こうしょく)市と長野市の境にある山。標高546m。千曲川右岸の鏡台山から北北西方向に延びる尾根末端部付近の高まりで、山頂からは千曲川・川中島などを一望できる。山名は、山麓に会津比売命を祀るためとも,また信濃国造の妻に由来するともいう。(中略)永禄4年川中島の戦の際,上杉謙信が本陣を構えたことで知られる。海津城(長野市)周辺から立ち上る炊煙によって武田信玄の動きを察した謙信は直ちに山を下り,千曲川を渡って川中島へ進出した。その渡河地点が山麓の雨宮の渡し(更埴市)である。山中には,戊辰・日清・日露の戦没者の霊を祀った招魂社がある。」


 大変惜しいですね。斎場山という名称まで出ているのに…。西条山は、正しくは西条氏の居城・竹山城(西条城)があった象山(隠元大師の故郷の山)のことであり、「にしじょうやま」と読む。江戸時代には竹が植えられていたので竹山ともいう。または、西条村の最高峰・高遠山からノロシ山の山域をいうこともある。と書いてあったら完璧だったのですが。地元では、決して妻女山を西条山とはいいません。このことに松代藩は、相当腑(はらわた)が煮えくりかえっていたのではないでしょうか。「違うんだよ! 西条山は別の山だ! 甲陽軍鑑には困ったものだ。高坂弾正のアホめが! 小幡景憲の戯け者が!」って。まあ、戦国時代の感状や書状を見ると、読みさえ合っていれば漢字はなんでもありだったというのがよく分かります。一々大将自ら筆を執るのではなく、口述筆記も多いわけですから、間違えるのも当然です。大切なのは読みであって漢字ではないのです。これは地名学にも当てはまるそうです。

 享保16年(1731)松代藩士竹内軌定による真田氏史書『眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺』には、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」と明記しています。この松代藩が、天保9年(1838)に江戸幕府の命で『天保国絵図信濃国』完成。ここぞとばかりに妻女山と記載したのですが、これ以後も江戸や上方の歌舞伎や浮世絵、名勝図会などには、西条山と書かれてしまい、妻女山の名称はなかなか全国区になりませんでした。マスコミもない時代ですから致し方ありません。善光寺初め、地元の土産物屋で売られていた川中島合戦絵図や『甲越信戦録』には、妻女山と書かれるようになったのですが…。おそらく松代藩が、そう記するようにと奨励、あるいは命じたのでしょう。

 次に『日本歴史地名大系』平凡社の記述ですが、こう記されています。
「妻女山 (現)長野市松代町清野 清野村の西部、鞍骨城より続く山系の突端に位置し、北は海津城を望み、西を流れる千曲川の彼方に川中島を望む。標高一〇〇メートルで、「甲陽軍鑑」には「西条山」とも記される。」って。妻女山の標高が100mですって!? 思わず図書館で吹き出してしまいました。妻女山はクレーターか!? 岩野の標高が351mですから、妻女山は深さ251mのクレーターということになります。

 好意的に考えて、平地との比高100mとしても、現妻女山は411mですから比高60m、本来の妻女山(斎場山)は、513mですから比高162m、ありもしない546mが妻女山とすると比高195mとなってしまいます。いったいどこの山を妻女山といっているのでしょう。薬師山でも比高82mです。う~む、理解に苦しみます。

「「甲陽軍鑑」には「西条山」とも記される。」というのは、「妻女山を西条山ともいう」という記述よりは、はるかにマシですね。しかし、標高100mとは…。最新版では直っているのでしょうか。いやはやこれでは、権威も信用も台無しです。

 会津比売神社については、「岩野村の妻女山の麓に位置する。祭神は会津比売命。創建はつまびらかでないが、「三代実録」によれば、貞観八年(八六六)六月一日条に「授信濃国無位武水別神従二位、無位会津比売神、草奈井比売神並従四位下」とある。なお「諏訪旧蹟誌」に、会津比売命は、会知早雄命(現埴科郡坂城町鼠宿に神社)の娘で、信濃国造建五百建命の室とある(埴科郡志)。」とあり、地元の御由緒と同じですね。室(シツ)とは、正室・妻女のことです。ただ、里俗伝でいわれているように土口将軍塚古墳が会津比売命の墳墓というのはどうでしょう。

 森将軍塚古墳が、ダンナさんの建五百建命(たけいおたつのみこと)の墓とすると、土口将軍塚古墳の造営は、100年ぐらい後といわれているので変ですね。それに森将軍塚は、大きいですから、夫婦ならそこに埋葬するのではないでしょうか。森将軍塚は、六世紀まで200年近くに渡って追葬や祭祀が行われたといわれていますし。森将軍塚-川柳将軍塚-土口将軍塚-倉科将軍塚-有明山将軍塚の順番で造られたようですが、これは代々の古代科野国の王と考えた方が自然なんじゃないでしょうか。不思議なことに川柳は森を、土口は川柳の方を向いているんですね。つまり後に造られた方が先に造られた方を向いているんです。これは何か意図的なものがあるのでしょうか。特に森将軍塚-川柳将軍塚-土口将軍塚で作るトライアングルの中央には、龍王と呼ばれる場所があります。千曲川の自然堤防の上で、古代人の住居や信濃国造建五百建命の館があったのではといわれている場所です。

 話が妻女山から外れましたが、写真の真北の千曲川の土手から見た斎場山と海津城から見た斎場山を比べていただくと、その位置関係がよく分かってもらえると思います。地形図は、妻女山の位置の間違いの元となった旧日本陸軍参謀本部陸地測量部のものです。546は単なる測量点で山頂の印ではありません。地図の下の三角点がある天城山(てしろやま)694.6mと比べていただくと分かると思います。なにより、測量の未熟さか捏造か分かりませんが、そもそも546mなるピークが存在しないのです。二番目の写真をご覧いただくと分かると思いますが、陣場平とある辺りがそうですが、尖ったピークはありません。もちろん、大正元年以降に山を削ったという事実もありません。

 ただ、海津城から見た斎場山は、天城山から赤坂山(現妻女山)の尾根の途中にあるように見えますね。これがくせ者です。一番上の写真で分かるように、斎場山は東風越を挟んで、その尾根の稜線より400mほど西にあるのです。また、一番上の写真をご覧いただけば、赤坂山ではなく斎場山が本陣というのが説得力を持って伝わるのではないでしようか。斎場山を中新に赤坂山から薬師山までずらりと旗を立て兵を並べれば、千曲川対岸に並ぶ武田軍にも相当な威圧になったはずです。

 そして武田軍が、海津城に入ってからは、方向が90度変わるわけですから、海津城が正面となる陣場平を本陣として赤坂山から天城山下まで、手前の月夜平や中道島勘太郎橋まで陣取りしたと見るのが自然かと思われます。妻女山一帯には、陣所となったと思われる、あるいは陣所に適地と思われる平地が数カ所あります。第一に斎場山西の御陵願平。大きく二段に分かれた広い平地は最適。更に西へ下って薬師山までの平地は、長さが200mぐらいあります。反対に南東へ天城山方面へ行くと、陣場平と呼ばれる大きな平地があります。ここも大きく二段に分かれており、上の段の北面には、当時のものと思われる石垣が残っています。石垣の北側は、高さ10mほどの切岸です。ほとんど通年、藪に覆われているので、この事実を知っている人は少なく、歴史本でも見たことがありません。冬枯れの落葉した後が最も見に行くにはいいのですが、雪が降ると隠れてしまいます。地元に伝わる陣場平という名称は、まさしく陣所であった証で、ここに陣小屋、あるいは陣城が造られたと思われます。

 上杉謙信は、たとえ一夜の野陣でも陣小屋を造らせたといいます。柵や奥番衆により防御された陣の中央に大将と近臣の居所があり、その周りに足軽、中間などの下級武士団が取り囲む構造になっていました。斎場山は、南北が急峻な斜面なので防御がし易かったと思います。陣場平はそれに比べるとより強固に周りを固める必要があったと思われます。

 小幡景憲彩色の『河中島合戰圖』には、陣場平辺りに、謙信公御陣所として立派な社殿のような建物が七つほど描かれています。当時の戦では、陣城、或いは陣小屋を設営するのが常道だったそうで、材料も運んだそうですが、また一方で陣小屋や陣城を造るために、乱取りが行われたわけです。時には地元の農民の家を壊し、それを陣小屋の材料にするわけです。人取りも行われ、女子供は奴隷市場に売られたわけです。もちろん食糧の略奪も当然のように行われました。農民(地下人)は、数少ない財産を山中に隠し、隠れて戦見物し、終わると金目の物を死者からはぎ取ったということです。本陣となった斎場山古墳は、壁が石積みでなく泥壁ですが、これは陣小屋を造る際に剥ぎ取って使ったのではと考えます。

 さて、色々と権威有る地名辞典の妻女山について検証してきましたが、妻女山は本当に数奇な運命に弄ばれた山であるとつくづく思うとともに、地名辞典や地形図の作成者には、より正確な記述を目指して謙虚に日々努力していただきたいと心より願わずにはいられません。特に近年行政による大合併で、歴史有る地名が次々と消え、安易で変な地名が増殖しています。守ろうとしなければ、歴史は廃れてしまうのです。それは、自らの尊厳とアイデンティティを捨て去ってしまう、人間として非常に危険なことであると気が付かなければなりません。

 詳細は、妻女山について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
 
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時に笑える『地名辞典』における妻女山の記述 その1【妻女山里山通信】

2008-06-17 | 歴史・地理・雑学
 まず最初に取り上げなければならないのが、吉田東伍が1895年(明治28)から独力で足掛け13年かけて完成させた『大日本地名辞書』冨山房でしょう。「学校はわかりきったことしか教えてくれなかったので行く気がしなかった」と語り、「図書館卒業」と言って憚らなかったという大変ユニークな人物。そのためか、辞書の記述も大変ユニークです。

 その『大日本地名辞書』では、妻女山は、なぜか清野村の隣村の西条村の項目にあります。
「西条(ニシデウ)今西条村と云ふ、松代市街の南にして、山嶺の麓とす、西条とは英多の西条なるべければ、此辺は大穴、英多の二郷の地混雑したりと謂ふべき歟。延喜式、埴科郡中村神社、今西条中村に存す。〔神祀志料〕
甲陽軍鑑云、海津械には高坂弾正を指置かれ、相備とありて、与力衆西条、清野、芋川を始め皆附けらる、又云、先方衆西条四十騎。○信府統記云、西条山の古城を竹山とも云う、其の下に離山あり。此所より海津の城内を見下す、故に常に登ることを禁ぜらる、狼煙(ノロシ)山と云ふも此辺にて、峰に狼煙を挙れば、甲斐国までも見ゆると云ひ伝ふ、妻女(サイジョ)山の東小屋の城跡は倉科村の地なり、山の内十八町程もあるべし、妻女の宮の脇に赤禿山あり、其所に路あり、西の尾崎にも路あり、陣取の塚今に多くあり、永禄四年、上杉謙信陣城とせら れしこと、実にも地利然るべき山なり。○北越軍記云、永禄四年、謙信川中島へ発向西条山に陣取て、下米宮(アメノミヤ)海道と貝津城の通路を取切り、西条(ニシデウ)山の後ろより、赤坂山の下へ出る水の流をせき上げ、堀の如にいたし、西条山を攻候時の防の便に仕候。(諸軍書、妻女を西条に作る)」

 西条山(にしじょうやま)については、西条氏の竹山城(西条城)があったことから、竹山、つまり象山が西条山であるとしています。この説を採る人は多いと思います。一方、榎田良長彩色『河中島古戰場圖 』では、竹山城趾とは別に西条村南奥の山、高遠山を西条山と記述しています。外には狼煙山の本名が西条山であるというものもあります。象山・高遠山・狼煙山という三山は、西条小学校の校章にもなっているように、西条を象徴する山々です。ですからどの山も西条山といえるのですが、本来は象山なのでしょう。しかし、近代では西条山という呼称は、西条以外の人が使うもののようで、狼煙山から高遠山までの山域をいうと明治の埴科郡誌には記されています。

 さて、肝心の妻女山ですが、西条山・狼煙山の説明の後、唐突に妻女山の記述へと入っていきます。「妻女山の東小屋の城跡」というのは、「倉科村の地なり」とあるので鞍骨城のことでしょう。「妻女の宮の脇に赤禿山あり」は初耳です。「赤禿山」とは「赤坂山」のことでしょうか。確かに昔は招魂社の辺りは松以外は赤土がむき出しになっていて禿げ山のようでしたが…。「西の尾崎にも路あり」とは、「笹崎」のことでしょう。「路」とは「長坂(清野坂)」のことです。後に「陣取の塚今に多くあり、永禄四年、上杉謙信陣城とせら れしこと、実にも地利然るべき山なり。」と続きますから間違いないでしょう。「陣取の塚」とは、斎場山から薬師山方面に続く旗塚(実際は古墳時代以降の墳墓)のことです。

 『北越軍記』では、「西条(ニシデウ)山の後ろより、赤坂山の下へ出る水の流をせき上げ、堀の如にいたし、西条山を攻候時の防の便に仕候。」とありますが、西条(ニシデウ)山の後ろから赤坂山の下は無理です。ここは、(ニシデウ)ではなく(サイジョウ)山と書くべきです。戦国時代は斎場山の北から赤坂山にぶつかる様に千曲川が流れていました。その北側は広大な氾濫原でした。蛇池(現在の展望台の真下)はその跡でしたが、現在は埋め立てられて高速道路です。旧千曲川をせき止めて堀の様に深くして防御したのかも知れません。つまり、斎場山は西北東が千曲川に囲まれた天然の要害だったのです。歴史研究家は、この事実を見落としています。
 文末の(諸軍書、妻女を西条に作る)という記述も、なんだか微妙ですね。本来の妻女山を西条村にあることにしてしまったといいたいのでしょうか。著者が妻女山と西条山が、全く別に存在する山であると知っていたかどうかがポイントですね。

 そして、こう続きます。
「補【妻女(サイジョ)山】 ○信濃地理、妻女山は謙信の陣を敷きし所にして、松代の西南にある小丘なり。丘上より東北を望めば、海津の城跡(松代)近く眼前にあり、千曲川其麓を流る。」
「補【西条(サイデウ)山】 ○大八州遊記、山乃埴科山脈支出者、在松代、霜台公置陣地、土人猶設其尤高而坦処、為公牙営、距海津十七八町、距武田所陣雨宮渡一里半。」
 妻女山を小丘といっているのですから赤坂山のことですか。霜台公とは、上杉謙信のことですから、本来の妻女山、つまり斎場山を指しているのでしょう。いずれにしても西条山が『甲陽軍鑑』の誤記であるという想いには至らなかったようですね。

 清野の項目では、「補【清野】 ○「重出」千曲真砂、矢代より松代を二里余あり、雨の宮村の上方小道にさし出でたる山あり、其昔川中島合戦の時、上杉謙信の本陣西条山なり」と『千曲之真砂』から引用しています。松代藩は、江戸や上方で斎場山を西条山と書かれることが余程癇に触ったのか、それならばいっそサイジョウザンという読みを変えてしまえとサイジョザンと読みも加えて漢字も変えてしまったのですが、なかなか全国区にはならず、以後も江戸・上方の浄瑠璃や歌舞伎、浮世絵などは、相変わらず西条山の記述を続けてしまうのです。

 土口の項目では、「人類学会雑誌云、土ロの塚穴は妻女山の南 麓にあり、土民の云ふ所によれば、其数凡九十有余ありしと、然れども今日完全せるものは、妻女山の南面にあるのみにして、幾何もなし、塚穴中最大なるものと云ふを検するに、其口南に向ひ、天井石は三枚より成る、室の広一坪許。」とあります。「妻女山の南面にあるのみ」という記述からも、この妻女山は、赤坂山のことではなく、本来の妻女山、つまり斎場山を指しているということが明瞭です。
 塚穴中最大なるものとは、堂平大塚古墳で間違いないでしょう。しかし、口は南でなく西を向いています。横穴式なので、古墳時代後期のものです。近くには堂平積石塚古墳群があります。高句麗、あるいは渤海由来の渡来人のものといわれています。大和王権とは別の勢力、国が東国にはあったのかもしれません。

 地名というのは生き物なので、時代に添うように変化するものですが、それでも間違いは間違いです。特に妻女山のように時代と歴史、時に藩や軍など権力によって翻弄されてきた山は、その正しい名称と位置を明らかにする必要があります。

 さて、次回は、ああっ惜しい!『角川日本地名大辞典』の記述と、何!? 妻女山はクレーターか!?の『日本歴史地名大系』平凡社の記述を紹介検証します。

 写真は、私が所有する大正時代の絵葉書です。赤坂山(妻女山招魂社)の南から北を撮影した写真です(撮影は社務所が無いので明治43年以前)。おそらく4月25日の春の大祭の模様でしょう。明治時代は松代周辺の合同の大祭で、花火を打ち上げ、舞楽の奉納があり、剣道、相撲の奉納試合が行われ、多くの露天も並び、善男善女の参拝者で賑わったそうです。在郷軍人の演習も行われたといいます。戊辰戦争以前には、ここには松代藩の射撃練習場があったらしく、南の山腹からは鉄砲の弾が数多く出土します。その縁で、戦後当地に招魂社が建立されたのでしょう。また、松代藩が、ここが古代からの神聖な斎場の山と知っていたからに他なりません。招魂社周りの土塁は、江戸時代末期の新しいものですが、射撃練習にも使われたものかもしれません。

 詳細は、妻女山について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
 
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牡蠣と鰤白子の薩摩揚げうどん:男の料理 MORI MORI RECIPE

2008-06-15 | 男の料理・グルメ
 最近の冷凍食材は窒素冷凍が主なので、牡蠣などは下手な加熱用などより新鮮で美味しかったりするわけですが、2Lサイズの牡蠣が1キロで1000円足らずというのを見つけたので買い求め冷凍庫に入れておきました。つれがサッカー部の懇親会とかで、留守なので男三人で夕食です。買い物に行くとブリの大きな白子が200円で売られていました。

 見ていると、主婦は目もくれませんね。お爺さんが一人、手にとって見ていましたが、迷ったあげくに立ち去りました。というわけで、最も鮮度がよさそうなものをゲット。煮付けもいいなと思ったのですが、手打ちうどんなので、牡蠣と薩摩揚げにすることにしました。

 ブリの白子は、半分使います。350グラムほど。薄皮を剥いて太い血管を取り除き、4センチぐらいに切ります。そして熱湯で茹でこぼします。ボウルに白子を入れ、信州松代産の春堀り長芋を10センチぐらい摺りおろし、大ぶりの牡蠣4個をざく切りにして入れます。長ネギ1/2本をみじん切りにして加え、生姜少々を摺りおろします。生椎茸1枚をみじん切りで加え、卵1個と炒った白ゴマを小さじ1加えます。味付けは、信州麹味噌を小さじ2ほど。最後にカタクリ粉を大さじ4入れ、これを泡立て器でよく混ぜます。別に泡立てるのではなく混ぜるのです。

 サラダ油にゴマ油を適量入れて、上のものを大きめのスプーンですくいながら揚げます。こんがりときつね色に揚げたらできあがり。出汁をはった丼に、茹であがったうどんを入れ、水菜を散らし、薩摩揚げをのせて七味をかけていただきます。牡蠣の風味とブリの白子のもっちり感がたまらない美味しさです。

 多めに作ったので、翌日の昼には、ご飯を炊いて、薩摩揚げを出汁に浮かべ卵をまわして丼にしました。これも美味でした。ちなみに会津では薩摩揚げとは決して言わないそうです。歴史マニアならすぐ分かりますね。信州と会津の郷土料理には共通点が多いそうです。饅頭の天ぷらや、鯖カレー、塩スルメの天ぷら、辛味ダイコンなど、上杉景勝が信州の侍家族をたくさん連れて転封したり、高遠藩から保科昌幸が会津に転封したりして信州の郷土料理をたくさん持ち込んだからなのです。

 もちろん、同じ北前船の文化圏ですし、内陸文化圏という共通点もあるわけで、似ているのも当然かもしれませんね。

 幻の小麦粉・伊賀筑オレゴンを使った手打ちうどんのレシピはこちら。信州郷土料理の「おしぼりうどん」初め、うどん料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリレシピ)の日本料理にたくさんレシピがあります。ぜひご覧ください。

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自家製アンチョビーの本漬け:男の料理 MORI MORI RECIPE

2008-06-14 | 男の料理・グルメ
2ヵ月前に塩漬けして冷蔵庫に入れておいたカタクチイワシを、アンチョビーにすべく本漬けしました。頭と内臓を取ってあるカタクチイワシを、まず流水で洗います。

次に、手で2枚に開きながら骨と背びれ、尾びれを取り除きます。キッチンペーパーを敷いておいて、イワシを並べていきます。全て並び終えたら、上からもキッチンペーパーを敷いて抑え、しばらくそのままにして水気を取ります。

煮沸消毒した密閉容器(瓶、またはタッパーウェア)にイワシを並べます。ローリエ、ローズマリー、粒コショウを加えたら、ブランデーか白ワインをかるくふります。

オリーブ油とサラダ油を1:1で、イワシが隠れるまで入れてフタをします。そのまま冷蔵庫に入れて、1年するとトロトロの美味しいアンチョビーができあがりというわけです。本当に美味しいものは、時間が作るんです。

今年は、ヒコイワシが不漁で、去年は2キロ仕込んだのですが、今年は1キロでした。でも家族4人で食べるには充分です。朝食のスクランブルエッグやオムレツに、新ジャガとアンチョビーのサラダに、手作りピザにと大活躍。肉料理の隠し味にもなるし、フードプロセッサーにかけて自家製アンチョビーペストもできます。

アンチョビーのレシピはこちら。アンチョビーを使った料理は、MORI MORI RECIPE(モリモリレシピ)の西洋料理にたくさんレシピがあります。特にミラノ風オッソブッコは絶品です。ぜひご覧ください。

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第四次川中島合戦・上杉謙信妻女山布陣想像図【妻女山里山通信】

2008-06-12 | 歴史・地理・雑学
 第四次川中島合戦の折りに、上杉謙信が妻女山に布陣したことはよく知られています。しかし、どう布陣したのかを描いた本はなかなか無いのが現状です。『甲越信戦録』や他の古文書などに出てくる細かな地名などは、現在は使われていない古いものも多く、なかなか図式化するのが困難だからでしょう。

 そんな訳で、妻女山展望台に行って妻女山松代招魂社の敷地と近年整備された駐車場を見て、ここが謙信本陣と思ってしまう人が後を絶ちません。展望台の看板の説明も不十分なので、中には招魂社を戊辰戦争のものと知らず、謙信縁の神社と思ってしまう人もいるようです。また、狭い山上に12000もの兵がいられるはずがないと、謙信妻女山布陣そのものを否定する人までいる有様です。

 既に書き下ろしているように、現在の妻女山は、戦国当時は赤坂山といい、当時の妻女山は斎場山(さいじょうざん)といって斎場山古墳のある513mの頂です。現妻女山からは南西に林道を登って15分ほど。ただ、夏場は途中の林道沿いにオオスズメバチが営巣するので登山は勧められません。熊も出ます。

 そんな謙信布陣図を、地元出身の利を活かして作図してみました。写真がそれです。『甲越信戦録』を元にしました。史書ではなく物語性の強い軍記物ですが、現在では地元でもその場所を言える人もほとんどいないため、全てが作り事と思われてしまっている懸念もあります。しかし、登場する地名は全て実在するものです。

 これは、信玄の軍勢が千曲川対岸の、横田、小森、東福寺、杵渕、水沢まで対陣し、謙信の善光寺や越後への退路を断っていた時のものです。信玄全軍が海津城へ入ってからは、当然陣形を変えたはずです。『甲陽軍鑑』の編者といわれる小幡景憲の『河中島合戰圖』では、妻女山上部の、地元で陣場平と呼ぶ海津城が望める平地に七棟の陣小屋が描かれています。

「一の手は、直江山城守が赤坂の下。二の手は、甘粕近江守が清野出埼を陣として月夜平まで。三の手は、宇佐見駿河守が岩野十二川原に。四の手は、柿崎和泉守が土口笹崎に。五の手は、村上入道義清が務める。(雨宮神社に布陣)」とあります。

 『信濃史料叢書』第四巻の『眞武内傳附録』(一) 川中島合戦謙信妻女山備立覚においては、「赤坂の上に甘粕近江守、伊勢宮の上に柿崎和泉守、月夜平に謙信の従臣、千ケ窪の上の方に柴田(新発田)道寿軒、笹崎の上、薬師の宮に謙信本陣」とあります。

 『松代町史』には、「直江山城守は先鋒として赤坂の上より滑澤橋(清野村道島勘太郎橋)に備え、甘粕近江守は月夜平に、宇佐見駿河守は岩野の十二河原に、柿崎和泉守は土口笹崎に陣を構えて殺気天に満ちた。」とあります。

 謙信の妻女山進入経路については、「約一万五千の兵を率いて越後春日山を発し、富倉峠を越えて信濃に入り、自ら兵八千を下知し千曲川の東岸に沿うて高井郡大室村(現埴科郡寺尾村に合わせらる)(現在は長野市松代町大室)に宿営した。高坂昌信は謙信春日山を発すと聞きこれを防がんと途中まで兵を出して奮闘すれども越軍の威風に当たるべくもあらざるより引き返して海津城に楯籠(たてこも)った。越軍大室にありて城中の動静を伺い遂に出発して可候峠を越えた。されど城兵戦うことの不利を知り固く城を守って出でず。故に越軍一挙にして山を下り小稲澤(藤澤川)鰐澤(関谷川)を渡り多田越(象山の南)を越えて清野に出で十六日に妻女山に陣を取った。」とあります。土口には宇佐見駿河守が作らせたといわれる宇佐見橋が今もあります。雨宮の渡から東へ延びる道が沢山川を渡る橋です。

 江戸時代後期に描かれた榎田良長による『川中島謙信陳捕ノ圖』では、ほぼ絵の中心に二段の墳丘裾のある斎場山が本陣として描かれており、西へ御陵願平、土口将軍塚古墳(前方後円墳)、笹崎山(薬師山)が、実際の地形と同様に描かれています。また、岩野の南、前坂から韮崎の尾根に乗り斎場山へ向かい東風越に至る険路も描かれています。この道は、現在では麓の岩野集落の一部の古老しか知らない道です。前坂の登山口には、戦前までは斎場山を所有していた荘厳山正源寺らしき堂宇も見えます。また、斎場山の北の麓には、會津比賣神社の社殿らしきものが描かれています。江戸時代には既に現在の場所に移されていました。往古山上にあったというが、謙信の庇護を受けていたため、信玄によって焼き討ちされ、後に麓に小さく再建されたと言い伝えられています。

 現妻女山(赤坂山)は、特に記載が無く、削平地であることが分かります。当然のことですが、現在ある戊辰戦争の慰霊のために建立された妻女山松代招魂社は、まだありません。現妻女山の北(下)には池があるのですが、蛇池といい、ここから千曲川近くの十二までの字を川式といい、千曲川の旧流の跡です。妻女山展望台から注意深く見ると、千曲川から展望台下へ畑が帯のように繋がっているのが見えるはずです。蛇池は、現在は高速道路です。昭和40年ころは、割と大きな池で雷魚が棲んでいました。蛇池の右上に小さなお堂が見えますが、謙信槍尻之泉でしょう。江戸時代には、松代への道、谷街道は、北国街道の東脇往還だったため、通る人も少なかったようですが、この謙信槍尻之泉だけは霊験あらたかな清水として、全国から水を汲みに来る人が絶えなかったといいます。

 千曲川は、戦国時代は斎場山の北から赤坂山にぶつかる様に流れていました。その北側は広大な氾濫原でした。蛇池(現在の展望台の真下)はその跡でしたが、現在は埋め立てられて高速道路です。つまり、斎場山は西北東が千曲川に囲まれた天然の要害だったのです。謙信が斎場山に布陣した大きな理由がそこにあるのかも知れません。歴史研究家は、この事実を見落としています。
*添付の写真の千曲川旧流は、修正前のものです。正しい図は下記の頁の「上杉謙信斎場山布陣想像図・川中島謙信陳捕ノ圖」をご覧ください。

 『川中島謙信陳捕ノ圖』は、本当の妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」から「上杉謙信斎場山布陣想像図・川中島謙信陳捕ノ圖」をクリックしてご覧ください。
 
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長野郷土史研究会会誌『長野』259号に「妻女山の真実」掲載【妻女山里山通信】

2008-06-06 | 歴史・地理・雑学
 掲載された記事は、「妻女山の真実」-妻女山は往古赤坂山であった。本当の妻女山は斎場山である。-という約8000字(原稿用紙20枚)+地図2点の文章です。妻女山について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」(現在は限定公開)をご覧いただいた方には、既にお馴染みだと思いますが、それらを要約してまとめたものです。

 制限された文章量のため、書ききれなかったことも少なくありません。古地図や古い航空写真、字図や細かな地名などを紹介できなかったことも心残りです。また、校了後に見つけた絵図や史料から判明した新たな妻女山の真実というものもあります。特に、妻女山という名称が、いつ誰の手によって創作され、斎場山にとって代わったのかということが、かなりはっきりと見えてきました。これについては、いつか然るべきメディアで発表できればと考えています。

 また、『信濃史料叢書』第四巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺の「九月九日の夜、信玄公の先鋒潜に西條山の西山陰に陣す」という記述や、その他の文献から、本来の西条山は、狼煙山のことだと記してきましたが、今回それとは別に、西条村最南端に位置する高遠山(1221m)が、西条山であるという絵地図を発見しました。岩野村の「【妻女山】高及び周囲未だ実測を経ず。村の南の方にあり。嶺上より界し、東は清野村に属し、西南は土口村に属し、北は本村に属す。山脈、南は西條山に連り、西は生萱村の山に接す。」という記述からも、高遠山がどうも西条山であった可能性が高いことが分かってきました。

 「西條山の西山陰」が「高遠山の西山陰」とすると、ちょっと方向が違うのですが、山頂ではなく山塊とすれば、西山陰は稲葉地区辺りとなり、唐木堂から坂城の日名へ抜ける峠道とも合致するわけです。西条小学校の校章は、中央に高遠山、左に狼煙山、右に象山と西条村の三つの青垣山が描かれています。やはり、西条山は、高遠山というのが正しいのかもしれません。西条山については、ほとんど文献が無く、これについては、今後の研究課題だと思っています。このブログをご覧になっている方で、西条山のことをご存じの方がおられましたら、書き込みまたはメールをお待ちしています。どんな情報でも結構です。

 ちなみに、「妻女山の位置と名称について」の未公開の部分は、妻女山の記述の歴史的変遷(史料・村誌等)。妻女山の名称の歴史的変化と妻女山の文化史年表(これはすごいです)。妻女山の場所と名称の混乱はなぜ起きたか詳細記事。妻女山詳細字図・地名図(古道)。妻女山の地図への記載と変遷。上杉謙信斎場山布陣経路想像図。武田信玄別働隊斎場山襲撃経路想像図。(3Dデジタルマップ大) 武田別働隊妻女山襲撃経路断面図。武田信玄別働隊斎場山襲撃経路と清野尋常小学校鏡台山登山運動会の経路の比較。戦国時代の古道・峠・千曲川旧流の検証。妻女山絵地図。妻女山古写真。1948年GHQ撮影妻女山航空写真と地名の解説。古代科野国・信濃国の起源。信濃豪族の系譜。古典における妻女山記述の変遷。近松門左衛門人形浄瑠璃『信州川中島合戦』西條山の項。『実録甲越信戦録』妻女山の項。『甲陽軍鑑』の西條山の項。『千曲之真砂』西條山の項。『 武田三代軍記』川中島合戦図。『名蹟巡錫記』西條山の項。『日本戦史』川中島の戦・妻女山の項。『河中島合戰圖』小幡景憲。『河中島古戰場圖』榎田良長。等絵図色々。方言「ずく」の語源と古代科野国の考察。掲載記事の解説等々。とまあこんな感じで、一冊本が献上できるほどボリュームがあります。いずれちゃんとした形で発表できればと考えています。

 公開中のものとしては、●上杉謙信斎場山布陣想像図・川中島謙信陳捕ノ圖(画像リニューアル!) ●『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証(3Dデジタルマップ!)がオススメの記事です。

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『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証【妻女山里山通信】

2008-06-01 | 歴史・地理・雑学
 啄木鳥戦法という言葉の初出は、江戸後期に信濃で書かれた『甲越信戦録』であろう。ただ、『甲越信戦録』には、二種類ある。川中島合戦の実録がないことに気付いた三代将軍家光の命により、越後長岡城主牧野備前守忠精の家臣山本主計が編集して出版献上した『甲越信戦録』五巻。これがオリジナル。この書に旧武田方家臣は、『甲陽軍鑑』『武田三代記』『信玄全集』と記述が異なると異議を唱えたが、足利11代将軍義澄の末子、南光坊僧正の「甲州の記したものは武田の悪事や非分を覆い隠し、虚談が過ぎるが、謙信は事実と異なる記述を嫌ったゆえ、事実相違ない」と進言し、家光が実録として認めた経緯がある。
 そして、江戸後期、文化7年(1810)以降に川中島で書かれた作者不詳の『甲越信戦録』八巻。前記の『甲越信戦録』を元にして、『甲陽軍鑑』、『武田三代記』、『北越軍記』、『本朝三国志』等の12の版木本と、『川中島評判記三巻』、『諸家見聞記』、『佐久間竹庵記』等の写本に加え、地元の口伝をもとにして執筆された戦記物語であり、創作も多い。俗名「妻女山(さいぢょやま)」という記述も見られる。正保4年(1647)、幕府の命により正保国絵図が作成される。松代藩により妻女山と明記。現在のところ公式文書では最初と思われる。
 世は滑稽本『東海道中膝栗毛』十返舎一九が出版され、大好評を博し、一般庶民にも旅ブームが起きる。善光寺参りも盛んになり、川中島合戦絵図が土産物として飛ぶように売れた時代である。

 『甲陽軍鑑』には、啄木鳥戦法という言葉は出てこないようだ。ここでは、明治16年に『甲越信戦録』を忠実に木版本にした西沢喜太郎編『実録甲越信戦録』を意訳してみた。
 山本勘助が信玄に「この度の軍術木啄(ぼくたく・きたたき・啄木鳥)の木をつついて虫を取るに朽つる穴を構わず後ろの方を嘴にてたたき候 故に虫は前に現るを喰い候 この度の軍法ははばかりながらこれに等しく存せられ候と申し上げる。」と提唱したと書かれている。さらに、「半進半退の繰分と唱え、味方二万余の御勢を二手に分けて、一万二千を大正(たいせい)の備え、八千余人を大奇(たいき)の備えとし、一万二千の大正をもって夜中に妻女山に押し寄せ、不意に切って入らば、さすがの謙信もこれに驚き山を逃げ下り、川を渡るところを、味方八千余人と引率し川中島に備えを立て、越後勢が犀川の方へ渡らんとするところを待ち構えて、ことごとく討ち取ることは、礫(つぶて)をもって鶏卵を打ち砕くに等しい。味方の勝利は疑なし。」と続く。
 しかし、海津城での炊飯の煙を見た謙信は夜襲があると気づく。「諸葛孔明名付けて半進半退の術と云い、日本にては繰り分けの術と云えり。」と見破ったと記されている。これは、中国春秋時代、呉の将軍・孫武が書いた兵法書『孫子』の軍争篇の一説、「辞卑而益備者、進也、辞彊而進驅者、退也、輕車先出居其側者、陳也、無約而請和者、謀也、奔走而陳兵車者、期也、半進半退者、誘也」。つまり、「辞卑くして備えを益す者は、進むなり。辞彊(つよく)して進駆する、者は、退くなり。軽車先ず出でてその側に居る者は、陣するなり。約なくして和を請う者は、謀るなり。奔走して兵車を陳(つら)ぬる者は、期するなり。半進半退する者は、誘うなり。」という文章からの引用である。
 啄木鳥戦法という言葉は、どこにも出てこない。

 おそらく『甲越信戦録』の作者によって、江戸時代後期に命名されたであろう啄木鳥戦法であるが、キツツキにそのような習性はない。森で観察すると分かるが、キツツキは、幹の周りを螺旋状につつきながら登っていく。ドラミングの際の音の変化で樹皮の下に虫がいるかどうか分かるのだそうだ。虫がいるとみるや猛烈なドラミングを開始し、虫が逃げるより速く木に穴をあけ、長い舌にひっかけて引きずり出し食べてしまう。おそらくこの螺旋状につつきながら登っていく様を、裏をつついて反対に追いやると勘違いしたのであろう。

 では、啄木鳥戦法は無かったのだろうか。それまでの信玄は、謙信の気勢をそぐような動きばかりしていた。謙信がいないところを見計らって信濃を攻略し、謙信が責めてきても真正面から迎え撃つことはしなかった。それが信玄の戦い方であった。領土拡大が目的であれば、啄木鳥戦法のような作戦はとらなかったと思われる。この啄木鳥戦法は、よく歴史本で描かれているような象山の尾根を辿ったり、清野の山裾を徘徊するような小さな作戦ではなかったようだ。
 『甲越信戦録』に書かれている内容は、古い地名が出てくるので地元の人でもなかなか理解できないが、その経路を図式化すると、この作戦の壮大さと信玄の並々ならぬ謙信撃退の執念が感じられる。(詳細はカシミール3Dマップによる武田別働隊はどこをたどったか!?をご覧あれ。)
 
 『甲陽軍鑑』には、この啄木鳥戦法の詳細は全く書かれていない。別働隊に参加したという高坂弾正が元となるものを綴ったというにしては不可解だが、国語学者の酒井憲二氏の木版印刷本ではない国宝に指定されている元和写本の『甲陽軍鑑』研究によると、小幡景憲が手に入れた原本は、痛みが激しく読みとれない部分も多くあったと記されているという。別働隊に関する部分がごっそり抜けていたとしても不思議はない。啄木鳥戦法はなかったという説もあるが、修正ならともかく、全くの無から創作したにしては、地名の記載が細かく具体的である。真偽のほどは別にして、意外なほどその詳細が検証されたことがない(細かな地名が分からないと不可能だからか)啄木鳥戦法を図式化すると、想像以上に大規模な戦略であったことが分かる。

 江戸後期の『甲越信戦録』には、別働隊の動きをこう記してある。
 「武田方の妻女山夜討の面々は、子の刻に兵糧を遣い、子の半刻(月が隠れる午前1時頃)に海津を出べし。経路は西条の入より、唐木堂(坂城日名の方へ出る道なり)越に廻るべし。これより右手の森の平にかかり、大嵐の峰を通り、山を越えて妻女山の脇より攻め懸かるなり。この道は、甚だ難所なれども、ひそひそ声にて忍び松明を持ち、峰にかかり、谷に下り、あるいは山腹を横切り、次第に並ぶ軍勢これぞひとえに三上山を七巻き纏いしむかでの足卒苦して打ち通る。」
 「越後方は、月の入りを待って、静かに用意をして、丑の中刻(午前3時頃)妻女山を出給う。直江、甘粕、柿崎宇佐美の諸将は下知し、十二ヶ瀬、戌ヶ瀬を渡った。謙信公も戌ヶ瀬を渡るなり。直江山城守は、小荷駄奉行として、人夫に犀川を渡らせ、自分は丹波島に留まる。甘粕近江守は一千余人で東福寺に留まり、妻女山に向かいし敵兵が出し抜かれて、やむなく川を渡ろうとするのを阻止するため川端に陣を備えた。」

 また、『信濃史料叢書』の『眞武内傳』附録一 川中島合戦謙信妻女山備立覺には、「九月九日の夜、信玄公の先鋒潜に西條山の西山陰に陣す」とあり、夜襲に備えて予め唐木堂辺りに先鋒隊が潜んでいたと記されている。西條山とは、ノロシ山から高遠山辺りのことである。軍勢の多さからすると、主に唐木堂越と大嵐山への二つのルートで登り、大嵐の峰(戸神山脈)で更に隊を分けて、一部は尾根づたいに、一部は倉科、生萱、土口に下りて、数カ所から妻女山へ向かったと見るのが妥当だと思われる。倉科の天城山を清野へ超える峠道の麓には、兵馬(ひょんば)と呼ばれる場所がある。地元では斎場山へ向う別働隊が、隊を立て直した場所といわれている。(西條山とは外部のものが使う呼称で、狼煙山から高遠山辺りを指す。江戸後期の榎田良長彩色による「河中島古戰場圖」では、高遠山辺りに、西條山と記してある。なお当地では、にしじょうやまと呼び、さいじょうざんとは読まない。謙信が本陣としたと伝わる旧妻女山の本名は斎場山であり、さいじょうざんと読む。まったく別の山である。これを混同する歴史家が多い)
 
 倉科と清野を二本松峠を越えて結ぶ兵馬のある倉科坂などは、近年まで盛んに使われていた道であるし、清野の赤坂山の麓の道島から、赤坂山(現妻女山)を登り、東風越から斎場山を巻いて長尾根から薬師山へ辿り、土口へ下りる道は、斎場越・清野道などと呼ばれ、江戸時代には谷街道が増水で通れない時に大名行列も通ったとされる重要交通路である。当時は、電車やバスがないのだから、峠を越えて行き来することは普通のことであった。そのため、峠道もよく整備されていたと思われる。 特に笹崎の先は、現在のように堤防はなく、洪水の度に通行できなくなったそうであるから、山越えの道は欠かせなかった。谷街道も、江戸時代の絵図によると、現在のように笹崎と千曲川の間ではなく、笹崎の先端の尾根を越えていた。

 『川中島五箇度合戦之次第』には、「信玄は、戸神山中から信濃勢を忍ばせて、謙信陣の背後を突かせようとする。」とある。戸神山中とは、埴科郡の中心にある1269mの鏡台山から北へ1185mの三滝山を経て、977.5mの大嵐山(杉山)から鞍骨山に至る峰をいい、戸神山脈という。また、大嵐山(杉山)の名を取って大嵐の峰ともいう。

 上杉軍を川中島へ追いやるには、妻女山後背の天城山(ここを妻女山と誤記した絵地図や歴史研究本が多数)はもちろん、矢代(屋代)への退路を断つため唐崎城と雨宮の渡の間を塞ぐ必要がある。そこで一部は土口側から襲撃したのではないかと考えるのである。
 第四次川中島の合戦は、永禄4(1561)年9月10日。これは現行暦に直すと10月28日とされる。霧は千曲川、犀川で発生し、やがて自然堤防を溢れて里へ山へと押し寄せる。大河ドラマのように山からもの凄い霧が出るわけではない。山霧も出るが、これが川霧と合わさると10m先も見えないこともある。一度帰郷した際に高速道路がホワイトアウトしてフォグランプも全く効かず恐ろしかったことがある。忍び松明での行軍は決して容易なものではないと思うが、霧が出る前の夜は必ず晴れて空気が澄む。当日の月齢は、概算で9日目ぐらい、半月よりやや大きい程度。晴天ならばそこそこの明るさはあったと推察できる。
 行動を起こしたのは月の入りを待ってからとあるが、妻女山からは見えないところなので、先鋒隊が西條山の西山陰に潜んだのは、もっと早い時間ではなかったかと思われる。
 しかし、それほどの壮大な計略が、謙信によって読み取られ(実際はもう帰ろうだったかも知れないが)、ほぼ無人の妻女山へ攻め入った別働隊の驚愕の表情と血の気が引いたであろう様は、想像に難くない。そして、冬が来る前にさっさと越後に帰ろうとした謙信だったが(領民を食べさせるために関東に略奪に行かなければならない)、突然霧が晴れて遠くに信玄の大軍勢が。信玄も驚いたはず。そして、両軍とも逃げるわけにもいかず、両軍ともに大犠牲者を出した合戦が起きた場所が、その中間の南長野運動公園辺り。合戦場という住所がそれを示している。公園の南西の端には勘助宮の石碑がある。山本勘助が討ち死にしたと伝わる場所である。また、東の松代大橋北の信号を案内標識に従い西へたどると堤防沿いに典厩寺がある。ここの資料館には、武田典厩信繁にまつわる品が展示されている。マイナーで訪れる人が少ないが、友人の研究家によると、おそらく全て本物ですという見解。真田宝物館と共にぜひ訪れたい。

武田典厩信繁の墓と全国随一の大きさの閻魔大王像がある典厩寺探訪(妻女山里山通信)

 それにしても信玄も謙信もなぜ12年も川中島の戦いに拘泥したのだろうか。今でこそ越後は米どころだが当時は青麻(あおそ)ぐらいしか換金作物がなかった。甲州もザレ場の多い扇状地で米も多くは採れず作物は豊富ではなかった。しかし、信州の鎌倉といわれる塩田平や川中島は豊かで二毛作ができ、川には鮭も遡上した。信玄も謙信も領民を食べさせることができないと存在が危うくなるのだ。いわれるほど絶対的な権力を持っていたわけでもない。加えて上杉家はお家騒動ばかり。信玄も父との関係はご存知の通りである。英雄史観で見ていたら本当の歴史は見えてこない。決して絶対的でもなければ格好よくもない。戦術などは三国志がお手本だし、陰陽道で戦術を決めていたほどである。しかし、生島足島神社や武水別神社にある願文を読むと、お互いの憎悪の激しさに驚かされる。男の嫉妬は凄まじい。無駄に年月を浪費したともいえる。天下がほしければさっさと京に攻め込めばいいのである。こんな不毛な戦いで、最大の被害者はもちろん信州の人々である。川中島には、「七度の飢饉より一度の戦」という切実な言葉が残る。女子供は奴隷となり海外に売られた。当時のイエズス会の宣教師がそのことを書いている。もちろん彼らが女衒の張本人なのだが。何十万人もの人が奴隷として海外に売り飛ばされた。こんなことは絶対に学校では教えない。

「七度の飢饉より一度の戦」戦国時代の凄まじい実態 (妻女山里山通信)

妻女山の真実について、詳しくは、本当の妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「妻女山の位置と名称について」をご覧ください。

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